A SPOOKY GHOST 第二十六話 老驥(ろうき)千里を思う(2)

 不意にドアの外が騒がしくなった。女性達の高らかな笑い声が、階段を上がって来る足音に混じり、耳にうるさいほどだ。
「オバさん達、終わったみたいだな」
 すっくと背筋を伸ばし、春山少年は横を向いた。大抵のボクサーがそうであるように、一般的な高校生と比べてかなり小柄だが、短く刈り上げた髪型といい、きりりとした目元といい、男らしい見目は頼もしいばかりだ。
「もうすぐ、会長も来ると思います」
 にっこり笑っていう様もさわやかで、男女を問わず、誰からも彼は好かれるだろう。
(青くなって震えていた、あの小僧が……)
 人の出会いとは不思議なものだが、こうして再び巡り会ったからには、何かしらの意味があると信じたくなる。
「なあ、春山君。ジムエリートでさえ、アマチュア何冠だのといった、華やかな成績には無縁で終わる者が多い。プロになっても然り。アマで良い成績を上げ、プロテストをB級で受けて合格したとして、スタートは今の君と同じだ。格好悪いと、私は思わんよ」
 老人は表情を変えることなく、世間話に興ずる年寄りそのままに、ぼそぼそと唇を動かした。
「アマで弱かった君が、今では立派にプロで通用している。天翔ジムよりも、中倉ジムの方が、君の性に合っていたんだろう。仲間にも恵まれたんじゃないのか?」
 たとえば遠藤奈緒、と老人が名前を出した途端、春山少年は眉間にシワを寄せた。警戒されていると分かり、ますます老人の興味は増した。
「実は今日ここへ来たのは、古い友人から遠藤選手のことを聞かれてね。どんなものか、確かめに来たんだよ。どうだろう。彼女は本当に、スプーキーゴーストという名に見合う、実力の持ち主なのかね」
 それまで立ったまま遠目に老人を見ていたはずの春山少年が、彼女の話題になった途端、ずかずかと近寄って来て、「おジイさん、何者?」と、向かいのソファにどすんと座り込んだ。
「マスコミ関係の人? いっとくけど、奈緒は取材なんか受けねえよ」
「それはジムにとって勿体ない。いい宣伝になるんだが」
「でも、おジイさん、記者じゃねえな。記者はそんなパリッとしてる、ヤクザじみた縦縞(たてじま)のスーツなんか着ねえし」
 両膝に手を置き、彼は老人へと身を乗り出してきた。頬を紅潮させ、どういう訳か、本気で怒っている。
「奈緒の実力が知りてえだなんて、どこのジムの奴だよ。教えてくれっていわれて、ぺらぺらしゃべると思ってんのか?」
 春山少年が遠藤奈緒に特別な感情を抱いているのは、ほぼ間違い無さそうだ。とりあえず、敵ではなく味方だと、教えてやるのが得策だ。「二月の彼女の試合は素晴らしかった」と、老人は飄々(ひょうひょう)と語った。
「相手はサウスポーだったから、ジャブになるな。あれを受けながら、合わせるように上から左フックを被せて、相手の上体を不安定にし、自らも無理な体勢からもう一度、相手のボディーに左を入れた」
 愚かしい守り役気取りの彼を翻弄してみせるのは、老人にとって、造作ないことだ。
「素晴らしいのは、その後だ。すかさず重心を元に戻し、ガードの隙間から、ストレートを相手の顔面に的中させた。全てがバランス良く、速い。膝が柔らかいのはもちろん、下半身の強さあっての、スピードだ。しかも、己の欠点を良くわかっている」
 欠点? と春山少年が肩を怒らせたまま、それでも訊き返して来て、老人は目を細めた。
「彼女は自分の拳に力が無いことを知っている。一発で倒せないとね。だから、隙を見逃さない。タイミング良く素早くパンチを打ち抜くことを、心がけている」
 防御も含め大変なテクニシャンだ、と老人は、演技ではなく本心からいい、小さく息を吐いた。
「かすることも見ることも難しいものが二つある。不気味な幽霊とモハメド・アリだ」
 何とも不遜な言葉だ――There are two things that are hard to hit and see. That's a spooky ghost and Muhammad Ali.
 ザ・グレイテスト(最も偉大な人物)の彼が発したからこそ、価値がある。
「ランナ・コムウットは遠藤とスパーリングをして、モハメド・アリの、この言葉を思い起こした。彼女はアリの熱心な信奉者だからね。遠藤のことをスプーキーゴーストと呼ぶのは、彼女なりの賛辞なのだろう」
 老人はシルビア・ロットから伝え聞いた話をそのまま、しわがれ声で、打ち明けた。
「いっておくが、アリは偉大なボクサーだ。遠藤など、遠く及ばない」と、釘を刺すように、春山少年へ告げることも忘れなかった。女子供とヘビー級伝説の王者が並び称されるなど、老人には反吐が出る。
「しかし、二月の前の試合……去年の年末、フルラウンド戦った末に、遠藤が逆転KO勝ちを収めた試合を見ると、実に非凡だ。あれを泥仕合と見るか、彼女なりのテストマッチと見るか……とにかく、遠藤の一番の武器は、相手を疲弊させるディフェンスにあると、私は思った」
 おジイさんのいう通りだ、と春山少年はソファの背もたれへ寄りかかり、安堵したようにいった。老人が遠藤奈緒を評価したことが、彼には余程、嬉しかったらしい。
「相手を疲れさせるディフェンス。実際には年末の試合で奈緒がやってみせたことなんだけど、ランナ・コムウットは、最初に手合わせした時点で、とっくにお見通しだったんだろうな」
 先ほどまでの威勢はどこへやら、殊勝な口ぶりとなって春山少年はいい、膝の間で組んだ両手を意味もなく眺めていた。
(遠藤奈緒という少女の理解者は、どうやらあまりいないらしい)
 あの愛想の無い性格では無理もないと思うが、味方も少ないのだろう。春山少年は恐らくそのことを危惧していて、陰日向なく彼女のことを心配し、見守っているつもりなのだ。
「奈緒にしてみれば、ボクシングを始めた頃から、当たり前のように挑戦してきたことなんだ。年末の試合で体を張って、試しもした。けれども、簡単に出来ることじゃないし、やってみたところで、まさか本当に奈緒がそれをしているなんて、オレを含めた誰一人、例の記事を読むまで気付かなかったんだ」
「月刊ボクシングの、二月号の記事だね」と、老人はうなずき、やがて厳しい声を出した。
「彼女のスリッピングアウェーはそれらしく見えるだけで、まだまだダメージを負う確率の方が高い、未完成なものだ。みんなが認めるような代物とはいえないね」
「そうなんだ。だから、たった一度のスパーでランナ・コムウットが奈緒を不気味だと思ったのは、もっと違うことにあんのかもしんねえ」
 春山少年はそういって顔を上げ、正面から老人の顔を、穴が開くほどに見つめた。
「オレにはよく分からねえけど、奈緒のことを聞いてきたっていう、おジイさんの古い友人は、知ってんのかもな。ランナ・コムウットが、やたらと奈緒にこだわる理由をさ」
 老人はにたりと口の端を上げた。ランナ・コムウット本人と繋がりのある人物だと察し、逆に探りを入れてくる。老人の正体にも、もしかしたら、気付いているのかもしれなかった。
(なかなか食えない子のようだ)
 ソファにこじんまり腰掛けたまま、どうしたものかと、顎を指先でなぞる。
(父親の宮崎一馬は死んだが、夫である彼に刺された母親は今でも生きているのか……名字が宮崎ではなく春山なのは、母親の旧姓か、誰かに引き取られたか……)
 春山少年が天翔ジムを離れてから後の事は、知る由もない。しかしながら、複雑な家庭に生まれ育った彼のような子は、用心深く振る舞う術を心得ていると、理解したうえで接するべきだ。素直なようでいて、頭を働かせながら、抜け目無く人と話が出来る――そんな春山少年だからこそ、自分とは正反対で不器用な少女に深く同情し、彼女と支え合っているのかもしれなかった。
(この子を、遠藤奈緒と引き離す必要があるな)
 ボクサーがリングの上で輝ける時間は、そう長くない。むしろ、一瞬のきらめきといっていい。その短い時間の中で、孤独な彼女が男の垂れ流す優しさに下手に甘えてしまっては、選手としての価値を失ってしまう恐れがある。
 じっと考え込む老人の沈黙に耐えかねたのか、「奈緒はオレにいったんだ」と春山少年がさらに話を続け、老人も楽しげな風を装い、耳を傾けた。
 ――あたし、ランナ・コムウットとしか、もう試合をしたくない。
 遠藤奈緒が唐突にいい出し、春山少年を慌てさせたことがあったらしい。一月前の試合後のことだと、彼はいった。
「金を貯めて、タイへ乗り込むつもりなんだ。馬鹿馬鹿しいほどマジで、オレの手にも負えねえよ。現実的に考えりゃ、アイツはまだ四回戦しか認められていない、C級だろ? ノンタイトル戦をオープンでやるにしたって、世界王者相手じゃあり得ねえし……無茶苦茶だよ」
 その通りだ、と老人は深くうなずいた。
「ランナ・コムウットに対しても失礼だ。彼女は幼少の頃から、ムエタイのジムを開いている父親の手ほどきを受けて育った、ベテランだ。そのうえ、国際式と呼ばれるボクシングへと転身したのちも、連戦連勝で世界チャンピオンとなった、生粋のファイターでもある。ムエタイ時代からの試合経験が四十戦を超える彼女に、わずか三戦しかしていない小娘が挑むなど、話にもならん」
 それ以前に、海外で勝手に試合をすればライセンスは取り上げられ、最悪の場合、日本国内での活動が今後一切認められなくなる。
 春山少年はきゅっと口を引き結び、しばし無言となったが、「それでも、アイツを……ランナ・コムウットと何とか、試合させてやれねえかな」といきなり切り出し、老人を少しばかり驚かせた。
「奈緒は……ランナと試合をしたら、終わりだっていうんだ」
 それは、と老人は咳払いをした。
「日本で活動ができなくなってもいいから、タイで、今すぐランナと決着をつけたいということか?」
 少し違う、と春山少年が首を左右に振り、「ボクシング自体を辞めるということか?」と、老人は重ねて訊いた。
 口元に手をやり、顔をしかめる彼の答えは明らかだ。老人の胸は、一気に高鳴った。
 古き盟友のシルビア・ロットはもうろくしたのか、女子ボクシングにビジネスチャンスがあると信じ込んでいる節がある。老人にしてみれば、手を出したところで金にもならず、将来があるとも思えない。選手層が薄く、切磋琢磨する機会に乏しい彼女らの試合には、大勢の支持が得られるほどの魅力が感じられないからだ。何よりも選手の高齢化が問題だ。公認前から活躍していた選手と、公認後にプロとなった者の差は開くばかりで、全体的なレベルの向上さえも期待できない。
(私も老いぼれたな)
 それが分かっていながら、ある種の感傷に突き動かされ、遠藤奈緒とランナ・コムウットのマッチメイクを手がけてみようと、老人は思い始めていた。
(難しい……だが、冥土の土産になる)
 第一線から退き、老後の悠々自適な暮らしに身を任せて、もう長い。とっくにジムは息子に譲り、プロモーションの代表もしかるべき人物へと託し終えた。けれども人生の幕引きとして、一人の天才ボクサーが終わっていく様を見届けるのも、一興かもしれなかった。
「わかった。彼女に最短の道を用意してやろう」と、何食わぬ顔をして、告げた。
「ただし、見苦しい試合を私は許さない。経験をきちんと重ね、レベルアップしていった末に世界へと挑戦できるよう、日本のプロボクシングは非常に良く制度化されている。遠藤も、そのレールにきちんと乗り、ランナ・コムウットを目指さなくてはいけない」
 老人は笑いながらも、目を吊り上げた。
「世界戦は全てのボクサーにとって、遙か遠くの頂きであるべきだ」
 春山少年が黙って姿勢を正し、深く頭を下げる後ろで、がちゃりとドアが開いた。
「おい、春山。勝手にこの部屋へ入っちゃいかんと、いつもいっているだろう」
 ジャージ姿の会長が姿を現し、「無事に卒業したんだろうな? 遠藤が下で、高口と一緒に、お前を待っているぞ。昼飯を外へ食いに行く約束をしているんだってな」と、大きな声でいった。
「お陰様で、やっと卒業できました。ありがとうございます!」
 軽い身のこなしで、ぴょこんとソファから立ち上がった春山少年は、「会長、お客さんが来てるよ」と朗らかにいい、あっけなく部屋を出て行ってしまった。
 客? と中倉が怪訝そうに中を見渡し、目を留めた先で、老人はよろよろと立ち上がった。
「元気そうじゃないか」
 絶句する会長の中倉へ、老獪そのものであろう、しわくちゃな笑顔を向ける。
 ――まずは、怪我をして休養中の、川上健二を出しに使うか。
 老人の錆びれかかった悪知恵が、ぎいぎいと不気味な音をたてて、回り始めていた。