二十歳の原点序章(昭和42年)
高野悦子「二十歳の原点」案内 › 宇都宮で ›
受験③
1967年 3月10日(金)
※3月10日付記述の続き
一日 卒業式 立教合格
宇都宮女子高校の1967年3月卒業者は496人である。高野悦子は3年7組。
高野悦子が受験した4つの大学の入試結果は以下の通り。
大学・学部・学科 |
募集人員 |
志願者数 |
受験者数 |
合格者数 |
競争率 |
合否 |
立命館大学文学部史学科 |
80 |
3,269 |
3,191 |
409 |
7.8 |
合格 |
立教大学文学部二類 |
285 |
2,957 |
2,900 |
386 |
7.5 |
合格 |
国学院大学文学部史学科 |
100 |
1,699 |
1,652 |
231 |
7.2 |
合格 |
明治大学文学部史学地理学科 |
120 |
2,922 |
2,828 |
382 |
7.4 |
合格 |
二日 母と東京へ 国学院合格
上京したのは、立命館大学の合格発表を前に立教大学文学部の入学手続に必要なものを念のため姉、ヒロ子に渡しておくためである。
なお受験した4大学で国学院大学だけは合格発表当日に見に行けた。
国学院大学☞受験②
映画「アルジェの戦い」を見る。 with Hiroko。
「アルジェの戦い」(1966年)は、ジッロ・ポンテコルヴォ監督のイタリア映画。アルジェリアがフランスから独立するまでのアルジェリア戦争を描いている。「あなたは貴重な歴史の目撃者になれる!─観客とスクリーンの間の距離感を失う空前の迫真力と感動の波─」。
松竹映配(現・松竹)配給で、日本では1967年2月25日(土)からロードショウ公開された。“学生層には必見の映画”として、学生特別料金280円が設定されていた。
高野悦子は渋谷パンテオンで見た。
渋谷パンテオン
渋谷パンテオンは、東京・渋谷区渋谷の東急文化会館1階にあった映画館である。
定員が1,000人を超える超大型の映画館で、数々の洋画の大型話題作を上映した。建物は現存せず、渋谷ヒカリエになっている。
夜、電話がかかってきて立命館の合格を知る。
立命館大学の合格発表は学部掲示板で行われた。
高野悦子は“本命”の立命館大学と立教大学の両方に合格したため、どちらに行くか判断が迫られた。
父・高野三郎は「立教大学に入るよう再三再四にわたって説得したのですが、ガンとして「反骨精神、奈良本教授の立命館史学、歴史のみやこ京都、の条件により立命館大学史学科を志望……(六六・九・一六)」の主張を曲げず、とうとう親が折れてしまいました。思えばこれが誤りの第一歩だったのでしょう」(高野三郎『失格者の弁』「二十歳の原点(単行本)」(新潮社、1971年)、同「二十歳の原点[新装版]」(カンゼン、2009年))と述懐している。ただし立教大学文学部でも1969年に大学紛争が起きている
(松浦高嶺・速水敏彦・高橋秀「学生反乱-1969-立教大学文学部」(刀水書房、2005年)参考)。
四日 宇都宮で松原先生に相談する。十一時半、立命館へ行くことを母と東京にいるヒロ子ちゃんに電話で知らせる。
松原先生は、高野悦子がいた高校3年7組の担任教諭、松原亨である。担当教科は数学。後に宇都宮女子高校の校長も務めた(写真右は1966年ごろ撮影)。生徒からの愛称は「トオルちゃん」。
松原亨は高野悦子の日記について
「もともと才智と繊細な感覚をもっていましたが、これ程までに、現実と厳しく闘うとは、想像だにできませんでした。私なりに何か、少しでも力になれなかったものかと後悔もしますし、反省もしています。
ただ表面的に明るく快活な人間ほど、内面的には孤独で寂しさを持っているものであることは言いうるような気がいたします。お嬢さんは、暖かく親の加護の中から急に、遠く遊学した事によって、より以上何かに夢中にすがりたかった情熱をどうしようもなく一人で解決したと思われます。
更に、お嬢さんは、余りにも純粋で、余りにも孝行で、余りにも学童的だったと思います。
常に、自己の立場を正当化しようと論理化しようとして学べば学ぶ程、現実とかけ離れて行く姿は、わかるような気がします。
然し、日記のような生活は、一面、私の若い時代と比較して、素晴らしく自由で、思うがままの行動力を知らしてくれます。しかも、その中に、自立と自律がたえず交錯して、インテリとしての心の動きがともなっています。
結果として、弱いという人がいるかも知れませんが、一面、強すぎる生き方だと考えることも出来ましょう(といっても否定せざるを得ないが)。
美しい詩と広い読書影響による文章からくる人生のもだえは、私の心に永久に残るものと思います。
余りにも強烈で(担任だから)読後感もまとまりません。
いまは、ただただお嬢さんの冥福を心から祈るとともに、若者をみたす真の平和が訪れることを念じたい」
「愚作(恥をしのんで) 立命の 嵐に散りし 教え子の 細きうなじに 歴史流れる」(『高野悦子さんを囲んで』「那須文学第10号」(那須文学社、1971年))と感想を寄せている。
栃木県立宇都宮女子高等学校☞宇都宮で1964年
先生と相談し直ちに電話で知らせたのは、3月4日(土)が立教大学文学部の入学手続の締切日にあたるためである。
立教大学入学手続の用意をして連絡を待っていた東京の姉・ヒロ子ちゃんに至急知らせる必要があった。
立命館大学(一部)1967年入試の出身校別合格者数は、紫野(京都)98、膳所(滋賀)93、高松(香川)84、桂(京都)75、彦根東(滋賀)71、丸亀(香川)67、堀川(京都)60、日吉ヶ丘(京都)54、四条畷(大阪)53、寝屋川(大阪)48、朱雀(京都)48、津(三重)48などとなっている(いずれも公立高校、丸かっこ内は府県)
(『42年度大学合格者出身校別一覧②』「螢雪時代1967年6月号」(旺文社、1967年)参考)。
立命館大学から合格通知書がくる。
合格者全員に大学から通知が行われた。
七日 入学手続きを済ます。
入学手続書類等は宣誓書及び保証書、学籍カードその他、卒業証明書、戸籍抄本、学費である。
1967年 3月15日(水)
下宿きまる。部屋代四五〇〇。
当時の京都市内で学生の下宿は、家賃の相場が一畳1,000円だった。4,500円は四畳半である。
青雲寮☞二十歳の原点序章1967年4月9日
ギターの写真
高野悦子「二十歳の原点」(新潮社、1971年)(単行本)に掲載されている有名なギターの写真については、撮影時期が記されていないが、1967年3月に栃木県西那須野町(現・那須塩原市)の自宅で写されたものである。大学入学直前である。
☞
高野悦子の実家