ゆっくりとヒナタは目を開けた。

周囲は明るく、ただ真っ白な空間が広がっている。
上も下もなく、まったく無音の、静寂に包まれた世界だ。

唯一わかるのは、すごい速さでどこかへ流されている、という感覚だった。

流れに身を任せたまま両腕を広げ、前方を見ると、突然まぶしい光に襲われた。
反射的に顔を手で覆った次の瞬間、冷たい風に全身を打たれ、再び彼女は目を開ける。

どこか懐かしい森の中へふわりと降り立ち、細い小道の上に足を着けると、さくりと雪を踏む感触が伝わる。

ふうと息を吐き、顔を上げたヒナタは瞳を見開いた。

前方から一人の少年が走り寄って来る。

「ちっくしょうッ、カッコわりぃってばよ!」

ハァハァと息を弾ませながら、彼は立ち止まると、膝に両手を置き、吐き捨てた。

(ナルトくん?!)

驚き、うろたえるヒナタの前で、そんな彼女など視界にも入らぬように、幼いナルトは体を起こし、もと来た道を振り返る。

「ボコボコにされて、マフラーもボロボロにしちまったし……」

くやしそうにいい、赤く腫れ上がった口元を手の平でさすりながら、肩を落とす彼だったが、
「まっ、いっか!!」
と、すぐに元気な声を出した。

「アリガトウって、礼をいわれた!」

へへへ、と嬉しそうに指先で鼻をこすり、胸を張る。

「オレのコト、まったく嫌がんなかったし……これでよければなんて、自分のマフラーまでくれようとしたしな」

オマケにチョット可愛かったってばよ! と照れ臭そうに小声で付け足し、歩き出した彼が、すうっとヒナタの体をすり抜ける。

(これは……まぼろし!?)

慌てて後ろを振り向き、彼女は通り過ぎた少年を目で追うが、あっという間にその姿は消えてしまった。
そして気が付くと、アカデミー入学式、と記された看板を掲げる、門の前に立っていた。

満開の桜が舞い散る中を、子供やその親らしき大人が大勢、にぎやかに行き交い、声を掛け合う。

その光景を呆然と見つめ、ヒナタは再度、幼い頃の彼に遭遇した。

アカデミーを出ると、大きなブナの木がある。
その張り出した太い枝に吊り下げられたブランコへナルトはまたがり、人の群れを眺めていたのだ。

家族のない悲しみをこらえるように、口を固く閉じたまま、目を吊り上げる、一人ぼっちの彼へヒナタが近付くと、小さなナルトは
「あっ!」
と突然、声を上げた。

「アイツも同い年で、忍になんのか!」

途端に笑顔となり、ブランコのロープを揺らして、身を乗り出す、彼の視線の先を追う。
そこには、人波に紛れて、短い髪を揺らしながら、どこか自信なさげに歩く幼いヒナタの姿があった。

(私……を見ているの、ナルトくん?)

うっすらと記憶に残る、アカデミーに入学した、あの日を彼女は思い返した。

入学式から一ヶ月ほど前のことだ。
つらい修行から逃れたいと思うあまり、家を飛び出した彼女は、里の外側に広がる雑木林へと迷い込んだ。
そこで三人の少年に出くわし、白い瞳が気持ち悪いと、なじられたのだ。

普通なら、忍の世界で広く知られる日向一族を、面と向かって馬鹿にする者などいない。
けれども、小さい子供からすると、白い瞳を持った者達の集団が、どこか近寄り難く、薄気味悪かったのだろう。

ヒナタは、ヒマを持て余す少年達の、格好の餌食となってしまった。
そして、彼らに囲まれ、逃げ出せずにいたところを、ナルトに助けられたのだ。

自分のために殴られ、身に着けていたマフラーもダメにされてしまった彼のことを、忘れるはずがなかった。
アカデミーの入学式で、自分より前に並ぶナルトを見つけ、どれだけ胸がドキドキしたことだろう。
それなのに、話しかけることも出来ず、ただ遠くから眺めるばかりだった。

(きちんと、あの時のお礼をいいたかったのに……)

太陽のように明るい髪と、空のように青い瞳を持つ彼を、ヒナタは何度も盗み見た。
そして、顔を熱くし、ため息を吐くばかりだった彼女の知らないところで、ナルトもまた、ヒナタの存在に気付いていたのだ。

「ソバにいんのは、アイツの父ちゃん……じゃ、ねえな。あんな若い父ちゃん、いるもんか! だったら、兄ちゃん? に、しちゃあ、ずいぶんとヨソヨソしいなァ……」

アカデミーの入学式に、父は来なかった。
代わりに同行したのは日向一族の者だ。
あの時のヒナタはまだ、宗家の跡取りであるにもかかわらず、落ちこぼれ扱いされていた。

(それをナルトくんが、変えてくれたんだよね……)

ブランコに腰掛けたまま、
「まあ、どーでもいいってばよ! あの、オドオドとした、変な奴も一緒なら、きっとアカデミーも楽しいっってばよ!」
と、無邪気にはしゃぐナルトが愛おしく、ヒナタはそっと、まぶたを閉じた。

ありがとう――人知れずつぶやき、再び目を開ける。

景色が一変していた。
階段上に机が並び、その向かいには黒板がある。

(ここって……アカデミーの教室だよね!?)

部屋の隅に立つヒナタは、ぐるりと中を見渡した。

恐らく休み時間なのだろう。
前の方で、女の子達が何人も固まり、おしゃべりをしている。
まだあどけない表情で笑い合う、いのやサクラの姿もあった。
「サスケくん」と、何度も口にするたび、キャッキャとはしゃぎ、楽しそうだ。

後ろの席では、机に突っ伏してシカマルが居眠りをしており、その隣に座るチョウジは、カバンの中を探って取り出したお菓子の袋を手に、にんまりとしていた。

どこをとっても、見慣れたあの頃の風景、そのままだ。

つい彼の姿を探すと、窓際の席で、ぼんやりと頬杖を突き、外を眺めていた。

(ナルトくん……)

騒がしい時も、大人しいときも、人の輪に入れないまま、こんな風に独りきりであった、彼が時折みせる寂しい横顔に、胸が痛んだ。

ゆっくりと彼へ歩み寄り、ナルトが眺める校庭に、ヒナタも並んで目をやる。

「アイツを倒さなきゃ、火影にはなれねえってばよ。でも、どうやったら……」

はあ、と深いため息をつくのに合わせ、わずかに身を乗り出したナルトの見下ろす先には、サスケがいた。
人の群れから離れた校舎前の木陰で、腕を枕にうたたねしている。

きっと、演習の授業で彼と勝負をして、負けてしまったあとなのだろう。
容易に想像が付き、ヒナタは口元から笑みをこぼした。

(大丈夫。落ち込んでも、すぐに立ち直る! それがナルトくんの強さだよ)

そう心で呼びかけた直後、
「あっ、アイツ……ヒナタじゃねーか」
と、ナルトが声にするのを聞き、慌てて外へと視線を戻す。

隣にいる彼と同様、まだ下忍となる前のヒナタが、胸の前に本を抱え、校舎脇を歩いていた。
そういえば、とヒナタは思い当たる。
人と交わるのが苦手で、長い休み時間には、教室を出ていることが多かったのだ。
そして、校舎裏の書庫へ行き、本を読みながら過ごしたのち、あのように外を歩いて、また教室へ戻るのが日課だった。

「アイツってば、いっつも教室にいるのか、いねーのか、わかんねーんだよなァ。オマケに、たまーに目が合うと、顔を赤くして、すぐアッチを向いちまうし……ホント、地味で、恥ずかしがりやで、変な奴!」

それを聞き、苦笑いするヒナタの横で、窓枠へ置いた腕に頭を乗せたナルトが、
「でも……イイ奴だってばよ」
といい、柔らかく微笑む。

「さっきの授業……オレがムキんなって、サスケと張り合ってた時、みんなサスケばっか応援してたけど、アイツだけ、オレのコト応援してた気がする……」

気付いていたの? とヒナタは目を丸くして、ナルトの横顔をまじまじと見つめた。

成績トップのサスケと、ドベのナルト――普通なら勝負にならないところだが、この二人が組み手をすると、クラス中が盛り上がった。
もちろん、女子に人気のサスケへ声援が集中するが、なんとしてもあきらめないナルトを、ヒナタは応援したかった。
けれども、大きな声を出すのが恥ずかしく、頑張れと何とか口にしたところで、とても彼の耳に届いていたとは思えない。

「なのに、オレってば、みっともねェ……」

そういったかと思うと一転、パンパンと両頬を叩き、まだ小さい頃のナルトは元気に立ち上がる。

「イヤ、イヤ、イヤ! ナニ弱気になってんだッ! オレは火影になる男だってばよ!!」

大声で叫んだため、黒板の前に集まっていた女の子達から、
「うるさいわよっ、ナルト!」
と、すかさず怒鳴られるが、満面の笑みを浮かべた彼は、窓から身を乗り出し、大きく深呼吸をする。

(うん! がんばれ、ナルトくん!)

ヒナタも笑い、にじんだ目元の涙を、そっと拭う。
その時、また景色が変わった。

どうやらこれは、ナルトの記憶をめぐる、旅らしい。
体ごと、白いうねりに巻き込まれたかと思うと、次々に場面が変わっていくのだ。

そして今度は、深い森の中を通る一本道で、木ノ葉隠れの里が誇る三忍の一人であり、今は亡き自来也が、並んで歩くナルトを斜めに見ながら、
「何をニヤニヤしとるんだか……」
と、こぼしていた。