A SPOOKY GHOST 第二十二話 ランブルガール

 控え室を出て、歓声が聞こえる観客席の裏に来ると、華やかな照明の当たるリングは目の前だ。通路で待つ間、奈緒は右足を軽く後ろへ引き、両足の親指に体重を乗せる。しゃがんだり、立ったりを繰り返してバランスに狂いが無いことを確認し、軽く床を蹴ってジャンプすると、全身の力を抜いた。次いで顎を引き、ウィービングしながら左右の拳を突き出し、空を切る。
 今の心拍数は恐らく四十前後だ。アスリートとしてはかなり優秀な数値だと、自負している。学校で倒れた時、駆け付けた救急隊員は余りにも奈緒の脈拍が遅かったことから、不静脈の一種である除脈を疑った。傍にいたハルイチが色々と説明をし、それが普通なのだと知ると、逆に感心していたらしい。搬送先の病院でも、ボクサーを受け入れるのは初めてだからと、しつこいほど質問され、驚かれもした。
 あの時は入院しなければならない事態となったが、問題点も明らかになった。
 倒れたのは脱水症状に陥ったためで、試合前のコンディショニングに問題があった。体重を維持するため、神経質になり過ぎたのだ。食事は微量で、運動量に対して全く足りていなかった。バイトを辞めてボクシングに集中したのは良かったが、無自覚なままストレスを溜めてしまっていたらしい。試合を終えて帰宅し、家で食事をした途端、緊張からの解放もあって、一晩中嘔吐を繰り返してしまったのだ。試合での発汗、疲労による発熱も重なった。
 病院で点滴を受け、すぐに症状は改善したが、血液中の鉄分が不足しているとの指摘も受けた。生理がなくなると骨量が不足し、疲労骨折の原因になるとコミッションドクターからいわれ、治療を受けたが、月経が始まれば当然のように鉄も体内から流れ出てしまう。奈緒も留意してはいたが、食事の用意は母親に任せきりだったし、身体検査で特に異常も無かったことから、自身の貧血を疑ったことなど一度も無かった。
 幸いなことにスポーツ貧血というほど酷くはなかったが、手遅れになると治療が長引くという話だった。錠剤による摂取では無理があり、食事療法が中心となる。退院してから鉄分の多い食事を、ひたすら奈緒は心がけてきた。
 お陰で年が明けて、前の試合から二ヶ月が経った今は、体調も万全だ。前回負った眉上の傷が心配といえば心配だが、狙って打たれるほど、甘い試合にはしないつもりだ。
「奈緒。気負うんじゃないぞ」
 リングの上ではジャッジの判定が読み上げられ、勝者の名前が叫ばれている。セコンドに付く高口は、顔に塗ったワセリンの具合を確かめるように、奈緒の目の下を親指の腹で撫でながら、重々しい声を出した。
「相手選手はオマエと同じ戦績だ。二戦して、いずれもKOで勝利している。いいか、不用意なパンチを喰らうんじゃないぞ」
 会場に拍手がわき起こり、間もなく試合を終えた選手達も引き上げる頃合いだ。
「心配するな、高口」と、会長の中倉が笑顔になって、いった。
「気合い十分な、いい顔だ。女にしておくのが、もったいないな」
「会長ぉ、ウチのジムご自慢の美人女子高生をつかまえて、ソレは無いでしょう」
 なあ、とおどけた口調で、今日やはり奈緒のセコンドに付く、中倉ジムトレーナーの石川がいい、高口もようやく笑顔になった。
「羊の皮を被ったオオカミ、といったところか」
 久しく聞くことのなかった明るい声で、彼が冗談をいい、奈緒は安堵の笑みを口元に浮かべた。
「今日はメインが世界戦だけあって、客の入りもいい」と、会場をのぞき見て、中倉は盛んにうなずいていた。
 無敗を誇るWBAスーパー・バンタム級七位の日本人選手が、フィリピンから来日している世界チャンピオンに挑戦する注目のカードが、後に控えている。まだ三試合目だというのに、後楽園ホールは早くも観客席が埋まりつつあった。
「オマエの力を見せつけてやれ」
 中倉から音がするほど派手に背中を叩かれ、奈緒はよろけつつも、首を縦に振った。
 前の試合が終了し、青コーナーにいた選手が花道を引き返して来た。今日がプロデビュー戦だった彼は判定勝ちを収め、セコンド陣を含めた皆が、得意満面の笑顔だ。
「よし、行くぞ!」
 縁起の良い光景を見送り、中倉のかけ声を聞くと、裏の通路から後楽園ホールのまばゆい照明の下に出た。観客席の間を通って、派手な音楽が鳴り響く中、奈緒はリングへ向かう。
 階段を上がり、先を行った中倉が腰掛け、押し広げたロープの間から中へ入り、キャンバスの上に立った。
(やっと、戻って来た)
 青コーナーだが、対戦者が黒を身に着けるというので、赤のトランクスとリングシューズに、白いタンクトップを合わせた、シンプルな出立ちで試合に挑む。
 ただいま、と口の中で呟いた。
 ――変わりまして、女子ミニ・フライ級四回戦を行います。
 リングアナウンサーが滔々(とうとう)と語る間、彼女は後ろで束ねた黒髪を揺らし、黙々と体を動かした。
 最初に赤コーナー側の選手がコールされ、「ヒロミチャーン、ファイトー!」、「マツナガ、ガンバレー!」と、次から次へと声援が飛ぶ。
(松永……宏美って、いったっけ)
 観客席に手を振って応える対戦相手をちらりと横目に見たが、すぐまたキャンバスに視線を戻した。青コーナーがコールされる番となり、奈緒はロープをつかみ、足を曲げ伸ばししながら、無表情にコールを聞く。
 ――青コーナー、二戦全勝、全てがノックアウト。百四パウンド、中倉ジム所属。
 ここまではごく普通だったが、『スプーキーゴースト、エンドー、ナオーッ』と、ニックネームを添えて名前が呼ばれると、観衆がどよめいた。四回戦の選手には極めて異例なことで、会場のざわめきが収まらない中、奈緒は歩き出す。
 壁に自分の名前が入った横断幕はなく、チケットをさばくことにも、応援してもらうことにも興味のない奈緒は、観客席で声援を送ってくれる友人や家族がいない。無言のまま眉ひとつ動かさず、リングの中央へ赴き、リングアナと入れ替わりにキャンバスに立ったレフェリーから、反則についての説明を受けた。
 向かい合って立つ対戦者は、短い髪を金色に染めていて、どっしりとした体格だ。厚い筋肉の鎧をまとっているかのようで、背の高い奈緒のことを、仰ぐように睨み付けてくる。
(警戒……されてるかな)
 階級に合わせて体重を低く抑えている奈緒は、一見ひょろひょろとして手足が長く、首も細い。今までの相手は実際に試合が始まるまで、大したことは無いと、そんな彼女を見下していた節がある。けれども今日の相手は、そう簡単に騙されてはくれないようだ。
(あの記事のせいだ、きっと)
 対戦者とただ目を合わせていただけの奈緒は、ひしひしと伝わってくる相手方の緊張に、嫌気が差した。レフェリーの説明を聞き終え、相手選手と浅くグローブを合わせるや否や、早々とコーナーへ引き上げる。
「ニックネームで呼ばれると、大物のような気分になるだろ」
 中倉は我が意を得たりとばかりに、マウスピースを勢い良く奈緒の口に放り込んだ。
「しっかり名前を売ってやる。世界を目指すなら、そこまで派手にやらなきゃな」
「開場前に、リングアナと打ち合わせたんだよ」と、石川トレーナーがロープの外側で種明かしをし、隣で高口も苦々しく笑っている。奈緒は何も返事をしないまま、首を回し、小刻みに体を揺らした。
 双方のセコンドがロープの外に出て、ゴングが鳴ると、リングを下りる。レフェリーの「ボックス!」と打ち合いを促す合図が、試合の始まりだ。
 一ラウンド目はグローブを合わせて挨拶をする者もいるが、奈緒はガードを固め、大きく相手の右側へ回る。
 先に仕掛けたのは、対戦者だった。距離を測るように、早い右を突き出しながら近付き、左を思い切り奈緒の眼前へ打ち込んでくる。
(サウスポーだ)
 バックステップを踏みながら、グローブでパンチを受け止めた。右の連打を受け続け、奈緒は左へ逃げようとしたが、すかさず右フックが飛んでくる。咄嗟にストレートで応じたが、それも左フックでカウンターを取られそうになり、思わず後ずさった。
 相手選手は奈緒の肩の動きに合わせ、細かに上体を揺らしていた。目も良いらしく、出したパンチに、ことごとくカンターが合わせられる。互いに決定打は無かったが、サウスポー相手に距離感がつかめない奈緒は、確実にロープ際へ追い詰められていく。
 低い姿勢を保ち、ウィービングをしながら、うるさいくらいに上下左右のパンチが放たれた。奈緒とのリーチ差を踏まえ、接近戦に持ち込むつもりらしい。
(こっちには好都合)
 いっそのこと、短い距離で打ち合った方が変に惑わされないで済むと、奈緒は腹を括った。相手選手のリズムを読み、抑えていたスピードを一気に解放した。
 ロープを背にしたまま、右の打ち終わりを狙い、左のショートフックを側頭部めがけて振り下ろす。相手がガードを上げるのを見て取ると、素早く引いた左腕の勢いを利用して腰を捻り、振り子のように外側からフックを、勢い良く腹へめり込ませた。
(痛いよね。わかるよ)
 ボディーにパンチが入ると、呼吸ができなくなり、のたうち回りたくなるような激しい痛みを伴う。
(楽にしてあげる)
 膝を折って前のめりになる相手選手の顔面を、奈緒の右ストレートが、打ち抜いた。