A SPOOKY GHOST 第十五話 プロへの切符(6)

 目が覚めた時、完全にエンジンが停止した状態で、車はとまっていた。運転席には誰もおらず、助手席のシートにもたれかかったまま、奈緒はぼんやりと窓の外を眺めた。
 暗闇の中に人影と赤く光るものが浮かび上がり、目を凝らすと、どうやら高口がタバコを吹かしているらしかった。
 膝の上にあったスポーツバッグをずらし、シートベルトを外した奈緒は、ドアを開けて外に出た。
「よう、起きたか」
「ここ、どこですか?」
 砂利と大きな石があちこちに転がっていて、足場が悪かった。フラフラと高口に近づき、「相良川の河川敷」と説明された奈緒は、周囲の暗がりを見回した。
 川をまたぐ国道だと思われる橋が、遠くに見える。かなり家から離れた、下流の川岸にいるようだ。
「あんまり熟睡しているから、起こすのが可哀想になってな」
 高口はタバコを放って踏み潰すと、手元の時計に目をやった。
「もう少しで日付が変わる。ご両親が心配しているといけないから、もう行こう」
「親なら大丈夫です。家に帰らないのはしょっちゅうだし、夜中に出かけて、朝方帰るのも珍しくないし」
「高校生のクセに夜遊びか。感心しないな」
 夜遊びじゃありません、と奈緒はしゃがみ込み、前方に広がる、大きな水の流れに目を向けた。
「走ってるだけです」
「走る? 夜中にか?」
「海を見に行きます」
「どこの海だ」
「高浜とか……塚ノ原海水浴場とか」
 高浜? と訊き返してきた高口が、「ここから二十キロ、いや三十キロはあるんじゃないか」と、驚きも露わにいった。
「大したことないです。二時間半もあれば、着きます」
 二時間半、と絶句する高口を横目に、奈緒はつらつらと話し続けた。
「帰りは始発電車に乗ることもあれば、歩いて帰ることもあります」
「……そうか」
 ただひと言相づちを打ち、高口は車へ向かった。ドアを開けて振り返る彼の姿が、車内灯の光に、柔らかく照らし出された。
 いつものジャージ姿ではなく、細身の黒っぽいコットンパンツに白っぽいプルオーバーのパーカーを合わせた、見慣れない格好をしていた。足元からレザーのデッキシューズがのぞく外見は垢抜けていて、一般的な勤め人には見えず、かといって学生にも見えない。落ち着き払った態度や口調から三十代とも思えるが、見た目は二十代前半といっても通用するだろう。
 高口の過去について、橋野やハルイチを通し、奈緒も多少は知っていた。
 大学を卒業したのち、商社マンとして働いていたこともあるインテリだという話だった。
 大人としての分別があり、物腰も柔らかい彼が教えるボクシングは、初心者である女性や中高生に受けがよく、馴染み易い。実際に昼間の女性向けクラスで高口の指導を受け、ボクシングが好きになり、正式な練習生としてジムに入会し直した女性もいるほどだ。
「高口さんて、ボクシングをやっている人間には見えませんね」
 奈緒は再び助手席へ収まり、シートベルトを締めながら、高口に話しかけた。
「タバコなんか吸ってるし、着ている服もおしゃれだし」
 プロ選手達が集うと、高口は一変し、鬼のような形相で指導にあたる。生半可な気持ちではとても付いていけないほど厳しく、一般の練習生など、まず相手にされない。
 その事実を知っているだけに、奈緒は今この瞬間、隣にいる高口がまるで別人のように思えた。
「タバコは大学生の頃から、ずっとだよ。現役の時も隠れて、コッソリな」
 いたずらを打ち明けるような子供っぽい笑みと共に、高口は答えた。
「この格好は昼間、仕事だったからだよ」
 ハルイチと似た左右と後ろを刈り込んだ髪型で、頬骨が目立つ顎の細い顔には高い鼻と大きな目が並んでいる。おそらく彼のような容姿の人間を、大抵の人は美男だと評すだろう。
「仕事って……高口さんはジムの専属トレーナーですよね?」
 奈緒はほんの少しどぎまぎしながら、訊ねた。
「トレーナーだけじゃ、食っていけないさ。週四日間、昼間に予備校の講師をしている」
 そうなんですか、と言葉を失う彼女の隣で、高口は車を発進させた。ごつごつとした河原をゆっくりと走り抜け、堤防の上に出る坂道を登り、舗装された道路に出る。
 静かな暗い夜の道で、車を走らせる高口の横顔に向かい、「すみません」と奈緒は声にした。
 練習生を自宅へ送るのは、あくまで好意であり、トレーナーの仕事であるはずがない。当然のように甘えてしまった自分を、今さらのように恥じたからだ。
「謝るなら、ハルイチに謝ったほうがいいぞ」
 運転をしながら、ほんの少し顔を傾けた高口は、笑いをこらえているように見えた。
「きつい事をいっただろ。アイツ、落ち込んでいたぞ」
「八つ当たりです」
 奈緒は窓の外を眺めながら、正直に打ち明けた。
「あんなにしゃべって。ハルイチらしくない……」
「普段のアイツは口数が少なくて、大人しいからな。でも根は気さくで、面白いヤツだよ」
 知ってます、と奈緒はうなずいた。
 年上ということで最初は遠巻きにハルイチを眺めていた級友達と、今ではすっかり彼も打ち解けている。女子の間ではけっこうな人気だと、奈緒のような人間でもわかるほどだ。
「まったく……高校生ってのは、そんなに青臭いもんだったかな。橋野に対する嫉妬で口が滑るなんて、可愛いもんだよ」
 運転をしながら話す高口の声に、笑いが混じっていた。
 滅多に他人の真意など計れない奈緒だったが、寝起きでどこかネジが緩み、丁度良くなっていたのかもしれない。
 どうしてハルイチは、と素直に聞き返していた。
「あたしなんかが、好きなんですか?」
「……アイツは、強い女が好きなんだよ」
 はあ、と首を傾げる奈緒が可笑しかったのか、フロントガラスに顔を向けたまま、高口は笑い声を上げた。
「奈緒とは一年以上の付き合いになるのに、こんな風に話をしたことが、今まで一度もなかったな」
 ランナ・コムウットとスパーをした帰りに、車中でひと言も声を発しようとしなかった高口を思い出し、奈緒は目を伏せた。
「ずっと……がっかりさせたのかと思ってました」
「がっかり? オレがか?」
「ランナとのスパーリングで、いいように打たれまくったから……」
 車は川沿いに広がる水田を抜け、住宅街の細い道へ入って行き、家まであと少しというところまで来ていた。
 高口は車を路肩に寄せて止め、「オレはがっかりしたことなんかない」と、助手席の奈緒を真っ直ぐに見た。
「オマエは世界だって狙える。でもジムの協力がないと、目指せるものも、目指せなくなる。橋野なんかと噂になっていたら、いつまでも色眼鏡で見られて、正当に評価されない」
 わかっただろ、と高口は声を強めた。
「奈緒は今日、ジムのみんなに力を見せつけたんだ。これから、お前がどんなに黙っていようとも、皆のほうからどんどん声をかけてきて、お前を理解してくれるはずだ」
 高口の手が伸びてきて、奈緒は体を強張らせた。
「そして、お前はいずれ、世界中から注目されるボクサーになる」
 オレと一緒に世界を獲(と)ろう、と彼はいい、練習を終えたあとシャワーを浴び、まとめることなく放りっぱなしだった、肩にかかる奈緒の長い黒髪に触った。
「いいか、奈緒。もう二度と、夜を徹して無闇に走り回るようなことはするな」
 じっと顔を見つめられ、奈緒は身じろぎひとつしないまま、彼を見返した。
「女子の試合は一ラウンド二分だし、世界戦でさえ十ラウンドだ。かといって、男より楽という訳じゃない。むしろ逆だと、オレは思う」
 目を逸らしたら負けだと本能的に感じてしまうほど、高口の視線は冷たく、鋭かった。
「だからこそ、自らを痛めつけるような真似は止めろ。否が応でも、ボクシングはオマエの体を蝕んでいく」
「はい」と小さく返事をした奈緒の髪から指を離し、運転席のシートに身を沈めた高口は、何事もなかったかのようにギアを入れ、車を走らせた。
 ほどなくして家へとたどり着き、奈緒はドアを開けた。
「どうもありがとうございました」
 車から降り、消え入るような声で告げると、高口をまともに見ないままドアを閉めた。
「お休み」と彼がいうのを、家の門を開けようと歩き出した奈緒は、背中越しに聞いた。
「お休みなさい」
 振り返って返事をし、開いた窓から軽く右手を挙げてみせる高口が乗った車を、見送った。