高野悦子「二十歳の原点」案内 › 証言・二十歳の原点 ›
1969年 5月 2日(金)②
大学同級生女性・岡本さん「高野悦子さんと日本史専攻」
高野悦子は「二十歳の原点」1969年5月2日に以下の記述をしている。
ヘルメットをかぶりタオルを顔にまいて広小路集会。川口さん飯田さん岡本さんに会う。
ここで登場する女性、「岡本さん」を訪ねた。
(旧姓)岡本さんは高野悦子が在籍した立命館大学文学部史学科日本史学専攻の同級生(1967年入学)である。高野悦子と当時の文学部日本史学専攻の状況を中心にうかがった。
知的で上品という言葉がピッタリくる印象の女性。かつての女子学生がそのまま年齢を重ねたような温和な話し方だった。初対面にもかかわらず、とても親切に対応いただいた。
「宇都宮から」彼女が言った
「この本だけは奥に片付けてしまうことができなくて、今も手元に置いているんです」。
岡本さんは書棚から取りだしてきた「二十歳の原点」と「二十歳の原点序章」の単行本2冊を手にしながら、ゆっくりと思い出すように語りはじめた。
岡本:高野悦子さんは、明るくて元気な子でした。
彼女と知り合ったのは、入学式の日なんかで並んだ時に、お互いに「どこから来たの」とお互い聞き合うでしょう。
「宇都宮から」。彼女が言ったので、うれしくなったんです。自分は群馬県出身で、心細い中で、同郷じゃないけど同じ北関東から来た人がいたんだって。近いですから。それだけで親しみを感じて知り合ったんです。
私は女子の友だちどうしで動いていたんですけど、彼女はそれに付かず離れずで一緒に動いているという感じでした。
入学式☞二十歳の原点序章1967年4月9日
当時の大学は、学校の中がにぎやかだったです。シーンとしてませんでした。
きれいじゃないですし、チラシはどんどんもらうし、広小路キャンパスの中庭には立て看がずらっと並んでいました。サークルの勧誘だけでなくて、政治的なことが書かれた立て看もあって、その前で学生がそれぞれ演説でしゃべりまくるの。みんな聞いてなくて冷やかな目で見てるけど、演説している本人はアジに酔ってるような感じです。講義の前に誰かが教室の前に来て演説をやりはじめたり、ビラをまいたりすることもありました。別にそれを先生がとがめるでもなかったし。
1回生で入って、そんなのをチラチラみながら、当り前という感じでだんだん慣れてくるんですけど。それから学生大会みたいなのもあって、興味本位で行ったりもしましたし。
立命館大学広小路キャンパス☞1969年1月5日
歴研(歴史学研究会)では、一番最初のころは会ったような気がします。
私は「中世史部会」というところに入って、友だちが「古代史部会」とかに入って。「一回生部会」という、そんな名前がありました。なつかしいな、そういう言い方をしてました。彼女は結構来てたように思います。
歴研☞二十歳の原点序章1967年4月20日
天ヶ瀬ダムと日本史研究室
本ホームページが入手した天ヶ瀬ダム・鳳凰湖前で撮影された同級生6人の集合写真に、岡本さんと高野悦子はいっしょに写っていた。
岡本:天ヶ瀬ダムに行った(1967年4月29日)のは覚えてます。
日本史専攻の1回生歓迎のための“ハイキング”でしたから。「専攻で皆で行こう」というお誘いで、決してプライベートなものではなくて、たくさん行ったように思います。奈良本先生もいらっしゃってました。
そりゃあみんな遠くから寄り集まって、心細いですからね。とくに立命は割と地方から出てくる者が多かったので、いろんなこと教えてもらえるし、そういう場はうれしいわけです。結構同じ日本史専攻の意識みたいなのが強かったです。
ただ“ハイキング”が実はオルグの場所でもあったという事情をあとから聞いて衝撃が強かったです。先輩方に連れてってもらって、皆にこやかにして寄ってきてしゃべりかけるのが、親切心だけでなくて裏心があってのことだったんだというのがわかって、衝撃的でした。
天ヶ瀬ダム☞二十歳の原点序章1967年4月30日
彼女と一緒に動いていたのは、入学して最初のころですね。授業に出たときに一緒に机で並んだり、あとは広小路キャンパスのとなりにあった御所に行くくらいです。
メーデー(1967年5月1日)ではもう一緒になってないです。メーデーも、今では考えられないかもしれないけども、立命館大学の日本史専攻のグループで隊列が組めた時代でした。それで、私たちは先輩たちと一緒に二条城で集まりました。引き連れられて、最後、円山公園までデモをしていくんですけど、その時は彼女はいなかったんじゃないかと思います。
メーデー☞二十歳の原点序章1967年5月2日
当時、日本史専攻の学生では日本史研究室が“たまり場”になってました。
先生方が集まる部屋にいつも助手の高野澄先生がいて、その隣に10畳くらいの広さだったかな、学生が寄り集まることができる部屋があったんです。講義が終わるとそこに行く、先輩たちも来てますし、そこに行くといろんな情報がすぐにわかるわけです。「きょうは部会が、研究会があるよ」とか「夏合宿があるよ」ですね。わからないところを教えてもらったり。
それで6月に合宿があって、8月にも合宿があったのかなあ。先生もいらっしゃるし、かなり勉強するまともな合宿なんです。高野悦子さんは、そういったところに顔を見せてなかったです。だから日本史のグループとはちょっと離れてしまったんでしょう。
日本史学専攻研究室等は、広小路キャンパスの清心館2階東側にあった。
清心館☞1969年5月19日
私は毎日学校に行ってました。講義も出ていました。他に行く所もなかったですし。それで会ってないんで、彼女はあまり講義には出席してなかったのかもしれません。それでも彼女は大学には来てたでしょうから見かけないはずないんですが、私があまり彼女の存在を意識しなくなったせいでわからなかったんだと思います。
早かったです。1か月足らずで彼女はもう別の所に移っていったんでしょう。それから付き合いがなくなりました。「二十歳の原点序章」1967年5月あたりで名前が出てくるのはもう、民青系の人たちだと思います。
ところが、それからずっとたって、高野悦子さんを見つけました。恒心館のバリケードの中でした。
その時、私は彼女の姿を見て「あっ」と思ったんです。
恒心館で見かけた彼女の姿
岡本:恒心館で姿を見かけた高野悦子さんは、丸刈りみたいなタワシのような感じの髪型でした。
ちょっと見ると、男の子が散髪をサボって伸びたくらいの感じの短い髪型にしてたんです。かわいい顔立ちなんで、よけいに目立つんです、タワシのような髪型がね。
すでに恒心館に拠点が移っていた1969年3月末ごろのことです。「高野さんがいるよ」というのがあって、私もチラッと顔を見ました。その時ちょうど髪が短くて、本当に男の子、少年みたいな格好をして来たのを見かけました。見てすぐわかりました。“本当だ、彼女は来てるんだ”っていうわけです。
どうしてそんな髪型にしちゃったのという、そちらの方が記憶にありました。“タワシ頭”は、当時の私の中では女の子がそういう髪型にすることはありえなかったので、彼女に何かあったのかな、ということがありました。
恒心館☞1969年3月8日
文学部闘争委員会(立命館大学全共闘)の拠点が恒心館に移ったのは1969年2月26日。
高野悦子の髪型といえば単行本「二十歳の原点」(新潮社、1971年)や「二十歳の原点」新潮文庫(新潮社、1979年)の写真にあるロングヘアのイメージが強いが、1969年春時点での彼女は今で言うショートボブである。
☞1969年3月31日「このショートカットの頭ボサボサの」
私たちにしたら、大学入学して間もない時期から彼女が民青系に行っていてプッツリと関わりがなくきたんで、経過がわからないから半信半疑で、バリケードの中に入っている彼女がまるでスパイのような印象がまだあったわけです。“何をしに彼女はこの辺をウロウロしているんだろう”というような、ですね。恒心館のバリケードで見かけた時、“どうしてこの人ここにいるの”という感じでわからなかったです。
でも、あとでバリケードにいた男の子に聞いたら、「いや、彼女は考え方がすっかり変わってるみたいだよ」というのは聞いていました。
恒心館は大きかったけど、全体なんかはとても使えなくて、拠点にしている所はある特定の部分でした。はっきり記憶がありませんが、事務局や食事を作っている場所みたいなのがあって、私も食事を作ったりしました。
私が恒心館に時々出かけて行った時には高野さんはいなくて、かなり後になってからなんです。恒心館に機動隊が入る(1969年5月20日)ちょっと前くらいから、彼女の顔がチラチラしていた記憶があります。本当の最後の方だと思います。
みんなが引いていなくなってきて、組織的に動ける人だちだとか先鋭部隊と言うのかそういう人たちが最後の方にずっと残ったわけで、彼女はそういう中に入っていったと思います。
☞1969年4月25日「久しぶりで恒心館へ入ったが、小気味のいいほど破壊しつくされていた」
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恒心館に機動隊
岡本さんは、高野悦子が広小路キャンパスでデモで動きまわっている様子も見ている。
私もいっしょにいたらきっと話したんでしょうけど、すれ違い状態で、そういうことにはならなかったです。
私は組織の人間じゃないところがあって、弱かったし、いわば都合のいい動きをしてたわけで、結局、最後はいとも簡単に離れてしまいました。
機動隊が入って、みんなしかたなしに京大に移ってますが、自分はバリケードの最後の方までいなかったので、そのあとのことはよく知らないです。
高野悦子さんが亡くなったことは早い時期に聞きました。2、3日後くらいだったかなあ。「京都新聞に出てたよ」って。そのあとで「こんなふうに出てたんだよ」と記事を見せてもらってもらった覚えがあります。小さな記事でしたけど“出てた。本当だ”と。
それから高野さんのご両親が京都にいらっしゃって、「だれか親御さん会ってくれないか」って声がかかりました。当時京都に残っている者の中で、私はまだ大学の近くで下宿をしてましたから声がかかったんですけど、気持的にとてもお会いすることができませんでした。
お母さんの高野アイさんからはお手紙をいただきました。まだ自分が立ち上がれない時期でした。私が“何で私は今生きてるんだろう”という感じで書いたのに、「そんなこと言わないでがんばんなさい」という励ましのお手紙だった記憶があります。
大幅に減った日本史専攻
岡本:私たちが入学する前から学内で割れていたわけでしたから、日本史専攻の先生方も立命館大学の闘争を一つの区切りにしてみんな辞めましたよね。恩師として非常に信頼してた学部長の林屋先生。北山先生、奈良本先生、高野先生。講師の師岡先生はクビを切られたことになりますが、非常におもしろい現代史の講義で出席するのが楽しみだったので、どうして辞めさせるんだというのがあったと思います。
☞1969年1月25日「教授が相ついで辞表を提出」
みんなそこでパーンと辞めてしまったので、もうそういう後ろ盾がない中で、私たちは身の危険を感じながら大学に行くか、それともあそこには戻りたくないという形で切り捨てるかみたいな状況でした。
たとえば私たちが3回生の時、バリケードが解除になって1969年7月くらいだったのかなあ、神戸大学から非常勤講師で来ている高尾一彦先生の講義に行ったんです。共産党系の先生ですけど。そこに民青系の学生が動員されてやってきて、講義はもう成立しないで、「お前らもう学校をグチャグチャにして自己批判しろ」みたいな形で取り囲まれました。
民青と言っても学生はもちろん、学生でない腕っ節の強そうな人もたくさん来てました。それで講義が午前中だったのが、ずっと結局夜11時くらいまで閉じ込められてっていうことがあったりしました。
みんなおびえて、何か危害を加えられるんではないか、夜11時でお腹も空いてきて…。それを区切りにもう大学には行きたくないというのと怖くて来られないというのがありました。
当時の共産党系機関紙は「キャンパスをうろついていると学生たちにとり囲まれて追及されるために「全共闘」の連中はほとんど姿を見せない。彼らは…(中略)…おびえているともいう。しかし、学友会に結集する学生たちは徹底的に糾弾しクラスから孤立させることによって謝罪と自己批判、自主退学を要求」
(『立命館大学:クラスに根はる自治会─「全共闘」を学園から放逐へ』「京都民報1969年6月22日」(京都民報社、1969年))としている。
そういう経過もあって、私たちの学年は日本史専攻で100人くらいいたのが大幅に減ってしまいました。それでも大学に行き続けた中には、共産党・民青系やそれを支持する人だけでありません。そういうものには一切関わってなくて学校が静かになったからまた学校来たわという人たち、全然関係なく“私たちはノンポリで、一番まともな学生ですよ”という人たちも残ったんですけどね。
世間ではこのころの時期のことを暴力がおう歌した時代みたいにいう人がいるかもしれませんが、その中にいた者にとっては、これだけ真剣に“考えた”ことはなかったという思いがあるんです。
私が知っている人たちも、同級生があっちこっちに関わって行って、ブントとか中核とか革マルとかいろんな組織に流れたけど、みんなよく勉強したし、まじめだったと思います。まじめな人たちがどんどんおかしくなって…、信じられないかもしれませんけど。
「京都に集まろう」
岡本:勉強そのものに未練がないわけじゃない中、みんな後ろ髪を引かれるような思いで、あっちこっちへと散っていきました。それぞれ状況が違う中で自分で方向性を決め、“食べていく”方法を考えないといけないわけです。親元からの金をあてにできる者もいれば、あてにできない者もいます。よその大学に編入とか入学という形で行った人もいました。
だけど元々金がないので学費が安い立命に来てますし。苦肉の策で大学に残って卒業した者もいるし、もう行けないとほかの仕事を探した人もいるという中でした。全共闘で大学を辞めた人は、大学中退の理由を聞かれないために高校卒業の資格で就職することになって苦労もあったですし。
最初は会うのがすごくつらかったです。それでも最近は、当時のお互いに声をかけ出して、日本史の同窓会じゃないけど、厳しい状況をかいくぐってきた同志会みたいに、「みんなで京都に集まろう」という感じで寄り集まったりしています。多い時は20人くらい来たこともありました。集った時には当時のいろんな話が出て、今どうしてるんだって言ったりしましてね。
地方に散った者も京都に行きたいんです。京都に行くと広小路がどうなってるか見てきたわとか、懐かしいところに自分で行ってきています。非常に心残りの中で京都を去っているわけですから、京都に大学にみんな愛着があるんじゃないでしょうか。
高野悦子さんのことも話題になります。最初のころはついつい避けるみたいな感じでしたが、今でこそ、彼女はああだったとかこうだったとか…、そんな話をですね。「二十歳の原点」の新しい本が出ると「ついやはり買ってしまった」って言っている人もいました。
引きずってるんです、あの時を。今でも。(談)
岡本さんに当時利用した店をうかがったところ、生協食堂を使うことが多かったが、たまり場になっていた喫茶店として「リバーバンク」を挙げられた。最近も訪れたことがあるという。
☞1969年5月8日「生協の食堂」
☞
リバーバンク
※注は本ホームページの文責で付した。
岡本さんからは、取材後お手紙をいただいた。その純粋で心のこもった文章を目にした時、会うことができて本当に良かったと思った。
インタビューは2013年4月20日に行った。
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