突然のことで、声も出なかった。
ナルトに引きずられ、ヒナタは階段を外れると、薄暗い廊下を突き進む。
普段なら、立ち入る機会もない場所だ。
閉め切られ、明かりの漏れる様子さえない扉が、通路の両側に並んでいた。
おぼろげながら、様々な書類を収める、納戸のような小部屋ばかりだと思い当たり、彼女は息を弾ませながら、ネジの骨張った手を引いて前を走るナルトの背中に、目を凝らす。
そうして、廊下の端へ行き着くと、そこにあったドアを、ナルトは勢い良く、開け放った。
まぶしい太陽の光と強い風に全身を晒され、思わず腕で顔を覆うと同時に、彼女を強くつかんでいた指も、すうっと離れてゆく。
「ヒナタ……ちゃん」
吹き荒れる風の音に紛れて、ナルトの声がする。
耳を疑い、上げた腕の間から、前をのぞき見ると、
「やっぱ、違うってばよ!」
と彼はいい、
「ヒナタ……!」
と、名前を呼んだ。
「……?」
彼女は首を傾げ、ナルトが立つ、扉の向こうへ足を踏み出した。
人がふたり、どうにか並ぶことのできる、ひどく狭い踊り場だ。
端からは細い階段が、幾重にも折れ曲がり、裏庭の竹林へと続いている。
「ヒナタ!」
なおも繰り返す彼の、額当てから伸びる黒いヒモが強い風にあおられ、頬をかすめるように、ヒナタの真横で揺れる。
「ヒナタ!!」
何度も名前を呼びながら、両腕を組んで、しかめっ面となったり、眉間にシワを寄せて、あらぬ方向を見たり、ナルトは終始、何かを探っている様子だった。
思い付いて、胸の前で印を結び、ヒナタは変化を解くと、
「はい……」
と小さく声にした。
途端に、これ以上ないほど、彼がニッコリと笑い、ようやく気付かされる。
「ヒナタッ!!」
ナルトの意図がわかり、
「はいっ」
と返事をして、ついつい吹き出した。
つられるように笑い出すナルトの、風をはらんで揺らめく、赤い羽織に包まれながら、風を渡る、優しい笑い声と笹の葉のさざめきを聞く。
――いつ頃からか……何気ない瞬間、ナルトはアナタのことを、たびたび目で追っていた。
公園で昨夜、ネジの語った言葉が思い出された。
――話をする時も、アナタに向けられるアイツの眼差しは優しく、温かかったはずだ。
ナルトを間近に見上げ、今になってネジは正しかったと、心の底から納得してしまう。
「そうだね……」
ヒナタは笑顔のまま、ぽつりとこぼした。
「ナルトくんは、サクラちゃんだけでなく、私にも、十分すぎるくらい、優しかったよ」
でも、と肩をすくめ、クスリと笑う。
「ヒナタ”ちゃん”って、呼ばれるのは、ちょっと……」
「だよなっ。オレも、そう思ったってばよ!」
ホッとしたように答えながらも、
「ヒナタはやっぱ、ヒナタだし……」
と、ナルトは困ったように、いい淀む。
「ごめんなさい!」
とっさに彼の胸へ両手を置き、ヒナタは身を乗り出した。
「サクラちゃんのコトを、引き合いになんか、出したから、かえって気をつかわせちゃったんだよねっ?」
ネジでなくなると、あまりにも、背丈が違いすぎる。
懸命に爪先立ちをして、真正面から青い瞳をのぞき込み、
「私ね、たくさん名前を呼んでもらえて嬉しかった!」
と、ひと息に告げた。
「いっぱい……いっぱい、優しくしてくれたコト、絶対に忘れないよ」
声が詰まりそうになり、ナルトの胸に手を当てたまま、笑ってみせた。
「忘れない……から」
すとんと、かかとが自然に床へ落ち、ヒナタは背伸びをやめた。
彼の胸に添えていた手も下ろし、ごうごうと吹き荒れる風を受けて、はためく羽織の音を聞く。
「今さ、すっげー幸せなんだ」
やがて発せられた声が、柔らかに彼女の耳を打った。
「ヒナタの言葉ひとつ、ひとつが、泣きたくなるくらい、嬉しいんだってばよ」
うつむきかけた顔を上げ、目を見開くヒナタから、ナルトは決して、視線を外さない。
「それなのに……ヒナタとは一緒になれねえと、当たり前のように、納得しちまってる」
激しい風の音をかき消すほどに強く、彼女の心を揺さぶり、それでいて、穏やかな口調のままだった。
「人間らしい平凡な幸せにしがみついて、足掻くことさえ、できなくなっちまってんだ」
「ナルトくん……!」
たまらず呼びかけるヒナタへ、
「わかってる! こんなの、らしくねーよな!」
と笑い返し、彼は白い歯までのぞかせた。
「もう十分、背中を押してもらった」
小さな踊り場に、赤い羽織の裾が、ひるがえる。
「そろそろ、行くってばよっ」
脇へよけるナルトの代わりに、鮮やかな色合いが、ヒナタの視界を彩った。
岩肌に火影の巨大な肖像が彫られた、そびえ立つ崖と、遠方の山々へ連なる深い森を背景に、しなる竹が緑の群れとなって、波打つ。
別れを告げられてもなお、世界は美しかった。
心奪われ、景色に見入る、ヒナタに気付いたのか、ナルトは彼女の背後で足を止めると、普段通りの明るい口振りとなって、いった。
「キレイだろ?」
「うん……」
前を向いたまま、大きくヒナタが首を縦に振り、
「ガキの頃、イタズラをして逃げ回ってた時、たまたま見つけたんだ」
と、彼も照れたように、付け加える。
「ぼうっとするにはサイコーな、今まで人に教えたコトもねェ、お気に入りの場所だってばよ」
ゆっくりとヒナタは体ごと、吹き付ける風と共に、後ろを振り向いた。
「ココで繰り返し、あの火影岩の中にオレもいつか加わるんだって、自分へいい聞かせてきたんだ」
前方を目で指し示し、
「オレにとっちゃ、そんだけ思い入れのある場所だからさ。どーしても、ヒナタをここへ、連れて来たかった」
と、殊更にこやかに語るナルトが、すっと腕を伸ばしてくる。
「ここからだってばよ」
前髪の下に手のひらを滑り込ませ、彼はヒナタの額を触った。
「ここからオレ達、前へ進むんだ」
じんわりと皮膚を通して、伝わる熱が、彼女を動けなくする。
「……オレのコト、ぜってー忘れねえといった、ヒナタの強さを、オレは信じてる」
それきり物言わぬまま、ナルトは額から手を離し、くるりと彼女に背を向けた。
ギイとドアを開ける音がして、いっそう強く、風が吹き抜ける。
長い髪が顔へ覆いかぶさり、無意識のうちに、ヒナタは両目を閉じた。
そして、ガシャリとドアの閉まる、音を聞き、深呼吸をする。
――オレ達、前へ進むんだ。
さわさわと木々を揺らす静かな響きに、しばし身を委ねたのち、まぶたを開くと、たった一人、取り残された踊り場で、頭上を仰ぐ。
――ヒナタの強さを、オレは信じてる。
促されるように膝を曲げ、力いっぱい伸ばした彼女は、強く床を蹴り、空高く飛び上がった。
「ナルトくん……」
小さく口にして、屋根へ降り立ち、走り始める。
(私達、キスをして、抱き合った……)
いらかの波を駆け抜け、身をひるがえしたヒナタの目から、涙がこぼれ落ちた。
(何も……その先には何もないと、知っていたのに)
服の袖で荒々しく顔を拭い、いっきに門まで乗り越えると、そのまま、通りの向こう側にある電柱へ飛び移る。
火影の屋敷を後にした彼女は、次々と建物や電柱の上を飛び移りながら、首に手をやった。
そして、額当てを外し、呪印が見えぬよう、頭へ巻き直すと、後ろで固くヒモを結ぶ。
(人間として、ありふれた幸せを求める以前に、私達は忍なんだ)
歯を食いしばり、ヒナタは自らを奮い立たせる。
すると、突如あらわれた影が、彼女に並び、寄り添った。
「お迎えに上がりました、ヒナタ様」
「コウ……!」
幼い頃に、誘拐されたヒナタの身代わりとなって、ネジの父・ヒザシが命を落とす、痛ましい事件があった。
それを機に、アカデミーを卒業するまで、彼女には警護が付けられ、その守り役の一人がコウだ。
「ヒアシ様より事情をうかがい、少々心配に思いまして……」
ヒナタが下忍となったのちも、何か変事があった時、コウだけは、真っ先に彼女の元へ、駆けつける。
そんな彼が、裏道を選んで、着地し、それにヒナタも続いた。
「時間的に綱手様のところかと思いましたが、行き違いにならず、ここで出会えて何よりでした」
ヒナタの背に手を置き、人目につかないよう、そっと道端へ寄ると、彼は声をひそめて、いった。
「お疲れではありませんか? 少し、顔色が悪いようです」
「あ、うん……大丈夫」
返事をしたものの、気が抜けたのか、よろよろと建物の壁へ手を突こうとして、コウに抱き留められた。
「いけませんね。大丈夫なように、見えませんよ。ナルト君との間に何があったか、ヒアシ様より先に、聞いてはいけないんでしょうが……」
ヒナタは寄りかかっていた胸から顔をはがし、彼を見上げた。
「コウは身内同然……ううん、私にとっては、身内以上だよ。そんなこと、コウが一番良く、知ってるよね?」
そうでした、と温和な顔つきのまま、うなずくコウに、
「お屋敷まで、あと少しです。歩けますか?」
と聞かれ、背筋を伸ばす。
「もう、平気。心配かけて、ごめんね」
「では、行きましょう」
コウがいい、二人は並んで歩き出した。
路地を抜け、民家が途切れると、長く、高い、生け垣が続く。
俗に名家と呼ばれる、木ノ葉でも特に、古い歴史を持つ一族の多くが、このあたりに、屋敷を構えるからだ。
その中にあって、もっとも広大な敷地を有する日向宗家の邸宅は、一番奥まった場所にあり、ここからなら目と鼻の先といえる。
「どうか、あきらめないで下さい」
不意をついて、話し始めたコウが、
「せっかく、あなたの想いが、彼に届いたのです」
と、思いがけないことを言い出し、ヒナタは小さく身じろぎをした。
「そんな悲しい顔などせず、ナルトくんを信じてみませんか?」
そう告げられ、ふと、今にも泣きそうな、ナルトの横顔が、ヒナタの脳裏に浮かんだ。
(あれは確か、戦争が終わって、間もない頃……)
あの夜、いつも大勢の人に囲まれ、もてはやされていたはずの彼が、たった一人、道の真ん中で、立ち尽くしていた。
たまたま通りかかり、どうしたんだろうと、近寄ったヒナタは、遠くの一点しか見えていないナルトに、気付いたのだ。
(一楽の前だったから、きっと、食事をした後だよね……)
思えばあの頃は、同期の仲間で集まる機会も減り、皆が、かつての師と同じ立場に立って、それぞれの任務に没頭し始めた時期と重なる。
大戦後の人手不足を補うように、ヒナタも忙しく立ち働き、キバやシノに会うことさえ稀な、とかく目まぐるしい日々を過ごしていた。
とりわけ、ナルトは特別で、滅多に人前へ姿を見せず、当時の彼が、どういう立場にあり、何をしていたのか、ヒナタにも良くは、わからない。
(だけど、彼女だけは、知っていた)
あの時ナルトは、愚直なほどあからさまな視線を、その名が示す、春の桜のように、可憐な後ろ姿へ向けたまま、呆然としていた。
(いつもナルトくんと一緒にいて、何もかも知っていたのに……)
普段の彼なら、サクラを家まで送る。
そうしなかったのは、彼女が火影の屋敷がある方角へ、向かったせいだ。
(彼女はナルトくんを置いて、サスケくんの元へ、行ってしまったんだ)
ひたすら彼女のことを、迷子のようにすがる目で、追い続けるナルトの横顔を、ヒナタは、ただ傍から眺めるよりほかなかった。
そして、繁華街の人混みにサクラが消え去ったのち、彼と何も言葉を交わさず、目さえ合わせないまま、その場を離れたのだった。
(……あきらめたのは、私?)
何も巻いていない首に風が吹き込み、思わず身震いをする。
(それとも、ナルトくんなの?)
ぎゅっと、ヒナタは上着の襟元を握り締め、声を絞り出した。
「心の底では、ずっと一緒にいたいと、願っているのに、どんどん、すれ違ってしまう」
生け垣が途切れ、現れた白壁の向こう側は、もう日向の屋敷だ。
自然と声が小さくなり、
「ただ、ひと言……一緒にいたい、たった、それだけの言葉が、どうしてもいえないの」
と、独り言のようにつぶやく。
(私も……。そして、ナルトくんも……)
一緒にいたいと、彼はサクラちゃんに、告げることができなかった――。
そう考え、ヒナタの全身を、衝撃が駆け巡った。
これは嫉妬だ、と胸の奥に渦巻く、黒い感情の正体を知り、目が覚める。
「お願い、何もいわないで」
隣で口を開きかけるコウを、
「今は、まだ……お願い」
と、彼女は目で制し、見慣れた門の前へ早足に、たどり着いた。
「お帰りなさいませ、ヒナタ様」
玄関先を掃除していた分家の女性が、ヒナタとコウの二人に目を留め、声をかけてきた。
ヒナタは彼女へ、軽くうなずいてみせると、
「急な用で、出かけていました」
と、断りを入れ、
「会食の用意はどうなってるのかな。仕出屋さんは、もう来られた?」
と、背筋を伸ばす。
「仕出屋は、まだ来ておりません。催促した方がよろしいですか?」
「お願いします。ついでに、お花も用意してもらえますか? 広間の床の間に飾るものだから、少し大振りなものを」
かしこまりました、とほうきを置き、女性が裏口へ回るのを見届け、門をくぐった。
「コウ、父様はどちらに?」
あがった玄関の式台で、ヒナタは力強く問いかけ、
「書斎にて、お待ちです」
と、ハッとしたように答える彼へ、そっと耳打ちをした。
「ありがとう。大切なことを、教えてくれて……」
いえ、と微笑むコウを背に、廊下を進みながら、もう迷わないと決め、ぐっと奥歯を噛み締める。
――もう一度、ナルトくんに会いたい。
父の書斎へ続く縁側に出て、空を見上げると、まぶしい太陽に目を細めた。
――まだ、伝えていない言葉があるの。
答えなど、なくていい。
前へ進むため、きっと伝えることに、意味があるのだと、ようやくヒナタは気付いたのだった。