高野悦子「二十歳の原点」案内 › 宇都宮で ›
宇都宮で1964年
本項においては、高野悦子が栃木県立宇都宮女子高等学校時代を過した栃木県宇都宮市について、「二十歳の原点ノート」時代を中心に紹介する。
1964年 7月22日(水)
八時四十分の汽車で母と宇都宮へ出た。母と別れて私は学校へ、図書館へ本を返しに行った。
その後体育館へ行ってスカートのまま練習した。
08:40国鉄(現・JR東日本)西那須野駅─東北本線(上野行普通列車)─09:32宇都宮駅
栃木県立宇都宮女子高等学校
高野悦子は1964年4月1日、栃木県宇都宮市操町(地図上)にある栃木県立宇都宮女子高等学校に入学した。
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宇都宮女子高校は、女子が通う高校としては、栃木県でナンバー1の進学校である。創立1875年で、現存する公立の女子高としては全国で最も古い。
自主性を重んじ、自由闊達な校風でも知られる。栃木県内の高校で唯一、制服が定められていない。地元の通称は“宇女高”または“宇女”。
宇都宮女子高校では1964年11月、近代的で設備の充実した新館を中心とする校舎増改築が完成した。総工費2億4500万円、工期4年あまりにわたる全面的な改築だった。
宇都宮女子高校の
図書館は、創立75周年記念として建設され1951年に完成した。1964年度末現在で23,300冊を自由開架式で所蔵していた。1989年に解体され、1990年から現在の図書館になっている。
体育館は、創立60周年記念として建設され1936年に完成した。建設当時は模範的な体育館だったとされる。
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記念館は、創立50周年記念として建設され1928年に完成した建物を、校舎増改築に合わせて1962年に移築した。各クラブ、操会(同窓会)事務室、ホールなどに使われた。1977年に解体された。
テニスコートは教室が入る新館南校舎の西側で西門近くにあった。
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記念館☞1965年2月23日「昨日は記念館の二階で、先生もはいっての反省会だった」
テニスコート☞1965年9月30日「いつものようにテニスコートを通ってきた」
視聴覚教室は北校舎3階東側に、
音楽室は北校舎3階西側にあった。
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視聴覚教室☞1965年10月27日「「京都」という映画を視聴覚教室までヤスカワクンとコバチャンで見にいった」
音楽室☞1966年2月22日「急にテツヤさんのいった音楽室の小さなピアノが気になった」
講堂は、1905年に完成した建物(収容人員600人)を、生徒数増大に対応するため、真中で切って新しい部分を継ぎ足す形で1963年に増改築した。全景(写真上)で講堂の屋根の色が一部違うのはこのためである。1977年に解体され、1978年から体育館兼講堂になった。
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講堂☞1966年9月29日「夏休みの研究発表会を七時間目(短縮四十分授業)に講堂で行なった」
高野悦子は、宇都宮に下宿してからは通学には主に西門を利用していた。
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西門☞1966年2月7日「西門近くまで来たとき、予鈴のチャイムが鳴り始めた」
高野悦子に立命館大学進学を勧めたのは、宇都宮女子高校で社会科教諭の大町雅美だった。「二十歳の原点ノート」では、仮名の赤津(孝司)先生として登場している。
大町雅美(1927-2011)は、栃木県郷土史研究の第一人者で、1954年から1974年まで宇都宮女子高校で教鞭をとった後、栃木県立図書館副館長、作新学院大学教授などを歴任した(写真右は1966年ごろ撮影)。
☞二十歳の原点巻末高野悦子略歴「この頃から歴史に興味をもち大町先生に私淑。同年九月、進学先を立命館大学史学科と定める」
大町雅美は
「日本史をやりたいというので、それなら立命へと言いました。明るくてあらゆることに全力でぶつかってゆくファイターでした」(『学園紛争に散った青春─那須文学に高野さんの日記』「下野新聞昭和45年12月9日」(下野新聞社、1970年))、
「いちずな性格だけに学生運動に走ったのでは。歴史を学ぶなら教授陣の優れた立命館大に、と薦めたのは私だけに、責任を感じています」(『おしゃべり交差点─歴史学への評価に喜び』」「毎日新聞(栃木版)1995年10月29日」(毎日新聞社、1995年))と話し、また関係者にも後悔の念をもらしている。
大町雅美は、栃木県の県民性について「明治時代に入って幾度か反骨精神が台頭したが、封建社会の後遺症はあまりに深刻で、主体性をもった傑出した人物はあまり現われなかった。現在、首都圏内に入り東北高速道が通り新幹線工事も進んでいる。工場誘致も盛んで他県人の流入も多く、本県も大きく変わろうとしている。他から変化を強いられる前に自ら過去の後進性からの脱皮を宣言し、行動しなければならない。今こそ一時も早く新たなる県民性を問いたださねばならない」
(大町雅美『風土と人間』大町雅美他「栃木県の歴史」(山川出版社、1974年))と述べている。
「二十歳の原点」については、
「今の世の中、ズルイやつばかりで、つらいこと、いやなことを避けて通ろうとする。でも、悦子君は正面から〝壁〟に挑み、力尽きて倒れた。そのひたむきさが、惰性で生きている者にショックを与えるのでしょう」(『何がうける自殺者の日記』「毎日新聞(栃木版)1981年7月5日」(毎日新聞社、1981年))と語っている。
1964年 7月31日(金)
三月十八、九日が宇女高の入試、受験番号は三九八番。
高野悦子にとっては、宇都宮女子高校は西那須野町(現・那須塩原市)から学区外への進学だった。宇都宮女子高校への進学は、最終的には本人の希望だったが、背景には中学校の指導、端的に言えば“宇都宮女子高校の合格者を出したい”という事情があったとされている。
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☞1964年2月2日「だけど宇女高へは入りたい」
☞1964年2月16日「宇女高を受けることが決定した」
1964年 8月 9日(日)
朝のマラソンは羽黒山までだった。
羽黒神社
羽黒山は、栃木県宇都宮市鶴田町にある羽黒神社のことである。羽黒山神社とも表記され、地元では「羽黒山」と呼んでいる。当時は南東からの参道しかなかった。
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宇都宮女子高校から羽黒神社までは鹿沼街道(旧道)を通って往復約6キロである。
1964年11月20日(金)
明日の落成式の準備で校内がざわついていましたが、
宇都宮女子高校の新校舎落成式は1964年11月27日(金)に行われた。
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