夕食を終え、台所でヒナタは、水仕事に追われていた。
(明日の朝は、六時に八百屋さんから野菜が届けられるから、受け取って……朝食は家族四人分だけ)
皿を洗いながら、次々と明日の予定が頭に浮かんでくる。
(お昼は長老を交えた、会食があるんだよね。仕出屋から配達される懐石料理が、何人前だっけ……後で確認しておかなきゃ。昼だから、お酒はナシだよね)
任務を離れ、家のことを手伝うようになってから、毎日が万事、この調子だ。
(あっ、午後には分家の女の人達が、武器庫の、虫干しの手伝いに来るんだっけ。お茶とお菓子を用意して……そうそう! 床の間の花も、そろそろ変えないと。午前中に、いのちゃんトコへ行って、花を買ってこよう)
嫁に出され、宗家へ仕える身となるからには、裏方としての務めを、今のうちに何としても、覚えねばならない。
(任務で第一線に立つ忍は、命がけだけど……)
里の留守を預かるのもまた、大変な仕事だと、身につまされる毎日だ。
(ただ、無事に戻るのを、待つだけなんて……)
手を止め、開け放した窓の向こうに輝く、細い月を仰ぎ見る。
「ナルトくん、きっと無事だよね……」
思わず声に出してつぶやき、
「姉様!」
と、後ろから呼ばれた彼女は、勢い良く振り返った。
「な、なにっ?!」
「ちょっと! そんなに大声を出さなくても!」
廊下から身を乗り出し、台所をのぞき込んでいたハナビが、顔をしかめ、大げさに耳をふさぐ。
「ごめんね。いきなりだったから、少し驚いただけ」
洗いかけの皿を置き、苦笑いするヒナタへ、
「父様が呼んでるよ。書斎に来てくれって」
とハナビはいい、駆け寄って来た。
「食器なら、私が片付けとくから」
「あ、うん……お願いできる?」
「何だか、急ぎの用事みたい。ネジ兄さんも待ってるから、早くしなよ」
「ネジ兄さんが?」
ヒナタが着る、白いキモノのたもとを引っ張り、ハナビは追い立てるように、声を張り上げた。
「だから、そういったじゃない! もう、姉様ったら、相変わらず、おっとりしてるんだから!」
「……そういうハナビは、ホント短気よね」
前掛けを外したヒナタは、椅子の背にかけていた、黒い羽織へと手を伸ばし、口を尖らせた。
「いつまでたっても、生意気なんだから……」
「姉様っ、ちゃんと聞こえてるよ!」
「当たり前でしょ。聞こえるように、いったんだから」
羽織に腕を通しながら、しらっとしてヒナタが答えると、ハナビは驚いたように目を丸くしたが、やがてプッと吹き出した。
「こーいうの、悪くないね」
「……? ハナビと……憎まれ口を叩き合うのが?」
「そう! 姉妹だからこそ、何をいっても許される、みたいな」
鼻の付け根にシワを寄せ、
「前にね、キバがいってたの」
とハナビは、いたずらっ子のように、可愛らしく笑う。
「いっつも、ハナさんとケンカをしては、いい負かされて、使いっ走りをさせられるんだって。でもね、そういう風にケンカしたり、遠慮なくものを言い合ったりするのが、ホントのきょうだいだと、私は思うの」
キバは呼び捨てで、キバの姉を『さん』付けするあたりが、いかにもハナビらしい。
「キバくんはハナビより年上で、小隊を率いて任務にも当たってる、先生だよ。ちゃんと、キバさんと呼ばなくちゃ」
笑いをこらえ、それでも、ヒナタがたしなめると、
「キバはキバでいいの!」
と案の定、ハナビは頬をふくらませた。
「ねえ、シノくんは? やっぱり呼び捨てなの?」
「シノ先生! 無口でクール、オマケにミステリアス! キバと違い、大人って感じー」
「もう、しょうがないんだから……」
肩をすくめて、クスクスと笑うヒナタを見ながら、ハナビはふと、真顔となった。
「姉様……変わったよね」
「突然、どうしたの?」
「そんな風に、姉様を変えたのは……」
うずまきナルトなんでしょ? と、台所の流しへ寄りかかり、食い入るように、問いかけてくる。
「以前だったら、私と話していても、おどおどしてて、そんな風に口の利き方を注意することなんか、有り得なかったもん」
ハナビの脇をすり抜け、ヒナタは台所を出ると、廊下から無言のまま、かすかな笑みだけを返した。
「……余計なコトいって、ゴメン」
むこうを向いてしまったハナビが、
「食器、洗っとく」
と、ぎこちなく背中を丸め、発した声に見送られ、ヒナタは台所を離れると、父の書斎へ向かった。
じゃあじゃあと食器を洗う、水の流れる音が聞こえ始めたが、屋敷の奥へ進むうちに、それもすぐに遠のき、虫の声が取って代わる。
「父様、ヒナタです」
床板に膝を突き、父が待つ部屋の障子を開けると、頭を下げた。
「お呼びでしょうか」
「事は急ぎだ。そのままでいいから、聞きなさい」
「はい」
と、ヒナタは廊下にうずくまったまま、返事をした。
「ヒナタ。お前、うずまきナルトの部屋の鍵を、預かっているな?」
ハッと顔を上げ、口を開きかけるヒナタを手で制し、
「何もいわなくていい。今すぐ装束を整え、その鍵と共に、ナルトの部屋へ向かえ」
と、父のヒアシはいった。
「ネジも同行する。詳しい話は道中、彼から聞くといい」
ハナビがいった通り、書斎の中央には、ヒアシと向き合い、座る、ネジがいた。
白い上下に黒の腰布を巻く、見慣れた忍装束姿の彼は、
「それでは、玄関で待っています」
と、目を見開くヒナタへ視線を寄越し、立ち上がる。
「わ、わかりました。すぐに私も参ります!」
ネジへ返し、父に一礼すると、ヒナタは急いで、自室へ取って返した。
(ナルトくんに身に、何かあったんだ!)
部屋へ入り、無我夢中で着物を脱ぎ捨て、久々となるパーカーとパンツに着替える。
クナイホルダーを右足に着けて、忍具の入ったポーチを腰へ巻き、木ノ葉の額当てをキュッと首に結びつければ、準備完了だ。
ヒナタは縁側へ飛び出し、サンダルに足を入れ、履き心地を試すように二、三度ジャンプをしながら、落ち着け、落ち着け、と自分にいい聞かせ、力一杯地面を蹴った。
「ネジ兄さん!」
屋根伝いに走り、玄関先へ飛び降りると、敷石の上に立っていたネジも、
「行こう」
と、ヒナタを伴い、たちまち走り出す。
「鍵は持ってるな?」
屋敷を出て、民家の屋根を飛び越えながら、一直線にナルトが住む部屋へ向かう途中、ネジに聞かれた。
ヒナタは腰の後ろへ回したポーチに手を置き、大きくうなずいてみせる。
(……きっと普通じゃない、状況なんだ)
ついさっき見た、ナルトの名を口にして決まり悪げに背中を向ける、ハナビの姿が脳裏をよぎった。
(こんな時に、父様が私を、ナルトくんのところへ行かせるなんて……)
ヒナタの家へ、突然のように結婚の意思を、ナルトが伝えに来て以来、日向一族の間で、彼の名前は半ば禁句となっている。
裏を返せば、彼との結婚を前向きに考えるよう、最初はヒナタをけしかけていた、ハナビでさえ口をつぐんでしまうほど、宗家の娘とナルトの縁組は、一族にとって受け入れ難い、問題をはらんでいるのだ。
(お願い、無事でいて!)
ナルトくん、と奥歯を噛み締めるヒナタの隣に並び、
「そんなに不安そうな顔をするな」
と、走るスピードを緩めたネジが、ほんの少し顔を傾け、下へ降りようと合図をする。
「急ぎではないの?」
「詳しい話をオレから聞くよう、ヒアシ様もおっしゃったはずだ」
「それは、そうだけど……」
「事情を知っておいて、損はあるまい。それに、宗家の屋敷にいては出来ない、話もある」
ナルトの部屋まであとわずかという距離の、商店街から一本奥へ入った、通り沿いにある公園へネジが降り立ち、ヒナタもそれに続いた。
「ここなら、大丈夫だろう」
ヒナタへ向き直り、さっそくネジは、話を始めた。
「まず、いくつか質問したいが、答えてくれるか?」
「はい……」
夜も更けたとはいえ、街を練り歩く人々の数は、まだまだ多い。
けれども、裏手が林となっていて子供向けの遊具しかない、この公園なら、街灯が少なく、隠れて話をするにも、好都合だった。
「ナルトが任務から帰還したと、知っていたのか?」
たずねながら、それでもネジは注意深く、辺りに目を配っている。
「いいえ」
と、緊張のうちに答え、ヒナタはギイギイと風に揺れる、ブランコの音を聞いた。
「それなら、今朝ナルトの部屋へ行かなかったのは、たまたまだったのか?」
「ネジ兄さん、どうして、それを……」
「誰でも知っていることだ。ナルトが留守の間、もう何日も、アナタがヤツの部屋へ通っていたことも」
足下に視線を落とし、顔が上げられずにいるヒナタへ、
「家にこもり、外部と交流せず……都合の悪いことはまったく耳に入らない、といったところか」
と語り、ネジはため息を漏らした。