A SPOOKY GHOST 第二十七話 閉ざされた小さな世界

 暗がりが薄紫色に変わり、赤みを帯びてくると、目の前の海が鮮やかな朝焼けに染まってゆく。
 人のいない早朝の砂浜で、奈緒の着ているウィンドブレーカーが、潮を含む湿った風にはためき、ガサガサと音を立てていた。
 引いては寄せる波の音が、遠く、強く、耳に響いてくる。
 乱れる髪をかき上げ、奈緒は歩き出した。波打ち際から離れ、海岸に沿って走る国道の歩道へと上がり、駅に向かう。
 腕にはめたランニングウォッチへちらりと視線を走らせ、歩きながらタイムを確認すると、満足感と共に大きく伸びをした。
 海を訪れるのは、高口に夜半過ぎのランニングを注意された高二の初夏以来、一年と九ヶ月ぶりだ。
 ここまで走って来ることに、大して意味はない。眠れない夜の、単なるヒマつぶしだ。これ以上進みようのない、行き止まりの場所だとしか、奈緒自身も思っていなかった。
(おなか空いたなー)
 脳天気に考える自分が可笑しかった。すぐにでも電車に乗らなければ、やがて始まる通勤ラッシュに巻き込まれ、家に着く頃には疲れ果ててしまう。
(最後の最後で、卒業式をサボったら……ちょっと、もったいないかな)
 高校三年間、奈緒は休まず学校へ通い続けた。これまでに彼女が過ごした年月を振り返れば、まさに快挙といっていい。
 小学校では、登校班へ組み込まれ、隣近所の子供達と連なり歩くのが苦痛で、遅刻など日常茶飯事だった。
 中学校へ上がると、集団生活への苦痛はさらに増し、遅刻どころか欠席することも度々だった。家で過ごす日々に飽き、陸上部の練習へ参加するためだけに、登校していたようなものだ。
 行事にもほとんど参加した覚えがなく、遠足やキャンプ、修学旅行といった、大きな思い出となるはずのイベントにさえ加わらなかった。
 彼女は幼稚園時代も、勝手に家へ帰ってしまったり、教室を離れてひとり園庭で遊んでいたり、マイペース極まり無い子供だった。
 どんなに周囲が怒り、いい聞かそうとしたところで、まるで従わないし、癇癪(かんしゃく)も酷かった。
 小言を繰り返しながらも、親はほとんど、匙を投げていたようだ。好きにさせておけば温和しいし、何よりも勉強だけは難なくこなす、賢い子供だった。やることなすこと全てにケチをつけつつ、奈緒を放任し、奔放な行動が目に余ると陰険な態度を取るようになっていた。
(今日で、そんな親からも、完全に見放されるんだろうな)
 国道沿いにコンビニエンスストアを見つけ、菓子パンと牛乳を買い込むと、歩道から砂浜へ下りる階段の途中で、腰を下ろした。
(これから、どうしよう……)
 中三の時、進路指導で担任から、私立高への進学を勧められた。宿題を一切提出せず、テストも白紙で出していた奈緒の成績は悲惨なもので、内申書を重視する比率が高い公立高では、ほとんど合格が見込めなかったからだ。私立なら入学試験で点数が高ければ一発合格が有り得るし、陸上部での実績を加味してくれる学校もある。
 ところが面談でそれを聞かされた親は、経済的に私立は無理だといい切った。結果、奈緒は一か八かで戸波高校を受験し、かろうじて進学を決めた。
 中学卒業の際であっても、そんな風だ。妹の千登勢にお金がかかっている今の状況では、親が奈緒を大学へ進学させてくれるはずも無く、家で無職のまま養ってくれるとも思えなかった。
(あたしって、とことんダメみたい)
 滅多に口にすることのない、クリームがたっぷり入ったパンを頬張ると、日が昇り、すっかり明るくなった空を見上げた。
(真面目に学校へ通った)
 毎朝のロードワークを橋野とこなし、学校帰りにジムへと通う。高校に入学してからは、このサイクルが上手く働いた。さらに二年生になってプロデビューを果たし、朝からジムへ入り浸り、ボクシングをする合間に登校するという毎日へ変化したことも大きかったといえる。
(けれど、何か変わった?)
 居場所がなかったはずの学校で、じっと静かにやり過ごす術を見つけ、時間はあっという間に流れた。
(きっと、何も変わっていない)
 奈緒は立ち上がり、ごくんとパンを呑み込んだ。
(あたしは、いつまでも、どこまでも……)
 真面目で規則的な三年間の高校生活を送ったが、やはり一人も友達は出来ず、クラスに溶け込むことも無かった。
 ――異質で、いるのか、いないのか、存在もあやふやな、不気味な幽霊。
 スプーキーゴーストというニックネームは、今の彼女にとって、皮肉以外の何物でもなかった。
 天を仰いだまま、きつく、奈緒はまぶたを閉じる。強い風にあおられ、このままどこか遠く、飛んで行けたらと願う。しかし、結局はどこへも行けず、目を開けた彼女は、再び階段に座り直した。
 今朝はジムでの早朝練習に参加しなかった。これから始まる高校の卒業式にも出席しないと、心に決めている。
(……コーラにすれば良かった)
 甘い菓子パンを買ったのは、自分へのささやかなご褒美のつもりだったが、飲み物に牛乳を選んでしまうあたりが、染みついたボクサーの習慣そのままだ。
 手にした牛乳パックを顔の前に掲げ、じっと見つめたのち、ストローを差して中味を一気に飲み干した。そして、ふうと息を吐き、海を眺めながら、下腹部に鈍い痛みを感じた。
(ウソでしょ?)
 奈緒はゴミをまとめると、急いでコンビニへと戻り、トイレに駆け込んだ。
(これのせいだ……)
 昨夜から落ち着かず、眠れなかった原因がわかった。
 ボクシングの激しいトレーニングをきっかけに無月経となった奈緒は、ホルモン治療を受けて生理が再び訪れるようになっていたが、低用量ピルによるコントロールを行っていた。つまり、場合によっては、薬の力で生理が来るのを早めたり、遅くしたりするのだ。
 試合に集中するためで、先月と先々月もピルを服用し、生理を予定よりも早く終わらせていた。それだけ、月経周期に気を遣っていながら、今月の生理のことをすっかり忘れていたことに、少なからずショックを受けた。
(なんか、集中力が落ちてるなあ)
 店でタンポンを買い求め、ため息を吐(つ)きながらトイレで体内に入れると、早足で駅へ行き、電車に乗った。だんだんと乗客が増えていき、車内が混み合い始める中を、奈緒は別の路線へと乗り換える。そして目的の駅に着くと、今度はバスに乗り、家まで戻った。
 家族はとっくに出払っており、家の中はしんとしていた。奈緒がいてもいなくても、皆の時計が狂うことはない。
 どういう形であれ、父も母も、そして妹も、長い時間をかけて、奈緒の勝手気ままな振る舞いを、どうにか受け入れていた。
 未だぶつかることも多いが、この家以外に、確かな居場所はないと彼女自身が一番良く解っている。
「これから、どうなるんだろう」と、気付けば声にして、呟いていた。
 明日からのことを考え、自己嫌悪に陥る負のスパイラルに、見事ハマってしまっている。気を取り直そうと、奈緒はシャワーを浴びた。
 服を着替え、髪を乾かし、心も体もすっきりした時、ハルイチとの約束を唐突に思い出した。
(卒業式が終わったら、一緒にジムへ行こうと約束してたんだっけ)
 卒業のお祝いに少し遠出をして昼食をとろうと、何日か前、高口からいわれていたのだ。
(今、何時?)
 下着姿のまま洗面所から飛び出して、二階へ駆け上がり、自分の部屋の時計を見た。
(もうすぐ十時)
 今から制服を着て、自転車で飛ばしに飛ばせば、何とか間に合うかもしれない。式が終わったとしても、人気者のハルイチのことだ。大勢の友人に囲まれ、ファイティングポーズをとりながら、記念撮影でもしているだろう。
 慌ただしく身支度を済ませ、戸締まりを済ますと、奈緒は自転車に飛び乗った。