A SPOOKY GHOST 第二十九話 孤高の天才

 朝晩の冷え込みが厳しくなってきた、十一月初旬のことだった。仕事を終えた人々がジムへと集まり始める夕刻、遠藤奈緒は姿を現した。
 緩く巻かれた、艶やかで赤みを帯びた長い髪が肩の上で揺れており、赤いチェック柄の、袖口や裾がレースで縁取られた、ひらひらとしたワンピースを、当たり前のように着こなしていた。
 冬の訪れとは無縁とばかりに、膝から下が丸見えで、細くひきしまったふくらはぎと足首が、人目を惹き付ける。
 大きな赤いリボンが付いた華奢なサンダルを素足に履き、手と足の爪は全て綺麗なピンク色に塗られていた。
 形良く整えられた薄い眉毛や、マスカラやアイライナーによって強調された大きい目、少女趣味なピンク色の頬と唇も、ファッション雑誌から抜け出たように、華やかだった。
 男達が必死に汗を流すジムの入り口で、「天翔の遠藤奈緒です。更衣室はどちらですか?」と彼女は無表情のまま、入り口にいた練習生を捕まえ、尋ねていた。
「あ、その奥の……二番目のドアを開けたところです」
 訊かれた練習生がしどろもどろに答え、彼女は臆することなく、いわれたドアを開け、さっさと中へ入ってしまった。
 誰もが動きを止め、その様子を注視していたが、「うわー、マジ本物じゃん」と誰かが感嘆したようにいった途端、次々と声が上がった。
「めちゃくちゃ美人じゃねえ?」
「写真で見るより、実物の方が、カワイイなあ」
「アレで五戦全勝の、KOクイーンだぞ」
 すっげえ、とジム生達が口々にいい、サンドバックを相手にコンビネーションブローを打ち込む吉山美香へ、視線を投げて寄越す。
(勘弁してよ!)
 吉山は眉根を寄せ、右の拳を力の限り、バッグへと叩き付けた。
 遠藤奈緒は女子ボクシング公認後、彗星の如く現れたホープだ。高二でプロデビューし、あれよあれよと勝ち星を挙げ、先月にはB級昇格後初の六回戦を行い、五連続となる派手なKO勝ちを収めている。
 けれども、あんな色物とは一緒にしないで欲しいと、怒りで吉山の、頭の血管は今にも切れそうだった。
「みっちゃん、遠藤選手が来たって?」
 慌ただしく担当トレーナーの山下がやって来て、ぐるりとジム内を見回す。
「今は更衣室ですよ」
 揺れるバッグへしがみつき、吉山は顔をしかめた。
「おい、おい。何度も頭を下げて、ようやくスパーリングのパートナーに来てもらったんだぞ」
 あたふたと答える山下へ、「私は頼んでないです」と、声を荒げた。
「アマとプロで五十戦以上もやった私に、たった五戦しかしてない、新人とやれっていうんですか?」
 しかもあんな女が売り物のアイドルボクサー、と吉山が下唇を噛み、山下は困ったように踵を返すと、会長を引き連れて来た。
「吉山、いい加減にしろっ」
 会長の怒号が、ジムにこだました。
「思い上がってるんじゃない! ベテランのお前だからこそ、遠藤以上のスパーリングパートナーはいないと、分かっているはずだぞっ」
 ジムにいる全員が練習しながらも、吉山と会長のやりとりに、そっと耳を澄ませている。そこへぱたんとドアの閉まる音がして、更衣室から遠藤が出てきた。
 化粧を全て落とし、髪も後ろでひとつにまとめていた。グレーのTシャツに紺のハーフパンツという地味な格好で、ありふれた白いキャンバスシューズを履いている。
 スポーツブラじゃないのか、とガッカリしたようにいう者がいて、吉山はキッと声のした方を睨み付けた。
 当の遠藤は人の視線をものともせず、練習場の隅にあるベンチへ腰掛け、黙々とバンデージを巻き始めた。堂々としているばかりか、何の表情も伺えない素顔は能面のようで、美しくも不気味だった。
(ちょっと……ずいぶんと雰囲気が違うじゃない)
 ボクサーとしての凄みさえ漂わせる彼女を初めて間近にし、さすがの吉山も圧倒された。
「会長の福原です、今日はよろしく」と会長が歩み寄って口を開いたのをきっかけに、山下に腕を取られた彼女は、気が付くと遠藤の前に立たされていた。
「今日はスパーリングのほう、よろしくお願いします」
 隣で山下が頭を下げ、吉山は恥ずかしさに全身が熱くなる。
(私はWBAミニマム級ランキング三位で、元世界王者だよっ?)
 普通に考えたら、先に挨拶すべきは遠藤だ。
 しかし、このひょろひょろとした無愛想な少女に、会長やトレーナーだけでなく、何よりも吉山自身が気圧されていた。
「ねえ。ちゃんと立って、挨拶ぐらいしたら?」と、彼女は自らを奮い立たすように、ベンチに座ったままの遠藤へ向かい、身を乗り出した。
「だいたいね、気に入らないのよ」
 ついつい喧嘩を売ってしまったのは、彼女に対する長い間の鬱憤や嫉妬もあったからだ。
「週刊誌のグラビアになんか出ちゃってさ、どういうつもり? 私たち女子ボクサーはね、変な目で見られないよう、真摯にボクシングと向き合ってんの。名前を売るためなのか、お金のためなのか、知らないけれど、カメラの前で悩殺ポーズなんかとっちゃって、恥ずかしくないの? ボクサーならボクサーらしく、リングの上で名前を売りなよ。女を使っての売名行為なんて、最低だよ」
 ずけずけと物をいうのは生まれついての性分だが、顔色ひとつ変えない遠藤を前に、嫌な汗が背中を流れ落ちる。
「女子ボクサーみんなが、アナタのことを嫌ってる。遠藤さん、それがわかってて、私とスパーしに来たの?」
 仁王立ちになって、鼻息荒く、そういい放った途端、「そんなガキ相手に、みっともない」と、後ろから冷めた口調で、咎められた。
 肩越しに振り返り、吉山の体に緊張が走った。
 そこにいたのは、福原ボクシングジム初の世界王者である、安森誠(やすもりまこと)だった。来たばかりなのか、ネイビーのワークシャツに迷彩柄のカーゴパンツという、普段着に身を包んでいる。
 彼は肩で吉山を押しのけると、猫のような鋭い目をさらに細くして、目の前の遠藤を見下ろした。
「おい。お前もプロの選手なら、礼儀をわきまえろ」
 辺りがしんと、静まりかえった。
 安森は目下、WBAミニマム級王座の防衛記録を六とする、日本ボクシング界切ってのエースだ。
 滅多に口を開くことなく、一心不乱に練習を繰り返す彼は、孤高の天才と称される。世界王者であれば当たり前のように組織される後援会を持たず、試合会場に垂れ幕やのぼりが上がることも無い、ある意味、己の拳を通してしか、人と会話をしない男だからだ。
 頬のこけた顔にはアゴ髭を蓄え、中途半端に伸びた髪を、無造作なオールバックにしていた。背は百五十六センチと小柄だが、何度も骨折してつぶれた鼻と細い目が特徴的なだけでなく、元暴力団の構成員であったという前歴も相まって、ある種の迫力を身にまとっている。
 そんな彼が人に話しかけるのはおろか、意見することも、非常に珍しいことであった。
 固唾を呑んで周囲が見守る中、遠藤は別段怯えた様子もなく、静かに立ち上がり、深々とお辞儀をした。
「天翔ジムの遠藤奈緒です。どうぞ、よろしくお願いします」
 こちらこそ、と気が抜けたように吉山が挨拶を返すのを見届け、安森は呆気なくその場を去った。
「そういえば、付き添いは?」
 思い出したように会長が尋ね、遠藤もすらすらと答えた。
「あとから来ます。それより、アップに三十分ぐらい時間を貰いたいんですが」
 おい、と会長に呼ばれ、「お前も三十分後にスパーでかまわないな?」と訊かれた吉山は、首を縦に振った。
「ロープとグローブ、ファールカップやヘッドギアもお借りできますか?」
「ああ、ロープは向こうの壁に吊り下げてあるのを、どれでも自由に使っていいから。グローブは……どうするかな」
 遠藤と向き合い、考え込む会長へ、吉山は声を張り上げた。
「八オンス、ヘッドギア無しで!」
 ダメダメと、すかさずトレーナーの山下が両手を振った。
「お前が一ヶ月後に戦うのは、あのランナ・コムウットなんだぞ? 万全の体調で挑むためにも、今の段階で、絶対に故障は許されないんだからな」
 ヘッドギア無しなんて以ての外だ、と山下は鼻息荒くいい、「十二オンスでどうかな」と、遠藤を見た。
「かまいません」
 そう返事をして、彼女は再びベンチへ腰を下ろし、バンデージを巻き始める。
「じゃあ、遠藤選手に貸す用具を持ってくるから」
 山下が離れ、会長も練習生達へ声をかけに行ってしまうと、入れ違いにやって来た安森が、遠藤の隣に腰掛けた。
 着替えを終えてTシャツとハーフパンツ姿になった彼は、「本格的だな……」と、つぶやくようにいった。
 練習を再開しようと歩き出し、足を止めた吉山は、安森が向ける視線の先を追った。
「まったく同じことを、川上さんにもいわれました」
 答える遠藤の手元を、彼は見つめていた。巻き付けているのが医療用包帯であることに、どうやら目を留めたらしい。
 練習用バンデージには、ボクシング用品メーカーが市販している、ハンドラップと呼ばれるものを使うのが一般的だ。巻き終わりをマジックテープで簡単に留められるし、何よりも手軽に洗濯が出来るので、何度も使用できる。
 反対に包帯は、縮んだりシワが寄ったりで、洗うのが面倒臭い。常に懐が寂しいボクサーとしては洗わずに何度も使いたいところだが、そうすると匂いが酷くなり、結局は使い捨てとなる。試合では包帯の使用が義務付けられているが、日常の練習においては頻繁に買い換えなければならないため、どうしても敬遠されがちだ。
(お金があるって、いってるようなものじゃない)
 興ざめして唇を引き結ぶ吉山とは対照的に、「川上って、スーパーライト級の、川上健二のことか?」と、安森は気軽に遠藤へ話しかけ、彼女もうなずき返していた。