立命館大学の1967年度入学式は各学部ごとに分かれて行なわれた。4月8日(土)は、一部の理工学部(09:30)と文学部(13:00)、それに二部全学部(17:30)が入学式を行った。
立命館大学広小路キャンパス☞1969年1月5日
研心館4階は、約1,200人収容の講堂(大教室)だった。
研心館☞二十歳の原点1969年3月8日「恒心館、研心館は全共闘に封鎖され人影もまばらな静かなキャンパスであった」
合唱団メンネルコールは、立命館大学の男声合唱サークル「立命館大学メンネルコール」のことである。メンネルコールはドイツ語で男声合唱団の意味。
立命館大学校歌(明本京静作詞、近衛秀麿作曲、外山雄三編曲)
あかき血潮 胸に満ちて 若人真理(まこと)の 泉を汲みつ
仰げば比叡 千古のみどり 伏す目に清しや 鴨の流れの
かがみもとうとし 天の明命 見よわが母校 立命 立命
立命館大学では、1967年度入試の合格者計10,249人に対し、入学手続きをしたのは5774人で、補欠入学者に加えて、さらに入学式後に再補欠合格者1,074人を出す事態となった。
文学部史学科日本史学専攻でも、当初合格者(高野悦子が含まれる)の91人と再補欠合格者30人中16人があり、最終的に計105人が入学した。
当時、全国の私立大学で補欠合格者が、年々増加する傾向にあり、しかも、有名大学といわれ、多くの受験者を集める私立大学ほど補欠合格者が多くなる傾向にあった。
「たとえば慶大の文学部では正規合格者656名に対し、それの2倍弱にもおよぶ1,208名の補欠合格者があった」(『補欠合格と二次募集の実態』「螢雪時代'67年6月号」(旺文社、1967年))。
研心館4階では、入学式に引き続いて文学部紹介が行われた。
高野悦子は、そのあと研心館3階で学生証を受け取った。
京都:雨・最低10.2℃最高13.3℃。一日中雨だった。
入学式以後の動きをまとめる(カッコ内は会場の教室)。
・4月10日(月)
09:30 学修指導(オリエンテーション)(清心館9、10)
13:00 女子身体検査(清心館3)
・4月11日(火)
10:00 講演(研心館4)
13:00 学生部・学友会ガイダンス(研心館3)
・4月12日(水)
10:30 保健体育・図書館ガイダンス(研心館4)
13:00 ツベルクリン反応検査(存心館16)
・4月13日(木)
13:00 専攻別学修指導(存心館20、33、34)、クラス懇話会(清心館3、8、有心館111-115)
清心館☞二十歳の原点1969年5月19日
高野悦子と日本史学専攻で同学年(1967年入学)だった大越輝雄氏(66)は、
「高野さんは、小柄で愛くるしい人でした。クラスに溶け込もうとしつつ、どこかぽつねんとしていた印象もあります。入学後すぐ共産党系の部落問題研究会に入るなど、社会問題への関心が高かった。共産党系の友人が多いのに、彼らと敵対する全共闘にシンパシーを感じたことにも悩んだのかもしれません。
「自己とは何か」を社会との関係において問い詰めたのが全共闘運動であり、そこに彼女も共鳴したのでしょう。しかも、高野さんは女性です。フェミニズムはおろかウーマンリブも本格化する前に、女性として扱われることへの違和感を抱えていたようです。
自己とは何か、は答えのない問いです。この問題意識を持続させつつ生き延びるには、より過激な大学外の闘争に身を投じるか、学問の世界に戻るしか選択肢はなかった。私も含め学科同期120人の約半数は中退しました。それにしても、一人で背負えるような問いではない。彼女にたとえば、ジャズを気楽に語り合うような仲間がもっといたら、と思うことが今もあります」(『舞台をゆく─京都市上京区(高野悦子「二十歳の原点」)』「毎日新聞(大阪本社)2014年1月27日(夕刊)」)と話している。