A SPOOKY GHOST 第十二話 プロへの切符(3)

「奈緒っ、ブザーが鳴る! 一ラウンド三分だ!」
 川上に叫ばれ、はめたグローブの先端で奈緒は両頬を叩いた。床を蹴り、ジャンプを繰り返す。
 ――― 身長、百六十八センチ。リーチ、百七十三センチ。
 ランナ・コムウットのデータは頭に叩き込んである。ミニマム級もしくはミニ・フライ級の女子ボクサー達の中では例がないほど、突出している数字だ。
(橋野さんの身長は確か、百七十二センチ……リーチが身長と変わらないなら、彼女とほぼ同じ)
 対して奈緒の身長は百六十三センチ、リーチは百六十八センチだ。
(リーチ差は五センチメートル)
 向かいのコーナーではマウスピースをはめた橋野が、リング脇のジム生達へ、笑いながら手を振っていた。まるで楽勝だといわんばかりの仕草に、奈緒はそっと下唇を噛んだ。
(ランナと戦うための、第一歩。だから……)
 けたたましくブザーが鳴り、ベタ足のまま真っ直ぐリング中央に向かう橋野へ、奈緒は右からゆっくりと回り込むように近づいた。
(負けたくない)
 距離を測るようにガードを下げたまま橋野がゆっくりと左を突き出し、それをグローブの上から受け止める。さらに距離を縮めると、速いジャブを連続で打ち込まれたが、奈緒はガードを決して崩さなかった。
 左を受け続け、右ストレートが放たれると見るや否や、素早く動いた。
(遅い。モーションも丸見え)
 軽やかにステップを踏み、パンチを避けると、瞬時に間合いを詰める。体を捻り、右のショートストレートで、橋野の左腕をグローブごと遠く後方へ弾き飛ばした。
 驚きの喚声があがり、橋野も目を見開いたが、すぐに右フックを奈緒の側頭部めがけて打ち返してきた。
 グローブ越しに易々とそれを受け、奈緒は左へステップを踏んだ。橋野も負けじと彼女を追いかけ、正面から様々なパンチを繰り出す。それらを全て避け、擦らせもしない奈緒のディフェンスは完璧だった。
 橋野は苛ついたのだろう。ガードを上げ、一気に距離を狭めてきた。次々とパンチが飛んできて、奈緒もヘッドスリップを交えながら、ぎりぎりのところでかわしてみせる。
(大きいのばかり)
 向き合いながら、初心者のような橋野のボクシングに、愕然とした。ただ闇雲に拳を突き出しているだけで、リズムも何もなく、タイミングさえ取りづらい。
(ランナには、遠く及ばない)
 奈緒はちらりとリングサイドのタイマーに目をやり、表示されている残り時間を確かめた。
(がっかりだよ、橋野さん)
 全身をバネにして飛び出した。左、左、右と、狙ったとおり腕を動かす。
 一瞬にして確かな手応えを感じた直後、ブザーの音を聞いた。
 キャンバスに沈んだ橋野の鼻から血が流れ出ていて、ジムは騒然となった。
「橋野、大丈夫か」
 騒ぎをよそに踵を返した奈緒の背後で、高口が呼びかけていた。
「しっかりしろ」
「……オレ……どうしたんだ?」
「気を失っただけだ。まともにパンチを受けたんだな。しばらく休め」
 コーナーポストへもたれかかる奈緒の口元に、川上の手が伸びてきた。マウスピースを吐き出し、リング中央で橋野がゆっくり起きあがるのを、奈緒は川上と並んで冷ややかに見届けた。
「最初は防戦一方だったのに、勇気を出してカウンターを合わせたね。女の子なのに偉いよ」
 ロープの外から声をかけられ、奈緒の眉間には深いシワが寄った。
「気にすんな」
 川上に頭を撫でられ、結っていた髪をぐしゃぐしゃにされた。
「あのおっさんは、会社帰りに週二、三度顔を出すだけの初心者だ。だから、わかんねえんだ」
 小声で教えられ、「別の相手とスパーを続けるか? それともビデオをチェックするか?」と訊かれた。
「休みます」
 橋野を顧みることなくリングを下り、川上にグローブを外してもらうと、奈緒は三階へ上がった。更衣室で壁を背にしながら、膝を抱えて床へ座り込み、呼吸を整える。
 さっきまでの喧騒が嘘のように、静かだった。ゆっくりと汗が引いて行き、肌寒さに身震いまでした。
「奈緒、いるか?」
 更衣室のドアがノックされ、外からハルイチの声がした。
「いるよ」
「他に誰もいないよな?」
「いない」
 ガチャリとノブが回され、開いたドアの隙間から話しかけられた。
「会長がオマエのこと、捜してんぞ」
 うなずいただけで動かずにいると、「中……入っても平気か?」と訊かれた。女性用ということで、遠慮しているのだろう。
「平気。こんな時間じゃ、誰も来ないし」
 返事をすると、ハルイチは中へ入り、腰に両手を当てながら、困惑した様子で奈緒を見下ろした。何かいいたそうな彼の視線を受け、「座れば? そんな風に上から見られたら落ち着かない」と、彼女は投げやりにいった。
「落ち込んでんのか?」
 ハルイチは奈緒の斜め前で、狭い更衣室の床へ腰を下ろすと、立てた片膝を抱えながら心配げな声を出した。
「落ち込んでる? どうして?」と、奈緒は首を傾げて訊き返した。
「何ともねえなら、どうしてこんなトコにいんだよ」
「そうだね」
 額に手を当てて笑い、「ねえ、ハルイチは白井義男のこと、知ってる?」と、彼の顔を見た。
「白井義男? さっきの会長の話か」
 肩すかしを食らったような顔をするハルイチに、「そう」と、笑ってみせた。
「まあ、すっげえ昔の人だからさ。リアルタイムで試合を見たコトはねえよ。ソレは会長も一緒なんだけど、とにかく大ファンらしいんだ。あんな風にしょっちゅう彼の話をするよ」
「他にどんなこと? 教えて」
「ええ? 他に?」
 彼は驚いたように奈緒へ笑いかけたのち、「たとえば……」と、懸命に思い出しているのか、天井を見上げた。
「白井義男を世界王者に育てたのは、アメリカ人なんだ。カーン博士っていってさ、オマエは日本の若者の見本になれ、というようなコトを白井にいって聞かせるような人だったらしい。世界戦には四万もの人が集まったらしいんだけど、わずかなお金を握り締めて応援に来た、あの人たちの気持ちを忘れちゃいけないって、観客席を指差したんだってさ。謙虚な心を忘れるなって」
「ふうん。じゃあ白井義男って、立派な人だったのかな」
「らしいよ。何年か前に死んじゃったけど、会長は会ったことがあるんだってさ。すっごい礼儀正しくて、誰に対しても丁寧に話をしてくれる……とにかく尊敬できるチャンピオンだったって、もう何度も聞かされてるよ。会長も、そういう風にオレ達を育てたいんだってさ」
 苦笑いをしながらハルイチがいい、奈緒はため息混じりにつぶやいた。
「殴られて殴るのは子供でもできるって、いったんだよね」
「世界王者から見りゃ、オレもオマエも、そんでもって川上さんだって、みんな子供だよ」と、ハルイチは一笑に付した。
「ソレを気にして、橋野さんと最初、打ち合おうとしなかったのか?」
「違うよ。でも……」と、彼女は膝に顔を埋めた。
「気が抜けたのかもしれない。だって橋野さん、お手本みたいにワンツーを連打してきた。もちろん大事なことなんだけど、向き合ったまんま足も使わないでそれをしたら、簡単にカウンター当てられちゃうよ」
「でもさ、ダウンさせたのはカウンターじゃねえだろ? アレ、狙ってたのか? インサイドパリーから左、右のコンビネーション」
「良かった。ハルイチには、ちゃんと見えてたんだ」
 ちょっぴり顔を上げて白い歯を見せた奈緒に、ハルイチは強い口調でいい返した。
「当ったり前だろ! オマエとアレを、何度練習したと思ってんだっ? 出した右ストレートを内側に叩かれて、すかさずボディに左フックが打ち込まれたと思ったら、右ストレートを顔面に叩き付けられるんだぜ? オレも初めてアレを喰らった時は、来るとわかってても、正直ダウンしかけたよ」
「大丈夫。あたしもハルイチも、絶対にアレと同じパンチをもらわないから。二度とね」
「それが会長いうところの、学ぶスパーリングか。橋野さんも、ちっとは学んだかな」
「そういえば橋野さん、大丈夫?」
「大丈夫。女相手だから油断してたとか、ふくらんだ胸を見たらボディに打ち込めなかったとか、好き勝手なコトいってんよ」
「そう……」
 奈緒は硬い表情になって立ち上がると、洗面台に向かった。
「会長さ、オマエの凄さ、わかってっと思うよ」
 鏡を見ながら乱れた髪を直す彼女の後ろで、ハルイチも床から立ち上がり、いった。
「スパーはレベルの高い相手とやんなきゃ意味ねえとか、相手に敬意を払えとか、アレ間違いなく橋野さんにいってたろ」
「そうなのかな……」
 髪を結い終え、腫れひとつない顔を映し出す鏡から離れると、奈緒は壁に寄りかかって床を見た。
「川上さんだって、そうさ。奈緒のコト認めてっから、今日ああしてジムに来て、セコンド役まで買って出たんだ」
 困るよ、と奈緒は顔が熱くなり、手の甲で頬を触った。
「橋野さんや西本さんから、男の人に取り入っているみたいなコトいわれたから……」
 そのまま口を閉じた彼女に、「妬んでんだろ」とハルイチはあっさりいってのけた。
(嫉妬?)
 人から嫉妬されるなど、奈緒にとっては驚き以外の何物でもなかった。今まで一切、経験したことがないからだ。
 奈緒は目をぱちくりさせたが、ハルイチはかまわず言葉を重ねた。
「西本さんはプロ志望なんだ。金曜のスパーにも何度か参加したコトあるし、すっげえヤル気もある。けど、オマエにはどうあっても敵わないって、わかってんだよ。それでも、ライバルみてえに思ってんのに、奈緒は全然眼中にねえって態度だろ? そりゃ、嫌味もいわれるさ。それに……」
「それに?」
「橋野さんは、元々そういうヤツなんだよ」と、ハルイチは顔をしかめた。
「自分を大きく見せたいんだ。人を小馬鹿にしてさ」
 どう答えて良いのか判らず、ただ「信じられない」と彼女がつぶやいたせいか、ハルイチは何時になく多弁となった。
「橋野さんはウチのジムに入って来た時、勝英の合宿生だったっていって、会長を慌てさせたんだ」
 勝英ジムは世界王者を数多く輩出した、名門だ。こうした大手のジムは、才能があると認めた者に、住居と食事を提供して英才教育を施す。そうして手塩にかけて育てられた合宿生が他のジムへ移ろうとしても、簡単には許されないのがボクシング界の常識だ。
「もちろん会長は勝英に電話したんだよ。そしたら最初は、橋野なんてヤツ、知らないっていわれたんだってさ。しばらくして向こうも思い出したらしく、ただの練習生だから気にしなくていい。そういったっていうんだから、笑っちゃうよな。まあ会長も頭にきたらしいんだけど、目をつぶったんだよ。練習熱心だったし、何よりも基礎がしっかりしてたからさ。コイツはモノになるかもしれないって、思ったんだってさ」
「……それって、いつの事?」
「ん? ちょうどオレがジムに入って一ヶ月ぐらいしてからだから……」
 おととしの七月だな、とハルイチが答え、奈緒は心の内で笑い出していた。橋野から、中倉ジム創設当初からの練習生で、もう七年もここで頑張っていると聞いていたからだ。
「でもさあ、熱心だったのは最初だけ。二、三ヶ月も通うと、過労で倒れたとかいって、ひと月ぐらい平気で休んじゃうしさ」
「仕事と掛け持ちで、大変だったんだと思うよ」
 奈緒が口を挟むと、ハルイチは首を振った。
「ホントかウソかわかんねえんだけど、内縁の奥さんがいるって、橋野さんが、その頃いってたんだ。看護士やってて、生活費とか全部、その人に面倒見てもらってるなんて、堂々といってたんだぜ。参っちゃうよな」
「内縁の……奥さん」
「とっくに別れたみたいだけどさ。一年以上も前に」
 橋野ならありそうなことだと、冷めた気持ちで受け止める一方、奈緒の指先は冷たくなっていった。