A SPOOKY GHOST 第二十三話 ランブルガール(2)

 大きな音をたてて対戦者が仰向けにひっくり変えると、レフェリーが駆け寄り、二人の間に割って入った。
「コーナーへ!」
 そう奈緒に指示をし、カウントを取らないままレフェリーは腕を上げ、試合終了をジェスチャーで宣言した。すぐさまドクターとセコンドがリングへ上がり、担架も呼ばれる。
 悲鳴が上がる一方、割れるような歓声と拍手が場内を覆った。レフェリーにつかまれた右腕を高々と挙げ、奈緒は観客へ視線を向けるでも無しに、その場で頭を下げると、自分のコーナーへ戻った。
「男をも倒す左のダブルは、お前の十八番(おはこ)だな」
 リングを下り、中倉に背中を叩かれ、橋野とのスパーを思い出した。今日の試合と同じく、ボディーへの左フックと顔面への右ストレートでキャンバスに沈んだ彼は、その後間もなく中倉ジムを去った。
(ボクシング、続けてるのかな……)
 とりとめもなく橋野のことを考えていて、高口から「圧倒的だな」と声をかけられた奈緒は、小さな胸の痛みを振り切るように、無理やり笑顔を作った。
「医務室へ行くぞ」
 奈緒の肩に手を置いて高口がいい、向こう側のコーナーへ遠く視線を向けた。担架に乗せられ、急ぎ運ばれる選手が、観客の拍手を浴びている。
 奈緒は目を伏せ、床を見ながら、リングを後にした。
 観客席の裏側にある鉄の扉をくぐり抜け、薄汚い階段を下りると、狭い廊下に大勢の人が詰めかけていた。世界タイトルに挑戦する日本人選手目当ての、報道関係者らしい。
 テレビカメラもある華やいだ空気の中を、うつむき加減に通り過ぎようとする奈緒の前に、記者らしき男性が立ちはだかった。
「遠藤選手、おめでとうございます」
 取材されることに慣れていない彼女は驚き、立ち止まった。「まだ高校生なんだってね」と彼が続け、興味を掻き立てられたのか、人々が押し寄せてきた。
「へえ! こんな可愛い子がボクシング?」
「ちょっとコッチ向いて!」
 カメラを持った人間に取り囲まれ、おびただしい数のシャッターが一斉に切られる。
「ファイティングポーズお願いします!」
「もう少し前屈みになってくんないかな」
「にっこり笑って!」
 次々と注文まで突きつけられて戸惑い、高口や中倉の姿を探したが、なかなか見つからない。棒立ちのまま固まっていると、後ろで野太い怒鳴り声がした。
「ほら、通してくれ! まだ試合が控えているんだぞ!」
 リングへ向かう選手の一団が、報道陣に行く手を阻まれ、苛ついていた。記者達が一斉に道を開け、怒鳴った選手とセコンドがすれ違い様、睨み付けるように奈緒のことを一瞥していく。その隙を突いて高口が足早に近づいて来たかと思うと、奈緒の腕を強く引っ張った。
 人波をかき分け、一息吐いた時、「女が殴り合うなんて、痛々しいだけじゃねえか」という声を耳にした。
「所詮は色物だよ」
 誰のものとも分からない罵声が飛び、「すっげえ失礼だな。どこのジムの連中だ?」と奈緒が追いついた先で、石川が憤慨したようにいった。
「試合前で殺気立っているんだ。察してやれ」と、中倉がなだめ、石川は小さく舌打ちをした。
「大丈夫か?」
 高口に顔をのぞき込まれ、奈緒は「大丈夫です」と、答えた。
『痛々しい色物』といわれたところで、何とも思わなかった。
 メインイベンターの控え室と並んで、前座の試合に出る選手達が詰め込まれ各々の時間を過ごす、大部屋のような控え室がある。さらに行けばトイレとその奥にシャワーもあるが、医務室へ向かう時を除けば、後楽園ホールの裏側ともいえるこの廊下を奈緒が通ることは滅多に無かった。女性の控え室には、ホール入り口から近い、会議室のようなスペースが充てられるからだ。
 そのせいという訳ではないが、男子選手を含めたボクシング関係者の多くは、女子ボクサーがこうして廊下を歩いていても、知り合いでない限り、大概は無関心だ。その根底に、女性がボクシングをすることに対する抵抗や、ボクシングは男の世界だと決まり切ったことのように思う、考えがある。
(すべては、勝ち負けに関係のないことだ)
 微塵の動揺さえもおくびに出してはならないと、自身にいい聞かせていたその時、指が食い込むほどきつく高口に腕を握られた奈緒は、くっ、と呻いた。
「おい、高口、遠藤。どうした?」
 声をかけてきた中倉へ、「何でもありません」と返事をして、彼は腕を離した。物言わぬ高口の横顔を盗み見た奈緒は、その場で立ち止まり、強く奥歯を噛み締めた。
 行動を共にする彼も、奈緒の知らないところで、嫌な経験を繰り返していたのかもしれない。焦燥にかられ、心臓の音がどくどくと、耳にうるさかった。
「ほら、行くよ」と石川に促され、ようやく奈緒も再び歩き出す。
 非常口を出て医務室へと足を踏み入れた途端、息を呑んだ。さっきまでリングで向き合っていた選手が診察台の上に腰掛け、それこそ医務室いっぱいに響き渡る声と共に、号泣していた。
「どうも、中倉です。松永選手の具合はどうですか?」
「あ、中倉会長! ご心配をおかけしました。医務室に運ばれる途中、担架の上で目を覚ましまして、今は何とも無いようです」
 診察台の横で、松永の肩に手を置いて励ましていたトレーナーらしき男が答え、「ほら。控え室へ戻るぞ」と、泣いている彼女を立たせようとした。
「落ち着くまで、ここにいてもいいですよ。こちらで様子を見ていますから」
 医務室の看護師が優しくいい、彼は頭を撫でながら「いいですか? 僕はもう、次の試合の準備があるんで」と、ぺこぺこ頭を下げた。
「じゃあ、松永。あとで高橋か、横尾をここにやるから。しばらく休んでいろ」
 彼女にタオルを手渡し、「おめでとう。上手いボクシングだったよ」と振り向きざま目の合った奈緒に男はいい、慌ただしく医務室を出て行った。
「グローブとバンデージを取りましょうか」とハサミを手にした看護師から座るよういわれ、奈緒は医師の前に置かれた、小さい回転椅子へ腰掛けた。
「もう、大丈夫だな? 俺はあっちこっちに挨拶してこなきゃならんから。高口、石川、後を頼むぞ」
 中倉はいい、「ナイスファイト」と、奈緒の対戦相手だった松永の肩を叩いた。彼女は上げた顔をタオルで拭い、「ありがとうございました」と、しゃくり上げながら返事をしていた。
 看護師が手際よく、奈緒の腕に巻かれたテープにハサミを入れ、外したグローブを受け取った高口も、「一人で控え室へ戻れるな?」と念を押すようにいい、片付けに入る石川を連れて、医務室を出て行った。
 バンデージが全て取り払われ、血圧や脈拍が測られた。聴診器を当てられたり、問診を受けたり、一通りのチェックが為されると、「何も問題は無いようです」と、医師から告げられた。
「遠藤さんはデビュー以来、コンスタントに後楽園ホールで試合をしてるんすよね」
 異常ナシ、と医師が机に向かってカルテを記入している間、診察台に座っている松永から、話しかけられた。外観からは想像も出来ない舌っ足らずな可愛らしい声に、思わず横を向いた奈緒は、正面から彼女を見た。
「羨ましいっす。自分は今のジムに移る前、大久保ジム所属だったんすけど、デビュー戦は京都で、二戦目は福岡でした。ファイトマネーなんて雀の涙なのに、交通費ばかりかかって大変でした」
 泣き腫らした目で一生懸命語る口調に、医師も心動かされたらしい。机から顔を上げ、現在行われている試合の様子を医務室に取り付けられているモニターで確認すると、「まだ時間はあるから。ゆっくり話をしていっていいよ」と、にっこり微笑んだ。
「こっちに並んで座れば? そんなところじゃ落ち着かないでしょ」
 看護師がいい、奈緒の両肩に手を添え、診察台に座る松永の隣へと移動させた。
「もし良かったら、どうぞ」
 彼女は冷蔵庫からお茶のペットボトルまで出してきて、手渡された松永が「ありがとうございます」と横で嬉しそうにいうのを聞き、奈緒は医務室を出るに出られなくなった。手渡されたお茶を持ったまま、仕方なしといった感じで、会話に加わる。
「ところで大久保ジム、知ってますよね?」
 奈緒が首を横に振ると、松永は目を丸くして、「櫻川美波選手とか、藤山頼子選手、片岡せいら選手とかが所属する、女子ボクシングの先駆けとなったジムっすよ? かつては女子プロボクサーを集めて単独興業を打ったり、海外の団体との試合でコミッションを勤めたりもしてました。女子公認前の話っすけど」と、甲高い声を出した。
 櫻川という、女子ボクシング公認前に海外の団体で二階級制覇を成し遂げた世界王者をのぞけば、藤山も片岡も、名前を聞いたことがあるといった程度でしかない。話について行けず、奈緒は居心地の悪さを誤魔化すように、冷たいペットボトルを頬に寄せた。
「まあ、有名な女子ボクサーがたくさんいたところで、大久保は新しく入門する人が全然いないんっすけどね。女性しかいないし、女子公認後にプロボクシング協会へ加入した新参のジムだから、ボクシング界との繋がりも薄いし。JBCが女子を公認してすぐ、自分はプロライセンスを取ったんすけど、全く試合の話が来なかったんです。二戦目が終わって、あとはもう海外しかねえなあ、なんて会長がぼやくもんだから、思い切って今の勅使河原(てしがわら)拳闘会に移籍しました」
 奈緒の隣で、松永の舌はますます滑らかになっていく。
「今日、世界タイトルマッチに挑戦する津島選手とか、有名な選手がいっぱい勅使河原にはいるんで、自分も試合の機会が増えるかなあって、期待してたんですけどね……正直、アトムでも、ミニ・フライでも、ライト・フライでも、とにかくどの階級でもいいから試合がしたいって、思ってたんです」
「転級って……そんな簡単な事じゃないですよね」
 奈緒が初めて口を開き、興奮したのか、松永の頬の赤みが増した。
「女子じゃ当たり前っすよ。選手数が少ないっすから。公認前から、みんな転級を繰り返して試合してます」
 あっけらかんと松永に打ち明けられ、奈緒はペットボトルのフタを開けると、無知を恥じながら中味をグイと喉へ流し込んだ。
「B級に上がったら上がったで、公認前からプロ活動をしてきた世界ランカーばっかりです。みんなB級なんて名ばかりで、中味はA級っすよ。彼女達に勝って、国内に敵ナシとなったら、即タイトルマッチっすよ」
 松永はいい、並んで座る奈緒に、ちらりと視線を向けた。
「遠藤選手は……世界を目指してるんですよね。スポーキーゴーストとかいう、ニックネーム。先月の月刊ボクシングを自分は読んでたんで、スゴいと思いました」
「スプーキーゴーストって、どういう意味なんだい? さっき、試合前のコールでニックネームが呼ばれた時、アレ? と思ったんだけど」 
 医師が興味深そうに会話に入って来た。
 奈緒はバンデージが外された手の平を、ぼんやりと意味もなく見つめた。スプーキーゴーストという呼び名は、ランナが付けたものだった。