「長沼」は仮名であり、日記の記述での実名は「中島」である。
そしてこの段落以下の記述は、「怒りを日々の糧に」所収の中島誠(1930-2012)の次の文章を受けたものである。
「現代社会に生きる人々は、厳然たるこの階級社会のなかで、生きるために、つまりおのれの労働力を少しでも高く資本に売りつけて存在を維持するために、たまたま大学生になるのであり、たまたま中卒で、あるいは高卒で就職するのである。就職か大学受験か、と迷うことがそれほど深刻かつ重大な難問であると思うこと自体が、資本制社会の擬制の幻想に、たぶらかされていることなのだ。誰も、あなたは是非大学生になってくれ、と頼んではいないのである。大学生になることを何か、人生の必然、自然の成りゆきのように考えているところに、社会の決定的欺瞞性がある。…(中略)…私に手紙をくれた少年のように迷うことが、いわば当たりまえなのであって、高校を出れば大学、大学を出れば就職というように、すーっと歩んでしまう精神構造こそ実は人間として異常なのである。…(中略)…
自主大学は反帝反スタつまり反体制でなければ存立できないし、反体制大学は、当然のことながら、現存の大学の否定解体のうえに築かれねばならぬから、権力との真向うからの対立によりつくられねばならない」(中島誠『混沌を越え、断絶から変革の持続へ』「怒りを日々の糧に─学生闘争の記録・栗原達男写真報告」(冬樹社、1969年))。
したがって、単行本の編集時の基本ルール(友人等に限って仮名とする)に従えば、仮名ではなく、1969年5月30日での扱いと同じように、実名の「中島」で表記すべきであった。そうしないと1969年1月30日付記述「四回生の長沼さんが中心で」と同一人物と勘違いされる可能性がある。
☞1969年5月30日「朝「怒りを日々の糧に」の中島の文をよむ」