A SPOOKY GHOST 第三十一話 孤高の天才(3)

 遠藤は基本通り、吉山の左へ回ってパンチを避(よ)けると、ストレートを被せてきた。当然それを見極めていた吉山も右へ逃れ、カウンターを狙うが、頭や肩がぶつからんばかりに、遠藤が距離を詰めてくる。そしてインファイターばりのクラウチングスタイルからフックを繰り出し、吉山はガードを上げ、彼女の内へと向かい、ショートブローを打ち返す。
 激しいパンチの応酬となり、痺れを切らした吉山は、強引にストレートを突き出した。遠藤の首に腕を絡め、クリンチへと持ち込み、位置を入れ替えようとしたのだが、しつこくボディーへ拳を打ち付けられ、遂には力尽くで彼女を押し退けた。
 離れ際にストレートをダブルで放ち、距離を取ろうとしても、遠藤は上半身をトリッキーに揺らし、ジャブを出しながら突進してくる。
 再び打ち合いが始まろうとして、ゴングの鳴る音を聞いた吉山は、「あーっ!」と大声を上げ、コーナーへと引き返した。
「どうなってんのっ! ランナ・コムウットを想定した相手のハズでしょっ!」
 トレーナーの山下が口に指を入れ、マウスピースを外すと同時に、彼女はわめき散らした。
「相手の懐に飛び込むっていうボクシングを、何でアッチがやってんのっ? 向こうの方がリーチも長ければ、背も高いんだよっ?」
 ロープへもたれかかり、身を乗り出すが、リング脇に立つ会長が困ったように遠藤を見やり、吉山も横を向く。
 反対側のコーナーでは、外国人のコーチが何やら訳の分からない言葉で盛んに話をし、隣に立つ老人が訳しているのか、こちらに背中を向けている遠藤と、熱心に話し込んでいた。
 笑っているようにも見える老人が気になり、「あのお爺ちゃん、いったい何者?」とロープに頭を乗せ、ぐったりとしながら吉山は訊いた。
「今はまだ知らなくていい」
 ぶっきらぼうに会長はいい、山下トレーナーから乱暴にマウスピースを奪い取ると、吉山の口へと突っ込んだ。
「とにかくストレートを出して牽制しながら、隙を見て、顎の下へ潜り込めっ」
 そこからアッパーだ! と背中を叩く会長の声と、ゴングの音が、重なった。
(結局ソレなのっ?)
 そんな理想通りのことが出来るのかと、腹を立てながら吉山はコーナーを離れ、大きくサークルを描きながら動いた。そんな彼女とは裏腹に、遠藤は最短距離、しかも真正面から、飛び込んで来る。
 次々と乱打が飛び交い、吉山は遠藤と打ち合いながら、背筋が寒くなった。
 スパーリングが始まるまで全く目を合わせようとしなかった遠藤が、リングの上では恐ろしく冷静な表情で、じっと吉山の顔を見据えている。顔の正面だろうが、ボディーだろうが、どこにグローブがヒットしても、彼女の冷たい目は常に見開かれていた。おまけに、パンチで頭を揺らされ、首を捻る時でさえも、遠藤の大きな黒い瞳は、変わりなく吉山のことを追っている。
(気持ち悪い……)
 スパー直前、更衣室へいったん籠もり、彼女を天才と認めたうえで向き合う覚悟を決めた吉山だったが、いざ手を合わせてみると、相手がまるで人間ではない、違う何かのように思えてきた。
(何なの……コレって一体、何だっていうの?)
 二ラウンド、三ラウンドと、ひたすら遠藤とショートレンジでぶつかり合い、吉山の全身からは滝のような汗が流れ出す。
 インターバルに入り、コーナーへ戻った吉山は、声を絞り出し、呻いた。
「気味が……悪いです。アレなんですかね……」
 スリッピングアウェー、と続ける彼女へ、会長は興奮気味にいった。
「大丈夫だ、素晴らしく当たってるぞ! 遠藤を見てみろ。顔は赤いし、腫れてきているじゃないか。お前は顔も綺麗なままだし、何よりバランスがしっかりしている。いい動きだ!」
 そんな風に見えるんだ、と吉山は顔を傾け、遠藤のことを遠く眺めた。コーナーポストへ寄りかかり、肩で息をしているが、ポーカーフェイスは変わらない。
 この胸に広がる不安は何だろう、と吉山は改めて思った。
(大振りなフックをこれでもかと振り回してくるし、上下のコンビネーションも少ないし、とにかく攻撃は単調で、大したことない……)
 でも、どこかおかしいと、元王者としての勘が告げていた。
(こっちがあれだけ攻めているのに、急所に一発も当たらないなんて……それだけでも変だ)
 ゴングが鳴り、最終ラウンドとなる四ラウンド目、吉山は慎重に歩を踏み出した。遠藤も顔の前でガードをがっちり固め、じわじわと近づいて来る。
 先に手を出したのは、遠藤だった。
 遠い間合いから飛んできた左を吉山はグローブでブロックし、横へ逃げるが、ワンツーから左フックと、遠藤は攻撃の手を緩めない。
 ガードの上からパンチを受け続け、左を出しても拳が届かない状態の吉山は、ロープを背にしながら、遠藤の左へと回り込み、ジャブを放った。
 狙い澄ましたかのように右フックが返され、戻し切っていなかった左の肩でそれを防ぐと、吉山は右腕を突き出す。そこで、すっと伸びてきた遠藤のジャブを見切り、ここだ! と踏み込んだ。
 ステップインから、遠藤にボディーブローを叩き込み、アッパーを突き上げた。ランナ・コムウット対策として、さんざん練習してきた形だ。
 しかし、わずかに届かず、すかさずワンツーが来ると見て取った吉山は、右のカウンターを奪いに行き、慌てて上体を反らした。
 0(ゼロ)コンマ何秒というせめぎ合いの末、これまでに無いほど、神経が研ぎ澄まされていた。死角となる、出した右腕の外側へ遠藤がダックしたのを認め、何かが来ると直感したのだ。
 その瞬間、遠藤の左アッパーが鼻先をかすめ、バランスを崩した吉山は、キャンバスへと尻餅をついた。
(ダウンじゃないっ!)
 すぐさま立ち上がる吉山の耳に、スパーの終了を告げる鐘の音が届いた。
「当たっていません! スリップです!」
 コーナーへ走り寄った吉山は、ロープをつかんで力任せに揺らしながら、大声を張り上げた。
「落ち着け、吉山!」
 リングへよじ登ってきた会長の福原に、ヘッドギアを無理やり脱がされ、滴り落ちる顔の汗をタオルで拭われた。
「あのアッパーを、よくぞ避けてみせた! 凄いぞっ」
 荒く呼吸をする吉山の肩を掴み、会長は息せき切って、いった。
「今回は転んでしまったが、あのロングアッパーをスウェーでかわせるのであれば、コムウットの大砲も絶対に当たらない!」
 じわじわと胸に安堵が広がったが、「ほら、挨拶はどうした。お前らしくもない」と、会長が指差した先のコーナーに遠藤を見つけ、吉山は立ち尽くした。
 ほっそりとした体をロープに預けて身を乗り出し、リングの外にいるコーチと、片言の外国語で会話をしている。白い肌に浮かび上がる赤い打撃痕が痛々しいが、その佇まいは美しく、ランナ・コムウットと試合をしたら、さぞかし絵になるだろうと思わせるに十分だった。
(天は二物を与えずっていうけれど……)
 咄嗟には動けず、じっとしたままの吉山に、ちらりと遠藤が視線を走らせてきた。
 気を取り直し、吉山は急ぎ踵を返すと、リングの中央に立った。それに気付いた遠藤がコーナーを離れ、「ありがとうございました」と差し出したグローブの先に、自らのグローブをちょこんと重ね合わせる。
「ありがとう……ございました」
 力ない声で吉山はいい、固く唇を引き結ぶ。用が済んだとばかりに歩き出し、振り向きもしない遠藤の後ろ姿を見送り、自然と顔が引き攣った。
「奈緒、待ちなさい」
 ざわめくジムの中にあって、リング脇に立つ老人の特異なしわがれ声は、やたらと目立った。
「吉山選手に見せてあげよう」
 足を止めた遠藤へ勿体ぶったような口調で彼がいい、吉山は息を呑んだ。
(見せるって……何を?)
 彼女の困惑などお構いなしに、「福原君。安森選手をお借りできないかな」とさらに老人がいうと、辺りは水を打ったように静まりかえった。
「安森、ですか?」
 会長の福原が驚きも露わに訊き返し、リング下の安森を見下ろす。
「俺は別にかまいませんよ」
 彼は返事をし、「リングに立てっていう事ですよね」といったかと思うと、眉ひとつ動かさずにその場を立ち去り、すぐまたグローブをはめ、戻って来た。
「で、俺に何をしろと?」
 ロープの間をすり抜けてリングへと上がった安森が、首を回しながら、老人に尋ねる。
「二分間、一ラウンドのみのスパー」と老人が答えた途端、会長は小走りに安森の元へ行き、小声で話しかけた。
「現役の世界王者と女子ボクサーのスパーなんて、無茶苦茶だ」
「手加減しますから」
「大丈夫か? まったく、金本のジイさんにも困ったもんだ」
 腰に手を当て、苦り切った口ぶりでいう会長の横顔を、吉山はそっと盗み見た。断るに断れないといった面持ちで、金本という老人に逆らえない立場が窺えた。
「ヘッドギアはしないのか」
 しません、といい切る安森の顔をしげしげと見つめ、会長はため息を吐いた。
「吉山、リングを下りろ」
 会長に指示され、床に足を下ろし、リングサイドに立った吉山は、安森と遠藤を見比べた。
 安森はマウスピースをはめ、ロープに両手をかけながら膝の屈伸をしており、遠藤は汗を拭き終え、疲れを癒すようにコーナーで腰を左右に捻っている。
 二人とも落ち着いた顔つきで、特に気負った様子はない。
 やがて老人は手招きと共にリング上の安森を呼び寄せ、彼の耳元で何事か囁いた。
(遠藤さんは、怖くないんだろうか)
 老人にうなずいてみせ、コーナーへ引き返す安森を眺めつつ、彼と以前スパーした記憶が蘇った吉山は、外したグローブを抱えたまま、ぶるっと体を震わせた。
 男のパンチは、とにかく痛い。下手に当たれば一瞬にして意識が飛び、そのままキャンバスで気持ち良くなれる。
 固唾を呑んで皆がリングを見守る中、とうとうゴングが鳴った。
 ヘッドギアの下から長い髪の毛を垂らす、長身の遠藤と、服の上からでも盛り上がった筋肉がわかる、骨太で小柄な安森が、同時にコーナーを離れ、中央でにらみ合う。
 左の差し合いから、一瞬にして安森が間合いを詰めた。世界チャンピオンならではの、速くて鋭いステップインだ。
 目にも留まらぬ素早さでワンツーが放たれ、それをグローブの上からまともに受けた遠藤がロープへと吹っ飛び、吉山は手で口をふさいだ。
(安森さん、思いっきりマジじゃない!)
 すぐさま体勢を立て直し、ステップを踏む遠藤も見事だが、容赦なくコンビネーションブローを打ち込む安森の動きは、実戦そのものだ。
 バックステップで逃れ、果敢に左を出す遠藤と、フェイントのようなモーションを交えながら、上下左右に多彩なパンチを繰り出す安森が、互いに相手の左へと回り込みながら、柔らかいヒザを使い、全身をバネのようにして動く、華麗な足捌きを見せる。
 それでも、遠藤が防戦一方なことに、変わりは無かった。
 常に左で距離を測りながら、安森のパンチが届くか届かないかという位置に居続ける彼女の度胸は尊敬に値するが、何分(なにぶん)にも攻撃の引き出しが少ない。
 先ほどの吉山とやったスパーでも大振りが目立ったが、安森相手だと、経験不足からくる駆け引きの未熟さや、クリーンヒットの少なさが、さらに露呈する。
(ただ……遠藤さんのディフェンスは、普通じゃない)
 この先なにが起こるのかと、手に汗握り、じっとスパーへと見入る吉山へ、「そろそろだと思う。瞬きせんように」と、いつの間にやって来たのか、隣に立つ金本老人がいった。
 驚いて横を向いた彼女に、「ほらほら、前を見ていなさい」と老人が重ねていい、吉山も慌てて視線を前方に戻す。
 次の瞬間、「あっ」と、思わず彼女は声を漏らした。