初めてのひとり旅 Part2(1989年)
tabito
1989年8月14日(月)
宿泊を伴う初めての一人旅の始まりは、滋賀県守山市である。お盆に父方の祖父母のところへ帰省したついでに、足を伸ばしにくい西日本を巡る旅に出ることにしたのだ。
1989年(平成元年)8月14日の午前4時47分。祖父母宅の最寄りである守山駅の2番線ホームに、始発列車となる901Mが到着した。前日は琵琶湖のなぎさ公園で泳いだ後、夜は琵琶湖湖畔で観光船「ミシガン」を眺めながら、従兄妹と花火をしていたのだから、出発前からかなり疲労が溜まっていた。しかし、901Mの姿を見て、にわかに元気が出てきた。今年の3月11日のダイヤ改正で登場した新鋭の221系車両であったからだ。本来、221系は「新快速」や「大和路快速」に使用されるため、普通列車に221系が充当されるのは珍しい。
901Mは静かに早朝の守山を発車する。初めて乗る221系は、転換クロスシートで窓が大きく、開放的な雰囲気である。昼間はかなり明るい車内になりそうだ。前方には旅客案内表示器が設置されており、走行中はJRの宣伝が流れている。なんだか特急列車に乗っているような気分だ。
さて、この901Mは京都行きである。時刻表で東海道本線のページを開くと、京都から先は6時08分の705Mまで大阪方面へ向かう列車が記載されていない。705Mの始発駅は米原であるため、接続列車がないのであれば、守山から705Mに乗れば良さそうである。私も計画段階で考え込んでしまったが、京都から大阪へ向かう列車が6時08分まで存在しないわけがない。ふと、京都から先はスカイブルーの201系の普通列車が走っていることに気付く。705Mまで接続列車が時刻表に記載されていないのに、普通列車が走っているというのは矛盾しているが、大阪圏の東海道本線は少々ややこしい。時刻表の東海道本線のページには、京都−西明石間が快速列車のみの記載になっているのだ。ちなみに普通列車は、巻末の大阪近郊区間のページに始発と終電の数本だけが申し訳なさそうに記載されている。首都圏では、京浜東北線という愛称をもらって、大宮−東京−横浜間を走っている列車があるが、同じような性格の列車だ。大阪圏では特別な愛称は与えられず、普通列車という扱いになるのだ。国鉄時代は京阪神緩行線とも呼ばれていたらしいが、私は耳にしたことがない。ちなみに米原、草津方面から直通している列車は、京都まで普通列車扱いされていても、京都からはすべて快速列車扱いされてしまう。事情を知らなければ、混乱することは間違いない。
京都からは901Mから8分の接続で、普通列車の西明石行き115Cに乗り継ぐことができる。この115Cに乗ると、大阪で7分の接続で、姫路行きの703Mに乗り継ぐことができる。東海道本線のページを眺めているだけでは、901Mから703Mに乗り継ぐことは不可能なのであるから、プランニングのテクニックである。
大阪で乗り継いだ703Mもラッキーなことにかつての新快速車両であった117系であった。新快速の車両は競合する私鉄の特急列車に対抗するため、転換式クロスシートを導入するなど総じてレベルが高い。
703Mでは進行方向左側の座席を確保する。この区間は、左側の車窓に美しい須磨海岸が姿を現すからだ。神戸を発車してしばらくすると、曇り空で少々薄暗い須磨海岸が広がる。
通勤通学客が頻繁に乗り降りしながら7時53分に姫路に到着。6分の接続で相生行きの普通列車301Mに乗り継ぐ。相生までの所要時間は20分で、定刻の8時19分に到着。
さて、ここまで順調にやって来た普通列車の乗り継ぎの旅も相生で暗礁に乗り上げる。次の岡山行きは9時02分の1409Mまで43分の待ち合わせとなってしまうのだ。前後の予定から相生で無駄に時間を過ごすのがもったいないと考えた私は、「青春18きっぷ」の権利を放棄して新幹線を利用することにした。今日の予定は、守山から東海道本線、山陽本線、伯備線、山陰本線を経由して益田まで528.6キロの旅行となり、本来の運賃は8,030円(学割6,420円)のところ、「青春18きっぷ」1日分の2,260円で旅行をしているのだから、相生−岡山間の乗車券1,090円と自由席特急券930円を投資しても、充分に元が取れるのだ。
相生から乗った「こだま491号」は、大垣夜行375Mの名古屋接続列車である。定刻の8時28分に満員で発車。2階建てのカフェテリアを連結した100系で、旅客案内表示器の「あと○kmです」という表示が真新しい。
岡山駅のホームに降り立った瞬間、ザーッという嫌な音が聞こえた。雨である。岡山に訪れるのは、昨年に引き続き2度目であるが、昨年は翌朝の「マリンライナー」に乗るためにホテルに泊まっただけであったので、今回は岡山を散策してみようと考えていたのだ。しかし、この天候では行動範囲が狭くなってしまうであろう。
持参していた折り畳み傘を広げて、駅前の大通りを歩く。岡山市内には岡山電軌鉄道の路面電車、いわゆるチンチン電車が走っていた。帰りに試し乗りしてみることにしよう。
最初に目指したのは岡山中央郵便局だ。今日は月曜日なので旅行貯金ができる。旅行貯金は、旅先などの郵便局で、適当な金額を貯金し、赤い主務者印と本来であれば空白となる支払高欄に郵便局名の入ったゴム印を押してもらうのだ。日付と郵便局名が残るので記念となる。私は1局ごとに500円を貯金することにしているので、岡山中央郵便局でも500円を預ける。通算で39局目の郵便局だ。続いて40局目は岡山天神郵便局となる。
岡山天神郵便局近くの城下から路面電車で岡山駅前に戻る。岡山9時52分の973Mに乗り、伯備線の備中高梁で下車した。
駅前ではこの日から開催される「松山踊り」の準備で賑わっていた。高梁では毎年8月14日から16日までの3日間に「松山踊り」が開催される。「松山踊り」は岡山県下三大踊りのひとつとのこと。
高梁は備中の小京都と呼ばれている。小京都と呼ばれる街には、きれいな川が流れているのが特徴で、高梁の場合は高梁川がそれに当たる。駅前通りを5分も歩くと、国道180号線の下に地下道が続いており、地下道を抜けると高梁川に行き着いた。街中であるにも関わらず、釣り客の姿もあり、のどかな風景である。
高梁では江戸時代より柚子を用いた「ゆべし」という菓子が製造されている。柚子の産地である備中ならではの名物である。せっかくなので「ゆべし」を賞味してみたいが、土産用に売られている「ゆべし」しか見当たらない。自分で食べるだけなので、過剰な包装や箱は必要ない。そこで、土産物屋で探すのをやめて、地元の食料品店に入ってみた。有難いことに1袋200円の「ゆべし」が売られていた。さっそく買い求めて口にしてみる。餅のように柔らかくモチモチとした食感である。表面には砂糖がまぶしてあり甘い。ほのかに柚子の香りがした。
11時42分の949Mで備中高梁を後にする。途中の新見で929Mに乗り継ぎ、15時04分に米子に到着。米子駅前には「C57−43」の動輪が展示されていた。時間の都合で少し眺めただけだったので、次の機会にゆっくり見学することにしよう。
慌ただしく松江行きの223Dに乗り込むと、非冷房のディーゼルカーであった。伯備線は電車だったので、急にローカル色が出て来る。途中の荒島で10分停車したので、駅前に出てみたが、小さな川が流れているだけで、人の気配はない。
15時59分に松江に到着。県庁所在地だけあって、さすがに人通りは多い。駅構内の土産物屋を冷やかし、コンビニエンスストアで1.5リットル入りの麦茶のペットボトルを購入した。夏場は頻繁に水分補給をしたくなるので、その都度、飲み物を購入していては不経済だ。これから益田まで3時間以上も乗り通すので、荷物にもならない。
松江から乗車した快速「しまねライナー」は順調に走り出した。出雲市を出ると、大社線のレールが北に分かれて行く。当初のプランでは大社線を往復して、浜田に泊まる予定であった。ところが浜田駅近くのビジネスホテルの予約がとれなかったので、大社線の乗車を諦め、益田に向かうことにしたのである。大社線はまだ小学生の頃に一度だけ乗ったことがある。
山陰本線から眺める日本海はとても有名なので一度は目にしたい。しばらくは夕焼けに染まった荒々しい日本海が楽しめたのであるが、浜田付近から次第に夕闇に変わって行く。日が暮れてしまうと、山陰本線の沿線に灯火は少なく、一人旅の寂しさに襲われる時間帯になった。
今日の宿泊予定地である益田でトラブルに遭遇する。そもそも事の起こりは前日に遡る。宿泊場所を探すために、守山駅前の書店で「宿泊ガイド」を購入した。発行日は2年前で、少々データが古いのは気になったが、宿泊料金が変更になっていても、電話予約の際に確認すれば済むと思っていた。あまり夜間にウロウロとしたくはなかったので、益田駅前の「益田ステーションホテル」を候補に挙げ、父に予約をしてもらったのだ。自分で予約の電話をしてもらったのは、中学生が一人で泊まると知れば、家出でもしてきたのではないかと誤解を受ける可能性がある。保護者が電話で予約をしていれば、不審に思われることもないだろうという判断だ。無事に電話予約が済み、宿泊に関しては安心していた。
ところが、益田駅に降り立って、誤算が生じた。益田駅の改札口が南側にしか設置されていないのだ。「益田ステーションホテル」は益田駅よりも北側に記されている。駅の近くには踏切や跨線橋のようなものは見当たらない。駅員に尋ねてみると、線路沿いの細い路地を100メートルほど歩けば地下道があるという。薄気味悪い路地を歩くのは怖かったが、この路地を進まなければホテルにたどり着けないのだから仕方がない。
路地を抜けて、新しそうな地下道を抜けると、大きな道路や本屋があった。益田はこちらが市の中心になっているようだ。それにもかかわらず、駅の改札口が南側にしか設置されていないのは疑問を感じる。
再び線路沿いに益田駅方面へ歩き出す。益田駅のホームが確認できる場所まで戻ってきたのは良いが、今度は「益田ステーションホテル」が見当たらない。通り掛かりのおばさんに尋ねてみたが、地元の者ではないので判らないと言う。他に尋ねるべき人もいないので、やむを得ず、この時間でも店を開いていた寿司屋に入り、「益田ステーションホテル」の場所を確認した。
バスの車庫を横切り、国道9号線の土手に行き当たった。寿司屋で教えられた通り、土手沿いに歩いて行くと、前方に見えた建物には「ステーションホテルダイエー」とある。寿司屋が「ステーションホテル」という名前で勘違いをしたのだろうか。やむを得ず、近くにあったガソリンスタンドの店員に再度「益田ステーションホテル」の場所を確認する。
「この近くに益田ステーションホテルはありませんか?」
年輩の店員は驚いた顔をして答える。
「そう言えば、昔はそんなホテルがあったなぁ」
今度は私がキツネにつままれたような顔をして尋ねる。
「そんなバカな!それじゃあ今は無いのですか?」
「ああ、もう随分と前に無くなってしまったなぁ」
「そんなはずは・・・昨日予約したのですが・・・」
昨日、予約したばかりのホテルが1日にして消えてしまうなんてことがあるのだろうか。
「それならば、そこのステーションホテルダイエーだろう。この辺りでステーションホテルを名乗っているのはそこだけだ」
店員に礼を述べて、とりあえず「ステーションホテルダイエー」を訪ねてみる。フロントで確認すると私の名前で予約が入っており、昨日、父が予約したのはこのホテルに間違いなかった。
「ここは益田ステーションホテルではないのですか?」
宿泊カードを記入しながらフロント係に確認する。
「かつては益田ステーションホテルとして営業していたのですが、2年前からステーションホテルダイエーと改名しています」
私が守山駅で偶然手にしたガイドブックが2年前のもの。データが古いのは気になったが、まさかホテル名が変わっているとは思わなかった。現在でも「益田ステーションホテル」で予約する人も多いらしい。後日、父に確認すると、最初は「ステーションホテルダイエーです」と名乗ったが、「益田ステーションホテルではないのですか」と確認すると、「はい。そうです」との返事があったとのこと。予約を自分でしなかったために招いたトラブルでもある。
1泊素泊まり4,000円の「ステーションホテルダイエー」は随分とくたびれたホテルである。料金相応というところであろうか。部屋にはボロボロになった雑誌が備え付けられており、民宿のような雰囲気であるが、ユニットバスとベッドの供えられたビジネスホテルである。
私はシャワーで汗を流すと、持参した「かもめーる」に暑中見舞いをもらった人への返事を書いた。明日、どこか風景印を備えた郵便局から発送すれば、返事をもらった人も喜んでくれるであろう。
1989年8月15日(火)
翌朝は早めに「ステーションホテルダイエー」をチェックアウトする。益田駅まで随分と離れていると感じたので、余裕をもって行動した方が良いと考えたからだ。しかし、ホテルのすぐ近くに山陰本線の踏切があり、この踏切を渡って駅に向かうと10分足らずであった。最初から駅員に「益田ステーションホテル」に行きたいと尋ねていれば、反対の道を教えてもらえたであろうし、ホテル名の違いによるトラブルも避けられたかもしれない。
ホームには米子行きの特急「くにびき」が停車していた。今日も「青春18きっぷ」の旅であるので、基本的に特急とは縁がない。写真だけ撮影して、6時50分発の「くにびき」を見送り、私は7時49分の536Dで山口線をたどり、津和野に向かう。益田から乗車した536Dは緑の中を突っ切るように走り、8時34分に津和野に到着した。
駅前ではレンタサイクルの案内が目に付く。小さな盆地に広がる町並みは、自転車で観光するのが手頃なのであろう。私は2度目の津和野となるので、レンタサイクルは利用せず、駅前を散策することにした。
観光案内所で観光地図をもらい、まずは郵便局へ。旅行貯金を済ませた後、昨夜書き上げた暑中見舞いに風景印を押してもらう。風景印は消印の一種で、その地方の風景がデザインされている。すべての郵便局に備えられているわけではないが、観光地であれば概ね用意されている。もっとも、特に頼まなければ通常の消印が押されてしまうため、注意しなければならない。
城下町に似合わない西洋ゴシック建築の津和野カトリック教会を見学した後、土産物屋を冷やかしながら、津和野川沿いを散策する。ちょうど夏の高校野球の季節で、今日の第一試合が神奈川代表の横浜高校の試合であったことを思い出し、テレビで高校野球中継を放送していた「城下町」というレストランに入る。うどんを注文して試合に見入るが、9回表に石川代表の星稜高校に5点目を献上した時点で店を出た。試合は1−5で敗戦。県大会では、貫禄の試合運びをする横浜高校だが、甲子園ではまたもや初戦敗退。甲子園で勝てない横浜高校のジンクスは続く。
10時44分発の538Dで津和野を後にする。山口で634Dに乗り継ぐ。小郡の到着予定時刻は12時17分のはずであったが、5分ほど遅れた。当初の予定では3分の乗り継ぎで下関行きの925Mに乗る予定であったが、既に925Mは発車してしまっている。やむを得ず、今回の旅で2度目の禁じ手となる新幹線を利用する。
小郡12時47分発の「こだま535号」で次の新下関まで移動。新下関到着は13時06分。925Mの新下関の発車時刻は13時17分であるため、新幹線の利用で無事に乗り遅れた925Mに追い付くことができた。
下関駅前にある下関郵便局で旅行貯金を済ませ、下関までやって来た記録を残すと、いよいよ九州入りである。今回の旅の目的の1つは、九州初上陸であったのだ。
下関14時19分発の新田原行き5435Mに乗り込む。車内は満席であったが、旅行者の姿は少ない。一般的な旅行者は、飛行機か新幹線で九州入りするのであるから当然であろう。しかし、どこへ行くのもそうだが、鈍行列車で行くからこそ、はるばるやって来たという感慨が湧くものだ。私が初めて北海道へ行ったときは、飛行機に乗ってしまったのだが、羽田空港から千歳空港まで数時間で着いてしまったため、北海道にやって来たという実感が湧かなかったものだ。
5435Mは下関を発車すると間も無く関門トンネルに入る。関門海峡の下を列車が走っているのかなと思ったのも束の間、すぐに北九州の街並みが顔を出した。北陸トンネルよりも短いのだから無理もない。
九州最初の停車駅である門司で下車。駅の所在地は「北九州市」とあり、九州にやってきた実感が湧いてくる。駅の時刻表を眺めても、熊本、長崎、大分、宮崎といった九州の地名がずらりと並ぶ。もちろん、門司郵便局で九州初の旅行貯金をしたことは言うまでもない。
さらに1駅、小倉へ移動すると、北九州市の中心だけあってさすがに大都会だ。九州に都会的なイメージを持ち合わせていなかったので、なんだか違和感がある。
せっかく、九州へやってきたのだから、やはり「博多ラーメン」を食べたい。「博多ラーメン」を食べるなら、本場の博多まで行けば良いのだろうが、今回は時間がないので小倉で手を打つ。小倉駅南口から歩いて5分ほどのところにあった「めん吉」に入る。きれいな店構えだが、味の方はどうだろうか。一般的にのれんが汚い店の方が繁盛していると言われているので、少々心配になる。
私が注文したのは「めん吉ラーメン」というノーマルな博多ラーメンだ。白いとんこつスープに紅生姜が添えられている。博多ラーメンがとんこつスープであることは知っていたが、紅生姜が添えられるとは知らなかった。私は紅生姜が嫌いだ。紅生姜を丹念に取り除いてラーメンを食べる。思ったよりもあっさりとしており、物足りなさを感じたが、本場の博多ラーメンを賞味して満足する。
博多ラーメンを食べ終わった時点でタイムアップ。九州に別れを告げて、小野田線、岩徳線経由で、広島へ向かった。
1989年8月16日(水)
深夜の広島駅の7番線ホームで、臨時快速列車「ムーンライト山陽」を待つ。0時01分に広島を発車し、京都へ向かう夜行列車だ。広島の発車時刻が0時01分というのが「青春18きっぷ」利用者には嬉しい。指定席券は持っていないが、始発の広島からであれば、自由席でも座ることができるであろう。
やがてディーゼル機関車に牽引されて、客車編成の「ムーンライト山陽」が入線してくる。臨時編成のためか、号車によって車両状態が異なり、運良く私の並んだ列は、比較的新しいシートの車両に当たった。
同席になったのは東京の高校生。東京に住んでいるのに、なぜか新潟市内発の「九州ワイド周遊券」を所持していた。最初から東京都区内発の「九州ワイド周遊券」を利用すれば良さそうなものだが、「九州ワイド周遊券」は東京都区内発が学割で23,590円、新潟市内発は学割で24,000円とほとんど同じ値段である。しかも、新潟市内発の「九州ワイド周遊券」には、往復の経路に東京経由も含まれているという。つまり、行きの東京−新潟間を別払いすれば、新潟と九州をまとめて旅することができるのだ。ちなみに行きの新潟までは、「青春18きっぷ」を活用したという。高校生も旅行貯金をしているというので、通帳を見せてもらうと、新潟から宮崎までの郵便局が並び、バラエティに富んで面白かった。
「ムーンライト山陽」は、寝台特急に道を譲るために、途中駅で何度も運転停車を繰り返す。臨時列車なので、ダイヤの空き時間を利用して運行しているため、定期列車が優先されるのだ。
目が覚めると、「ムーンライト山陽」は岡山に到着するところだった。時刻はまだ3時である。向かいのホームには、3時04分発の下り「ムーンライト山陽」が停車している。時刻表では、この「ムーンライト山陽」の岡山到着時刻は3時10分となっているので、本来であれば上り「ムーンライト山陽」から下り「ムーンライト山陽」に乗り継ぐことは不可能なはずである。それが実際には上り「ムーンライト山陽」が3時に岡山に到着するので、時刻表上では不可能な乗り継ぎが可能となる。上りと下りの夜行を乗り継ぐ物好きがいるのかと思われそうだが、宿代を浮かすために、上下の夜行を深夜に乗り継ぐと言うのは「ワイド周遊券」や「青春18きっぷ」の利用者が行う常套手段だ。夜行列車であれば、別の目的地に連れて行かれてしまうが、上下の組み合わせを行えば、同じ場所に戻って来ることができる。このからくりは、偶然に「ムーンライト山陽」が早着したのではなく、高知からやって来る「ムーンライト高知」との連結作業のために、上り「ムーンライト山陽」のドアを一旦閉める。連結作業が終わって再度、ドアを開く時間が3時10分であるのだ。
一緒に乗り合わせた高校生は、岡山から「ムーンライト高知」に乗り換えると言うので、見送りに行く。「ムーンライト高知」には、グリーン車指定席のカーペットカーが連結されているので、高校生はカーペットカーの乗り試しをするのだという。カーペットカーには毛布と枕が備え付けられており、船舶の桟敷席のようだ。グリーン車なので「青春18きっぷ」では乗車できないのだが、少々割高であるような気がした。
深夜の岡山からも乗客がかなりあり、私のボックス席は満席になってしまう。膝を突き合わせて窮屈な感じが続き、姫路で逃げ出すように下車した。
姫路からは姫新線の始発列車である831Dに乗る。姫路を発車すると、雨が本格的に降り出して来た。佐用で830Dと行き違いをして、津山には7時08分に到着した。津山からか因美線で鳥取を目指す。因美線に乗るのであれば、通常は1駅手前の東津山で乗り換えるのであるが、それでは姫新線の東津山−津山間が乗り残しになってしまうので、終点の津山まで乗り通した。別の機会に岡山から津山線で津山入りし、その後、津山から姫新線の乗り残し区間である津山−新見間を乗りに来ることになろう。
さて、津山から7時11分発の647Dに乗り継ぐ予定であったが、周囲にそれらしき列車はない。ホームでうろうろしていると、姫路から乗って来た830Dの行き先表示板が「津山−鳥取」に差し替えられた。今まで乗って来た車両が647Dになるようだ。
津山から4つ目が私の姓と同じ駅名である三浦。三浦駅は1963年(昭和38年)4月1日の開業で、因美線で最も新しい駅であるが1面1線の簡素なホームだ。駅名標の写真を記念に撮影する。
若桜鉄道が分岐する郡家に到着すると、5分ほど遅れが生じていた。私は鳥取で時間に余裕があるので支障はないが、ギリギリの乗り継ぎであれば、小郡の二の舞になるところだった。山陰本線に乗り遅れてしまったら、新幹線で追い掛けることができないので大変だ。
遅れを持ち越したまま終点の鳥取に到着した。相変わらずの天候であるが、傘を差して鳥取中央郵便局へ足を伸ばした後、鳥取鉄道公園に向かう。雨が降る無人の公園には、ホームや踏切、時刻表など、かつての鉄道施設が集められていた。近くに鳥取富安郵便局を発見したのは拾い物だった。
鳥取から快速3180Dで豊岡に向かう。天気は次第に回復し、やがて薄日が差してきた。この3180Dで餘部鉄橋を通過する。過去にも餘部鉄橋を列車で渡ったことはあるが、1986年(昭和61年)12月28日にお座敷列車「みやび」の転落事故以降は初めてである。餘部を通過し、多少、緊張しながら車窓を注視する。やがて列車は餘部鉄橋に差し掛かったが、天候が回復したこともあり、餘部鉄橋は明るくのどかな雰囲気で、橋の下で手を振っている子どもの姿もあった。
豊岡では千代田郵便局という都内にありそうな局名の郵便局で旅行貯金を済ませる。駅前では金魚を無料で配布していた。豊岡が金魚に縁があるだろうか。無料なら手にしたいところであったが、今回は旅の途中なので見合わせる。
豊岡からは、和田山に途中下車した後、山陰本線で京都目指す。和田山から福知山に向かう列車の中で眠ってしまい、気が付いたら福知山に到着していた。発車ベルが鳴っていたので、慌てて隣の列車に飛び乗る。ドアが閉まった瞬間、この列車で良かったのだろうかと心配になったが、車内放送で京都行きであることが判明したので安心する。どうも疲れが出てきたようだ。
終点の京都には19時58分に到着。偶然にも、今日は送り火の日である。点火時刻は20時なので、絶妙のタイミングだ。せっかくだから、京都タワーから見物しようかと思ったが、京都タワーは大混雑で、今から展望室に上るのは難しそうだ。あまり遅くなっては今晩泊めてもらう祖父母宅に迷惑を掛けるので、送り火見物を諦めた。京都から守山までは、普段は湖西線を走っている113系車両であった。
21時前に守山に到着し、その日は祖父母宅で泊まる。翌日は、余った「青春18きっぷ」を利用して、自宅のある平塚を目指す。本当は寄り道をして行きたかったが、夕方から塾の夏季講習があるので、まっすぐ平塚を目指す。その日の塾では英単語の試験が行われたが、散々な成績であったことは言うまでもない。
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