A SPOOKY GHOST 第十八話 冷たい現実(2)

 駐車場を出る時にタイヤがわずかに滑り、スピードを抑えながら、注意深く駅前の大通りへ出る。
 路面の白い雪は醜いぬかるみとなり、通りには車が列を成していた。信号が変わってもなかなか前へ進めないことに苛立ち、高口は逸る気持ちを抑えようと、携帯を手にした。
『もしもし。高口さん?』
 病院では電源を切っているだろうと予想していたが、難なくハルイチが電話に出たことで、小さく息を吐(つ)いた。
「今、どこにいるんだ? まだ病院か?」
『あ、はい。救急外来の待合室にいるんですけど』
「こんな雪の日に大変だったな。学校の方は大丈夫なのか」
『大丈夫です。横に原センもいるし』
「そうか。悪いが、奈緒に何があったのか、詳しい経緯を教えてもらえないか? 病院へ着くまで、まだまだ時間がかかりそうだから、今のうちに知っておきたいんだ」
 助手席では川上が、携帯を持つ手元に、じっと目を凝らしている。高口は安心させるように、彼へうなずいてみせた。
『ええと……今日の朝、何時頃かな。担任が教室へ来て、電車が止まってっから、終業式は予定を繰り下げて十時からになるって話をして……』
「そういえば、今日で二学期も終わりだといっていたな。それにしたって奈緒は、どういうつもりで学校へなんか、行ったんだ?」
 三年生はほぼ進路が決まっている時期だ。ハルイチのように二年生を繰り返した問題児を除けば、試合翌日である今日、わざわざ学校へ行く必要など無かった筈である。
 就職先が定まらず、卒業後の進路についても曖昧なままの奈緒だが、終業式云々とは全く関係の無いことで、病院へ行かなかった理由にはなり得ない。
『オレにも分からないんですけど。派手な女子の悲鳴が隣の教室から聞こえてきたかと思うと、あっという間に騒ぎになっちまって。何だろうなって、脳天気にクラスのヤツと話してたんだけど……原センが血相変えてウチのクラスに飛び込んで来て、オレを連れてくもんだから……すげえビックリしました』
 三年生になり、ハルイチと奈緒はクラスが別々になっていたが、同じボクシングジムに所属する選手ということで、すぐさま呼ばれたのだろう。
「その時、意識はあったのか?」と、どこか歯切れの悪い彼の話を聞きながら、高口は乱暴に携帯を反対の手へと持ち替えた。
『ありました。養護の先生が後から駆けつけて……ほら、あの顔だから。あっという間に救急車が呼ばれて』
「オマエは救急車に同乗したのか?」
『いえ。奈緒のクラスの担任が乗ったから。オレは原センに連れられて、車で病院に……』
 そうか、と意識があったことに、ひとまず安堵した高口は、次いでハルイチの奥歯に物が挟まったような話し方が気になった。
「ハルイチ。原崎先生以外に今、誰かそばにいるのか?」
 しばしの沈黙があったのち、『マズイですよ、高口さん』と、耳打ちするような小声がした。
『実は、奈緒の父親が来てるんですけど……オレ、ちょっとココに居たくないです』
「わかった。医者以外から何か聞かれても、オマエはもう答えなくていい。もうすぐ中倉ジムの、奈緒を担当しているトレーナーが来るからと、それだけ告げてくれ」
『わかりました。待ってます』と電話が切れ、耳から離した携帯を高口は見つめた。
「高口さん」
 川上に呼ばれ顔を上げると、前の車がはるか先を行っていた。降り止まない雪の中でサイドブレーキを外し、アクセルを踏む。
「奈緒が橋野とスパーをした時の事なんですけど」
 助手席の川上が唐突にしゃべり出した。
「ハルイチがいってたじゃないですか。何とかカフが、どうのこうのって」
「ああ。ローテーターカフのことか。そんな事をいっていたな、確か」
 薄ぼんやりとか記憶していない、一年以上も前のことが話題に上がり、何事かと高口は川上に視線を走らせた。
「あれって、奈緒の受け売りだったらしいです。ハルイチがやたらに専門用語みてえなのを知ってたんで、どこで覚えたんだって聞いたことがあったんですけど、みんな奈緒から教えてもらったっていってました」
 奈緒は、と怪訝に思いながらも、高口は返事をした。
「とにかく何でも調べて、知識を溜め込む珍しいタイプだ。アイツなりに考えてやっていることで、特にオレ達が口出しするような事じゃない」
「まあ、そうなんですけど……ちょっと危ねえ感じはしました。頭でっかちになっちまうんじゃねえかって。でも、大したもんだと思います。どんなに激しいトレーニングをしても、奈緒は怪我したり、体を壊したりしなかったし」
 川上は反対に、故障続きだった。膝を、指を、拳を痛めるというのは日常茶飯事で、対処法も細かに指示してきたが、試合を重ねるごとにハムストリングスの肉離れといった危機的なダメージを負い、それでも何とか治して試合に挑むという、綱渡りの状態が続いていた。
 そんな状況下で、七月に彼は三度目の防衛戦を行った。ダイレクトリマッチとなる前回の防衛戦を戦った一位の選手が相手で、厳しい試合になると川上のみならず、高口も覚悟していた。
 見応えあるダウンの応酬となったが、七ラウンドが終了した時点で、川上が優勢だと大方が予想していた。しかし、迎えた八ラウンドで川上は全く右を出さなくなっていた。守勢にまわり、終始パンチを受け続け、終には倒れた。
 試合が終わり、グローブをとった川上の右拳は酷い状態だった。ただちに病院へ運ばれ、手術が為されたが、診断は粉砕骨折だった。ボクシングをするどころか、日常生活にも支障をきたすような致命傷だ。
 幸いにも経過は良好で、固定を外してからのリハビリも順調だったが、手が動くようになったというだけのことだった。仕事には戻れても、日本王座陥落から半年が経った今でさえ、ボクシングに復帰できるかどうかは、目処が立たずにいる。
「俺、すげえなって、ずっと感心してました。奈緒みてえにしっかりしてりゃ、こんな怪我しなくて済んだかも、と思ったんです。でも、昨日の試合を見て、ちょっと違うと思った。ひょっとしたら、アイツ……」
 川上がそこで話を止め、病院へ向かう途中、高口は逆に訊(たず)ねた。
「川上。奈緒の中学時代の話を聞いたことがあるか?」
 黙って川上が首を振るのを横目に、「実をいうとオレも、奈緒から打ち明けられたことはない。ハルイチから断片的に伝え聞いただけだ」と、続けた。
「ハルイチの中学時代の後輩で、立川というヤツがいるらしい。二年生の時に同じクラスだったらしいが、奈緒と同じ筑紫ヶ丘中出身の知り合いがいて、ハルイチはソイツを通して、奈緒のことを聞いたというんだ」
 良くないですね、と隣で川上は苦笑していた。
「誰にでも、触れられたくねえ過去はあると思いますよ」
「そうだな。でも、ちょっと気になる話ではあった。奈緒は中学生の時も、やはり静かで目立たない生徒だったらしいが、変な噂もあったんだ」
「噂? 何ですか?」
「中二の一学期に担任の教師と喧嘩をして、大怪我を負わせたらしい」
「はあ? 馬鹿いわないで下さい」
 高校二年生の時、因縁をつけられたと大人五人を相手に殴り合いとなり、学校を退学させられた川上には思い当たるところがあるのだろう。強い口調でいい返してきた。
「そんなの本当だったら、噂どころじゃねえと思います」
「奈緒の両親が何度も学校へ足を運び、話し合いを重ねているのを、たまたま見かけた生徒がいい出したことらしいが、実際のところは本当なのか、嘘なのか、ハッキリしていない」
 だったら、と不満げにいう川上を押しとどめ、「そこが変なんだ」と高口は呟いた。
「学校と両親が揉めたのは、事実だろうが、奈緒は頑なに口をつぐんで、その件に関しては一切、人に話をしなかったそうだ。学校側も全ては噂だけのことだったと、片付けている」
「喧嘩じゃなかったとしても、表沙汰に出来ない、何かがあったって事ですか?」
 恐らくな、と高口が相槌を打ち、川上は深くため息を吐いた。
「部活に励み、陸上の大会で入賞までしたような生徒だ。一見、何も問題はなさそうに感じる。けれども、奈緒は学校も休みがちで、友人もいない、孤独な中学生活を送っていた」
「人見知りが激しくて内気な奴は、どこの学校にもいるもんです」川上は話に割って入り、「それを問題にしたら、其奴(そいつ)が可哀相だ」といった。
「ところが、問題にした人間もいたんだよ。ご丁寧に授業を中断して、奈緒のことをクラスで話し合わせたっていう教師がな。さっきいった、担任さ」
「本当ですか?」
 唖然とする川上に、運転をしながら、高口は説明を続けた。
「奈緒が学校へ来ないのは、みんなが仲良くしようとしないからだと、大演説を打ったそうだ。そして、彼女と打ち解けるにはどうしたらいいか、クラスの全員から意見を募ったというんだから、恐ろしいよ」
 口を開きかける川上を制し、「それから幾日もしない内に、奈緒のクラスは担任が替わり、変な噂が流れるようになったんだ」といい終え、初めてその話をハルイチから聞かされた時のように、高口は押し黙った。
 渋滞していた通りを抜け、白い風景が窓の外を流れていく。暖房が効いて暖かくなったものの、ぎこちない雰囲気の車内で、川上はためらいがちに訊いてきた。
「その……担任だったっていう先公は、やっぱ怪我してたんですか?」
「それが分からないんだ。病気になったという理由で突如として学校を去り、戻って来なかったというんだから」
 腕を組んで助手席に深く身を沈めていた川上は、「うーん」と、低く唸り声を上げた。
「昨日の試合を見て、違うと思ったオマエの勘は当たっている。奈緒はしっかりしているんじゃない」
 ワイパーが掻き落とす雪の間から、病院の建物が見えた。高口は話をしつつ、ゆっくりと駐車場に車を入れ、エンジンを止めた。
「毎朝顔を合わせていただけの橋野に憧れて、ボクシングまで始めた。ランナ・コムウットにしても同じだ。待っているといわれただけで、必死になって追いかける。相手は世界王者だぞ? 一途で可愛いもんだと思っていたが……」
 ハンドルに手を置いたまま、高口はフロントガラスを見つめ、半ば独り言のように呟いた。
「あまりにもひたむきで、のめり込み方が異常だ。半分イカれているといってもいい。中学生の時に何があったか知らないが、奈緒は何か大きな闇を抱えたまま、ボクシングをしている」
 そこまで分かっていて、と不快そうに川上はいった。
「高口さんは、どうするつもりですか?」
 質問に答えることなく、ドアを開けて、外に出た。「川上」と、向かいでやはり車を降り、雪を浴びる彼へ、「オマエ、ボクシングをやめるのか?」と、ボンネット越しに問いかけた。
 わずかに首を傾げ、うなずいたようにも見えたが、はっきりとした返事は無かった。
 高口はドアをロックすると、そびえ立つ病棟へ向かい、歩き出した。足下からは雪の鳴る音がし、凍えるような寒さが体の感覚を奪っていく。
「奈緒の奴、無事だといいですね」と、並んで歩く川上がいった。
「ボクシングが出来なくなったら、終わりです」
 何もかも、と彼の空虚な声が、白い息と共に吐き出され、舞い散る雪と混じり合う。
 かけるべき言葉を見つけられないまま、高口は建物に足を踏み入れ、奈緒が運び込まれたという救急外来を探した。