A SPOOKY GHOST 第十六話 プロへの切符(7)

「奈緒、お帰りなさい! 遅かったじゃないの」
 鍵を開けて玄関のドアを開けた途端、珍しく上機嫌な母親に出迎えられ、奈緒は虚を突かれたように動きを止めた。
「お腹が空いたでしょう。今、ご飯をあっためるわね」
 母親がいそいそと引き返すのを訝しく思いながら玄関で靴を脱ぐと、居間からダイニングへ回り、台所をのぞいた。
「すぐに出来るから」
 鍋を火にかけ、おかずを電子レンジで温め直している母親を呆気にとられて見た。何かあると直感し、とりあえず母親から話を切り出すのを待つことにした奈緒は、大人しく椅子に座って待った。
「九時頃だったかしら。奈緒が通っているボクシングジムの会長さんから、電話があったのよ。ええと、そう! 中倉さん!」
 やがてテーブルに料理が並び、奈緒が箸をつけ始めると、母親は案の定べらべらとしゃべり出した。
「あなた凄いじゃない。プロになる試験を受けるんですって?」
 会長が家に電話をしたのは、ミット打ちを終えた頃だろうか。随分と手際がいいと感心する一方、プロデビューが決まってもいないうちから何を大騒ぎしているのか、鼻白んだのも事実だ。
 奈緒は食事をする手を止め、「実はね」と向かいに座り、身を乗り出さんばかりの母親をじっと見つめた。
「今日、千登勢の学校で保護者会があって、有名なジムを経営していらっしゃる方の奥様とお話をする機会があったの。娘さんが初等部から入ってらしてね、千登勢と同級生なのよ」
 同級生の名は金本宏美といい、学級委員も務める優秀な生徒らしい。父親がボクシング界の人間だと伝え聞いた千登勢は、姉である奈緒のことを宏美に語って聞かせ、仲良くなったのだという。
(金本……?)
 娘を小学校から私立へ入れるほど景気の良いジムなんてそうそうあるはずもないが、その場では思い出せず、どこかで聞いた覚えがあるといった程度だった。
「やっぱりね、北章学園のような歴史ある学校は、初等部から入った生徒さんと千登勢のように中等部から入った生徒との間に、見えない壁があるみたいなのよ。そういう気遣いを減らしてやるには、親が資産家であったり、有名人であったり、ある程度のステータスが必要だと思うのよね」
 下らないと即座に思ったが、せっかく気分良く話している母親の話に、水を差す必要もなかった。むしろ母の口から、奈緒がボクシングを続けるうえで、都合の良い何かが飛び出しそうな予感がした。
「金本さんのお母様が、娘の宏美さんから奈緒のことを聞いて、保護者会でお声をかけてくれたのよ。最近は女性のボクサーも増えてきているし、オリンピックの種目にもなるんでしょ? ボクシングは文部科学省お墨付きのスポーツで、昔のような汚くて暗いイメージとは、まるで違うんですってね。奈緒がボクシングをしていることを、大層お褒め下さったのよ」
 強くなればマスコミにも取り上げられるだろうし、海外へ行くチャンスも増える。女性の新しい生き方として、応援したいとまでいった宏美の母は、保護者会で副会長をしている実力者であった。
 奈緒の母は虚栄心の固まりのような人間で、奈緒や千登勢が通っていた小学校のPTAや地元の自治会で役員をしたり、地元選出の国会議員の選挙事務所に出入りしてボランティアスタッフをしたりと、目立つ役回りが大好きな人間だ。
 千登勢が学校生活を送るうえで、初等部からエスカレーター式で上がってきた生徒達に気後れしないよう、北章学園でも保護者会の役員になろうと目論んでいるらしかった。馬鹿馬鹿しいが、宏美の母にどうしたら役員になれるか、訊いたのだという。
 親の財力や社会的地位が配慮されるのだと、明言はしなかったが、宏美の母はほのめかしたらしい。多額の寄付金を納めている、もしくは作家やタレント、スポーツ選手といった世間で名の知れている親に、学校側から役員にならないか打診が来るのだそうだ。
「親でなくとも姉が有名になって、その……ポンと寄付金を出せるようになったら……ねえ?」
 母親がとんでもないことをいい出し、奈緒は箸を取り落としそうになった。
「女性のプロは数も少ないっていうし、奈緒は美人じゃない? きっと、あっという間に人気者になれるわ」
 母親の現実離れした夢見がちで世間知らずな性格は、奈緒の最も嫌うところだ。しかも、「試合に勝てば、大変な収入にもなるんでしょう?」といい出す始末だった。
(冗談じゃない!)
 プロボクサーがどれだけマイナーで金銭的に報われない職業か、ボクシングのことを少しでも知っている人間は、嫌というほどわかっている。
「お母さんね、仕事を辞めたいのよ」
 母親はずっと専業主婦だったが、千登勢を私立の学校へ入れるため、数年前から働き始めていた。塾代から始まって、入学にかかる費用や入ってからの授業料と、半端でない額のお金が必要となる。市の外郭団体に勤める準公務員の父親の収入では賄いきれないとわかっていたのに、無理をしたのだ。
「最近からだの具合が悪くてね。もうスーパーのレジの仕事なんて、つらくて耐えられないわ」
 千登勢の学校には喜んで出かけて行くくせに、と文句のひとつもいいたかったが、同時にチャンスだと思った。
 奈緒はご飯を掻き込み、急いで食事を終えると、母親へはっきりといってみせた。
「いいよ。プロになったら、家にお金を入れる。だからプロテストを受ける際に必要な、親の承諾書に判を押して」
 瞬時に母親は顔を輝かせた。
「中倉さんからも、その件でお電話をもらったのよ! テストを受けさせてもいいかって。明日、書類をもらってくるんでしょ?」
 必ず見せてね、と意気込む母親に、「お父さんは反対しないのかな」と訊ねた。
「大丈夫よ! とっくに了承しているわ。ただ奈緒がいつまでも帰って来ないから、先に寝ちゃったけれど……。帰りは奈緒を車で送って下さると、中倉さんから聞いていたから、安心していたしね。そうよ! 中倉さんに送っていただいたのなら、ひと言挨拶したかったわ。もお、奈緒も声をかけてくれればいいのに」
 それこそ、天地がひっくり返りでもしない限り、母親の口から発せられるはずのない台詞だった。笑い出したいのを堪え、「送ってくれたのは、トレーナーさんだよ」と努めて平静に答えて、席を立った。
 なおも話しかけてこようとする母親を適当にあしらい、奈緒はバッグを持って二階へ上がった。夜も更け、日課のロードワークを切らさないためにも、早く寝なければならない。洗濯は明日にしようと決め、汚れ物が入ったままのバッグを部屋の隅へ追いやり、布団を敷いた。
 着ているTシャツとハーフパンツを寝間着代わりに、すぐさま布団へ潜り込むと、派手に吹き出した。
 自分のことを、ボクシングという魔法がかけられた、おとぎ話のヒロインに喩えてみる。
 赤いトランクスを穿いたお姫様はリングで恋する相手を殴り倒し、プロへの切符を手に入れた。おまけに狂暴極まりない魔法のせいで、嫉妬されたり、聞かなくてもいい話を聞いたり、やたらに目まぐるしい一日を過ごす羽目となり、最後は怖い従者のお説教や、乳母のへつらいまで付いてきた。
 ――― あたしは、やれる。
 奈緒は枕に顔を押し当てた。
 ――― 思う存分、やれる。
 ボクシングを続けている限り、誰も彼もが自分を持ち上げ、褒め称えてくれるに違いない。
(あたしは、ツイてる)
 そう思った途端、ぴたりと奈緒は笑うのを止めた。寝返りを打ち、仰向けになると、天井を睨み付ける。
「……本当に?」
 夜が明けるまで、小さくその言葉を発した口から、とうとう寝息が聞こえることはなかった。