ヒナタはよろよろと立ち上がり、突き当たりの開け放たれたドアから洩れる薄明かりを頼りに、前へ進んだ。
そうして、居間に足を踏み入れ、息を呑む。
(何が光っているの?)
カーテンも障子もない窓からは、様々な街の明かりや夜空に瞬く星と月が、一望できた。
けれども、外から入る光が、室内を照らしているのではない。
(ナルトくん?!)
気を取り直し、足音をたてぬよう、ヒナタは居間を横切り、窓際へ行った。
(そういえば……今朝は、水をあげられなくて、ごめんね)
整然と並ぶ鉢植えの観葉植物に胸の奥で手を合わせ、脇を見やれば、すやすやと寝入る、ナルトの姿があった。
どうあっても、見た目は異様だ。
布団を抱え、床の上に横たわる彼の体や、風もないのにふわふわと揺れる髪の毛から、ろうそくの炎のように、淡い輝きが陽炎となって立ち上っている。
(結界を形作っているチャクラとは、全然ちがう)
ヒナタは床へひざまずき、ナルトの寝顔に見入った。
(とっても柔らかくて、優しい光……)
外を覆う、まぶしいばかりの力強い光もそうだが、部屋の中を包み込むように揺らめく、ほのかな明かりにより強く、彼女はナルトを感じた。
「お帰りなさい」
と口にして、たなびく金色の髪を、無意識のうちに指先で触る。
「ずっと、私ばかりが待っているつもりだったけど……ナルトくんも、私を待っていてくれたんだね」
ヒナタの下でナルトが身じろぎ、まぶたを震わせると、同時に彼の発する光も徐々に弱まり、やがてはうっすらと窓を通して入ってくる、街の明かりに取って代わられた。
ナルトは寝返りを打って仰向けになり、
「……ヒナタ?」
と、かすれた声を出しながら、ゆるゆると目を開けた。
ふんわりと立ち上がっていた彼の髪も、元に戻っている。
ヒナタは手を止め、室内を見回した。
「結界も消えたのかな……」
「……わりぃ。何か、すげー眠くて、上手く聞き取れねェ……」
暗い部屋の中で、ぽつりとつぶやかれた言葉が、心細げに響く。
「でも、オレってば……」
「うん。わかってるよ、ナルトくん」
奥からドアを叩く音が聞こえ、
「だから、今はまだ、眠ってて。ちゃんと私、そばにいるから」
と、ヒナタはいい置き、腰を上げると、居間を出た。
真っ暗な廊下を、電気のスイッチはないか、壁伝いに手探りで進み、とうとう明かりを点けられないまま、玄関へ行き着いた。
まずは、カカシ、ネジ、そしてイルカの三人に、ナルトの無事を伝えようとした。
けれども、鍵があいているにもかかわらず、ドアはびくともしない。
思い付いて、ヒナタはしゃがみ込み、ドアの郵便受けへ顔を近づけた。
差し入れ口には、目隠しのため、覆いがついている。
何とか指を滑り込ませて郵便受けを開くと、身を乗り出し、わずかな隙間から呼びかけた。
「カカシ先生!」
「ヒナタか?」
すぐさま返事があった。
「よかった。無事なようだな」
何も見えず、外の様子もわからなかったが、どうにか聞こえる声を頼りに、返答をする。
「はい、ナルトくんも無事です。いったん目を覚まして、また、眠ってしまいましたが……」
早口となって説明し、
「それで、あの、お願いが」
と、急いで付け加えた。
「できれば今は、私とナルトくん、二人だけにしてもらえませんか」
「それは、オレ達に帰って欲しいという意味?」
「はい……」
「あのな、ヒナタ。オレ達は……」
「眠ってていいから、そばにいるからって、ナルトくんと約束したんです!」
気が急いて、必死になるあまり、語気が荒れた。
「朝になったら……ナルトくんが目を覚ましたら、私が責任を持って火影様のところへ、彼を送り届けます……だから!」
「落ち着け、ヒナタ。まずは玄関のドアを開けてくれないか」
カカシから優しく諭され、つい、気持ちだけ先走ってしまったことを知り、ヒナタは顔が熱くなる。
「それが……鍵はかかっていないのに、ドアが開かないんです」
「結界は消えたが、未だにナルトは、ヒナタを閉じ込めようとしてるってコトね」
「閉じ込め……!? いえっ、そんじゃなくて、あの……」
いいか、とカカシは声を低くした。
「結界のコトといい、ヒナタがドアをすり抜けたコトといい、それ以外にもナルトは今、アイツ自身でさえコントロール仕切れないほど、強大な力を発揮しつつある。ソレを知ったうえで、二人きりになりたいと、いうんだな?」
「……はい」
「……まあ、そういう話になるかなと、予想してはいたよ」
「勝手をいって、すみません……」
「いいんだ。ナルトはヒナタ"だけ"を、部屋へ招き入れたかったんだろうし」
恥ずかしいような、嬉しいような、不埒ともいえる、胸のときめきを覚え、郵便受けの差し入れ口に添えた指を、引っ込めたくなる。
「よし、わかった。五代目には、オレから説明しておこう」
そんなヒナタの動揺を、あっけないほど簡単に、カカシは受け流した。
「心配なのは日向一族だが……」
カカシの声が一瞬遠くなり、
「元より、ヒアシ様も承知されているはず」
と、ネジの声と共に、外から強く、差し入れ口が押し広げられた。
「こんなコトをしてまで、アナタと二人きりになりたいと、ナルトは願っている。だからこそ、話し合うべきは、この機会しかない」
「ネジ兄さん……」
「明日、ナルトに付き添って五代目の元へ行くなら、里の者達に要らぬコトをいわれぬよう、オレに変化しろ。そして、もしも五代目のところへ現れず、屋敷にも戻らぬような事態となったら、ヒアシ様も黙ってはいない」
よく心得ておくんだ、とネジに念を押され、ヒナタはドアの内側で、
「はい」
と、深くうなずいていた。
「……ヒナタ」
「イルカ先生?」
ぴたりとドアに身を寄せ、耳を澄ます。
「ナルトと昨夜、最後に話をしたのは、オレなんだ」
「……!」
「スゴク照れていたけど、同時に喜んでもいた。ヒナタがナルトの部屋へ、水やりに行っていることを話したら、アイツは……」
そこでイルカがいったん言葉を切り、ヒナタはぎゅっと目を閉じた。
「こんなコト、いえる義理じゃないのは、わかってる。でも、ヒナタの強さを、ナルトは信じているんだ」
外から伝わる冷たい夜気のせいか、ドアに寄りかかっていると、体が小刻みに震える。
「なんといってもヒナタは、ゴールデンルーキーと呼ばれた内の一人だもんな。同期の卒業生二十七人の中で、正式な下忍となったのは、たった九人……しかも、全員が卒業したその年に中忍試験を受けて、第三の試験まで進んだ。ホント、スゴイよな。しかも、今ではヒナタもオレと同じ……いや、オレ以上の中忍だ」
自慢の教え子だよ、とイルカがしみじみとした口調でいい、ヒナタの目尻に、うっすらと涙がにじんだ。
「けれど、中忍だとか、上忍だとか……そんなのは、どうでもいいことなのかもしれない。本当の強さは、大切な人を守りたいと思う、意志そのものだと、しょっちゅうナルトも口にしていたからな。そしてアイツにとっては、自分を心から認めてくれる人こそ、一番大事な、守るべき存在なんだ」
私にとって、とヒナタはまぶたを拭い、強い声を発した。
「守るべきは、日向の血継限界……白眼を後世へ伝えるため、この身を宗家に捧げる覚悟をしました。そして私を含め、日向一族は、火の意志に従い、生涯"火影"に忠誠を誓います」
しばらく間が空いたのち、
「やっぱりヒナタは強いな」
と、つぶやきにも似た、イルカの声を聞いた。
「……ナルトのこと、頼んだぞ」
彼がそう告げたのを最後に、ドアの向こうから人の気配が消えた。
忍の引き際は鮮やかで、散開となれば、あっという間に姿を消す。
この場合、すべてはヒナタの判断に、委ねられたということだ。
(イルカ先生は、私の許嫁となる人なのに……)
ドアに手を突き、ヒナタは立ち上がると、暗い廊下を引き返し、部屋へ戻った。
(何もないと……ナルトくんが、私と二人きりになりたいのは、話をしたいだけだと、わかってるんだ)
明かりを点けないまま、居間と台所を区切るように置かれているテーブルから椅子を引き出し、腰を下ろす。
向かいの窓からは、これ以上ないほど美しい、里の夜景が望めた。
新月から間もないせいで、星も、街の明かりも、夜の中にくっきりと浮かび上がって見える。
ヒナタはテーブルに肘を突き、ぼんやりと外を眺めながら、ナルトの安らかな寝息を聞いた。
すうすうと、それは気が抜けてしまうほどに、穏やかだった。
夜が深まり、ひとつ、またひとつと家々の光が消えていくのを見届け、ヒナタは静かに席を立った。
そして、布団にくるまり、眠る、ナルトのかたわらへ行き、彼と同じように床へ横たわる。
何もなくていい、と思った。
――ナルトくん。
彼の無邪気な寝顔へ向かい、声にしないまま、唇だけを動かした。
――お休みなさい。
次に目が覚めた時、二人きりの時間は終わる。
だからこそ、この夜を平穏な、幸せに満ちたものにしたいと、願った。
互いの目を見つめ、深く語り合うことも、笑い合うことも、罵り合うことも、何もないまま終わるのが、この恋には相応しい。
ほどなくヒナタは、眠りに落ち、
――ヒナタの幸せって、何だ?
と、夢の中で、ナルトから問いかけられた。
――聞いたよな、オレの幸せはナニって。
だったらさ、と澄んだ空のように青い瞳を向けるナルトの髪が、太陽のようにきらめいている。
――ヒナタの幸せは何か、まずは教えてくれ。
――私の……幸せ?
まぶたをこすりこすり、彼女は薄く開いたまぶたの隙間から、ナルトを見返した。
彼は仰向けに寝転ぶヒナタの、顔の両脇に手を突いて、上へまたがり、真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
――今が……幸せ、かな。
目を細めたまま、ヒナタは答え、ニッコリと笑った。
――幸せすぎて、泣いちゃいそうだよ、ナルトくん。
――そっか……オレも、同じだってばよ。
――ナルトくんも?
日の光を浴びながら、神妙な顔つきとなって、うなずく彼の影が広がり、視界を覆い隠してゆく。
ヒナタは再び目を閉じ、唇を通して伝わる熱と、のしかかる体の重みを受け止めた。
静かな夜は明け、何もかもが激しく、動き出す。
そして夢は、残酷な現実となるのだった。