A SPOOKY GHOST 第二十一話 モンスターファミリー(3)

 待合室を出て、三人は病院の廊下を進んだ。エレベーターに乗り三階で降りると、ナースステーションの中から、事務員らしき制服を着た女性に、引き留められた。
「面会は午後三時からで、今は病室に入れません」
「中倉ジムの高口という者です。遠藤奈緒が救急車でこちらに運び込まれたと聞き、急ぎやって来ました。うちの選手が、このたびはお世話になっております」
 トレーナーらしく流ちょうに答え、原崎からの伝言をエレベーターの中でハルイチから伝え聞いていた高口は、すかさずいった。
「彼女は当ジムに所属しているプロボクサーなので、試合後の様子が見たいのと、詳しい検査結果をお聞かせいただきたいんですが」
 先生とお話は出来ますでしょうか、と穏やかに尋ねたのが、かなり好印象だったらしい。女性は愛想良く椅子から立ち上がり、「少々お待ちください」と直ちに受話器を取った。
「担当の医師は外来で診察中だそうです。あと一時間ほどしたら、遠藤さんの病室へお伺いできると申しておりますが」
 どこかに問い合わせているのか、受話器を持ったままの彼女がいい、「かまいません。お願いします」と高口もうなずいた。
「遠藤さんの病室ですが、右手の通路を真っ直ぐ進んだ突き当たりの、五号室です」
 電話を切った女性に教えられ、高口や川上と一緒に病室へ向かいながら、「奈緒の父親は」とハルイチは切り出した。
「ボクシングをやめろって、奈緒にいうかもしんないです。進路も決まってねえし、ボクシングじゃ喰ってけないって、かなり怒ってたから」
「試合があることさえ知らされなかったんだろ? おまけに女だからな。親が賛成する筈もねえよ」と、川上が憮然としていい、ハルイチは首を捻った。
「でも、おかしいんだ。母親は、ボクシングなら稼げるみたいなこといってたんだ。前の試合でも三十万、奈緒から受け取ったって」
「三十万?」と川上は目を?き、「三万の間違いだろ? ファイトマネーにしちゃ桁が違うぞ、桁が」と足を止めた。
「いや、ホントだって。オレもすっげえ驚いて、聞き間違いじゃねえかって思ったんだから」
「本当だとしてよ、高校生に三十万は大金だ。そんな金をどうやって用意した? 何で家族に渡す必要があった?」
「オレの予想なんですけど」と前置きをしたうえで、奈緒の妹が北章学園というお金のかかる学校へ通っていることを、ハルイチは打ち明けた。
「ファイトマネーってことにして、家を助けたんじゃねえかな。結構なバイト入れてたし、三十万なら何とか用意できたのかもしんない」
 そういってハルイチが視線をやった先で、高口は羽織っているジャケットの下でジーンズの両ポケットに親指をかけたまま、不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「でも納得いかねえのが、両親も妹も、当たり前のように普通の生活してんだ。キレイな服を着て、高いバッグをひっかけて、ぴかぴかの靴を履いて……」
 押し黙ったままの高口へ、ハルイチは噛み付くようにいった。
「このままじゃ、ランナ・コムウット以上の怪物に、奈緒が呑み込まれちまう。ボクシングどころじゃねえよ」
 不快そうに高口が顔を背けて歩き出し、ハルイチも追おうとしたが、そっと川上に腕を掴まれた。
「ハルイチ、落ち着け」
「……奈緒は倒れるし、川上さんはいきなり現れるし」
 昨日の試合にしたって、とハルイチはムキになって、いい返した。
「あんなの奈緒らしくねえよ。ガードを下げて、打たれまくったんだ」
「ふん。俺にいわせれば、すごく彼奴(あいつ)らしかった。高口さんがいうには、イカれてるんだとさ」
 イカれてる? と驚き、繰り返すハルイチから離れ、川上は歩き出した。
「ひょっとして川上さん、昨日ホールに来てたんですか?」
「まあな」と振り返り、川上は肩越しに返事を寄越した。
「お陰で幽霊に取り憑かれちまって、こんな所までふらふらと来ちまった」
 ハルイチの脳裏に、すぐさま浮かび上がる光景があった。
 賑やかな音楽が流れる店内で、食事をしながら盛り上がる大勢の客達とは正反対に、激しい雨が叩き付ける暗い夜、窓際のテーブルにいた三人は黙りこくっていた。
 ―――幽霊のような、奈緒。
 奈緒の強さを揶揄して、川上のいい出したことだ。世界だって目指せると、あの時に皆で語り合っていた筈が、今では彼女のことを高口はイカれているといい、川上は奈緒に取り憑かれたとまでいう。
(アイツの、気持ち悪い強さに変わりはねえってことか?)
 ハルイチの混乱する心を見抜いたのか、「びびってんじゃねえ」と、川上は大胆不敵な笑みを浮かべた。
「怪物とご対面だ」
 肩をいからせて川上が先を行き、ハルイチも一歩遅れて病室に入った。
「無責任なこと、いわないで!」
 途端に、ヒステリックな女性の叫び声を聞いた。
「おしっこがピンク色なのは、出血しているということなんでしょう? それを、何も問題が無いなんて……信じられないわ!」
 ベッドの横につり下げられているビニールの容器を見ながら、奈緒の母親が高口に詰め寄っていた。容器の中身である、うっすらと色のついた液体には、ハルイチも見覚えがある。安静が必要な患者に入れられるカテーテルを通して、膀胱から直接採取された尿だ。
「パンチの衝撃で腎臓に傷が付くのは、珍しくないんです。もちろん濃い赤色でしたら良くありませんが、この程度の色でしたら、あと半日ほどで自然と良くなり、消えてなくなります。私は医者ではないんで、断言はできませんが……」
 反論するでもなく淡々と意見を述べる高口へ、さらに母親は突っ掛かり、「腎臓ですってっ? 冗談じゃないわ!」と、逆上していた。
「検査に異常がなかったなんて、何かの見落としかもしれないじゃない。もしも障害が残るようなことがあったら、きっちり賠償請求させて頂きますからね!」
「まあ、まあ。あと少ししたら、医師も来られるという話ですから。その時に詳しい話を聞きましょう」
 ここでも原崎はなだめ役に回っていて、どういう訳か、父親の姿はどこにも見当たらない。
「今ここで高口さんに文句をいったところで、始まりませんよ」
 教え諭すかのように原崎がいい、母親もさすがに口を閉じた。ベッド脇でつまらなさそうに椅子へ腰掛けている奈緒の妹に近付き、納得のいかない顔つきのまま、横たわる娘の姿を見下ろす。
 高口と原崎が病室の隅で雑談を始め、川上とハルイチの二人は妹と母親に軽く会釈をして、ベッドを挟んだ反対側の枕元に立った。
 騒ぎを余所に、奈緒は静かな寝息を立てている。試合後に医務室で縫合された右眉の上には白いガーゼが被せられ、顔中に湿布が貼られていたが、腫れはだいぶ治まり、アザも予想していたほど酷くは無いように思えた。
「呑気なもんだ」
 川上が舌打ちをし、母親に睨み付けられた。
「どうして朝一番に、病院へ行かなかったんだよ」
 独り言のように呟いたハルイチの言葉に、奈緒がゆるゆるとまぶたを開け、ベッドを囲んでいた皆も身を乗り出した。
 続いて彼女は唇をゆっくりと動かし、掠れた声を出したが聞き取れず、ハルイチは慌てて口元に耳を寄せた。
 ―――診察代、払えないから。
 ハルイチの背中に、嫌な汗が流れた。ランナ・コムウットという世界王者を果敢に追いかける奈緒の、あまりにも現実を顧みない危うさが、狂気の狭間に浮かんで見える。
 そんなんでオマエ、とハルイチは心の中で彼女に問いかけた。
(どうやって、ボクシングを続ける気だよ……)
 窓の外はいつしか雪もやみ、顔をのぞかせた太陽が眩しいほどの光を放っている。しかし、明るすぎる冬の日差しとて、惨めなボクサーのまわりに立ちこめる暗雲を、簡単には取り払えそうになかった。