ヒナタは晴れ着を、そっと床の上に広げた。

一見地味な無地の着物だが、光沢のある深い藍色の生地に、細かな文様が織り込まれていて、窓辺から差し込む優しい陽の下だと、美しい花柄が浮かび上がって見える。

白の着物に黒の羽織を重ねるのが慣例の日向家には珍しい、そんな華やな着物に袖を通すと、かねてから選んでおいた、柿色の帯を合わせた。

後ろを大きな蝶のように作る、慣れない結び方に手間取ったが、どうにか支度を終え、ホッとしたように鏡の前に座ったヒナタは、腰まである長い後ろ髪をまとめ、唇には紅を引いた。

(ちょっとだけ……派手かな……)

めったに化粧などせず、こんな大人の女性らしい盛装も初めての彼女には、こういう日にふさわしい装いがどういうものであるか、見当も付かない。

時間が差し迫っていたこともあり、鏡とにらめっこしていたのも束の間、ヒナタは慌てて、部屋を出た。

「ヒナタ様、今日は一段と可愛らしいですね。大変良く、お似合いですよ」
「美しく成長されましたな。お父上も、さぞかし鼻が高いことでしょう」

日向宗家である彼女の家には、白眼を持つ者達が数多く出入りしている。
その誰もが、廊下で晴れ着姿の彼女を呼び止め、褒めそやした。
恐らく、これからヒナタの身に起こることを、何もかも承知しているのだろう。

彼女は頬を赤らめ、ただ静かに会釈を返すと、先を急いだ。

「父上……ヒナタです」

たどり着いた部屋の前で、廊下に膝を突き、ふすま越しに声をかけると、内側から、すっと障子が開けられた。

「用意できたようだな」

当主である父のヒアシが自ら顔を出していい、ヒナタは立ち上がった。

「どうですか?」

父が恐ろしく感じられ、おどおどと接していた過去は、すでに遠いものとなっている。
自分に向けられる優しい笑みに甘え、彼女は軽く袖を振り、たずねてみた。

「少し、派手では……?」
「いや。こうして陽の下で見ると、いかにも若い娘らしく華やかで、好ましいようだ」

目を細めて嬉しそうにいい、ヒナタの身に着ける帯に、父は目を留めた。

「特にその、鮮やかな帯の色は……いっそう藍の着物を引き立てて、品良く見せている」

お前には本来そのような色が似合うのかもしれんな――わずかながらではあったが、苦い口調を帯びた、父のつぶやきを、
「もう、出かけないと……約束の時間まで、あとわずかだし」
と、彼女には珍しく、さえぎった。

「そうだな。先方を待たしては失礼にもなろう」

微笑み、足を踏み出した父に、ヒナタは続いた。
廊下を進み、式台で家の者達に見守られながら、履物に足を通す。

二人は並んで家を出ると、日向家の門をくぐり、通りを歩いた。

「お前にいっておくが……」

不意に父が口を開き、ヒナタは彼の横顔を仰いだ。

「今日のことは、単なる顔合わせでしかない。先方の意向をまだ確認できてはおらぬし、何ら約束事も交わされていない」

立ち並ぶ家々の向こうに広がる、抜けるように青い空を眺めながら語った父の、
「わかっているな?」
と告げる表情は、どこか苦しげだった。

「こんなことをいうのは、かえってお前を戸惑わせるのであろうが……もし、気乗りがせぬというならば、白紙に戻してもみせよう」

いつもなら、当主であるヒアシの外出には護衛が付く。
しかし今日は、さほど遠くない近所の屋敷を訪ねるだけなので、付き人はいない。

二人きりというそんな気易さが、娘の気持ちを重んじようと考える、父の本音を引き出したのだろう。

「家のためだといって、お前が我慢することはないのだ」

笑みと共に、優しい言葉がかけられ、ヒナタは胸がいっぱいとなった。
そして、本来なら日向宗家を継ぐはずだった自分の生まれ持った立場をも、自覚させられた。

「そんなに……気負ってはいません。相手が、私を気に入らない場合もあるわけで……」

軽く受け流し、そっと帯に手を添える。
明るい日差しに映える、鮮やかなオレンジが、ますます温かみのある色へと変化し、ヒナタの体を包み込む。

――まっすぐ自分の言葉は曲げない。

憧れ続けている人を想い、身に着けることにした帯が、彼女を勇気づけた。

「家にとって、一番いい結果となることを、願っています」

迷うことなく正直な気持ちが、すらすらと口をついて出る。

「……成長したな。ずいぶんと、大人な口をきく」
「これでも、大戦を生き残ったくノ一の端くれですから」

ヒナタの反撃に、父は笑い声を上げた。
「さあ、着いた。粗相のないよう、せいぜい頑張ることだ」
立派な門構えの大きな屋敷を前に、冗談めかしていった。

「これは、これは、ヒアシ様、ヒナタ様。お待ち申しておりました」

玄関先で家の中へ向かい、来訪を告げると、すぐに水戸門家の家人が姿を見せ、ヒアシとヒナタを客間へ案内した。

凝った意匠の施された、この家の主、水戸門ホムラは、木ノ葉の相談役を務めている。

「よく来たな、ヒアシ。娘と一緒に、そこへ座るといい」

磨き込まれた廊下の先にある、広い座敷の中央に、彼はどっかりと座っていた。
父を呼び捨てにするだけでなく、用意された座布団を指差し、横柄に話す様子は、さすがとしかいいようのない、貫禄に満ちている。

ヒナタは父と並んで腰を下ろし、頭を下げた。

「本日は、かような席をご用意下さり、深くお礼申しあげます」
「なに、礼をいうには及ばぬ。もう一人の主役が、まだ来ておらん」

とにかく堅苦しい挨拶は抜きにしてくつろげ、とホムラがうながし、茶や菓子が振る舞われた。

「アカデミーから急な呼び出しがあったようでな」

どうやら教え子の一人が家で怪我をして入院したらしい、と茶をすすりながら、顔をしかめるホムラを、
「彼はアカデミーでも、特に信任の厚い教師ですから」
と、ヒアシは取りなした。

「それにしても、日向の家も変わったものだな。跡継ぎであるべき息女のお相手に、彼を選ぶとは」

ホムラは話題を改め、身を乗り出す。

「噂は、本当なのかな?」
「はい。私の代で、血に縛られるのもおしまいということです」
「ほう……呪印を分家に課す、日向のしきたりは、どうなる」
「宗家に忠誠を尽くすというより、白眼という血統を正しく木ノ葉に留め置くため、呪印は必要です。しかし、それ以上に必要なのは、家中で最も知力に優れた者を当主に据えて、結束を図ることでしょう」
「それで、日向ネジを……」

感嘆の声をもらすホムラへ、ヒアシは淡々と打ち明けた。

「白眼を持つ者達の中で一番優秀な忍が、宗家の当主となり、日向一族を束ねる……ネジをきっかけに、新しい伝統を作ってゆきたいのです」

それにしても、とホムラは、ヒナタに視線を当てた。

「娘に婿を取らせたうえで、宗家から出し、新しい分家にしようとは……ずいぶんと思い切った決断をする」
「なにぶん、相手がいないことには、決まりようもないのですが」
「宗家へネジを養子として迎える、前準備なのだな」
「はい。目処が立てば、娘も、そしてネジも、肩身の狭い思いをせずに済みます」

なるほど、とうなずくホムラを前にして、ヒナタは実感する――どういう形であれ、これは見合いなのだ。