A SPOOKY GHOST 第二十四話 ランブルガール(3)

 奈緒の前試合から遡(さかのぼ)ること一ヶ月、ランナ・コムウットは去年の十一月に、WBAミニマム級チャンピオンとして、韓国の選手を相手に三度目の防衛を成し遂げていた。その詳細な試合内容が先月のボクシング誌で報じられ、奈緒について触れられている、ランナのインタビュー記事も同時に掲載された。
 王座統一をも狙っている彼女は、アメリカのマネージャーと契約し、ラスベガスに進出する予定なのだという。軽量級は元来、アメリカでは人気のない階級だ。ビジネスにならないと見られているが、ランナであれば客を呼べるという話だった。美貌と抜群のスタイルを誇る彼女は、意外なことにアメリカで、モデルとして知名度があるのだという。
 それだけランナは型破りなボクサーといえるが、対戦を望む相手として、奈緒の名前を挙げていた。隣国である韓国へ行き、彼女にインタビューをしたボクシング記者は、余程驚いたのか、そのことを大仰に書き立てた。
 奈緒のことを、スプーキーゴースト――不気味な幽霊と、ランナが表現したことに触れ、十二月に奈緒と戦った、前回の相手選手にまで取材をしていた。
 打っても倒れず、パンチが当たった感触さえしない相手であった奈緒は、まさに幽霊と呼ぶに相応しいと、この選手はランナの言葉に深く同意したという。
 奈緒と対戦した彼女は、いくらパンチを浴びせたところで倒れなかったことを不思議に思い、試合後、ビデオを徹底的に見直したらしい。すると、軽い連打はかろうじて当たっていたが、威力のあるパンチだけは紙一重の差で避けられ、致命打となっていなかったことに気付かされた。かつて世界戦も経験したことがある彼女の所属ジム会長は、ヘッドスリップやスウェーバックのみならず、奈緒がスリッピングアウェーも使っていると見抜き、指摘していた。スリッピングアウェーは、パンチが当たる瞬間に首を捻り、横を向くことでダメージを抑える高等技術だ。女子だけでなく、男子であっても、一歩タイミングが違えば間違いなく倒れるこの危険なディフェンスの使い手は、滅多にいない。
 記者はこの話を聞き、プロとして二戦しか経験していない奈緒の実力を未知数としながらも、ディフェンスに天賦の才があり、今後多いに注目すべき選手だと書き添えていた。
「私には霊感が無かったようです」と松永は項垂(うなだ)れていい、「スプーキーゴーストって、不気味な幽霊って意味っすよね。自分はKO負け、しかも一ラウンド一分四十二秒……悔しくて、涙が出ます。短すぎて、幽霊が見えなかったっす」と、タオルで目元を押さえた。
 松永が泣き出すのを見て、「ずっと試合がしたくて、頑張ってきたのよね。大変だったわね」と看護師は優しく彼女を慰め、ちらちら奈緒に視線を向けてくる。
「サウスポーは初めてでした」と、仕方なしに、奈緒は言葉を口にした。
「ロープ際に追い込まれて、破れかぶれに出したのが、たまたま当たっただけです」
「ズルイっすよ、遠藤さん。サウスポーは距離のあるレンジで、どちらかというと有利なんっすよ? オーソドックスとは体の角度やリズムが違うし。接近戦だと、持ち味を生かせないモンです。それでも敢えて懐に飛び込む戦法をとったのは、遠藤さんの長い右が怖かったからです」
「長い右?」
 松永は鼻を鳴らしてタオルから顔を離すと、怒ったようにいった。
「デビュー戦も二戦目も、遠藤さんはロングフックでKOを獲ったって、トレーナーからは聞いてました。あんな速い、左の連打を隠し持っていると知ってたら、ロングレンジで戦ってました」
 ムキになって続ける彼女だが、だんだんと意気消沈していく。
「まあ結局、左のダブルに続いて、フィニッシュブローは右でしたけど……」
 しゅんとしていい終え、またもや、さめざめと泣き出した。奈緒は苛立ちを紛らわそうと、ペットボトルを傾け、お茶で喉を潤した。
「綺麗な手っすね……自分なんか、ナックルがボロボロっすよ」
 顔に当てたタオルの隙間から、涙に濡れた松永の暗い瞳が、ペットボトルを持つ奈緒の手を見つめていた。
 ぐいと彼女は自らの腕を伸ばし、皮が剥けた指の付け根の出っ張りを、これ見よがしに奈緒の眼前へと突き付けてきた。
「遠藤さんは美人で、スタイルもイイ……男に間違われる自分とは、あまりにも違い過ぎるっす。神様って不公平ですよね」
 練習量だけは負けてない自信があったのに、と嘆く松永の声と重なって、ドアのノックされる音を聞いた。
「失礼します。あ、宏美! 大丈夫?」
「遅いから迎えに来たよ!」
 扉を開けて入って来た二人の女性が忙(せわ)しく会釈をしながら、診察台に座る松永の元へ、小走りに近寄って来た。
「澤田トレーナーが、高橋さんと横尾さんのドッチかを寄越すって、いってたのに」
 二人して来てくれたんですね、と泣き止んだ松永は、たちまち口元を綻ばせ、声を弾ませた。
「心配かけて、すみませんでした」
「目が真っ赤だよー。そんな風に泣かないで。勝負は時の運だから」
「ナイスファイト! 次こそ、きっと勝とうね」
「高橋さん、横尾さん、ありがとう。すっごい励まされるっす」
 あまりにも馬鹿馬鹿しい松永達の会話に呆れ果てる奈緒の前で、再びドアがノックされ、「失礼します。中倉ジムの者ですが、遠藤奈緒は……」と、ハルイチが顔をのぞかせた。
「おっせーぞっ、何やってんだ? 会長はスーツに着替えて、さっさとリングサイドへ行っちまったし、高口さんと石川さんも片付けを終えて、奈緒が戻って来んの待ってんぞ」
 怒り出す彼が、奈緒には救世主に見えた。「世界戦なのに、よく入れたね」と軽口で応じ、診察台から笑いかけた。
「バッカだな、オマエ」
 ほんのりと頬を赤らめてハルイチはいい、「チケット買ったに決まってんだろ」と、ぶっきらぼうに答えた。
「裏へは、どうやって?」
「ライセンスで入れた。それよか、さっさとしろよ。どうせ、異常ねえんだろ?」
 潮時だと見て取り、腰を上げた奈緒は、「遠藤さん!」と松永の仲間に呼び止められた。
「ウチのジムでね、再来週の日曜日、女子だけのスパーリング大会をやるの。良かったら、来ない?」
 ひらひらとしたオレンジ色のチュニックにジーンズを合わせた女性が、人懐っこい笑顔を浮かべていった。
「アッチコッチのジムから、女子ボクサーが来るよ。いい練習になると思うな」と、赤い派手なトレーナーにホットパンツという格好をした、もうひとりの女性がいい足した。
 華やいだ雰囲気の二人は、どうやら勅使河原拳闘会所属の女子ボクサーらしい。アマチュアなのかプロなのか、判断はつかないが、いかにも女性っぽい、馴れ馴れしい口調が、奈緒の癇に障った。
 気に入らなかったのは、ハルイチも同じだったらしい。「ふざけんな。プロボクサーが金も貰わねえで、大会になんか出る訳ねえだろ」と、いきなり喧嘩腰で話し始めた。
「プロなら、ジムのオーナーやマネージャーといった然るべき人間を通して、スパーを申し込んでくるもんだろうが。舐めてんじゃねえぞ」
 突っ掛かるような彼の態度に、彼女達も負けじときつくいい返してきた。
「女子はね、公認前から色々と支え合って、頑張ってきたの」
「男子と一緒にしないで。ジムは違っても、みんな仲間なんだから」
 奈緒は無言で医師と看護師に頭を下げると、ハルイチを目で促し、ドアへ向かった。
「遠藤さん。女子ボクシングの世界は狭くて、小さいっす」
 医務室を出ようとして、背中越しに松永から忠告された。
「ラウンド毎にグローブを合わせる挨拶もナシ。観客席へのお辞儀もおざなり。対戦者と試合後に拳闘を称え合うことさえしない」
 おまけに、と松永はいっそう声を高くして、いった。
「女子ボクサーをないがしろにするような、その態度は、一番いただけないっす。そんなんじゃ、みんなからソッポ向かれますよ? 女子ボクサーにはこの世界ならではの繋がりがあって、情報交換をしながら互いに励まし合っているんです。ソレを大切にするのが、普通っすよ?」
 奈緒は勢いよく踵を返し、診察台に座る、松永の前に立った。
「ナックルパートの皮が剥けて、治ってくると、そこが固くなりますよね?」
 何事かと身構える彼女を見下ろしながら、横柄に告げる。
「その固い部分が剥がれ落ちて、元の綺麗な状態に戻ります。そして、また皮が剥けて固くなり、剥がれて元に戻る。それを何度も繰り返すと、いつの間にか傷付かなくなるし、皮も剥けなくなります」
 ストレートを松永の頭上に向けて放ち、すぐさま戻した右の拳をそっと撫でながら、「松永さんは、単純に練習が足んないんです。本当に死ぬほど練習した拳は、こんな風に柔らかくて、綺麗なんだと知っておいて下さい」と、奈緒は深く一礼をした。そして無言のままドアへ向かい、「お疲れ様」という医師と看護師に見送られ、ハルイチと一緒に医務室を出た。
「ちょっとマズったかな」
 控え室へ戻る廊下の途中で、並んで歩くハルイチが後悔するように、いった。
「女相手にカッとして、オマエの立場を悪くしちまったかも」
「気にする必要ないよ。対戦相手とあんな風に和気あいあいと世間話をするほうが、どうかしてる」
「何だ? 和気あいあいとしてたのか?」
 彼は意外そうにいい、「試合前みてえな顔してたぞ。今にも殴りかかりそうな……オレ一人じゃ、ぜってえ止められないと思った」と、奈緒を斜めに見ながら笑った。
「それにしても、会長みてえなコトいってたな。あの松永って、女」
 リング上で観客にきちんと頭を下げず、相手とグローブを合わせて挨拶もしない奈緒のことを、礼儀がなっていないと中倉は怒り、義理を欠くような人間になるなと、常々いっていた。
「そういえば、会長、最近そういうこといわなくなった」
 奈緒は返事をし、目を伏せた。プロ二戦目となった昨年末の試合以来、中倉だけでなく、高口もどこかよそよそしい。
 思えばあの試合は、対戦相手を見つけるために噛ませ犬役も厭わないつもりで臨んだ、破れかぶれの一戦だった。さすがに眉を切った時はレフェリーストップがかかるのではと冷や冷やしたが、散々打たれても倒れなかったことに、奈緒自身は満足している。
 年が明けた三学期になってからは、学校の規則だからとバイト禁止をいい渡され、進路についても真面目に考えるよう、原崎から進言された。今もって就職先は決まらず宙ぶらりんな状態が続いているが、両親から貰う月々の小遣いで、ボクシングは辞めずに済んでいる。高校を卒業する三月末まではジムの月謝も免除で、ファイトマネーからは健康管理基金とマネージメント料だけが差し引かれていた。
 全ては高口が奔走してくれたお陰だと、倒れた翌日、学校に置きっぱなしだった荷物を病室まで届けてくれたハルイチから、聞かされた。
 入院先の病院で医師と細かに話をし、いったん病室を後にした高口は、仕事を理由にすぐさま病院から職場へ戻ってしまった父に会うため、会長と共に奈緒の家を訪問し、頭を下げてくれたらしい。両親とジムの間でどんな話があったのか、奈緒は全く知らされていないが、とにかく父も母もボクシングについて何一つ口を挟もうとせず、不気味な沈黙を保ち続けている。
 人の好意に無頓着な奈緒であっても、さすがに高口には礼をいい、深く感謝したつもりだった。けれども、あの入院騒ぎ以来、距離をおかれている感は否めない。
 トレーナーと選手という関係に留め、プライベートで関わりを持つことを、高口は避けているのかもしれなかった。ボクシング以外の私的な事柄について一切、話題にしようとしないし、以前ならごくまれに、ハルイチとの関係をからかわれたり、学校での様子をそれとなく聞かれたりしていたが、それさえも無くなってしまったからだ。
 奈緒にしてみれば、迷惑をかけたのだからと、納得するしかなかった。それでいて一抹の不安と寂しさを抱えたまま、彼と日々向き合っている。
 あたし、と奈緒は立ち止まり、ハルイチの目を真っ直ぐに見つめた。