背が高いカカシの顔を仰ぐと、木ノ葉の夜が、自然と視界に入る。
ナルトのいった通り、昼間の快晴が嘘のように、月どころか星も出ていない、真っ暗な空だった。
「何か、あった?」
首を傾げ、カカシはさらっと問いかけてくる。
「実は今日……私が留守の間、ナルトくんが家に来たみたいで……」
話をするよう、目で促され、ぽつりとこぼした。
「私を好き、だとか……そんなコトを……」
途切れ途切れに打ち明けながら、ヒナタは昼間の騒動を思い返していた。
イルカと甘味処でぜんざいを食べながら、他愛もない世間話をして、屋敷に戻ったのは、ナルトが去った、ほんの少し後のことだ。
――つい、さっきまで、うずまきナルト様がいらっしゃっていて……。
事情を話してくれたのは、時おり宗家の雑事を手伝いに来てくれる、遠縁の娘だった。
――皆、事情を知っています。でも、話題にする者は、誰もおりません。
家には普段と違う、静かだけれども、どこかヒナタの様子をうかがうような、妙な空気が流れていた。
誰も面と向かって口を利こうとはせず、彼女だけが、そっとヒナタの部屋を訪れ、教えてくれたのだ。
――中庭に突然、大きなカエルが現れて……すぐに妙木山のガマ様だとわかりました。その背には、うずまきナルト様が乗っていたので、誰もが、里の使いだと思ったようです。
里の上層部に属する忍となったナルトの立場を、明確に表している。
日向宗家にあっては、当主である父しか応じることのできない、客であるということだ。
――当然、ヒアシ様に取り次ぎ、応対してもらおうと思っていたら……。
ヒナターッ! 出て来ーいっ!! と、ナルトは大声で叫んだという。
――オマエが好きだあーっ!
思い出すだけで、それこそ全身の血が沸騰したのかと勘違いするほど、ヒナタは体が熱くなり、いたたまれなくなる。
「どうして? としか、思えませんでした。だって、ナルトくんが好きなのは……」
鼻の奥がツンと痛くなった。
嬉しいのか、悲しいのか、ヒナタにもよくわからない。
ただひとついえるのは、ナルトが考えるように、事はうまく運ばなかったということだ。
――これは、これは、大ガマ様。日向宗家当主、日向ヒアシです。わざわざ当家にお越しいただき恐縮だが、本日はどういったご用件で、いらっしゃったのかな?
長い回廊に囲まれた中庭へ、縁側ではなく、わざわざ正面の玄関から出た父は、ナルトを完全に無視した。
――ヒナタ様を出してくれと、ナルト様は騒いでおられましたが、ガマ様が黙れと一喝されました。
遠縁の娘の話では、父は一貫して、筋を通そうとしたらしい。
ナルトとの会話を頑なに拒否し、見かねたガマブン太が彼に代わり、話を切り出したのだという。
――向かいましては、初のお目見えと心得る。手前は妙木山が大蝦蟇の親分を名乗る、ガマブン太と申す。そして背に乗るは、子分のうずまきナルト。ざっくばらんに用件を申せば、日向の娘を嫁にしたいと、子分が望んでおるんじゃ。
父は何も返事をしなかった。
ただ黙ってガマブン太の背に乗る、子分の顔をにらみ付けたらしい。
しかし、ナルトはひるまなかった。
――自分が、すっげー突拍子もねえコトをしてんのは、わかるってばよ。でもオレには、どうしても、ヒナタが必要なんだ。
だから彼女に会わせてくれ、と中庭へ降り、父の前で片膝を突き、頭まで下げた。
これには、ふすまの影から成り行きを見守っていた日向の者達も、胸を打たれたらしい。
けれども、かえってそれが、父の逆鱗に触れた。
――ガマブン太親分。娘が留守とも知らず、騒ぎ立てるあなたの子分は、いったい何をお考えなのか。娘の了解も得ず、こんなことをしている。
諭すようにいっておきながら、こんな輩に娘はやれん、と申し出を完全に断り、プイと屋敷の中へ引っ込んでしまった。
――ワリャ、このガキィ!! 肝心な娘ッ子がいねえとは、このちんちくりんがあっ!!
――ご、誤解だってばよ、オヤビンッ! オレはてっきり……!
――ワレを妙木山へ連れて行くからに、覚悟しいやっ!
――ヒィイイイィッ!!!
漫才のような、ドタバタしたやりとりが交わされたあと、ガマブン太とナルトの二人は、あれよあれよという間に、姿を消してしまったという。
それが、遠縁の娘から聞かされた騒動の、一部始終だ。
いかにもナルトらしいといえば、ナルトらしいが、日向の家からしたら、ただ事では済まされない事態でもある。
「……私、ずっと、サクラちゃんがナルトくんの想いを受け取ってくれたらいいのにな、と思ってました」
カカシの背後に広がる、何も無い夜空を、ぼんやりと眺めながら、ヒナタはいった。
「サクラちゃんのために、ナルトくんは……サスケ君を助けようと……約束を守ろうと、必死で戦ったんだもの」
矛盾した気持ちを抱え、それでもサクラのために、命を賭けてまで前に進もうとしたナルトを、自分は誰よりも、理解しているつもりだった。
(見守ることしか、できなかったけど……)
胸に当てた手をぎゅっと握り締める、ヒナタを見やり、
「それを、ナルトへ伝えに来たの?」
と、カカシは顔をしかめた。
「自分のことなんか、ほっといて、サクラの元へ行けと?」
穏やかな口調で、辛辣な言葉を吐くのは、厳しい忍の世界を生き抜いてきたカカシらしい、率直な態度の現れだ。
だからこそ臆せず、
「違います」
と、ヒナタも正直に答えた。
「サクラちゃんに連れられて、来ました。でも、彼女が帰ってしまったあとは、ナルトくんと会話らしい会話なんて……」
ふうん、とカカシは腕を組み、困ったように、ヒナタを見下ろす。
「何とも、まあ、甘酸っぱい話だなあ」
「か、からかってるんですか?」
「いや、からかってないよ。初々しくてイイなあと、思っただけ」
ニッコリとするカカシを前にして、ヒナタは困惑した。
「いってる意味が……わかりません」
「ナルトもきっと、どうしたらいいのか、実際のところはわかってないんじゃないかな」
えっ? とヒナタが聞き返し、
「どんな相手でも、簡単に打ち解けることが出来るからね、ナルトは。不思議なことに、あの大蛇丸やマダラでさえ、ナルトのことを気に入っていた節があるんだ」
淡々と語るカカシの声が、夜も更けた通りに、ぼそぼそと響く。
「そんな彼も、以前は里のみんなから疎まれ、独りぼっちだった」
知ってるよね、とカカシに聞かれるまでもなく、ヒナタはこくりとうなずいた。
「だから、他者との絆がどれだけ大切なものか、ナルトは身にしみて、理解しているし、その絆がどれだけ壊れやすく、脆いものか、それさえも承知している」
カカシは視線を建物へ移し、ナルトが今いる、部屋のあたりを見上げた。
「それを特に強く学んだのは、サスケとサクラの二人からなんだ。彼らが体を張ってまで、自分をかばうのを目の当たりにしたナルトは、本当の意味で、孤独から救われたといってもいい」
それだけナルトにとって二人は特別なんだよ、とカカシがいい、シノやキバの顔を思い浮かべたヒナタは、再び力強く、首を縦に振る。
「こんなことをいうのは酷かもしれないけど、今のナルトなら、恋愛をする相手に不自由しないと思うよ。誰にでも、惜しみなく愛情を注ごうとするからね」
それでも、とヒナタへ視線を戻し、まるで彼女の反応を確かめるように、カカシはゆっくりと言葉を発した。
「サクラは、ナルトにとって、一生特別な存在であり続ける。サスケと共にね」
やはり、ヒナタが黙ってうなずき、
「……やっぱり賢いよ、君は」
と、カカシは彼女の肩を、ぽんと叩いた。
「ナルトと違い、何もかもわかっているから、迷うんだろう?」
「……」
「だったら、教えてあげようか」
両手を挙げて、大きく伸びをしながら、呑気に告げる彼を、ヒナタは息を詰めて、見守った。
「あのね、会話らしい会話がないのは、照れてるからだよ」
顎を触り、どこか楽しそうに、カカシはいった。
「誰とでも打ち解ける、あの底抜けに明るい、おしゃべりなナルトが、ヒナタの前だけでは、無口になってしまうんだ」
恋しちゃったんだねえ、と付け加えるカカシの思いがけない言葉に、頭がクラクラする。
「ヒナタならわかるでしょ? そんなナルトの気持ちが」
追い討ちをかけるように彼がいい、気が遠くなりかけたところ、
「お待たせっ! 用意できたってばよ!」
と、ナルトの声を聞き、ヒナタは我に返った。
オレンジ色の上下のうえに、今やトレードマークともなっている、羽織りを着込んだ彼が、一陣の風と共に、目の前へ降り立ち、すっくと立ち上がる。
行くか、とカカシがいい、
「ちょっと、待って」
と、ナルトは返事をすると、頭に結んだ額当てのヒモをひらめかせ、振り返った。
「ヒナタ!」
大きな声で名前を呼ばれ、
「はい!」
と、緊張しながらも即座に応じたヒナタは、歩み寄ってきた彼に、右手をつかまれた。
「コレ、持っててくれ!」
ナルトは、ゆるく開かれた手の平に鍵を乗せ、ヒナタの指に触れると、それを強く、握らせる。
「ヒナタに……持ってて、欲しいんだ」
そう告げたナルトの両手が、彼女の差し出す右手を、今度は優しく包み込み、ヒナタはうっすらと唇を開くと、声にならない、声を上げた。
(部屋の鍵を……私に?)
雲の切れ目からは、丸い月が姿を現し、里に白い光を落とす。
夜の静寂を乱すように、吹き抜ける風を浴びてもなお、顔は熱かった。
やがて、ナルトは先に手を離し、
「カカシ先生、行くってばよ!」
と、ことさら元気なかけ声を出すと、すぐまたヒナタへ振り向いた。
「送ってったほうがいいか?」
「だ、大丈夫!」
きつく鍵を握り締め、
「あの……行ってらっしゃい、ナルトくん!」
とヒナタが身を乗り出していい、彼もニコッとうなずいた。
「オッス! 行ってくるってばよ!!」
大きく手を左右に振って、カカシの後に続き、火影の屋敷へ向かうナルトを見送ると、ヒナタは空を見上げた。
薄い雲に隠れ、ぼんやりと浮かび上がる満月が、やけにまぶしく瞳に映る。
(さっきナルトくんが触ってたトマトぐらい、赤かったかも……)
意地悪な月明かりは、ほのかではあっても、ヒナタとナルトの顔を、しっかりと照らし出していた。
ナルトだけでなく、自分も顔を真っ赤にしながら、互いに手を取り合っていたのかと思うと、ちょっぴり可笑しくなる。
――ヒナタならわかるでしょ?
カカシがいった、その言葉の意味がよくわかり、彼女はくすりと笑った。
そして、現実というものも、それ以上に、よくわかってる。
(ナルトくん、もう遅いよ)
もう遅いの――地面にしゃがみ込み、つぶやくヒナタの頭上には、いつしか重い雲が垂れ込め、月も星も、何もかもが、深い闇に覆い隠されていた。