A SPOOKY GHOST 第十三話 プロへの切符(4)

 内縁の妻がどういうものなのか、奈緒には今ひとつわからなかったが、橋野を影で支え続けた存在なのだろう。
 知りたくもない大人の事情を聞かされる羽目となり、どこか動転しながらも、奈緒はハルイチの話に聞き入った。
「だから橋野さんも、ここ一年ぐらいはバイトをやってるらしいんだけどさ。どれも長続きしねえみたいだな。もう五つか六つ、バイトを転々としてるハズだよ。そんなだからさあ、今ひとつボクシングにも集中できてないっつうか……」
 苦り切った顔をするハルイチに、「でも橋野さん、家で毎朝サンドバッグまでやってるって、いってたよ」と、反論を試みた。
「ウソつけ」と、ハルイチは笑い飛ばした。
「橋野さん、アパート暮らしだろ? バッグを叩いたら、震動はスゴイし、音も相当するから、無理だって。第一、フツーの家じゃ吊り下げらんねーよ、あんな重いモン。それにオレ、一度だけ橋野さんの部屋に行ったコトあるけど、サンドバッグなんて、見たことねえよ」
「プロテストは? 橋野さんも受けたからには、会長が許可を出したんでしょ?」
「まあな。確かにここ一年は練習をほとんど休まなかったし、会長も橋野さんの努力を認めてたトコはあるよ。テストに落ちたのだって、インファイトにこだわってたからだと思う。テストは基礎が出来てるか見るらしいから、ステップワークが重要で、フックやアッパーを使いすぎると注意されるらしい。ファイターのボクシングをし過ぎたら、ちょっと不利かもな」
 だから奈緒はスゲエんだよ、と突然、褒められた。
「正面から突っ込んで来るファイターのガードを吹っ飛ばしたんだもんな。オマケにフットワークと防御のコンビネーションで、かんっぺき、橋野さんを抑え込んだ」
「さっきのスパーね……あんなのが、インファイトなんだ」と無表情のまま奈緒がつぶやき、ハルイチは無邪気に笑った。
「橋野さんもコレに懲りて、ボクシングに集中すりゃあイイのに。下らねえ後輩イジメや女遊びとかやってっから、会長に睨まれんだよ」
 最後のほうは早口だったが、奈緒は聞き逃さなかった。
「女遊び?」
 明らかにしまったという表情のハルイチへにじり寄った。
「教えて」
 奈緒の迫力に押されたのか、「オマエの聞きたくない話なんじゃないのか」と、彼は真面目な顔つきになって、聞き返してきた。
「とにかく教えて。包み隠さず」
「じゃあ、教えてやる。だけど聞き終えたら、あんな男とはもう付き合うなよ。約束するなら、話してやる」と、明らかに忠告する口調となった。
「あたし、橋野さんと付き合ってなんかいない」
「はあ? 嘘吐(つ)くなよ」
「朝のロードワークを一緒にしていただけ」
 彼のことが好きだけど、と奈緒は顔を歪めて笑った。
「多分もう二度と……一緒に練習することはないと思う」
 本当か、と迷う口ぶりのハルイチに、うなずき返した。
「ジムにさ、若い女の子とか入って来るじゃんか」
 ようやく彼が重い口を開き、奈緒は知らず知らずのうちに身を乗り出していた。
「やっぱさ、男としては気になるだろ? みんなでアノ子が可愛い、アノ人が美人だとか、ウワサしたりするんだ。すると橋野さんが、必ず手え出したって話をすんだよ。相手とどんなコトしたか、ジムでしゃべりまくるんだ。オレはそういうのキライなんだけど、やっぱ下ネタとか好きなヤツいるし、そういう話題で盛り上がったり、ジムにイマイチ馴染めないヤツとかも話に入り易かったりでさ。さっき橋野さんとジムでつるんでたヤツ等みんな、ソッチ系の仲間だよ」
「例えば……誰が話題に上がったりした?」
「例えば? うーん。奈緒はあんま知んないだろうけど、草加さんとか、萩原さんとか。仕事帰りにジムへ来る、OLさんだよ。あとは……西本さんも」
「西本さん?」
「ああ。去年の夏休み、橋野さんと二人で泊まりがけの旅行に行ったらしい」
 あたしも、と奈緒は緊張に掠れた声を出した。
「噂になって……いたのかな」
「確かに。奈緒のこと、オレの女呼ばわりしてたしさ」
 黙りこくる奈緒を見て、ハルイチは「でも、奈緒は付き合ってないって、オレにいったよな? だったら、気にすんな」と、なぐさめるような口ぶりとなった。
「新しいジム生に対してスゲエ親切なんだけど、始めたばかりのマスでワザと顔面にパンチを入れたり、ちょっと上手くなったヤツには説教したり、橋野さんには底意地の悪いトコがあるんだ。初心者はそんなコトで、ボクシングが怖くなるからな。そのまんま辞めちまうヤツとかもいて、それを影で笑ってたりしてたんだよ。そのクセ、全くめげないヤツとか、はなっから橋野さんなんか相手にしないような強いヤツには、擦り寄ったり。卑怯なんだ」
 話題を変えたつもりらしかったが、奈緒は胸のむかつきが酷くなるのを感じた。
「橋野さんって……歳いくつなの?」
 奈緒が訊くと、「なんだ、知らねえのか」と、ハルイチは呆れ、驚いた。
「川上さんのひとつ下だよ。二十四」
「二十四……いい歳だね」
 人に認められたくて足掻き、どうしようもなくて苦しんだ挙げ句、橋野は嘘を吐いたり、次々と女の子に手を出したり、他人に意地悪をしたのだろうか。
(……違う)
 勝英ジムから中倉ジムへと渡り歩いて、その歳までボクシングを続けていた割には、実力が追い付いていない。アマチュアでの試合経験もないし、プロテストもわずか一回しか受けていない。そんな彼が世界王者を目指すのは、夢想以外の何物でもないように思われた。
(弱いからだ)
 腹の底から湧き上がる猛烈な怒りを、奈緒は抑えることができなかった。
「そんなどうしようもない人を、ハルイチと川上さんは影で笑ったり、陰口叩いたり、してたんだ」
 ハルイチはぴたりとしゃべるのを止めた。彼女の瞳を見据え、やがて「泣いてたクセに」と、不快そうに吐き捨てた。
 奈緒は顔を背け、更衣室を飛び出した。階段を下りると練習場のフロアへ行き、衆人の注目を集める中、リングサイドへと急いだ。
「ハルイチに以前、覚悟しとけって、いわれました」
 依然としてスパーリングが行われていたが、奈緒はかまわず高口へ話しかけた。
「川上さんのタイトルマッチのあとスパーに呼ばれるからといわれて、あたしはてっきり……」
「ほらっ、顎上がってんぞ! 馬鹿野郎、何度いわせるんだ! そんな所でバックステップを使うんじゃないっ」
 奈緒を完全に無視したまま、高口は口元に手を当て、大声を張り上げた。
「でも、覚悟しとけって、違う意味だったんですね?」
 あたしに橋野さんを、と奈緒がいいかけたところで、遮られた。
「だったら、何だっていうんだ」
 ロープに手をかけ、リング上を見つめたまま、高口はいった。
「最低です。橋野さんは、今日のスパーでプロテストを受けられるかどうか決まるって、いってました。高口さんは女であるあたしを使って、弱い者イジメをしたんです。彼が嫌いだから、プロテストを受けさせるどころか、恥をかかせて、諦めさせたんです」
「お前、ランナ・コムウットと戦いたくないのか?」
 だらだらと責め続ける奈緒を、高口はぴしゃりとはね除けた。
「だったら才能もない、努力もしない男に同情するな」
 刺すような視線を奈緒に向け、「プロのリングに立てるのは強い人間だけなんだと、お前は橋野に教えてやったんだ。それは弱い者苛めなんかじゃない、絶対に」と、語気を強めた。
「それともお前はプロになる気がないのか? 橋野がプロのリングでボロボロになることでも、期待しているのか?」
 いい加減にしろ! と聞いたこともないような恐ろしい声で一喝され、奈緒は息を呑んだ。
「とにかく会長と話して来い」
「……中倉会長、ですか?」
「そうだ」
 ひと言告げただけで、「左だ! 左のタイミングを考えろっ」と、高口は再び顔を前に戻し、振り向きもしなかった。
 煮え切らない気持ちを抱えたまま、奈緒がリングを挟んだ反対側へ目をやると、腕組みをする会長と視線がかち合い、手招きをされた。
 早足で中倉に近寄り、脇に立った途端、「ダメージもないくせに、一ラウンド以上の休憩なんか取るな!」と、奈緒は大声で怒鳴りつけられた。
「お前のボクシングには、ちゃんとお前自身の生き方が現れている。短気で、臆病だ! 相手を思う存分翻弄して、最後の最後で叩きのめすと決めていながら、打ち合うことを避けたんだからなっ」
 いい返すことも、許されなかった。
「人の目が、そんなに気になるか? 左の差し合いもなしに、いきなり右の大砲なんか出しやがって。そのうえ、よそ見をしたな。時間ギリギリでダウンさせて、力を見せつけたかったとしか思えんよ!」
 中倉にまくしたてられ、奈緒は目を伏せた。
 ――― 短気で、臆病。
 いつも周囲のちょっとした言動が癇に障り、腹を立ててばかりいる。かといって、不満を口にするでもないし、怒りを態度で示すこともない。胸に溜め込んで、黒い感情が渦巻くままに他人を恨み、自身を嫌うばかりだ。だからこそ、傷つきたくなくて、ずっと人を避けてばかりいる。
 ――― 結局は人の目を気にして、びくびくしているだけなんだろうか。
 ボクシングを通してぶつかり合うことで、そんな自分へ真っ直ぐに向かってきた人間がいた。
(ランナ・コムウットに、あたしがこだわるのは……)
 地面に長く伸びる自分の影を、ようやく奈緒は見つけた。眩しいほどに明るい太陽が、彼女を照らしたからだ。
(あたしを見つけ、認めてくれた)
 ランナと出会ったことで、何かが動き出している。それは奈緒に、どんな生き方を望むのか、問いかけてきているのだ。
 ずっと足元を見続け、「高口が以前いったことがある」と会長が話すのを、奈緒は頭の上で聞いた。
「お前のボクシングは殴られたら殴り返す、相手を叩きのめすボクシングだとな」
 上目に窺うと、中倉はかすかに笑い、リング上に視線を移した。奈緒が同じ方向を見やると、コーナーに追いつめられた者が、腹や顔を打たれ、苦痛に顔を歪めていた。
「勝ち気なのは、いい。だが、叩きのめしたところで、何が残る?」
 じっと見つめる先で、さっきまで一方的にパンチを出し続けていた方が、あっという間に体を入れ替えられ、ボディへのワンパンチでフロアに座り込んだ。
 私は、と少しだけ声を詰まらせ、「尊敬されるようなチャンピオンにはなれません」と、コーナーへ寄りかかり苦しそうに息をする者を見ながら、奈緒は告げた。
「お前は、頂点に立ちたいのか?」
 訊ねられ、前を向いたまま彼女がうなずくと、「たくさんのものを失うことになるぞ」と、中倉はいった。
「たまにしか、腹一杯ものを喰えなくなる。友達と遊ぶ時間もなくなるし、恋愛なんて、とんでもない。引退するまで、我慢ばかりの生活になる」
 それでいいのか? と訊かれ、奈緒は再び深く首を縦に振り、隣に立つ中倉を見上げた。
「プロになるんだな?」
「はい」
 吸った空気を吐き出すような自然さで、返事が口を突いて出た。
「わかった」
 静かに答えた中倉の険しい顔は、これから先、待ち受けているものを予見させるに十分だった。