ますます緊張が増す中、
「すみません。遅くなりました」
と、懐かしい声が耳に届き、ヒナタはどきりとした。

「こんな大事な日に、アカデミーの用事を優先するとは……」

呆れるホムラを横目に、
「それより、生徒の容体はどうなんです?」
と、ヒアシは聞いた。

「おかげさまで、大事には至らず……命に別状もなく、当人はベッドの上でぴんぴんしておりました」

皆と並んで床に腰を下ろし、快活な受け答えをする彼のお陰で、その場の雰囲気も即座に和らぐ。

「ヒナタ!」

安堵したのも束の間、すかさず名前を呼ばれ、彼女は思わず姿勢を正した。

「待たせて、悪かったな」

アカデミーにいた頃から変わらない、はきはきとした、けれども優しい声で話しかけられ、胸の奥が痛くなる。

(イルカ先生……)

返す言葉を忘れ、黙り込むヒナタを助けるように、ヒアシが声を発した。

「早速ですが、イルカ殿はこのたびのこと、委細承知されているのでしょうか」
「まあ、大体は……でも正直、驚いています」

ヒナタの戸惑いをよそに、イルカは屈託なく答えた。

「わざわざ、ホムラ様を通じて、お声をかけて頂いたことにも、恐縮しました」
「当然だろう。うみのイルカは、ワシの盟友であり、三代目火影でもあったヒルゼンが、我が子のように目をかけていた者だ。このワシが媒酌人となったところで、何ら不都合はあるまい」
「違いますよ。私がいいたいのは、自分のような軽輩のために筋を通してくれたホムラ様とヒアシ様、お二人に感謝しているということです」

老人特有の頑固さからか、機嫌を損ねた様子のホムラへ、笑顔を絶やすことなく、イルカはいい、続いてヒアシを見た。

「これはきっと、重い決断なんでしょうね」
日向家にとっても、ヒナタにとっても、と躊躇なく告げる彼へ、父はうなずいてみせる。

「日向宗家の第一子が、分家を建てる……前例がないことなので、事は慎重に運ぶべきであろうと、ホムラ様に仲立ちをお願いした」
「しかも、婿を迎えてとなると……お相手選びも、さぞかし難しいんでしょうが、私なら両親はおらず、縛られるべき家もない」
「こらっ、イルカ! 口が過ぎるぞ」
ホムラが声を荒げ、
「いや、いいんです」
と、ヒアシは首を左右に振った。

「正直なところ、しかるべき一族に属する相手では、色々と問題が多いのも確か……」
「しかし、私は中忍ですよ。おまけに、一介の教師ですし」
「いや、中忍や上忍といった肩書きなど、大した問題ではありません。要は、日向の名を受け継いでも、百眼という血継限界に負い目を感じず、くだらない古いしきたりにも振り回されない、強い人間を求めているのです」

その点イルカ殿なら、とヒアシは声を強め、いった。

「娘を安心して、託すことができる。三代目が残した火の意志を、誰より深く理解し、忠実に受け継ぐあなただからこそ……」
「だったら、ナルトは? 彼も私と同じ、三代目の庇護を受けた、孤児ですよ」

臆すことなくイルカが問いかけ、ヒナタは息を呑んだ。

「うずまきナルトは、いかん」

冷たく撥ね除けたのは、ホムラであった。

「ナルトの母うずまきクシナは、渦潮隠れの里出身だ。あの失われた里から各地へと移り住んだ者の末裔が、彼を担ぎ上げて、渦潮隠れの里を復興させようと目論むかもしれん。それを防ぐためにも、ナルトには木ノ葉でうずまき家を興してやるのだ」

「それ以前に、彼は人柱力だ……」
凛とした父の声に、ヒナタは体を硬くする。

「ヒアシの申す通り。九尾の妖狐が木ノ葉の守り神となっているのも、ナルトが生きている、今だけのことだ。いずれはミト様やクシナのように、特殊なチャクラを持つ、封印術に長けた者か、ナルトと結ばれる者の子……いずれかに九尾を封印することになる」

深刻な語り口となったホムラが眉間に深くシワを寄せたところで、彼女には何のことだか、理解できなかった。
うずまきクシナ、渦潮隠れの里、ミト様――ナルトと深く関わった者でなければ、恐らく耳にする機会もない、言葉なのだろう。

(サクラちゃんなら……きっと何でも、知ってるんだろうな……)

深いため息を吐き、ヒナタは肩を落とした。
「ホムラ様、ヒアシ様」

突然、イルカが口を開いた。

「今日は良い天気です。ヒナタを連れて出かけてもよろしいですか?」

ぽかんとする彼女の向かいで、
「大丈夫です。暗くなる前に、きちんとお屋敷までお届けしますから」
と、イルカは笑いながらも、そっとホムラとヒアシへ目配せをしていた。
どうやら公にはなっていない、ごく一部の人間しか知り得ない事実が彼らの口を伝い、漏れ出ていたらしい。

「きちんと二人で、これからのことを話したいと思います」

取り繕うように続けたイルカへ、ヒアシは丁寧に頭を垂れた。

「娘を……よろしくお願いします」

滅多に頭を下げぬ父の、短いが、心を込めた頼みに、イルカは力強くうなずき返し、
「ヒナタ、出かけよう」
と、立ち上がった。

「それでは、行って参ります。ホムラ様、今日はありがとうございました」

深々と頭を下げるヒナタへ、うむ、とホムラがうなずいたのを合図に、彼女は部屋をあとにした。
そして屋敷を出ると、イルカに伴われ、里の中心街へと向かう。

たちまち、大きな旧家の屋敷が建ち並ぶ里の外れとは、町並みが一変した。
様々な札や装飾品で軒下を飾る、木ノ葉独特の家々が、所狭しとひしめき合っている。
中には高さを誇る、立派な塔もあり、その華やかさは格別だ。

深い森と険しい岩山に囲まれた木ノ葉隠れの里は、狭い平地を徹底的に利用している。
他国からの訪問者が目を見張る、ユニークな景観は、暑苦しいほどに密集する、建物の群れだ。
ペインに破壊され、大戦を経た今でも、里は人々の熱意を反映して、昔の風景そのままに、見事な復興を遂げていた。

(ナルトくんがいたから……ナルトくんが、守ってくれたから……)

通りを行き交う里の者達や、立ち並ぶ多くの店を、ヒナタは熱心に眺めながら、歩いた。
その一方で、かたわらのイルカだけは、まともに見ることができず、困ってしまう。

本来なら、休日であったせいだろう。
彼はゆったりとした、風をはらむとふんわりふくらむ、黒の上下に身を包んでいた。
大人の忍達が好んで着る軽装で、袖やズボンの丈も、ぐっと短い。
武器を隠し持つのに適している、見慣れた袖の長い忍装束にベストを着込む姿とは、あまりにも印象が違った。

(たしか……十歳は年上だったはず)

普段と同じく髪は後ろでまとめていても、木ノ葉の額当てをしていないだけで、先生らしくなくなってしまう。
そのせいか、イルカがいくつも歳の違わない、見知らぬ青年のように感じられ、ヒナタは落ち着かなかった。

(この人と、私……)

ちらりと視線を走らせ、思いもかけず、彼と目が合った。

うまく口がきけず、うつむいてしまい、
「驚いたよ、ヒナタ」
と、話しかけられ、あたふたする。

「ど、どうしてですか?」
「いや、あんまり綺麗なんで……正直、戸惑ってるんだ」

弾かれたように顔を上げたヒナタは、隣で照れ臭そうに頭をかく彼を、まじまじと見つめた。

「あの、小さかったヒナタが、すっかり大人の女性になってしまって……女の子ってのは、成長が早いな」

たちまち顔が熱くなり、路上で立ち尽くすヒナタだったが、
「センセーッ、イルカ先生ーっ!」
と、向こうから彼を呼び止める、大きな声を聞いて、我に返った。

「どうしたんだ、木ノ葉丸」

イルカはすぐに声のした方へと向き直り、返事をした。

「モ、モエギの妹が怪我をしたんだってっ? ついさっき、エビス先生に会ったっていうヤツが、いってたんだ!」

息を切らし、走り寄ってきた木ノ葉丸が、そうまくしたて、
「ああ、そうか! あの子は木ノ葉丸と同じエビス班の、モエギの妹だったか」
と、イルカは両手を打った。

「今、アイツんトコへ行ってきたんだけど、誰もいねーんだ、コレ!」
「入院することになったからね。モエギも、彼女の家族もみんな、病院にいるはずだよ」

容体はっ? と慌てる木ノ葉丸へ、イルカは身を屈め、親切丁寧に説明をした。

「庭の木に登って遊んでいたらしいが、足を滑らせたらしくてね。足の骨を折ったから、一週間はベッドで安静にしていなくちゃならないようだけど、何も心配はいらないよ」
「そっかー、良かったあ……」

よほど安心したのか、木ノ葉丸は胸に手を当て、深々と息を吸ったが、次の瞬間、
「ところで、このヒト誰? 先生、デートしてんの?」
と、声を張り上げた。