A SPOOKY GHOST 第十七話 冷たい現実

 ひらひらと雪が舞う。美しい光景ではあったが、高口は重い足取りでビルの階段を上がった。
 ここ一年近くの間お馴染みだった、階段脇の手すりに取り付けられている物干し竿に朝一番で洗われたバンテージや雑巾、タオルなどがぶら下がっている光景も、ここしばらくはお預けとなりそうだ。
 裏口の鍵を開けてジムに入ると、冷え切った空気が暗い室内から流れてきて、軽く体を震わせた。
 電気を点けて暖房を入れた彼は、静かな練習場を横切り三階へ上がった。事務室へ入り、木目調のスチールデスクの上に背負っていたバックパックを下ろし、ジャケットも脱がないまま、中から携帯電話を取り出す。
(出ないか……)
 かけたのは奈緒の家だったが、いくら鳴らしたところで、誰も出る様子はなかった。携帯をデスクに置き、ジャケットを脱いで事務室の隅にあるラックへかけていると、ドアが開いた。
「おはよう。随分と早いな」
 会長の中倉が現れ、高口も「おはようございます」と返した。
「会長こそ、早いじゃないですか。今日は午前中のフィットネスボクシングのクラスもお休みだし、この雪ですよ。午後になったって、恐らく練習生はほとんど来ないんじゃないですか」
「電車のダイヤも乱れているんだってなあ」
「昨夜は確かにひどく冷えましたからね。でも、こんな雪になるとは思いませんでした」
 中倉は薄く雪が残る上着を脱ごうともせず、疲れ切った様子で、部屋の真ん中に設えたソファにどっかと腰を下ろした。
「大丈夫ですか?」
「お前こそ、大丈夫なのか?」
 中倉に訊き返され、高口は取り繕うように笑顔を作った。
「ええ。ちょっと奈緒のことが心配で早く顔を出したんですが……」
「アイツも頑張った。デビュー戦を勝利で飾って以来、一年以上も試合が決まらなくて、つらい思いをさせたのは事実だからな」
 ため息混じりに呟く中倉を見ながら、ただ曖昧に高口はうなずくしかなかった。
 彼女がプロテストに合格し、初めて試合に挑んだのは去年の十一月のことだった。一ラウンド三十二秒でケリを付けるという、圧倒的なKO勝ちだった。しかも、奈緒に顎を砕かれた相手選手は、その試合で脆くも引退してしまった。
 鮮烈なデビューだったが、あらゆるジムが彼女を敬遠し、試合の申し込みも全て断ってくる、皮肉な事態を巻き起こした。手塩にかけて育てた選手をハードパンチャーと思わしき相手と戦わせる指導者などいないのが、当たり前だからだ。それほど、初めて上がるプロのリングで浴びるパンチの洗礼は、選手の将来を左右しかねないほどの影響力がある。
 試合経験が浅い、もしくはゼロの選手が集う四回戦で、奈緒は避けられて当然の選手となってしまったのだ。
「高口も朝早くから春山と遠藤に付き合って、この一年近くの間、良くやってくれた。お陰で春山は新人王トーナメントで決勝まで進む、大健闘だったからな」
 中倉に悪意がないのはわかっていたが、高口は臍をかむ思いだった。
 奈緒のプロデビューが決まり、高口は会長の許可を得て早朝トレーニングを始めた。ジムからほど近い市民グラウンドで走り込みを行い、ジムワークも行うという濃い内容で、いつしかハルイチも合流し、ジムで制服に着替え、元気に高校へと通う二人を、高口は毎日のように見送っていた。
 奈緒は女の子らしく登校前にジムで洗濯までし、学校から戻って来て再びトレーニングに没頭すると、帰る時は洗濯物を取り込み、ジムの掃除までこなしていた。まさにボクシング漬けと呼ぶにふさわしい毎日を過ごしていたが、日を置かずして次々と試合が決まり、東日本新人王まであと一歩と迫ったうえ、すでにプロとして五勝も上げているハルイチとは対照的な立場だった。
「それにしても……さすがに、昨夜の試合には驚かされた」
 そういったきり口をつぐんだ中倉を前にし、高口も返す言葉が見つからなかった。
 奈緒のプロ二戦目が決まったのは、ハルイチが十一月に東日本新人王トーナメント・ライトフライ級決勝戦で惜しくも判定負けを喫した日から一ヶ月が経った、十二月初めのことだった。
 予定していた対戦相手が怪我のため出場できなくなり、その代役を探していたプロ六戦目だという選手から急遽、試合の申し入れがあったのだ。三勝二敗と、B級へ上がりたくとも足踏み状態だったその選手は、ただでさえ選手数が少ない女子ボクシング界にあって、相手を選ぶという贅沢はいっていられないと判断したようだった。
 前回の試合から一年を過ぎてしまった奈緒にすれば、願ったり叶ったりの申し出だったが、試合日まで三週間を切っていた。そんな中を彼女は黙々と調整を行い、まるでベテランのような風格さえも漂わせながら、念願の試合を昨夜、後楽園ホールで迎えたのだった。
「アイツも……自分が置かれた立場を良く理解していたんでしょう。必死だったんだと思います」
「そういってしまうと簡単だけれどな、なかなかやれることじゃない。ボクサーっていうのは、練習した以外のことなんて、そうそう出来やしないんだから。逆をいえば、繰り返し繰り返し体に動きを覚え込ませて、無意識のうちに練習通りのことをするようになるんだ。それをだよ、意志の力で押さえ込んで、覚えたこととは全く違う動きをするなんて……信じられないよ。ましてや打たれたらどれだけ痛くて苦しいか、嫌というくらい知っているはずだぞ」
 中倉のいわんとするところがよく分かり、向かいに腰を下ろした高口までもが、ため息を吐いた。
 最初のラウンドで手数が少ないとレフェリーから注意を受ける場面まであったほど、まるで打たれることを目的としているかのような試合だった。
 いつレフェリーストップがかかってもおかしくないようなワンサイドゲームでありながら、高度なディフェンスを身上とする奈緒の真の姿を知っている中倉と高口だけは、彼女が万事要所を押さえていることに気付いていた。連打に晒されたロープ際からは見事に体を入れ替え、強烈なフックを相手のボディーへと決めていたし、パンチを受け続けて顔を腫らしても、決して倒れなかったからだ。
 ポイントで対戦者が圧倒的有利だった最終ラウンドともなると、フックをテンプルへ打ち込み、あっけなくダウンを奪った。結局これでレフェリーが試合を止め、奈緒のTKO勝ちとなった。
 第一試合だったせいもあり、閑散としていた後楽園ホールだったが、思いもよらぬ逆転劇に観客は大喜びだった。しかし、負けた選手からすると、何が何だかわからなかったのだろう。
 試合後もぼんやりとしていて観客へなかなか挨拶をせず、セコンドにいわれてようやく敵陣営である奈緒のコーナーへやって来て、頭を下げた。
 ナイスファイト、と会長がタオルで汗を拭いてやったが、その顔は綺麗なままで、眉の横から血を流し、瞼も含めて顔中腫れ上がった奈緒の方がよっぽど敗者にふさわしかった。
「これで誰もが、奈緒はデビュー戦も昨夜の試合も、ラッキーパンチで勝ったと思ってくれるんでしょうか」
「あんなのを演技だと思う方が、どうかしている」
 俺等も含めてな、と低く中倉が唸り、高口は手のひらで口を覆った。
 雪が降っているせいもあるのか、たちまち無音となった部屋で突然、ジムの電話が鳴った。中倉は飛び跳ねるように立ち上がり、自身のデスクへ腕を伸ばすと、受話器を取った。
「はい、中倉ジムです。原崎先生? 随分とご無沙汰しています。えっ! ウチの遠藤が教室で倒れて、救急車で運ばれたっ?」
 中倉が振り返り、高口も慌ててソファを離れた。
「はい……はい。それで今は……そうですか。わかりました。私共もすぐに向かいます」
 身を乗り出すようにデスクへ両手を突き、急いでメモ帳に何かを書き付ける中倉の手元をじっと見つめた。
 ――山口総合病院。
 殴り書きされた文字を読み取るや否や、高口はデスクの上に置きっぱなしだった携帯を奪い取るように持ち、ラックにかかったジャケットをひったくると、ドアへ向かった。
「待て、高口! オレも行く!」
 受話器を置いた会長へ「いや、誰かジムにいた方がいいと思います。奈緒のご家族から連絡があるかもしれないし」と、高口は返事をし、携帯を掲げてみせた。
「病院に着いたら、すぐさま電話します」
「学校の方で遠藤の自宅へ電話をしたそうだが、留守だそうだ。ただ職場にいる父親とは連絡がとれたらしい。恐らく病院へ向かっているだろうが……一体どういうことだ! あれだけの怪我をしている娘を、親は平気で学校へ行かせたのかっ? 遠藤にも朝一番で病院へ行けといったはずだぞ!」
 怒りに任せた激しい口ぶりだった。ジムでは試合後の選手について、常に万全の注意を払っている。ドクターチェックで異常が無くとも、家族と暮らしていない者については会長が自宅に泊め、決して一人にさせなかった。
 必要であれば翌朝に病院へ付き添い、検査を受けさせることも怠らなかったが、奈緒については未成年のうえに女の子だ。両親が放っておかないだろうと、中倉だけでなく、高口も勝手に思い込んでいた。
「チクショウ」
 汚い言葉を浴びせた相手は、会長である中倉自身であったのかもしれない。
「今はまだ診察中で、結果は出ていないそうだ。試合の様子を知っている人間が居た方がいいと、春山も病院にいるらしい。とにかくどんな様子か、すぐに連絡をくれ!」
 中倉の声を背中越しに聞きながら、派手に音をたててドアを開けた高口は、駆け足で階段を下りた。裏口からビルの外に出ると、雪はさらに勢いを増していた。
(誰だ?)
 駐車場へ行き、行き違いにビルの裏階段を上がって行こうとする人影を見つけ、立ち止まった。
「……川上? おいっ!」
 彼を呼び止め、オマエ、と一瞬声を失ったのち、「何やってるんだっ? こんな所でいきなり……驚くじゃないか!」と高口は叫んだ。
「いえ、相談したいことがあって来たんですけど」
 呑気に左手で頭を掻く川上の髪は伸び、体の脇に添えられた右手もだらりと垂れ下がったままだった。
 雪よりも冷たい現実を目の前にして、高口は取り乱したといっていい。
「……何だっていうんだ、まったく! 何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も!」
 川上を相手に気がつけば、怒鳴り散らしていた。
「オマエは知らないだろうが、昨夜は奈緒の試合だったんだ! だから今日の午前中は、ジムも休みの予定なんだぞ!」
 あまりの剣幕に、さすがの川上も怯んだようだった。
「奈緒に……何か、あったんですか?」
「とにかくジムへ行け! 会長と話すんだ、いいな! オレも戻ってきたら、すぐに話を聞く!」
 早口になっていい終え、車へと走る高口を、川上は追ってきた。
「待って下さい。奈緒の試合は自分も見てました」
「何だと?」
 動きを止めた高口は、まじまじと川上を見た。
「昨日、ホールへ行ったんです。それで、俺……」
 髪や服に無数の雪が絡みつき、彼の全身は濡れそぼっていた。家から傘もささずに歩いて来たのかと驚いた高口は、「車に乗れ」と短く告げた。
「オレは病院へ急がなきゃいけない。奈緒のヤツが学校で倒れて、運ばれたんだ」
 川上が大きくうなずき、助手席へ収まると、高口はただちに車を発進させた。