「そういやさ、あの野菜スープって、どーなったの?」
と、二人して階段を下りながら、話の口火をナルトが切る。

「さっき、いってただろ? 前にサクラちゃんと来た時ってさァ」
「あ、あの、野菜スープ……」

どぎまぎしつつ、ヒナタは答えた。

「食べちゃった」
「え、全部? ヒナタが?」
「うん。悪くなって、食べられなくなったら、もったいないし……」
「ヒナタってば、ケッコー大食いなんだな!」

えーっ、と内心焦ったが、実のところ、色気より食い気が勝る性分なのは、ヒナタ自身、重々承知している。

「留守中悪いかな、と思ったんだけど……ナルトくんの部屋にある植木が気になって、家の用事で出かけた時、ちょっと寄ったりもしたから」
「イルカ先生から、聞いたってばよ! 毎朝来て、水をやってくれてたんだろ?」

わざわざ悪かったな、と建物を出て、通りを歩きながら、ナルトはしおらしい口調となって、彼女の顔をのぞき込む。

「わざわざってホドじゃないの。スープだって、朝ご飯代わりに頂いちゃったワケだし……」

恥ずかしいのを紛らわすように、
「とっても、美味しかったよ。ナルトくんは料理が上手だね」
と、ヒナタは笑った。

「まっ、ヒナタに教えてもらったお陰だってばよ!」

オレも食いたかったなあ、と頭の後ろで両手を組み、いかにも残念そうにつぶやながら、細い路地へと入る彼に、ヒナタも続く。

「あん時さ、ちょっと思ったんだけど……」

通りを一本外れただけで、行き交う人の数が、驚くほど減った。
わざわざ裏道を使い、火影の屋敷へ向かうのは、他人の耳に会話が入らぬよう、ナルトなりに、気をつかったのだろう。

「何だろう。何か、気になることでもあった?」
と、少し緊張しながら、彼女はたずねた。

「ヒナタはさ、いつからサクラちゃんのこと、サクラちゃんって、呼ぶようになったんだ?」
「……?」

意味がわからず、ぽかんとするヒナタへ、ナルトは早口となり、いい足した。

「あっ、ほらさ、ずっと、" サクラさん"って、呼んでただろ? いかにも、名家のお嬢様って感じでさァ」
「……私、そんなに気取ってる風だったかな……」

違うってばよ! と派手に彼が言葉を打ち消し、かえってヒナタを驚かせた。

「あ、あれは、ナルトくんの真似なのっ!」

反射的に、そう彼女は返事をしてしまい、かあっと全身が熱くなる。

「あんまり優しい声で、ナルトくんが、そう呼ぶものだから……」

でもね、と首を左右に振り、血が上って、真っ赤であろう頬に両手を当てた。

「決して、羨ましいとか、そんなんじゃないの。すごく、ナルトくんはサクラちゃんのことを大事にしてて……大好きなんだなあと思って……」
「ヒナタ……」
「そういう、人を想う優しさに触れると、胸があったかくなる……その人の恋が実ればイイな、と願ってしまうの。だって、優しいその人が、私は……」

いい終えることなく、口を閉じたヒナタは、早足となった。

両側にそそり立つ家々が日の光をさえぎる、狭くて薄暗い路地裏の先に、アカデミーと火影の屋敷が、ほんの少し、のぞいて見える。

(もう、着くまで、十分とはかからないよね)

目の端で、そっと後方を、うかがうと、羽織の裾を押し上げるように、ナルトがズボンのポケットに両手を突っ込み、歩いていた。

前屈みの姿勢で、唇を引き結び、伏し目がちに付いてくる彼との距離が、背丈で勝るネジに変化しているせいか、あっという間に広がっていく。

「……私ね、シノくんやキバくんと、同じ班になった当初、呼び捨てにしていいって、いわれたことがあるの」

立ち止まると、ナルトが追い付き、並ぶのを待って、ヒナタは話しかけた。

「それで、『シノ』とか、『キバ』とか、いってみたんだけど……長くは続かなかった」

しゃべりながら、彼と二人、今度はゆっくりとした足取りで、先へ進む。

「私が人を呼び捨てにするのは、宗家の娘として、一族のみんなに接する時……簡単にいうと、分家を束ねる立場だからこそ、ごく自然に、人を呼び捨てできるの」

それこそ自分より年長であっても、と話す彼女の隣で、ナルトは無口なままだった。

「シノくんもキバくんも、すぐに気付いたよ。私の家の……日向一族の、複雑な事情に。だって、私に呼び捨てされると、『はいっ、ヒナタ様!』って返事しそうになる……なんて、いうんだもの。もう、君付けでかまわないから、元のように呼んでくれって」

もちろん冗談だけどね、とヒナタが肩をすくめ、ようやくナルトも重い口を開いた。

「日向の……複雑な事情って、何だってばよ」
「ナルトくんも知ってるよね? 分家に課せられる、額の呪印……」

ヒナタを斜めに見ながら、彼は黙って、うなずいた。

「私達の一族は、とても古くから、この地に住んでいるの。それこそ、六道仙人が生きていた頃からと伝えられているけど、正確な年数なんて、誰にもわからないくらい」

どんどん近づいてくる火影の屋敷を遠目に、淡々と、ヒナタは続けた。

「長い戦乱の世を、これだけ長く、滅びずにいられたのは、一族の結束が固かったから。白眼を武器に、色々な一族と手を組みながらも、日向宗家を中心として、生き延びてきた……必死で、白眼を守り続けてきたんだよ」

透視さえ可能な広い視野と、相手のチャクラを見切った上で使われる、日向の柔拳は、白眼の賜物だ。
それだけに、他の部族に白眼という血継限界が奪われぬよう、日向一族は、様々な策を講じてきた。

例えば、宗家以外の者には、秘伝忍術を用いて、呪印を施し、その者が死んだ時、白眼の能力が失われるようにした。
さらには、呪印を授けることで、宗家が分家を束ね、決して裏切り者が出ぬよう、管理できるようにしたのだ。

「千手やうちはと組んで、木ノ葉隠れの一員となったのちも、それは変わらなかったし、それ以上の不文律も出来たの」

決して日向は政治にかかわらない――声にして、ヒナタは胸がふさいだ。

「政治の中枢にたずさわれば、必ず、ある種の権力を手にすることになる。そうすれば、いくらでも日向に有利な状況を作れるし、他の一族を好きなように扱えるから、表面的には、とても好都合に思えるんだけど……」

血継限界を受け継ぐ一族は、とかく脅威となり易い。
忍の歴史において、戦いに負ければ、生まれたばかりの赤ん坊から年寄りまで、一族皆殺しとされるのが常だった。

「とにかく、木ノ葉の中に、敵を作らない。それが何よりも、日向にとっては、大事だったの。だから、あえて政治から遠ざかり、火影に従順であることを選んだ……」

日向一族は人数も多く、その能力ゆえ、第一線の任務につく、手練れが多い。
ひとたび権力を握れば、忍の世界に、波乱を起こすことも可能だ。
それゆえ、謀反の疑いをかけられたら、たちまち、攻め滅ぼされる運命にある。

「上忍はネジ兄さん、ただ一人。正式な小隊に属して、任務に当たった経験があるのも、私とネジ兄さんの二人だけ。あとはみんな、里の指示で組まれた編成に、必ず当主である父様の許可を得て、組み込まれるの」

要請に応じ、日向の忍は、あらゆる任務をこなす。
それは時に、暗部が請け負うような、裏の仕事であることも珍しくない。
そして、当主である日向ヒアシが影で采配を振るい、場合によっては、呪印を用いて、分家の忍達を支配するのだ。

「日向一族は宗家に従い、宗家は火影に付き従う……」

もうじき、路地を突き当たり、火影の屋敷へ続く、表通りに出る。

「権力とは無縁な私達だから……白眼を持つ者は、火影になることを望まない」
と、ヒナタは地面に視線を落とした。

「……同じなの」

軒の連なる、入り組んだ、路地裏に光が差し込み、足下から濃い影が伸びる。

「いずれ火影となるナルトくんへ、嫁ぐことは許されない。それが宗家の娘である私……日向ヒナタという、人間なの」

かたわらで、ピクリと肩を震わせるナルトに気付き、彼女は束の間、顔を上げた。
けれども、口を開きかけ、言葉を失ってしまったかのように、結局は下を向く彼の横顔から、そっと目を背ける。

黙ったまま、二人そろって、裏路地を抜け出ると、一気に視界が開けた。
明るい表通りを、火影の屋敷を正面にしながら、歩く間、ヒナタの頭の中では、怒号が鳴り響いていた。

『日向は変わった! もはや、影と添うが如く、木ノ葉の主流を望まぬようでは、一族の繁栄などない!』
『そうだっ。慣例を打ち破り、分家のネジを宗家当主に据えると決めた今こそ、変革の時! ヒナタ様を、うずまきナルトと縁組させ、里の決定に、日向も影響力を持つべきだ!』

ガマブン太と名乗る口寄せ蛙を引き連れ、ナルトが屋敷へ乗り込んで来てからというもの、日向の主だった忍達は、夜ごと宗家に集い、激論を重ねてきた。

『奇特なことをいう。うずまきナルトは一介の忍にしか過ぎん』
『しかし、いずれ必ず、火影となる人物だぞっ? しかも、九尾を手懐けた、最強の人柱力だ!』
『ナルトは初代の妻であった、五代目の祖母、ミト様から始まり、母クシナと続く、人柱力の家系ではないか! 日向が手を組むに、これほどふさわしい相手はいないっ』
『人柱力は里全体のものであって、特定の一族がこれを利用することなど許されぬ!』
『しかし、歴代の火影達は、人柱力を身近に置き、他里への圧力とするだけでなく、他の一族を統治するための方便に、用いてきたではないか!』

サクラとナルトの部屋を訪れ、料理をしたあの夜からだ。
任務に赴くナルトを見送ったのち、屋敷へ戻ると、ヒナタは部屋に押し込められ、顔を出さぬよう、きつく父から申し渡された。
もしも彼女が、どちらか一方に、賛成の意を表したら、一族間に亀裂が走ると、憂えてのことだった。

『大事なことを忘れている。うずまき一族の生き残りが、いつの日かナルトを頼り、集まって来るかもしれん。もしも、渦潮隠れの里を再興するなどと、いい出したら……』
『ご意見番も、同様の危惧を抱いておられる。だからこそ、ナルトにはうずまき家を興させ、木ノ葉へ留め置く手段を取らねばならん』
『ヒナタ様は分家となるのだ。うずまき家に嫁がせて、何の問題がある!』

自室にいても、大人達の興奮した声は、軽々とヒナタの耳へ届いた。

『分家とはいえ、宗家の姫君じゃぞっ? いらぬ諍いに巻き込まれ、宗家へ飛び火でもしたら、一大事じゃ!』
『何より、ネジの立場はどうなる! 火影の細君ともなれば、ヒナタ様は宗家を上回る権威を手にするのだぞ?!』
『だからこそ、日向がナルトの後ろ盾となってしまえばよいのだ!』
『それは詭弁じゃ! 火影に忠誠を誓うはずの日向が、逆に火影を操らんとしているかのごとく、見られかねん! そのようなことがあれば、あらぬ疑いをかけられ、取り返しのつかない事態にもなり得るぞ!』
『取り返しのつかない事態とは、何だっ?!』

逆賊の汚名じゃ! と、長老がいい切り、訪れた、不気味な沈黙を、ヒナタは覚えている。
そして、日向一族も依然として、結論を出せぬまま、表向きは一切ナルトの名を口にせず、当主であるヒアシの決断を待つばかりだった。

『呪印を授けたこと、未だ分家の者へは、告げぬように』

すでに彼女は、父が語った、その答えを知っている。

『これは、私の覚悟なのだ』

イルカとの縁談が持ち上がった日より、さかのぼること一ヶ月前、ヒナタは額に印を刻まれた。
何度も父と話し合い、家督相続をめぐる、一族内のいざこざを避けるため、先手を打った形だ。

『だから、ヒナタ……宗家として、分家のお前に申し渡す』

受けた呪印の熱さで痛む額を、畳にこすりつけ、ヒナタはそれを聞いた。

お前は選んだ――娘が抱く密かな恋心に勘付いてもなお、そう告げざるを得なかった、父の苦悩を思い、今でも胸が、締め付けられるように、痛くなる。

『願う相手と一緒になることは、もはや叶わぬ』

権力を手中にしたいと、一族の皆が、心の奥底で望んでいることや、それを得る、きっかけを待っていることに、いち早く父は気付き、危惧の念を抱いていた。

『うずまきナルトを、我々は求めていない』

いずれ火影となる人物を身内に、と考えた時点で、予見できたからだ。

『でなければ、日向は"うちは"の二の舞となる』

同じ轍を踏んではならん、と強い調子で繰り返した父の心は、とうに決まっていた。

(それでも……私はナルトくんの、横にいる)

ヒナタも揺るぎない覚悟を胸に、彼と歩を合わせ、たどり着いた、火影の屋敷の門をくぐった。

(……アナタを守るためにある、日向一族のひとりとして、いつまでも……)

無言のうちに建物の中へ入り、ナルトと並んで、階段を上がる。

最上階にある執務室へ向かう途中、挨拶を寄越す者がおり、ネジであるヒナタは、変化を悟られないよう、軽く頭を下げて、彼らとすれ違う。
よりいっそう多くの視線を浴びるナルトも、彼にしては大人しく、会釈だけを返していた。

そうして、階を上がるにつれ、独特な匂いが漂ってくる。
女性であり、医療忍者でもある五代目が好んで焚く、柔らかい香のかおりだ。
気が緩み、小さく息を吐いたヒナタは、次の瞬間、ぐっとナルトに腕をつかまれた。