すうっと手の平にあった子狐の姿が消えてゆき、まわりの景色も一変した。
緑に覆われた美しい丘も、透き通るように青い空も、そしてサスケさえも消え、ただ真っ白な空間が、どこまでも続いている。

(オレの中か……)

以前あった薄暗い牢はどこにもなく、足を着ければ波紋が広がる、透明な水をたたえていた床も、消えていた。
あるのは、何の汚れもない、無垢な空気に満ちた、光のみの世界である。

『人間とは残酷で、複雑怪奇だ』

見ると、遠くで九尾が丸くなり、横になっていた。

『人間の醜い欲望や、嫉妬や恨み……そこから生まれ出たワシが、人の世を破壊するような、恐ろしいものとなり、また人間によって、生まれ変わる……』

尻尾を枕に頭を横たえ、九尾はまぶたを閉じたまま、ゆったりとナルトへ語りかける。

『ワシやサスケを許し、受け入れたお前なら、とうにわかっているはずだ。人の心は難しい……良い方へ、悪い方へ、振れては戻る振り子のように、気まぐれだ』
「けどな、理由もなく、振れたりなんかしねえ……それがわかってっから、ヒナタを放っておけねーんだ!」

ナルト、と九尾が重々しく名を呼び、
『同情ではないのか……?』
と、問うのに合わせ、ナルトは大きくうなずいた。

「自分の言葉は曲げねえ。それが、オレの忍道だ!」

ククク、と九尾は再び、怪しく笑った。

『そんなちっぽけな事に振り回され、大騒ぎをする……救世主と呼ばれ、生ける伝説とまでなった男が……』
「ちっぽけなコトじゃねーっ!!」

ナルトは叫び、歯軋りをした。

イルカに伴われ、現れた彼女を見て、最初は訝しく思った。
美しい着物にオレンジ色の帯を締めた、見たこともない、晴れやかな格好をしていたからだ。

しかしナルトは、そんなヒナタを、ただ何事かと眺めているうちに、妙な感覚に襲われた。
めかしこんだ彼女に寄り添っているイルカが普段着で、額当てもしていないことに、気付いたせいかもしれない。

(デート……してんのか?)

ヒナタの特別な視線が他の誰かに向けられていると知り、裏切られたと勘違いしたのか、嫉妬したのか、それまで感じたこともない、理不尽な感情が胸の中を渦巻いた。

すると、めったに目を合わせず、話しかけることさえ躊躇われるほど内気な彼女が、遠くから屋上に立って見下ろすナルトを、真っ直ぐに見つめ返してきた。

ナルトは戸惑い、心揺さぶられ、ヒナタ、と小さく名前を口ずさみ、
――ありがとう。
と、聞こえるはずのない、声を聞いた。

(どうして、礼なんか……)

満面の笑みを浮かべ、下を向いた彼女が、痛々しかった。
そしてようやく、木の葉丸が預かった、イルカからの伝言の意味を悟ったのだ。

――選ばれるのを、待っているんじゃない。

長い時間の中で、サクラとの結び付きは、より固く、深いものとなっていった。
だからこそ、そんなことは有り得ないと頭の中では常に否定しつつも、密かに期待し、待ち続けていたのだ。

その一方で、振り向いてはもらえない相手を、遠くから見守ることが、時にどれだけつらいかを、ナルトは嫌というほど、知っている。

ヒナタもきっと同じだと、うぬぼれではなく、信じていた。
それだけ真摯な想いを、彼女から感じ取っていたからこそ、他の男の元へ行こうとしているヒナタに、ショックを受けたのだ。
たとえその相手が、兄弟同然のイルカであっても、ナルトにとっては許し難かった。
そして同時に、自分が今まで、どれだけぞんざいに彼女のことを扱ってきたのか、思い知らされた気がした。

――ヒナタは選んだ。だから、今度はナルトが選ぶ番だ。

ナルトは目に力を込め、九尾を見た。

「オレってば……彼女の気持ちを確かめたいんだ。それにはまず、オレ自身が、はっきりと決断しなきゃいけねーっ!」
『……やはり、ナルト。お前は、ちんちくりんだ。』

しかし、と頭を動かし、大きな体をいっそう丸くした九尾が、
『人ひとり幸せにできないようでは、火影になる資格もない……忍らしくないが、そういう考え方もまた、お前らしくていいのかもしれん……』
どこか嬉しそうにいい、徐々に、その姿を消していく。

『どうやら、ひと眠りする時が来たようだ……。ナルト、次にワシが起きた時、お前がミナトのような、いっぱしの男になっているか、どうか……』

楽しみにしているぞ、と遠ざかる声と共に、何もかもが、消え失せた。

「ナルト! ちょっと、ナルトったら!」

目の前には、心配そうにナルトの顔をのぞき込む、サクラがいた。

「……サクラ、ちゃん?」
「大丈夫? 突然、黙り込んじゃうんだもの……心配したじゃない!」
「ここってば……」

きょろきょろとあたりを見回すと、いつの間にか、火影の屋敷にある広い一室へ、舞い戻っていた。
古臭い調度品が並ぶ客間で、当分の間、サスケをかくまうために、あてがわれた部屋でもある。
隅にある大きなベッドのかたわらには、つきっきりでサスケの看病にあたるサクラの活けた花が、彼女の想いを代弁するかのように、たくさん飾られていた。

「サ、サスケはどこだってばよっ?」
「はあ、ナニ寝ぼけてんの? アンタの隣にいるじゃない!」

えっ、とナルトが横を見ると、腕組みをして立つ、サスケの姿があった。

「サスケ、オレは……」
「サクラは渡さない」

ナルトに話す間を与えないまま、サスケは前へ歩み出ると、驚きに目を見開くサクラの肩をつかんだ。

「オレが木ノ葉の里を出た、あの夜……あの時の言葉を、今、返す」
「サ、サスケくんっ?!」

困惑しきったサクラが、助けを求めるかのような視線を寄越し、思わず手を出しかけたナルトの動きを、サスケの言葉が止めた。

「絶対に後悔させない」

淡々と話す口ぶりとは反対に、サスケは力強くサクラを引き寄せ、腕の中に閉じ込める。

「何だってする……サクラ、お前が楽しく、幸せに生きられるよう、何とかしてみせる」

彼らの後ろで、ただ呆然としていたナルトだが、
「だから、オレと一緒にいてくれ」
と、サクラの髪に顔を埋め、サスケが告げたのをきっかけに、二人の横をすり抜けた。

「サスケくん……」

ナルトがドアの取っ手を触り、振り返った先で、
「……待たせて、悪かった」
と、話すサスケの肩に、サクラは頭を乗せ、その目に涙を浮かべていた。

「サスケくん……ありがとう。でも……どうして、こんな突然……」
「……ナルトではなく、オレを選んで欲しいからだ」

弾かれたように、サクラがパッと顔を上げるのを認め、ナルトは力任せにドアを開くと、そのまま部屋を飛び出した。

「ナルトッ!!」

呼び止める彼女の声を振り切るように、バタンと後ろ手にドアを閉じたナルトは、ふらふらと廊下を進んだ。
そして、突き当たりの壁へ寄りかかり、何度も深呼吸を繰り返す。

――同情ではないのか?

そう問いかける九尾の声が頭の中を駆け巡り、ぶるぶると首を左右に振る。

「ここでやめたら、男じゃねーっ!」

駆け出し、階段の一番上から跳ね下りた踊り場では、サイが待ち構えていた。

「ナルト、五代目がお呼び……」
「わりーなっ、サイ! 今すぐ、行かなきゃなんねーんだっ!」

早口にいい、ナルトが両手で印を結ぶと、サイも取り出した巻物へ筆を走らせる。
すると、超獣の狛犬が現れ、一斉に階下へと雪崩れ落ちるナルトの影分身を、力尽くで止めようとした。
屋敷はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、混乱に紛れて、外へ飛び出したナルトは、地面へ両手を突いた。

(口寄せの術っ!)

砂塵が舞い上がり、現れた巨大な蛙の背に乗ると、
「行くぜっ、ガマ吉!」
と、気合いたっぷりに叫び、
「ああっ? エラソーに命令する気か、ワレ」
と、凄まれた。

「ガ、ガマオヤビンッ?!」
「こんな、平和そのものな里へ呼び出して、何事じゃあ」

ごくりと喉を鳴らし、へへへ、とナルトはごまかすように笑ったが、
「姫をさらいに行くんだってばよ!」
と、巻物を背負った姿で、すっくと立ち上がり、赤い羽織りの裾をひらめかせた。

「相手はあの、日向一族だかんなっ、親分!」

ガマブン太は口にくわえていたキセルを手に持ち替え、
「……日向の娘を嫁に貰うっちゅう事か」
と、目玉をぎょろりと動かす。

「よ、よめ……?」

意味がわからず、口を開けて、ぽかんとしていたが、
「まあ、ワレと会うのは、久しぶりじゃけん。付き合ったるかいな!」
と、ガマブン太が凄まじい風や音と共に飛び上がり、ようやく我に返った。

「ち、ちょっと、待ってくれってばよっ!!」

大きな影に覆われる里の風景を眼下にしながら、慌てふためいたものの、時すでに遅かった。
吹き抜ける突風に、発した言葉はかき消され、ナルトは腕で顔をかばう。

――そうか。そういうコトなんだ。

ごく当たり前のことに、今さらながら気が付き、腕の下の顔が熱くなった。

(オレに……家族が出来んのか?)

縁談をぶち壊し、ヒナタが自分と向き合うことになれば、必然的に結果はそうなる。

「日向は名門中の名門じゃ。ワシを連れて行くぐらいのハッタリは許してやるけえ、男を見せてみい!」

すっかり乗り気なガマブン太の背中に手を突き、くいと顎を上げたナルトは、真っ直ぐに前を見つめる。

「オッスッ! 大見栄切ってやるってばよ!」

声の限りを尽くして返事をし、ばくばくとうるさく鳴り響く、自分の心臓の音を聞いた。