A SPOOKY GHOST 第十四話 プロへの切符(5)

「今夜のスパーリングは、これで終わりだ!」
 ブザーが鳴り、ぐったりとした様子でリングを下りるジム生の二人に中倉は声をかけ、次いで奈緒へ「ミットやるぞ」と振り返った。
 奈緒は顎を引き、会長の顔を穴が空くほどに見つめたのち、「お願いします」と、硬い声を出した。
 中倉がミットをはめてリングへ上がり、奈緒も棚の隅に自分のグローブを見つけ、腕を伸ばした。
「手伝ってやる」
 高口が先にグローブへ触り、はめ易いよう、入口を押し広げてくれた。
「会長のミットはジャブを念入りにやらせる。恐らくリングいっぱいに足を使ってやるから、頑張って動け」と、グローブに手を入れる奈緒へ向かい、いった。
「上体がぶれないようにな。思いもしないところで、頭を撫でられるぞ」
 はめおえたグローブを胸の前でポンと打ち合わし、奈緒は「はい」と返事をすると、リングに上がった。
「よし、行くぞ。まずはジャブ!」
 キャンバスの上で中倉と向き合い、すぐさま指示された。ミットめがけて奈緒は飛び込み、左を打ち抜く。
「連打!」
 右へ大きく回り込むように会長が動き、それを追いかけながら、パンパンとリズム良く左を入れていく。
「ワンツー、ロクッ!」
 左、右とセットで六連発し、打ち終わりに飛んでくる会長のミットを避ける。
 奈緒は練習のたびトレーナーを相手にミット打ちをしていたが、中倉のそれは比べようもないほどスピードがあり、あっという間に息が切れた。指示された通りに動かないと容赦なく横っ面を叩かれ、ジャブとワンツーを延々打たされる。
 二度まではブザーの音を数えていたが、限界と感じたところからは無心となって、がむしゃらにラウンドを重ねた。
「よしっ! 終わり」
 中倉のミットから解放された時、腕は鉛のように重く、足も痙攣していた。
「あ、あり……が、とう、ございまし……た」
 もたれるように右手できつくロープを握り、頭を下げた。息も絶え絶えにリングを下りると、真っ先に水道へと向かう。
 床へグローブを投げ捨て蛇口をひねり、両手にすくった水で口をゆすいだ。続いて顔を洗いながら、「遠藤さん」と呼ぶ、耳慣れない声を聞いた。
 蛇口を閉め、体を起こすと、眼鏡をかけた男性が横に立っていた。次々と滴り落ちる水が邪魔で良く見えなかったが、会長とさほど歳は変わらないように思えた。
「いやあ、すごいミット打ちだったね。音もスピードも、文句なしだった。さすがに中さんも疲れたのか、休憩室でグロッキーになっているよ」
 『中さん』とは、中倉会長のことを指しているらしい。奈緒は盛んに顔を撫でながら、目を細めて相手の姿をまじまじと見つめた。
「キレのあるパンチだと、中さんが褒めていた。あと追い足がすごいね。下半身の強さは本物だ。五ラウンドもぶっ続けで打ち続けたのに、足をまったく止めなかった。素晴らしいよ」
 話を聞き、目まいがした。インターバルもなしで五ラウンドもミットを叩き続けたことなど、かつて経験がない。同時にそこまで付き合ってくれた会長にも驚かされ、頭の下がる思いだった。
「あのスタミナと技術があれば、いきなり六回戦だっていけるんじゃないかと、リングサイドでみんながいっていたくらいだ。遠藤さんは中倉ジムに通い始めて長いんだよね? どうして今までプロになる話が出なかったのか、不思議といえば、不思議だよ」
 あまりに褒めるので、棚にタオルを取りに行くのも躊躇われた。床が濡れるのを気にしつつ、奈緒はどう答えたらよいか見当もつかないまま、ただ立ち尽くしていた。
「ところで、遠藤さん。君はもう十七になったのかな? 中さんは明日にでもプロテストを受けさせたいぐらいだといって、かなり興奮していたけれどね」
「まだです」と答え、遅まきながら目の前の人物に思い当たった。
(マネージャーの宮園さんだ……)
 彼と話をするのは、ジムの入会手続きをして以来だった。
「十七になる誕生日はいつ?」
「九月十八日です」
 奈緒が戸惑いつつも答えると、宮園は嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、九月か、十月のテストを受けるようだね。明日はジムに来られるかな?」
「バイトが十時から四時まで入っているんで……夕方だったら、大丈夫ですけど……」
「うん。じゃあ五時頃に事務所で待っているから、三階へ来るように。健康診断を受けるJBC指定病院の場所や、必要な書類、それからプロテストに合格した後、ジムと結ぶ契約について、簡単に説明させてもらうから。いいね?」
 ぽかんと口を開けたまま、奈緒は頭の中で同じ言葉を繰り返していた。
(九月か十月にプロテスト……合格したら、ジムと契約……)
 プロになるのだと、実感した瞬間だった。
 宮園が用件を伝え終え、立ち去ると、奈緒はびしょ濡れのまま練習場を横切った。棚に置いてあった自分のタオルを手にし、顔や首を拭きながら、あたりを見回した。
 奈緒がミット打ちに励んでいる間、ジム生達の多くは帰途についたのだろう。相変わらずサンドバッグを叩く音が響いていたが、室内はがらんとしていた。
 リングではプロとおぼしき若い男性が、トレーナーの指導を受けながら、華麗なフォームでシャドーボクシングをしている。
 重たい体を引きずるように、それでも仕上げのストレッチを済ますと、練習場に入ってきた時同様、奈緒は頭を下げた。
「練習終わります。ありがとうございました」
 話しかけて来る者はおらず、彼女に目を向ける者もいなかった。棚から持ち帰るべき自分の荷物を手にし、練習場を出た。
「奈緒」
 階段の手すりをつかみ、高口に呼び止められた。
「雨の中、自転車で来たんじゃないよな?」
「あの……走って」
 言葉少なに返すと、すかさず「送って行くから、もう三十分ぐらい待てるか?」といわれ、奈緒は困り果てた。
「あの、もう体が痛くて……限界です。あと三十分もトレーニング出来そうにないです」
 目の前で高口が吹き出し、「練習を続けろって、いってんじゃない」と階段の上からずかずかと下りて来た川上が、雑巾の入ったバケツを奈緒に押し付けた。
「最後まで残ったヤツが、掃除を手伝う。ジムの決まりだ」
 バンテージを巻いた両手にマウスピースのケースとステンレスボトルを持ったまま、奈緒はバケツを抱え、目を丸くした。
「床はまとめて掃除機をかけるから、掃除しない。やるのはシャワールームと洗面台。洗面台の引き出しにペーパータオルがあるから、排水溝の髪の毛とゴミを全部取って、それにくるんでゴミ箱に入れる。ゴミ箱の中のビニール袋は、二階の給湯室にある、蓋付きの青いバケツの中に捨てる。バケツの中の乾いた雑巾で、シャワールームの天井、壁、床、洗面台の水気を拭き取る。使い終わった雑巾は、二階の給湯室にある洗濯機の中に、バケツは洗濯機の横に重ねとく」
 川上の説明は簡潔でわかりやすかったが、ジムの掃除を手伝うのは初めてのことだ。聞き漏らさぬよう必死に耳を傾け、「えっと……更衣室の掃除、ですね。排水溝のゴミをとって、シャワーの床と壁と洗面台をから拭きして、ゴミを捨てて、雑巾とバケツを片づける」と、奈緒は律儀に復唱した。
「女子更衣室だけで、いいからな」
 階段の手すりに肘を置いて、高口が気遣うようにいった。
「今からシャワーを浴びて、着替えるんだろう? そうしたら掃除をして、更衣室を出る時は、必ず換気扇のスイッチを入れっぱなしにしておいてくれ。湿気がこもるから」
 何か質問はあるか、と高口は付け足し、奈緒が首を左右に振ると、どういう訳かホッとしたように微笑んだ。
「頼むぞ」
 狭い階段を下りていく川上からすれ違いざまにいわれ、「はい」と返事をし、奈緒は三階へ上がった。
 更衣室へ入り、シャワーを浴びて、家から持ってきた下着と長袖のTシャツ、ハーフパンツに着替えると、いよいよ掃除に取り掛かった。 
 まずは、ゴミの量に驚かされた。昼間に通う女性の数は、奈緒の想像よりも多いらしい。排水溝には長い髪やゴミが無数に絡まり、べったりと張り付いていて、見ているだけで気分が悪くなった。ゴミ箱はいっぱいで、使用済みのティッシュやコットンが周囲に散らばっている。忘れ物も多々あった。
 更衣室にある一人掛けの小さな椅子をシャワールームへ持ち込み、壁や天井を雑巾で拭きながら、反省せずにはいられなかった。ジムが明るく綺麗なのは、出来て間もないからだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
(こんな風に練習を終えた人が、毎日掃除をしてくれていたんだ)
 高口の安堵した顔も、今となっては納得がいった。女性用更衣室を片づけるのは、男の人にとって、ひと苦労だったのだろう。
 プロを目指すなら厳しい練習をこなすだけでなく、こういう裏方の仕事も引き受け、深くジムと関わっていくことになるのだ。
 意外だったが、ほんのりと奈緒の胸は温かくなった。自分が必要とされる人間だと、認められたような気がしたからだ。
 水気を全て拭き取り、ゴミ箱のビニール袋を新しいものに入れ替えた奈緒は、荷物をまとめた。使用済みの雑巾とゴミが入ったバケツを持ち、いわれた通り換気扇の電源を入れたまま、更衣室を出る。
 すでに二階の練習場は照明が半分落とされていて、薄暗かった。静まりかえったフロアを横切り、いわれた通り給湯室でゴミを捨て、雑巾を洗濯機に放り込み、バケツを片づけた。
「奈緒か?」
 ひょっこりと顔をのぞかせた高口に、「終わったみたいだな」と満足げにいわれ、奈緒は小さく頭を下げた。
「遅くなって、すみません」
「いや、かまわないよ。オレも事務所でやることがあったし。ちょっと更衣室をのぞいたが、丁寧に掃除してくれたんだな」
 ありがとう、と高口から告げられ、照れくさいのをごまかすように、肩をすくめてみせる。
 オレ達で最後だから、と高口はいい、ジムの入口のシャッターを下ろすと、電源を切った自動ドアのカギを内側からかけた。
 常夜灯を頼りに、電気を全て消した暗いジムの中を二人は靴を持ち、給湯室の奥にある裏口から外へ出た。雨は止んでいたが、絡みつくような湿気と夜気が入り交じり、頭上の星影もぼんやりとしている。
 狭い階段を音をたてて下り、ビルの脇にある駐車場へ行くと、高口は黒い軽乗用車の助手席のドアを奈緒の為に開けてくれた。
 シートに座ろうと身を屈め、つい苦痛に顔を歪ませた彼女は、「大丈夫か?」と高口に訊かれ、「一晩寝れば、治ります」と強がってみせた。
「明日は夕方にジムへ来ると聞いたが、練習はどうする?」
「やります。これからは土日も来ます」
「……いい心掛けだ」
 助手席のドアを閉め、運転席へまわった高口はエンジンをかけた。
 駐車場を離れた車は、週末のせいもあって混み合う駅前の通りに出た。立ち並ぶ店から漏れる照明の光が、蒸し暑い雨上がりの夜を遊び歩く、人々の姿を照らしている。
 その中に奈緒は、自分と同じ年頃の男女を見つけた。彼らは幸福そうな笑みを浮かべ、楽しそうに寄り添い、歩いている。
 窓から目を背け、膝の上にあるスポーツバックの持ち手を強く握り締めた。
 ともすれば泣きそうになるのを押し留めようとして、まぶたを閉じた瞬間、強烈な眠気に襲われた。
 今日一日で様々な人と会話をし、それこそ一年分はしゃべりまくったような気がする。頭も体も疲れ切っていた奈緒は、あっという間に深い眠りに落ちてしまった。