A SPOOKY GHOST 第二十五話 老驥(ろうき)千里を思う

 都心から電車に乗って一時間半ほど揺られたのち、ようやくたどり着いた駅で老人は周囲を見渡した。
 改札を出るとファーストフード店があり、駅前にはバスターミナルが広がっている。道路は車で混雑していて、銀行やコンビニエンスストア、弁当屋、他にもクリーニング、和菓子、衣料品の店などが、通り沿いに立ち並んでいた。
 どこにでもある馴染みのスーパーマーケットがそう遠くない場所に見え、飲み屋の看板を掲げるビルも多い。初めて訪れる土地であったが、これといった特徴もない、見慣れた都市の風景だ。
(さあて。どっちの方向だったかな)
 三月も半ばとはいえ、風が冷たかった。念のためにと厚いコートを着てきた老人は、晴れ渡った空の下を、のんびり歩き出す。
 バスターミナルを過ぎた交差点の手前で、コートのポケットから折りたたんだ紙を取り出し、広げた。孫の宏美がパソコンで調べ、印刷してくれたものだが、今ひとつわかりにくい。
(中倉ジムは……これか?)
 老眼もあって手にしていた地図から顔を離し、目を細めていると、背後に人の気配を感じた。
 老人は振り向き、自転車に乗った女の子と目が合った。人の行き交う歩道の真ん中で老人が立ち止まってしまったため、通り抜けることが出来ず、立ち往生してしまったようだ。
「いや、失礼」
 脇へ避けようとして、別の通行人にぶつかった。申し訳ないと頭を下げたが、相手は先を急ぎ、老人のことなど気にも留めていなかった。さっきまで後ろにいた女の子も、またがっていた自転車から降り、小さくため息を吐く彼の横を顔色ひとつ変えることなく通り過ぎて行く。
 どけといわんばかりに、後ろからチリンチリンと、ベルをうるさく鳴らされるよりはマシだ――老人は気を取り直し、自転車を押して歩く彼女を呼び止めた。
「君、この辺にボクシングジムはあるかい」
 足を止め、振り返った女の子は、紺色のブレザーとスカートに身を包んでいた。赤いネクタイを締め、紺色のハイソックスに黒の革靴を履いており、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。
 真面目でお堅い、清潔な高校生といった感じだが、やや目尻の吊り上がった大きな眼はまともに老人を見ておらず、無愛想を通り越して気味が悪かった。
 訊く相手を間違ったかと後悔しながら「中倉ジムというのですが」と地図を見せようとして、頭ひとつ分は背が高い彼女に、そっと片手で押し留められた。
「こっちです」
 女の子がさっさと自転車を引いて歩き出し、老人は手にしていた紙を丁寧に折りたたむと、コートのポケットにしまった。
 とある雑居ビルの前で彼女は立ち止まり、少し遅れて追いついた老人に「このビルの二階です」といい、裏へ回った。ゆっくり後を追うと、駐車場の隅に自転車を止め、前カゴに入れていた黒いナイロンのカバンを肩に掛け直している。
 老人は再び目を細めた。目鼻立ちの整った器量良しで、ほっそりとした体型だが、膝丈のスカートからのぞくふくらはぎが動きに合わせ、はっきりと山を為している。
(そうか……きっと、この娘だ)
 女の子は駐車場からビルへと引き返し、老人の姿に気付くと怪訝そうな顔をしたが、無言のまま通りに面した不動産屋の脇から狭い階段を上り始めた。老人も黙って後ろを歩き、一緒に二階の自動ドアをくぐった。
「こんにちは」
 誰にいうでも無しに彼女はいい、脱いだ靴を慣れた手つきで棚にしまうと、奥の階段をさらに上へと進んで行ってしまった。
(やれやれ、冷淡な子だ)
 置いてけぼりを食らった老人が立つ広い玄関口からは、練習場が一望できた。明るく綺麗で、申し分の無いジムだった。
 今流行りのフィットネスボクシングというものなのだろう。トレーナーのかけ声に合わせ、十人ばかりの女性達が、一様に同じ動きを鏡の前で繰り返している。
 老人は隔世の感を以て、その光景を眺めた。
「見学……じゃないですよね」
 ぼんやりとしていて、声をかけられた。いつの間にやって来たのか、隣に学ラン姿の男の子が立っていて、老人を胡散臭そうに見つめている。
「中倉君はいるかね」
 分厚いコートを着た、頭の毛も薄い、小柄でヨボヨボの爺さんだ。不審がられて当たり前だと、老人は動じることなく、しわがれ声を出した。
 会長への来客と見て取り、はにかむような、優しい笑みが彼の顔に浮かんだ。
「会長は今、クラスを指導してます」練習場の方を指さし、「奥にある休憩所でも待てますけど、三階へ行ってもらった方がいいかも」と、親切丁寧に教えてくれた。
 機転が利くのか、棚の横から探し出したスリッパを老人の足下に並べ、「案内します」とまでいう。
 ボクサーの人種も変わったものだ――老人は目を瞬(しばたた)せた。
「学校は試験中かい? やけに早いね」
 靴を脱いでスリッパに履き替え、階段を一段一段注意深く上がりながら、老人は訊いた。平日のお昼前なのに、次々と制服姿の学生達がジムへやって来るのを、不思議に思ったからだ。
「今日は卒業式でした。ようやくオレも高校を卒業したんで、会長に報告です」
「さっきも、高校生らしい女の子が来ていたが……」
「あ、ひょっとして髪が長くて、愛想のねえヤツでしたか?」
 アイツ卒業式にも出ねえで何やってんだ、と口を尖らせる彼へ、「愛想はないが、大層な美人だったよ」と、老人はやんわりいい返した。
「あー、ソレいっちゃダメですよ。アイツ、気にしてるんで」
「気にしている? 美人というのは、褒め言葉だがね」
「試合をした相手から、美人でスタイルがいいっていわれて、ブチ切れたんです。ボクシングやんのに見た目は関係ねえって、オレにまで当たるから、参っちゃいますよね」
「それは、それは……」と、彼の背中を見上げ、老人は顔をくしゃくしゃにした。「鼻っぱしが強い子のようだ」
「鼻っぱし?」と、階段を上り切った三階の廊下で、男の子が訊き返してきた。
「負けん気が強い、いう事を聞かない子のことをいう」
「ソレはちょっと違う。奈緒は人のいうことは素直に何でも聞く奴だよ。休まず高校へ通うならボクシングをやってもいいと親にいわれて、試合翌日もボロボロの体で学校へ行ったし、トレーナーや会長から指示されたトレーニングも、絶対にサボらないし」
 三階を奥へ進み、突き当たりのドアをノックしながら、「ただ……」と彼は浮かない顔をした。
「ただ?」
「ズレてんだ。色々とね」
 老人にとって興味深い話であったが、とりあえず彼女の人となりは拝見できたのだ。偶然を味方に出来たのだから、今は焦る必要など無い。興味はもはや、目の前の学生に移っていた。
 彼は扉を叩いても返事が無いことに業を煮やし、ドアノブを回した。「宮園さん、鍵もかけねえで出かけたんだ。不用心だな」部屋の中を見回し、老人を招き入れると、中央にあるソファへ座るよう勧めてくれた。
「下の、女性ばかりのクラスが終わるまで、あとどれくらいかかるかね」
「んー、あと二十分だな。十二時にオレと奈緒は、下で会長と一緒にクラスを教えているトレーナーに、食事を奢ってもらう約束してんだ」
「卒業のお祝いだね」と、老人はコートを脱ぎながら、にこやかにいった。「では、中倉君が来るまで話し相手になってもらうとするか。君とはどうも、どこかで会った気がする」
「オレ、一応はプロボクサーなんで」
「高校生でか? 四回戦(グリーンボーイ)か」
 脱いだコートを腕に抱えたまま、老人はそっとソファに腰を下ろした。
「去年、B級に昇格しました」
「それは重ねておめでとう。いつ、プロデビューしたのかね」
「一昨年の九月です」
 ほう、と老人は目尻に深くシワを刻む。
「立派なものだ」
「でも、後楽園とか、そういうトコじゃないなあ、きっと。オレも、おジイさんをどっかで見た覚えがあんだ」
 ソファに座る老人の向かいで、黒いカバンを背負ったまま男の子は両腕を組み、懸命に思いだそうとしているのか、右に左に首を捻(ひね)っていた。
 ボクシング興業の世界で自分の顔や名を知らぬ者はいないと自負しているが、それを口に出すような無粋は、老人の好むところではない。笑い出したいのをこらえつつも、この気さくで愛嬌のある若いボクサーには、確かに見覚えがあった。
「ボクシングを何年やっている。アマチュアでの試合経験もあるのか?」
 どこで会ったのか手がかりを探ろうと、老人は質問をした。
「高一からで、もうすぐ四年になります。えっと四年なのは、二年生を二回やったんで……留年っすね。アマでは県総体に一年のとき出ただけで、一戦しかやってません」
 明るく屈託のないしゃべり方をする子だった。卒業を報告に来るくらいだから、よほど会長にも可愛がられているのだろう。しかしながら如何(いか)んせん、おつむが弱い。質問に先回りして答えたつもりだろうが、老人は騙されなかった。
 ソファの上で黙ってうなずき、「名前は?」と相手を見据えた。
「春山です。春山一朗」
「そうか、春山君か……ところで春山君は、中学生の時、どこのジムで指導を受けた」
 春山少年は不意を突かれたように、押し黙った。
 恐らく軽い気持ちでアマ戦績を披露してくれたのだろうが、聞く者が聞けば、高一でボクシングを始め、いきなりその年の大会に出るのはおかしいと、すぐに気が付く。
 怪我を防ぐためにアマチュアボクシングでは大会への参加資格を定めており、一年生に関しては大会参加に必要な選手手帳を発行の際、出場資格証明書の提出を義務付けているからだ。練習期間や指導団体名等を細かに記載したうえで、満一年以上の練習経験があると認めてられなければ、大会に参加できない仕組みとなっている。
「中倉ジムではないな。私に会ったのも、恐らくそのジムだ」
 高校総体に一度出たきりでは、プロテストの際に考慮される成績ではなく、人に話す機会も無かったのだろう。中学時代にもボクシングをやっていた筈だと見破られただけで、あっけなく口をつぐんでしまう春山少年を前に、老人の胸は躍った。
(つまらない嘘で隠そうとしている、君の過去とは何だ)
 不幸なボクサーが、老人の贔屓だ。惨めな過去を振り払おうと懸命に這い上がる、満たされることがない心の餓えを己の拳で埋める、そんなボクサーだ。
 どんなに綺麗事を並べたところで、ボクシングは殴り合いだ。テンカウントが数え上げられる前に立ち上がった相手へ、さらにもう一度パンチを喰らわし、眠らせる。起き上がれば、さらにもう一度――そんなスポーツが他にあるだろうか。
 しかも狙うのは主に頭だ。頭蓋骨の中で水に浮いている脳を揺らし、毛細血管を切る。顎を砕く。眼球を奥へと押し込む。鼻を潰す。
 普通に暮らしていれば、記憶が飛び、気絶するほどの激しい衝撃を顔面に受ける経験など、一生に何度もしないものだ。それをスポーツという名の下に平然と繰り返すボクサーが、まともであってはならない。清廉潔白な人間が殴り合いをしたところで、あまりの凄惨さに尻込みしてしまうだろう。
 見応えのあるファイトだった、闘争心にあふれた素晴らしい試合だったと、口ではいうが、所詮は見世物だ。観客は激しい打ち合いを期待している。血が飛び散ると興奮し、キャンバスへ派手に選手が倒れ込めば大喜びをする。
 そこに生き甲斐を見出すボクサーを歪んでいると見なし、異常だと認識することが、老人の中では最も重要であった。非日常を演出するのが、彼の仕事だからだ。
 殺し合いも厭わない心の闇を持った者が、老人の用意する舞台には、合っている。そして、幸福への飢餓感が増せば増すほど、不幸だと思えば思うほど、闇は深まり広がるのだと彼は信じていた。
(春山君。高校に入学する前、君はどんなボクシングをしていた。なぜ今も、ボクシングを続けている)
 春山少年の返答を今か今かと心待ちにしていたが、そんな素振りを、老人は微塵も相手に悟らせなかった。じっと様子を観察し、彼が抱える闇の深さを推し量る。
「天翔(てんしょう)です」
 しばらくして、春山少年はいった。
「カッコ悪いですよね。あんな有名ジムに通ってたっつうのに、大会で全く通用しなくて、一回戦負け。だから、いいたくねえんだよな。おジイさん、まさか天翔ジムの関係者?」
 今までの沈黙が嘘のように、あっけらかんと笑う彼を見ながら、老人はほくそ笑んだ。頭に閃くものがあったからだ。
 ――宮崎一馬。
 その名を思い出し、老いぼれ頭が未だ鋭く人の暗部を嗅ぎつける能力に長けていることを、感謝せずにはいられなかった。