A SPOOKY GHOST 第二十八話 閉ざされた小さな世界(2)

 朝方はひんやりとしていたが、陽が高くなるにつれて、気温もぐんぐん上がってきたようだ。高校の校舎が見えてきた時、自転車にまたがる奈緒の額や背中には、うっすらと汗が滲んでいた。
 校門の前では、並んで停まる車の列へ向かい、黒い礼服姿の教職員らしき大人達が、何やら大声を張り上げていた。
 どうやら卒業式を終えた生徒達が、いったん学校を出て、正門へと車で乗り付けたらしい。その証拠に窓から身を乗り出して、ボンネットに両腕を突きながら、ヘラヘラ笑っている者達は全員、奈緒と同じ戸波高校の制服に身を包んでいた。
(バカみたい……)
 遠目にも卒業生が集まり、賑わっているのが分かる校門に通じる道を、ほとんど反射的に脇へ逸れ、裏の通用門へと回った。ハルイチを探すのは後回しにして、部室が連なる校庭の一角に、自転車を止めた。
 校舎裏をすり抜け、教職員用の昇降口で来客用のスリッパに履き替えた奈緒は職員室へ行き、入り口近くにいた、華やかなスーツ姿の女性を呼び止めた。
「三年三組の遠藤です。卒業式を欠席したんですが……」
「ええと、担任は前田先生ね」と、彼女はいい、職員室中に声を響かせた。
「前田先生ー!」
「前田先生なら、まだ外ですよお」
 どこからか返事があり、目の前の女性は困ったように、奈緒を見た。
「まだ、戻られていないようだわ」
 どうしましょう、と無意味に視線を泳がせる彼女の後ろから、「遠藤じゃないか。どうした、今頃!」と、原崎がひょっこり姿を現した。
 彼女なら私が、と彼は役に立たない女性の肩を叩き、奈緒へにっこりと笑いかけてきた。
「どうする。せっかくだから校長室へ行って、卒業証書授与をやるか?」
 奈緒は激しく首を左右に振った。そんな特別待遇を期待して、卒業式を欠席した訳ではない。
「そうか。だったら奥で待っていろ。今、卒業証書やアルバムを持って来てやるからな」と、原崎がゲラゲラ笑い出したところを見ると、どうも、からかわれたようだ。
 職員室の片隅に設けられた、簡易な木の間仕切で囲まれただけの、小部屋へと奈緒は通された。丸テーブルを挟んで、パイプ椅子が二脚置かれており、その内のひとつに腰掛け、原崎を待った。
「お疲れ様。今年も校門には車が集まりましたねえ。もう奴等、帰りましたか?」
 薄い壁一枚を隔てた向こう側から、卒業式を終え、ホッとしたように語らう教師達の会話が聞こえてきた。
「いや、まだ二台停まっているし、卒業生も大勢たむろってますよ」
「車はダメだと前もって注意しているのに、毎年あの通りだから、困っちゃいますよね」
「まあ、落ちこぼれの連中が集まる、この学校ならではの年中行事ですから」
 ハハハ、と小馬鹿にするような笑い声が上がった。
「卒業式にも驚かされました。あんなのを見たのは初めてで、ビックリしました」
「ああ、安藤先生は今年度から赴任されたから、ご存知無いんですよね」
「各クラス毎に退場の際はクラッカーを鳴らしたり、バラの花を天井へ向かって投げたり。いやー、賑やかでしたね」
「壇上へ上がった生徒ひとりひとりに、声がかかるのもスゴいでしょ」
「アレはスゴかったですねえ。拍手や口笛、あだ名の連呼。特にあの生徒、プロボクサーの……」
 ええと、といい淀む教師に、すぐさま別の教師が告げた。
「春山でしょう? ひときわ大きな拍手と歓声が起きていましたからね。彼は留年して一年遅れでの卒業なんですが、大した人気ですよ」
「確か植村先生は去年、彼の受け持ちでしたよね?」
 ええ、と明るく答えるのを聞いて、二年生の時に担任だった教師の顔が、奈緒の頭に浮かんだ。
「彼の試合は、生徒達と何度か、観に行きました。東日本新人王まであと一歩という、トーナメントの決勝で負けましてね。ホント、惜しかったですよ」
 あの担任は、ハルイチと奈緒の二人がボクシングジムへ通っていることに、いい顔をしなかった。それがコロリと態度を変え、ハルイチの応援に行ったと、今では自慢げに語っている。
 壁を通して聞こえる会話を耳にしながら、奈緒はうんざりした。
「春山君の応援には、かなりの数の生徒が行ったでしょ。試合翌日、みんな興奮しながら、教室で彼のことを話題にしていましたから、良く覚えていますよ」
 学校で売るのは拙(まず)いが、ハルイチの試合はチケットが良くさばけて助かると、会長がいっていたのを思い出す。ファイトマネーも、ハルイチは現金よりも額が多くなる、チケットで受け取っていた。
 あたしとは大違いだ、とため息を吐く奈緒の存在に気付かないまま、「もう一人、プロボクサーの子がいませんでしたか?」と、誰かがいった。
 ああ遠藤ね、と一斉に複数の教師達がいい、奈緒は顔を強ばらせた。
「あの子は……個性的だね」
「真面目な子でしたよ。三年間、皆勤じゃありませんか?」
「でも、二学期に救急車で搬送される騒ぎがあったでしょう」
「あの日を除けば皆勤ですね、きっと。今日の卒業式はどうしたのかな。いませんでしたね」
 そりゃあそうでしょう、と嗤(わら)いを含んだ声に、奈緒の体がびくんと反応する。
「卒業式の予行演習、見たでしょう? 卒業証書授与で、遠藤だけ全く声がかからなかったじゃないですか」
「嫌われるんですよ、あの手の子は」
「テストは、ほぼ満点。見かけも、膝丈のスカートにネクタイをきちんと締めた、優等生そのものですからねえ」
「おまけに、誰とも話をしようとしない」
「同級生、特に女子生徒から嫌われていましたね。二年生の秋に、修学旅行へ行ったじゃないですか。あの時も部屋割りやグループ別行動を決める際、クラスの子が遠藤を受け入れたがらなくて、苦労しました」
「でも、春山とは仲がいいんですよね? 同じボクシングジムに通っているとかで……」
「それが余計、反感を買ったんでしょう。春山は遠藤と違い、勉強はてんでダメでしたが、女の子にモテていましたから」
「遠藤は、そんなに勉強が出来るんですか?」
「ここだけの話ですけど、彼女は入学試験で、全科目満点だったらしいですよ」
「ええっ、本当ですか?」
「ただ、内申点に問題があってね……入試での獲得点が合計されて、ぎりぎり合格ですよ」
「どうりで。あんなに頭の良い子がこういう高校へ来るのには、何か理由があると思っていました」
 要するに変わり者の問題児ってコトです、と笑いながら、別の教師が口を挟んだ。
「そんな子だから、ボクシングなんか、やるんでしょう」
「話に聞くと、新聞や雑誌にも取り上げられたらしいじゃないですか」
「あの顔だし、スタイルもイイですからね。ボクシングファンは男が多いから、人気は出ると思いますよ」
「いやあ、それにしても、変わっているなあ。馬鹿と天才は紙一重っていうけれど、あの子はまさにそうですね」
「そう、そう。天才といっても、勉強が出来るだけで、あんな性格では将来苦労するだろうけれど」
「テストで良い点を取れる人間が、社会でも役に立つっていう訳ではありませんから」
 その通り、と派手な笑い声を上げながら教師達の去っていくのが、散らばる足音と共に、分かった。
 奈緒はうつむき、膝の上で両手を強く握り締め、深呼吸を繰り返す。顔を上げ、ようやくやって来た原崎と、目が合った。
「遠藤、待たせたな」
 向かいに腰を下ろした彼が向ける温和な視線を、上目遣いに撥ね返す。けなされ、否定された直後のことだ。こんな時はどう人と接したら良いのか、判断がつかない。
 原崎は別段変わりなく、テーブルの上に黒い筒のケースを置き、「これが卒業証書。中にはいっているからな」と、普通に話し出した。
「こっちが卒業アルバム、そして通知表と学校からの配布物、その他もろもろだ」
 並べられたものを全て、肩から提げたままのショルダーバッグへしまい、奈緒は早々と席を立った。そして、黙ったまま頭を下げ、テーブルを離れると、雑談を交わす教職員達の間を、原崎と並んで歩いた。
「覚えているか? 生徒指導室で、植村先生や春山と一緒に、話をしたことがあっただろう」
 職員室を出て、昇降口へゆっくりと向かう廊下の途中、原崎から話しかけられた。
「あの時、相談したいことがあったらいつでも来いといった筈だが、とうとう遠藤は一度も私の所に来なかったな」
 暑いのか、黒い礼服の上着を脱ぎ、腕に抱えると、彼はふうと長い息を吐いた。
「これが最後だぞ。何か、私に相談したいことは、あるか?」
 たどり着いた昇降口でスリッパを脱ぎ、靴へと履き替えた奈緒は、原崎に顔をのぞき込まれた。
「先生」と、彼の温和な表情に促され、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございました」
 滅多に本心からは発しない言葉を、それでも精一杯、口にした。
 卒業しても頑張れよ、と原崎がにやりとし、オーソドックスに構えるのを見て、奈緒もそっと後ろへ引いた右足の踵を上げ、両膝を曲げる。
 原崎の上着がするりと床へ滑り落ちると同時に、ジャブとストレートが交互に飛んで来た。わずかに首を曲げ、それをギリギリのところでかわしてみせると、膝の屈伸に合わせて右腕をすっと持ち上げ、原崎の顎先で拳を止めた。
「歳の割には速いワンツーでした。さすが、ボクシング部元顧問ですね」
 奈緒は姿勢を正し、戻した腕を後ろ手に組むと、はにかんだ。
「いや、怖かった。気が付いたら、遠藤の拳が顎の下にあった……」
「寸止めですよ? 怖くはないと思うんですけど」
「冗談じゃない。まったく、見えなかったんだぞ。ガードの下をすり抜けるあの速さは、男並じゃないか」
 原崎は床に落ちた上着を拾い上げ、首を傾げる奈緒の顔を、まじまじと見た。
「遠藤……お前、絶対にボクシングをやめるんじゃないぞ」
 続けるんだ、という強い声に大きくうなずき、彼女は昇降口を出た。振り返ると、原崎が右手を挙げ、奈緒のことを見送っている。彼女も胸の前で、小さく手を振り返した。
(そうだ……)
 どんどん早足となり、しまいには駆け足で通用門まで行くと、止めておいた自転車に勢い良くまたがった。
(迷っていたら、ダメだ)
 力強くペダルを踏み、ジムへ向かって漕ぎ出した。
 人の輪に加わるのは苦手だが、陰口を叩くことはないし、噂話もしない。孤独という名の、自分だけの小さな世界に閉じこもり、好きなことをやっているだけだ。それを他人は空気が読めないだの、変わっているだの、好き勝手いう。協調性がないと怒り出し、どうして人と仲良くできないのかと、無遠慮に踏み込んでくることもある。
(けれども、あたしは変わらない)
 変われないんだ、と遠ざかる校舎を背に、歯を食いしばった。
 ボクシングも、リングに上がったら誰も助けてはくれない、孤独な世界だ。
 ――そこで、ランナはあたしを待っている。
 彼女と向かい合う終焉の地で、幽霊はきっと、静かに姿を消す。閉じられた小さな世界が壊れる、その時の為に、奈緒は走り続けなければならなかった。