A SPOOKY GHOST 第十一話 プロへの切符(2)

「三ラウンドもインターバルなしでやったんだ。もう、十分だろう?」
 目の前で高口が腕を組み、奈緒の瞳をじっとのぞき込んでいた。
「大丈夫か?」
 無言のままうなずき返し、彼と並んで歩いた。壁にロープを戻すと、棚の前で自分のステンレスボトルを手にした。
「もう少ししたら、リングサイドへ呼ばれる。スパーの間は川上がお前に付くから、面倒見てもらうんだぞ」
 スポーツ飲料を喉へ流し込み、ボトルにキャップをした奈緒は、いつの間にやって来たのか、高口の隣に立つ川上と目が合った。
「ほら、奈緒。川上さんにちゃんとお願いしますっていえよ」
 背中を勢い良く叩かれ、よろめきながら横を見ると、ハルイチがいた。
 お願いします、と彼女は腰を曲げた。
「世界戦のつもりで頑張ります」
 奈緒を囲む三人が一様に顔を見合わせ、吹き出した。
「最高だよ、オマエ!」
 ハルイチがお腹を抱えて大笑いしながらいい、「一緒に世界を目指す仲間だ」と、肩へ腕を回してきた川上に、奈緒はゆさゆさと体を揺すぶられた。
「心意気は買うが、基本を忘れるなよ。ヘッドギアを着けたら、グローブは川上にはめてもらうんだぞ。オレは側にいてやれないが、川上の指示に従って、ベストを尽くせ」
 ブザーが鳴り、早口で説明し終えた高口は笑顔のまま、奈緒の肩にかかる川上の手を軽く叩き、中倉会長のいるリングサイドへと立ち去った。
 会長が高口と何やら言葉を交わし、大声で名前を叫ぶ。呼ばれたジム生は、ただちにリングへと上がった。
「スパーを見学するか?」
 川上に訊かれ、迷う奈緒の耳に、「ちわーっす」という元気な声が届いた。
(橋野さん!)
 振り向き、歩き出そうとして、ハルイチに腕を引っ張られた。
「体動かしとこうぜ」
「アップ優先といくか」
 川上までもがハルイチに賛同し、奈緒は鏡の前に立たざるを得なかった。気を取り直してシャドーを始めると、歩み寄って来る橋野が視界に入り、自然と胸の鼓動が早まった。
「川上さん! こないだの飲み会、お疲れっした」
 いつもの気さくな口ぶりで、彼は先ず川上に挨拶をした。
「あん時は祝ってくれて、ありがとな」
「ケガは大丈夫なんですか?」
「練習再開はもう少し先だけどな。今日は奈緒のセコンド役だ」
 おもむろに川上は奈緒の右腕をつかみ、天井へ向けて、掲げてみせた。間抜けな勝利者ポーズをとらされた彼女は目で橋野に助けを求めたが、彼はそんな奈緒を冷たく一瞥しただけだった。
「ハルイチも久しぶりじゃん。ここんトコ夜の練習に参加してなかったじゃねーか」
 ジムで初めて顔を合わせたというのに、橋野が次に話しかけたのはハルイチだった。腕を下ろした奈緒は、所在なげに目を伏せた。
「夜は混んでるし、高口さんも夕方の方が都合イイっつうから、早い時間に顔出してます」
「来週、オマエはプロテストなんだよな。オレは会長の許可が下りなくてさー。二度目だから、ぜってー落ちない自信あんだけど、来月テスト受けられるかどうかも、今日のスパー次第だっていわれてんだよな」
 漠然と会話に耳を傾けていて、奈緒は妙なものを感じ取った。傍らのハルイチが橋野と話をしながら、ほんの少しだけ顔を傾け、川上に目で笑いかけていたからだ。
「ハルイチや奈緒みてーに、高口さんに目えかけてもらえっと、助かるんだけど」
 あのヒト会長お気に入りのトレーナーだからさ、と大仰にため息を吐いて両手を広げる橋野の姿を、川上も失笑混じりに眺めている。
「トランクス姿、カワイイじゃん」
 気が付くと、頬が触れ合うくらい近くに橋野の顔があった。ぼんやりとしていた奈緒は驚き、その場で固まった。
「そんな風に髪の毛あげて、キレイに化粧すると、どんな男でもホイホイ引っ掛かっちゃうよな」
 橋野は意味ありげに耳元で囁き、「高口さんやハルイチだけでなく、川上さんにまでちょっかい出してんの?」と怒ったように付け加えた。
「オレなんか、どーでもいいんだ」
 去り際に奈緒だけが聞こえる小声でいい、軽く右手を挙げた橋野の向かった先で、笑い声がした。ジム生達が彼を取り巻き、奈緒と密着していたことを、囃し立てているのだった。
「相変わらずだな、アイツは」
 川上が呆れ顔になって、いった。
 奈緒は強く奥歯を噛み締め、咎めるようなハルイチの視線を振り切り鏡へ向き直ると、がむしゃらに腕を振り回した。全てを拒絶する勢いで、左へシフトウェートすると、下から左拳を突き上げる。
(橋野さん、怒ってた)
 間を置かず、空を切る鋭い音と共に右のショートストレートを放ち、きつく腕を畳む。
(今日のスパーに行くって、あたしがひと言もいわなかったからだ……)
 いつ頃からか、トレーニングメニューを提示され、高口の細かな指示に従う奈緒を、橋野は口にはせずとも嫌がるようになっていた。それがわかっているからこそ、今日のスパーリングにしても、高口にいわれて参加が決まったこともあり、橋野には打ち明けづらかったのだ。
 呼吸を止め、鏡の中の自分とにらみ合い、目尻からこぼれ落ちるものがあった。奈緒は汗を拭くように、ごしごしと腕を顔に擦りつけた。
「橋野! 遠藤!」
 会長独特の甲高い呼びかけに振り返り、「次はお前等だ。用意しろ!」という、指示を聞いた。
「はいっ」と大きな声で返事をする橋野を、奈緒は呆然としながら見た。
(橋野さん、いいの?)
 彼はグレーのTシャツの下に黒のハーフパンツを合わせ、リングシューズも黒いものを履いている。その色使いはランナを彷彿させたが、とても闘志の沸く相手ではなかった。
(あたしが相手だよ? 本当に、いいの?)
 奈緒の戸惑いなど我関せずなのか、橋野は周りの人々と笑顔で何か話しながらファールカップやヘッドギアを触り、躊躇うことなくスパーリングの準備をしている。
「用意すんぞ」
 川上に促され、奈緒はヘッドギアを着けた。ジムの隅にある水道でマウスピースをすすいで口に入れると、川上に手伝ってもらい、グローブも両手にはめる。
 リングサイドへ行き、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、全身の力を抜いた。
 頭上では激しい打ち合いが繰り広げられていた。打撃音に混じり、骨のこすり合う音までする。罵声にも似た叱咤の声をトレーナーや会長が発し、リングの上にいる二人も必死の形相だ。
(あたしが、このリングに上がる……)
 プロ選手もしくはプロを目指す練習生にとっては毎週金曜日になると繰り返される日常的な練習だが、奈緒にとっては違った。
(あたしでも、上がれるんだ)
 野球をやっていた小学生の頃、学年が上がるにつれて、奈緒はベンチと外野後方にいることが多くなっていった。一緒に野球を始めたはずの篤志がブルペンでコーチの指導を受けている間、奈緒は球を拾い、練習の準備を手伝わなければならなかった。ノックやバッティングの順番はいつも最後で、いつしか試合にも出させてもらえなくなっていた。
 中学生になって入った陸上部では、全く相手にされなかった。ミーティングに呼んでもらえず、大会へ行くにも、ひとりで会場に足を運んだ。応援の声も聞こえず義務的に走り、表彰台へ上がったが、達成感よりも虚しさの方が優った。
 疎外されても尚、頑張ったのは、仲間がいなければ何もできないと諦めるのを、最も嫌っていたからだ。裏返せば、集団行動が苦手で、一人で何でも突っ走ってしまうことに慣れ切っていた。
 ボクシングの世界は、そんな奈緒を受け入れようとしてくれている。勝負は単純だ。最後までキャンバスの上に、たった一人、自分だけが立っていればいいのだ。
「橋野がどんなタイプのボクサーか、知ってるか?」
 川上に訊かれ、首を左右に振った奈緒は、グローブをはめた手を彼の口元へやった。いわなくてもいいという意志表示を受け、川上も無言のまま奈緒の肩を叩く。
(あたしは、あたしのボクシングをするだけ)
 気を抜けば、涙がこぼれ落ちそうだった。
 橋野とは、一年以上にわたって、朝のロードワークを共にしている。会えば満面の笑みで迎えてくれ、つらいトレーニングの合間に、たくさん話をしてくれた。
 幼なじみの篤志を除けば、彼以上に打ち解けた相手などいない。親しい友人すらいない奈緒にとっては大切な存在で、もっと踏み込んだ表現するならば、恋をしているといってもよかった。
(どうでもいいと思われてるのは……)
 奈緒はまぶたを閉じ、天井を仰いだ。
(きっと……あたしの方なんだ)
 ブザーが鳴り、ぱっちりと目を見開いた奈緒の前で、それまでスパーリングをしていたジム生達がリングを下りた。
「よし、上がれ」
 リングの端に立っていた高口が、ロープの外側でコーナーポストに寄りかかりながら、くいとあごを動かした。
 身を屈め、川上が押し広げたロープの間をくぐり抜けると、そこは奇しくも赤コーナーだった。
「本気出しちゃっていいんですかね」
 向かい側のコーナーで橋野が騒いでいた。
「遠藤はCT検査も受けているし、男とのスパーも初めてじゃない。グローブも十二オンスだよな?」
 リングの外から中倉会長に大声で訊かれ、奈緒はうなずいた。
「橋野は十四オンスだろ。きちんと差はつけている。あまり大口を叩くと、あとで後悔するぞ」
「勘弁して下さい、会長。オレ、女の子だからって手加減しませんよ。あんな細い体でオレと打ち合って、何かあっても知りませんからね」
 奈緒! と、リングを囲むようにできた人垣の後方で、ハルイチが声を張り上げた。
「割れてる背中、見せつけてやれ!」
 好奇の目を一身に受け、困り果てた奈緒は、ロープを挟んで横に立つ川上を見た。
「後ろ向け」
 セコンド役である彼に従い、くるりと橋野に背を向けると、ロープに両手を置いた。「おお」とわざとらしく周囲がどよめき、彼女はリングの床を見ながら、小さくため息を吐いた。
「全身マッチョが強えと思ってんの? ローテーターカフとか見えねえ部分も含めて、必要なトコだけバッチリ鍛えんのが常識だろう? 奈緒の体みてえに、細くても、柔らかくてムダのない筋肉付けんのが大事なんじゃねえのか?」
「おい、ハルイチ」と、橋野は憤慨した口ぶりでいい返した。
「奈緒の体が柔らかいって、触って確かめたのか? オメエ、人のオンナに手え出してんじゃねーぞっ」
 嘲笑を含んだざわめきが涌き起こり、スパーリング独特の、張り詰めた空気までも消え失せてしまう勢いだった。こうなっては奈緒の盛り上がった広背筋など、滑稽としかいいようがない。
 彼女はリング中央へ向き直ると、顔をしかめて、コーナーポストに寄りかかった。
「おい、橋野。ローテーターカフが何か、知っているのか?」
 不意に会長の中倉が口を開き、あたりはしんと静まりかえった。
「肩関節を固定するインナーマッスルの総称で、意識してトレーニングしないと、鍛えるのは難しい箇所だ。肩甲骨周辺の筋肉や三角筋と同じく、腕の複雑な動きを支える役目を担っている」
 皆もよく聞くんだ、と中倉は前置きをして、話を続けた。
「こういった知識がトレーニングに応用されるように、ボクシングは極めて高度で洗練された競技だ」
 リングサイドから奈緒を牽制するように、会長はぎょろりと目をむいた。
「日本人初の世界王者である白井義男は、こういった。殴られて殴るのは、子供でもできる。打たせないで打つところに、妙技がある。ボクシングは、健全なスポーツだ」
 だから真面目にやれ! と激が飛んだ。
「女だから、恋人だからと、下らない事で揉めるんじゃない。スパーは技術を伴ってこそ、練習になる。レベルの高い相手とやらなきゃ、意味がない。真剣に上手くなりたいと思っているなら、スパーリングパートナーに敬意を払え。同じ競技者として、学ばせてもらうという姿勢を忘れるな!」
 橋野へ鋭い視線を投げつけ、会長は話を終えた。