高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月 5日(日)
 「矛盾に対さない限り、結局のところ矛盾はなくなることはないし、未熟のままで終るしかない」 小田実
 雑誌「朝日ジャーナル」からの引用である。
 「私自身の未熟を理由として、世のさまざまな矛盾に対することから身をひき退くことはできないということでもあるのだろう。矛盾に対さないかぎり、結局のところ、矛盾はなくなることはないし、未熟は未熟のままで終るしかない─そんなふうにも思う」(小田実『「未熟」と「発明」─人々は動く・68年から69年へ─』「朝日ジャーナル1969年1月5日号」(朝日新聞社、1968年))。
 ベトナム戦争におけるアメリカ兵士の脱走兵についての論稿である。
☞二十歳の原点序章1968年12月30日「朝日ジャーナル」

 学園はたとえ表面的には平穏であっても、常に一触即発の状況にあるということは、私の経験からわかった。
 高野悦子は、立命館大学文学部史学科日本史学専攻2年に在籍していた。

立命館大学広小路キャンパス

 立命館大学文学部は当時、京都市上京区広小路通河原町西入ルの立命館大学広小路キャンパスにあった。
 ※正確な呼称は「広小路学舎」だが、本ホームページでは便宜上、広小路キャンパスで統一する。
地図1956年当時
 校舎は主に下のイラストのように配置されていたが、1969年当時、キャンパス全体で21,500㎡程度しかなかったため、狭い敷地に建物が密集する状況だった。
立命館大学広小路キャンパスのイラスト
 当時、広小路キャンパスにあったのは法学部、文学部、産業社会学部(主に恒心館を使用)の3学部で、京都市北区の衣笠キャンパスに経済学部、経営学部、理工学部の3学部があった。
 大学全体の学生数は1968年5月時点で一部(昼間)17,713人、二部(夜間)5,114人、大学院272人の計23,099人である(『立命館大学・同専門部関係の学生・生徒数(1900~1995)』「立命館百年史紀要第4号」(立命館百年史編纂委員会、1996年)参考)。経営学部と産業社会学部の創設などにより、直前10年間で約9,000人も急増していた。二部在籍の学生数の比率が高かったのも大きな特徴と言える。
 立命館大学はその後、校舎を衣笠キャンパスに集約した。産業社会学部は1970年に、文学部は1978年に移転し、1981年の法学部移転をもって広小路キャンパスは閉鎖された。

 現在、立命館大学広小路キャンバス跡は京都府立医科大学附属図書館などになっており、多くの学生でにぎわった往時の面影は全くない。
 わずかに立命館学園発祥の地の記念碑があるだけになっている。
広小路キャンパス跡地記念碑
 発祥の地の記念碑は1992年に建立された。当時の学校法人立命館の理事長名による碑文は下記の通りである。
 「1900年、中川小十郎により創立され東三本木丸太町上る旧清輝楼の仮校舎で授業を開始した京都法政学校は、翌年12月30日、この地の新校舎に移転し、1905年には維新当時の西園寺公望の家塾であった立命館の名称を受け継いだ」
 「立命館は爾来この場所で校地を約7,000坪に拡張し、校舎は延1万2,000坪余におよんだ。1981年3月に80年にわたる広小路学舎の歴史を閉じるまで、10万余の有志の若人がここに学び、真理と理想を追求した。
 この地にあって、激動する世界と日本の20世紀とともに、立命館はその栄光と苦難の道を歩んだ。特に第二次大戦に際し、かつてこの学舎に学んだ多くの同窓が戦場におもむき、再び帰らなかったことは、痛恨にたえないところである。
 戦後、立命館は平和と民主主義の教学理念をかがげて大いなる飛躍をとげ、広く世界の学術研究機関と結んで、地球と日本の現代的課題にこたえる教育と研究を推進しつつある。
 今日の立命館の営為は、20世紀初頭以来この地で展開された幾多先人の業績の上に成りたっている。
 わが学園発祥の地を記念する所以である。 1992年5月19日」


 立命館大学文学部は2004年にそれまでの哲学・文学・史学・地理学の4学科を人文学科へ統合、2006年には心理学科も加えた1学部1学科制へ移行した。さらに2012年からは複数の専攻を束ねた「学域」という枠組みで入学者募集をしている。
 高野悦子が在籍した文学部史学科日本史学専攻は、2012年度からの呼称では、1年生入学時は「文学部人文学科日本史研究学域」、2年生以降は「文学部人文学科日本史学専攻」にあたることになる。

 総長公選をめぐって、カリキュラム問題をめぐって、佐藤訪米阻止闘争をめぐって、私はほんろうされるだろう。
 立命館大学では紛争の焦点の一つとして、総長選挙が取り上げられることになる。
☞1969年1月17日「立命全共闘が中川会館を封鎖した」

 人間は不合理な存在である。
 いろいろな矛盾をもっている。
 人間は肉体をもっている。
 肉体は合理だけでは割りきることができない。
 肉体を離れて人間は存在しないし、精神も存在しない。
 この記述は、以下の朝日ジャーナル掲載の大岡信の論稿の影響が強いと考えられる。
 「現在われわれの生活の中に生じつつある、肉体的なるものの復権要求とでも呼べそうな大きな底流について、しばしば考えさせられるからにほかならない。
 肉体的なるもの、といってもあまりに漠然としているが、もっと細かくいうなら、合理的、制度的な性質をもったすべてのものに反抗し、非合理的、自発的な力として流動し爆発しようとするあらゆる人間的行為の基礎にある自然性だ、ということができようか。
 だからそれは、肉体といっても単に物質的な意味でのそればかりでなく、精神をも含むものとしての肉体であるといわねばならぬ。
 「合理性」に反逆する「精神」の高波こそ、たとえばいま世界をゆるがしているスチューデント・パワーの基本的な姿ではなかろうか」(大岡信『現代の創造─謀反する肉体』「朝日ジャーナル1969年1月5日号」(朝日新聞社、1969年))

1969年 1月 6日(月)
 着物をきて写真をとれと母親がうるさく言う。
 実家☞1969年1月2日
 「母親は振り袖を着せたかったが、この方が「私らしい」と、洋服で通した」(桐山秀樹『夭折伝説』「Views1995年9月号」(講談社、1995年))という。
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