初めてのひとり旅 Part1(1989年)
tabito
1989年5月2日(火)
「本州最南端の駅はどこでしょう?」と尋ねられたら、すぐに答えが出て来るであろうか。日本最南端なら指宿枕崎線の西大山駅であることは知っていても、本州最南端の駅と言われると考え込んでしまう人も多いであろう。実は私もつい先日まで知らなかった。知らなかったどころか、本州最南端の駅がどこであるかなど考えたことすらなかった。ところが、偶然に手にした種村直樹の「鉄道旅行術」(日本交通公社)を読んで、本州最南端の駅が紀勢本線の串本であることを知った。それから、本州最南端という言葉に惹かれ、串本駅を訪問してみたいと思っていたのだ。
串本駅を訪問することにしたのは、1989年のゴールデンウィークであった。春休みに友人と2人で富山へ出掛けたのを足掛かりに、今度は一人旅に挑戦しようという趣旨である。
5月2日の夕方、放課後に平塚駅のみどりの窓口に赴き、「南近畿ワイド周遊券」を購入する。手渡されたのは、マルスで発券された有難味のない周遊券である。しかし、マルスで発券された周遊券には、「ご案内」という別紙を付けることになっているのに、手渡された周遊券には「ご案内」が付いていない。平塚駅のみどりの窓口では、かつて「仙台・松島ミニ周遊券」を購入した時にも「ご案内」が付いて来なかった。「ご案内」には、出発駅から自由周遊区間までの経路や注意が添えられており、「ご案内」がなければ周遊券は成り立たないと思う。なぜなら、「南近畿ワイド周遊券(A券)」にも、「詳しくは別紙の「ご案内」をご覧ください」と記されている。窓口の駅員に催促すると、しばらく周囲を探した後、同僚の駅員にも確認したが、平塚駅には「ご案内」の在庫がないという。周遊券を発売する以上、「ご案内」をしっかりと用意しておくべきであろう。
平塚からは一旦、東海道本線で東京に向かう。名高い大垣夜行375Mの座席を確保するためである。17時24分発の354Mは、夕方のラッシュ前の時間帯なので、車内は空いていた。世間では明日から3連休であるが、旅の身支度をしているのは私だけのようである。流れゆく車窓を眺めていると、カメラのフィルムを忘れたことに気が付いた。
東京に到着すると、そのまま375Mが発車する9番線ホームに向かった。時刻はまだ18時30分なので、発車時刻の約5時間前であるが、ピーク時の375Mは、積み残しが出るほど混雑するらしい。前回、春休みに利用したときもかなり混雑したが、今夜はゴールデンウィークの3連休前夜とあり、375Mの利用者も多いに違いない。
ところが、9番線ホームに着くと、予想に反してガラガラである。375Mを利用するのはほんとが「青春18きっぷ」利用者であろうし、「青春18きっぷ」が発売されないゴールデンウィークはそれほどの混雑ではないのかもしれない。私もせっかく「南近畿ワイド周遊券」を手にしていることもあったので、今回は普通車ではなく、グリーン車に乗ってみることにした。中学生でグリーン車に乗るのは贅沢この上ないが、翌朝の大垣までリクライニングシートの快適な環境で過ごせるか、狭いボックス席に向かいの人と膝を付け合わせて過ごすかは雲泥の差だ。
グリーン車の乗車位置である5号車には、サラリーマン風の男性が1人だけだったので、迷わずその後ろにリュックサックを置き、東京駅のみどりの窓口へ向かう。グリーン券なら車内で買えば良さそうだが、375Mのグリーン券は、事前に駅で購入しなければならないという話を耳にしたことがあったからだ。
丸ノ内北口のみどりの窓口はかなり混雑していて、グリーン券を購入するのにもかなり待たされた。ついでに平塚駅で周遊券を購入したら「ご案内」をもらえなかったので、ここで「ご案内」をもらえないか頼んでみる。時刻表を持参しているので、「ご案内」など無くても問題ないのであるが、試しにどんなことが書いてあるか実物を見てみたかったのだ。
「うちも在庫切れかもしれないなぁ」
みどりの窓口の駅員は、そう言いながら席を立ったが、しばらくすると「ご案内」を手にして戻って来た。
大丸百貨店でカメラのフィルムを購入してホームに戻ると、私のリュックサックの後ろには長蛇の列ができている。グリーン券とフィルムを購入するための1時間ほどの間に随分と集まったものだ。
21時30分頃になって、突然、前に並んでいたサラリーマン風の男性のところに中年のおばさん4人組がやってきた。どうやら男性はこの4人のうちの1人の旦那さんであったようで、仕事帰りの足でわざわざ席の順番取りをしていたようだ。「しまった!」と思っても後の祭りで、私の乗車順序は2番目から5番目に後退した。
ホームの時計の針が23時を差した。そろそろ375Mの入線時刻である。ホームに敷いていた新聞紙を片付けようと立ち上がったところ、足がつってしまった。長時間座り込んでいたからであろうか。これから旅立ちだというのに困ったものである。
23時07分に375Mが東京駅9番線ホームに入線してきた。375Mは長時間停車する駅が多いので、私は出入りがしやすいドア近くの席を確保した。隣には長崎へ行くと言うカメラマンと乗り合わせる。長崎へ行くのにわざわざ375Mに乗るのだから、やはり同好の志である。車内はあっと言う間に席が埋まり、通路どころかデッキにまで人が溢れた。
「座れないのであれば、グリーン車に乗るのを止めて、普通車に移ればいいのに。車掌に申し出たら不使用証明をしてもらえますよね」
予想に反して、座りそびれた乗客が通路やデッキに留まるので、隣の青年に不満を漏らす。
「そうだなあ。それにしても、これでは途中駅でホームに降りることなんてできそうもないな」
こんな会話を耳にしてか、通路に立っていた白髪のおじいさんが言う。
「グリーン車のお客さんには申し訳ないな。普通車には乗れそうもないから、わしらはここに居させてもらっている」
どうやら立ち客はグリーン券を所持していないようだ。それならば、検札のときに車掌に追い出されるかと思ったが、車掌は座っている乗客のグリーン券しか確認しない。これではグリーン車の乗客が途中駅で降りたときに、グリーン券を持たずに図々しくグリーン席に腰を下ろす不届き者が出て来るではないか。そもそも、グリーン券は快適な旅をするためにわざわざ高いお金を払って利用しているのでから、グリーン車に留まる乗客には吾ルーン料金を請求し、払わないのであれば普通車に移動させるべきである。
満員でドアがなかなか閉まらずに、375Mは3分遅れで東京駅を発車した。停車する度にドアが閉まらないので、新橋、品川と停車する度に遅れが増幅する。横浜に到着した時はすでに0時を回っていた。
1989年5月3日(水)
「車内、込み合いまして大変ご迷惑をお掛けしております。空いたドアからご乗車いただきますようお願い申し上げます」
駅に停車する度に車内放送が流れるが、車掌も手の打ちようがないのであろう。
平塚では「湘南ライナー9号」に追い抜かれることになっているが、375Mの遅れが著しいため、本来のダイヤでは抜かれることのない国府津行き933Mにも道を譲る。短距離利用者を933Mに誘導させようという目論見だったのかもしれないが、偶然にやって来たからといってすし詰めの車両に乗り込んでくる短距離利用者など皆無である。
沼津でダイヤでは19分停車のところを切り詰めて、静岡では定刻に到着。
「ベント〜ウ!ベントウ!ベントウ!ベントウ!」
深夜のホームに大きな声が響く。真夜中に駅弁の立ち売りが頑張っているのは嬉しい限り。実は、春休みに375Mに乗車したときに、深夜の静岡駅で駅弁が買えることを知り、昨夜は夕食を抜いてきた。売っている弁当は「幕の内弁当」のみであるが、さっそく買い求める。今年の4月から消費税が導入されたおかげで、本来は600円の弁当が620円になっていた。消費税3パーセントなら18円のはずなので、2円の便乗値上げである。
浜松では23分の停車。改札口を通り抜けて駅前に出てみたが、さすがに周囲に灯りはない。駅構内では写真の展示を行っていたので暇つぶしに眺める。浜松駅のキヨスクでは、既に今日の朝刊が準備されており、まだ店を開ける前であったが、新聞を買い求める375Mの乗客がちらほら現れた。
浜松を出たところでさすがに眠くなる。本当は徹夜をするつもりであったが、体もだるい。夜更かしをして風邪をひいたのかもしれない。
気が付くと375Mは豊橋に停車していた。もう夜が明けており、車内にも日が差し込む。時計を見ると5時を回っており、浜松までは定時運転だったのに、また遅れているようだ。理由は明白で、浜松から375Mは各駅に停車するからである。ドアの開閉に時間を要したのであろう。深夜なので車内放送も流すことはできないから、車掌は難儀したに違いない。
岡崎に到着すると、向かいに停車していた1423Mに移動する乗客が大勢いる。1423Mは岡崎を5時52分発の列車で、すし詰めの375Mよりも居心地が良さそうだと判断したのであろう。賢明な判断だと思う。
せっかく岡崎で混雑が緩和したのも束の間、名古屋が近付くに連れて乗客が増えて来るので、すぐに車内はすし詰め状態に戻ってしまう。
「こんなところから、わざわざこの列車に乗らなくてもいいじゃないか!」
隣に座っていたカメラマンが吐き捨てる。カメラマンは名古屋から「こだま491号」に乗り継ぐつもりだったので、時間が気になり出したようだ。
「このままですと、名古屋から新幹線「こだま491号」に連絡ができません」
随分と無責任な車内放送が繰り返される。375Mから「こだま491号」への乗り継ぎ客は多いのだから、多少の便宜を図るべきだと思うのだが。
私も草津まで在来線を乗り継いで行く予定であったが、このままでは大垣からの乗り継ぎ列車にも間に合わないことは明白だ。「こだま491号」に乗る必要はないが、新幹線で米原までワープしないと今日の行程に支障を来す。せっかくのグリーン車を惜しみつつ、私も20分遅れの名古屋でカメラマンと一緒に375Mを捨てた。
名古屋で新幹線の改札口に向かうと、こちらもすごい人込みである。新幹線の特急券を持っていないので、窓口へ並ぶと、駅員がハンドマイクを持って叫んでいる。
「『こだま491号』にご乗車の方は、そのまま改札口を通って、特急券は車内でお求めください!」
新幹線の中間改札が開放され、375Mからの乗り継ぎ客がどっと押し寄せる。そのまま改札口を通り抜け、17番線ホームに上がると、「こだま491号」はまだホームに停車していた。375Mの乗り継ぎ客を引き受けるために発車を待っていたのである。ところが、「こだま491号」は、3連休初日の始発列車とあって、デッキまですし詰め状態となっている。
「ひどい込みようだなぁ。次の列車にするか」
行動を一緒にしていたカメラマンが言う。確かに「こだま491号」の込み具合は、昨夜の375Mにも匹敵する。カメラマンは、反対側のホームに停車していた「ひかり71号」の様子も見に行ったが、状況は「こだま491号」と変わらないようで引き返してきた。
「次の列車は『こだま493号』ですね。これに乗らないと予定している列車に間に合わなくなるので、私は次の列車に乗ります」
ここまで行動を一緒にしていたカメラマンに断ると、カメラマンも次の「こだま493号」で新大阪まで行くという。新大阪からは新大阪始発の「ひかり」で博多を目指すことにしたそうだ。
8分遅れで発車した「こだま491号」を見送ると、時間に余裕ができたので、乗車口に荷物を留守番させて、改めて特急券を買いに窓口へ向かう。
「『こだま491号』に乗るつもりで改札口を通らせてもらったのですが、結局、乗り損なったもので、改めて切符を買いに来ました」
静けさを取り戻した改札口を通り抜け、米原までの自由席特急券を買い求める。私はJR東海のアンケートに回答してもらった「新幹線特急料金補助券」を利用したので、通常料金よりも300円割引で特急券を購入することができた。
新幹線ホームに戻ると、既に「こだま493号」の案内が表示されていた。
「もう静岡から来た列車が名古屋に着くのかぁ」
カメラマンがつぶやく。375Mで未明の静岡に到着し、駅弁を購入してから随分と時間が経つが、その静岡始発の新幹線がもう名古屋に到着するのである。新幹線は速い。
「こだま493号」は定刻に名古屋を発車した。座ることはできなかったが、車内はそれほどの混雑でもない。久しぶりの新幹線になるので、忘れかけた新幹線の車窓を楽しむ。
米原で東京から行動を共にしたカメラマンと別れて東海道本線に乗り換える。米原7時55分発の新快速3511Mは、定刻に米原を発車したから、375Mを大垣まで乗り通していたら確実に予定に支障を来していただろう。
新快速で草津まで行き、草津から草津線に乗り換える。3連休の初日であるためか、草津9時10分発の柘植行き2738Mも超満員だ。絶えず乗客が入れ替わり、車内は混雑したままの状態で9時57分に終点の柘植に到着。柘植駅で硬券入場券を購入した。
亀山行きの230Dを待っていると、向かいのホームに急行「かすが」が到着した。近畿日本鉄道に圧倒的なシェアを奪われて、ローカル線に成り下がっている関西本線を走る数少ない優等列車だ。しかし、ボックスシートの自由席は満席であるにもかかわらず、リクライニングシートの指定席はガラガラであった。指定席料金を惜しまなければ快適な環境が提供されるのだが、乗客も指定席と自由席で座席にグレードの違いがあるなど知らないのであろう。
230Dもまずまずの乗車率であったが、ボックスシートの窓側を確保することができる。窓を開けるとさわやかな風が吹き込み、山あり、川ありの自然に恵まれた車窓が続く。
亀山で乗り換えた紀勢本線の1849Dもディーゼルカー。この辺りは非電化区間が続く。多気駅前では郵便局を発見したが、残念ながら今回の旅は祝日なので旅行貯金には縁がない。代わりに駅の待合室にあった記念スタンプを押しておく。
12時09分発の1853Cは、JR東海の新型ワンマンカーのキハ11形であった。バスのように乗車するときに整理券を受け取るシステムで、かつて能登鉄道でお目にかかったことがあるシステムだ。私は「南近畿ワイド周遊券」なので、整理券は不要であるようにも思ったが、念のため受け取っておく。
伊勢市で列車行き違いのため10分停車するので迷わず下車。改札口で途中下車印を押してもらい、駅のスタンプ置き場へ行くと、伊勢市以外に田丸、宮川、山田上口、二見浦のスタンプまでそろっていた。これらの駅は無人駅なので伊勢市でまとめて管理しているのだろうが、本来の駅のスタンプの機能を失っているような気がする。
13時ちょうどに終点の鳥羽に着くと、隣に競合する近畿日本鉄道鳥羽線が並走していることに気付く。季節列車である快速「伊勢路」をJR東海が必死になって宣伝したところで、頻繁に特急ビスタカーを走らせている近畿日本鉄道が圧倒的に有利だ。参宮線が廃止と騒がれるのも当然の成り行きである。
駅前に出てみると、観光地らしく土産物屋が軒を並べる。少し歩けば鳥羽水族館もあるのだが、今日はこれから名松線にも足を伸ばすので観光は別の機会に譲り、13時30分の860Cで多気へ戻る。車内にはまだゴールデンウィークだというのに海水浴客の姿があったので驚く。伊勢志摩は既に夏を迎えているのだ。
860Cが遅れた関係で、多気では337Dへの乗り換えに跨線橋を走らされる。今回の旅は何かとダイヤ通りに列車が運行されないことが多い。天候が悪いわけでもないのに不思議なことだ。
337Dはわずか11分で松坂に到着。松坂と言えば松坂牛が有名で、駅弁に「特選牛肉弁当」もあるのだが、中学生の少ない小遣いで1,030円は容易に手が出せない。
名松線は、改札口から最も離れたホームから発車する。こちらも新型のキハ11形を投入し、ワンマン運転を行っている。個人的にはレールバスというのは味気なく、旧国鉄型の車両が旅情をそそるのだが、合理化を図るために民営化されたのだから仕方がない。
松阪15時10分発の869Dは、しばらくは松坂市街地を走っていたが、家城から次第にローカル色が濃くなって来る。雲出川沿いに山間を走り、16時24分に終点の伊勢興津に到着した。
名松線の線名は、名張の「名」と松阪の「松」に由来する。つまり、本当はこの先にある名張まで開業させるつもりで建設が始まった。しかし、国鉄の財政が悪化し、国鉄再建法によって第2次廃止対象線区となってしまったことから、全線開業は夢となってしまった。現在は、三重交通のバスが名張まで走っている。もっとも、全線開業しても、松阪−名張間には近畿日本鉄道が路線を持っているため、勝負にならなかったであろう。
伊勢興津で降りたのは、私の他に旅行者が1名と地元の人が数名であった。地元の人はすぐにどこかへ散ってしまい、駅に残ったのは私と旅行者だけだった。しかし、その旅行者も入場券を3枚購入すると、すぐに名張行きのバス乗り場へ行ってしまう。まぼろしの伊勢興津−名張間をバスでたどるようだ。
私はこの後、伊勢鉄道に乗るため、17時13分の434Cで松阪へ戻らなければならない。駅前を散策するが、周辺には小さな集落があるだけだ。昼食を食べていないので、パンかおにぎりでも売っていないかと思ったが、食料品店にあるのは調理が必要なものばかり。やむを得ずポテトチップスを購入し、空腹を凌ぐことにする。
伊勢興津駅に戻り、記念に入場券を購入。暇そうにしている初老の駅員と雑談をして過ごす。
「最近は各地でローカル線がどんどん廃止になっているからね。正直なところ、民営化されて名松線もこの先どうなることやら。JRで初めてワンマン運転を開始して、努力を始めたところだけど」
駅員は名松線の行く末を案じているようであった。私は駅員が貴重なものだと誇らしげに自慢する構内の信号機を写真に収め、伊勢興津を後にした。
434Cの車内で時刻表を確認し、特急「南紀10号」で松阪から名古屋に出ようと考えたが、松阪駅で「南紀10号」を待つうちに、せっかくなので日本一短い駅名である津にも立ち寄ってみたくなった。松阪で先行する336Dに乗れば、津まで「南紀10号」より先行できるのだ。
松阪18時57分の336Dに乗車して、三重県の県庁所在地でもある津で下車する。みどりの窓口で記念に入場券を購入すると100円であった。通常、JRの入場券は140円である。このときは不思議に思っていたが、帰宅後に調べてみると、津はJRと近畿日本鉄道の共同改札になっているため、近畿日本鉄道の入場券に合わせて100円となっていることが判明した。
特急「南紀10号」は定刻の19時31分に津を発車した。ディーゼル特急に乗るのも何年ぶりであろうか。列車はすぐに紀勢本線と別れて伊勢鉄道線に入る。伊勢鉄道の前身は旧国鉄伊勢線である。関西本線と紀勢本線を結ぶバイパス線として開業したにもかかわらず、伊勢線の河原田−津間の利用者が少ないという理由で国鉄は伊勢線を1987年(昭和62年)3月27日に廃止してしまった。伊勢線は第三セクター伊勢鉄道に引き継がれ、現在に至っているが、特急「南紀」が頻繁に走るバイパスを廃止してしまったことは、利用者にとってもJR東海にとっても迷惑な結果になったのではなかろうか。
「南紀10号」は、街のネオンが輝く鈴鹿に停車する。伊勢鉄道線内で唯一の特急停車駅だ。1つ手前の駅が鈴鹿サーキットに近い鈴鹿サーキット稲生であった。残念ながら暗闇で鈴鹿サーキットを確認することはできなかった。
終点の名古屋には20時32分に到着。今夜は23時44分の快速「スターライト号」の指定席を押さえてあるので、ホームで並ぶ必要もなく、3時間ほどの時間を持て余す。夜間に出歩くのも物騒なので、「南近畿ワイド周遊券」を活用して、列車を乗り歩いているのが無難だ。関西本線のホームには、四日市行きの列車が停まっていたので、取りあえず乗ってみる。八田、蟹江と停車して、どこで降りようかと迷っていると、「次は富田、富田です」という車内放送が流れる。友人の名字と同じ駅名で、これは話のネタになるかもしれない。入場券を買ってプレゼントすれば面白がられるかなと思い、富田で下車した。
富田は四日市郊外にある駅で、かつては三岐鉄道が乗り入れていたが、1985年(昭和60年)3月14日をもって旅客扱いを廃止。現在は貨物のみの取り扱いとなり、構内の敷き詰められた側線には貨車が停まっている。駅員は1名のみで、集札が終わるのを見計らって、硬券入場券を所望したが、この駅では硬券入場券を取り扱っていないという。駅前も真っ暗で、出歩く気にもなれず、次の列車でさっさと退散した。
次に降り立ったのは桑名である。桑名も近畿日本鉄道と共同改札方式をとっていた。近畿日本鉄道の新型特急「アーバンライナー」を見送り、駅前に出てみたが、酔っ払いがウロウロしており物騒だ。桑名で食料を調達しようと考えていたが、諦めて名古屋へ引き返す。
名古屋駅の売店は既に閉っていたが、幸いなことにホームでは「きしめん」のスタンドがまだ湯気を上げている。これは幸いとスタンドに掛け込み、「きしめん」を注文。麺の上にまぶした鰹節が「きしめん」の出汁と調和して美味しい。1杯では物足りず、もう1杯追加注文してしまった。
腹も朽ちたところで、ホームのベンチに腰を下ろし、読書をして快速「スターライト号」の入線を待つ。自由席には列ができていたが、昨日の375Mの比ではなく、これならば無理して指定券を買わなくても良かったかなと思う。
やがて入線してきた「スターライト」は、キハ58系の2両編成。昼間に乗った紀勢本線のディーゼルカーと同じ車両で、もちろん4人掛けのボックス席だ。正直なところ、「スターライト」という列車名から、どんな車両で運行されるのだろうかと期待を膨らましていただけにがっかりだ。思い起こせば昨年末にも上野から仙台行きの急行「ミッドナイトスター」という列車名に惹かれて乗車したのだが、車両は481系で、ドア近くの行き先表示こそ「臨時」であったが、ヘッドマークはL特急「ひたち」であった。
向かいに乗り合わせたのは、釣り道具を抱えた気難しそうなおやじ。挨拶をしても返事がない。この人に話し掛けるのは止めよう。この列車は、南紀へ向かう釣り客をターゲットにしているのか、他にも釣り道具を抱えた乗客を見掛ける。
1989年5月4日(木)
「スターライト」は、伊勢鉄道を経由せずに、亀山までは関西本線を進み、進行方向を変えて紀勢本線に入る。かつての寝台特急「紀伊」と同じ運行経路だ。多気からは初乗り区間となるので、しっかりと起きていようと思ったのであるが、車窓は真っ暗で退屈になる。次第にウトウトとしてしまい、気が付けば紀伊長島に停車していた。
尾鷲でも10分停車のダイヤになっていたので、深夜の駅前に出てみる。尾鷲は今年の3月に放送を終えたNHKの「銀河テレビ小説」の最終作となった「黒潮に乾杯!」の舞台となった地であるため、印象に残っていたのだ。もっとも、深夜なので駅前のテレビで放送された風景を確認するだけに留まる。
熊野市を過ぎたところで次第に明るくなってきた。予定では、「スターライト」で紀伊勝浦まで行こうと考えていたのだが、居心地の悪いボックス席で過ごすよりも、L特急「くろしお1号」の始発駅となる新宮で乗り換えた方がいいだろう。始発駅なので座席も確実に確保できる。
新宮で下車すると、まだ完全に夜が明けたわけではないのに、駅のホームの立ち食いそば屋が店を開いていた。せっかくなので、「かけそば」を1杯食べると、体が温まった。新宮で下車したのは正解である。
新宮から5時26分発の「くろしお1号」に乗車し、いよいよ本州最南端駅の串本に向かう。かつての寝台特急「紀伊」の終着駅であった紀伊勝浦を経て、串本には6時14分に到着。
串本は、南紀を代表する観光地である海中公園や潮岬への玄関口でもある。本州最南端の駅へやって来た記念に硬券入場券を購入しようとしたが、駅の窓口では「ありません」の冷たい返事。本州最南端の駅として私のような鉄道ファンもやって来ると思われるのに、硬券入場券すら用意していないとはJR西日本も商売が下手である。せっかく民営化されたにもかかわらず、客の御機嫌を取りながら売り上げを増やそうという意識が伺えない。今回本州最南端の駅を目的に企画したのであるが、駅員のそっけない態度に気分を害し、あまり長居したいと思わなくなった。
潮岬へ行ってみようと思ったが、潮岬行きのバスは8時12分が始発となっている。2時間も無駄に時間を過ごすのはもったいないので、6時28分の紀伊田辺行き2324Mで串本を後にする。
車内に日が差し込むと、心地よくなり居眠りをしてしまう。田子という面白い名の駅を見ようと思っていたのに、気が付いたときは周参見を過ぎていた。
白浜で下車すると、駅前には土産物屋が並び、観光地らしい雰囲気となる。駅の売店でお土産用のお菓子を購入する。白浜から乗る「くろしお3号」まで時間があったので、帰りの新幹線の指定席がとれないか試してみたが、ゴールデンウィークなので軒並み満席の表示が出た。
白浜から乗車した「くろしお3号」は、381系の振り子式車両である。白浜からの区間はカーブが多いため、振り子式車両の本領を発揮する。振り子式車両に慣れない人は、遠心力で電車酔いすることが多いと聞くが、私はまったく気にならなかった。
和歌山からは、紀勢本線の支線のような存在になっている和歌山−和歌山市間に乗車する。和歌山では、和歌山市行きの列車のホームへ行く途中に中間改札があった。「南近畿ワイド周遊券」では、途中の紀和までしか周遊区間に含まれていないため、紀和−和歌山市間の往復乗車券を購入する。「南近畿ワイド周遊券」が中途半端な紀和までしか自由周遊区間に含めていないのは、紀和−和歌山市間の一部が南海電気鉄道の線路になるため、自由周遊区間に含めてしまうと「南近畿ワイド周遊券」の売り上げの一部を南海電気鉄道に収めなければならなくなるからだ。しかし、その理論であれば、「青春18きっぷ」で紀和−和歌山市間が乗車できるのは理屈に合わない。まさか「青春18きっぷ」の売り上げまでも南海電気鉄道に収めているわけではなかろう。
和歌山−和歌山市間は、和歌山市内を少し走るだけで呆気なくおしまい。和歌山に戻って来ると、駅の構内でオレンジカードの図案投票が行われていた。面白そうなので1票投じてみると、粗品として過去のオレンジカードのデザインが掲載された下敷きをもらえた。
和歌山からは阪和線に入る。天王寺へ向かう途中、鳳から出ている阪和線支線にも立ち寄る。わずか1駅の区間であるが、和歌山−和歌山市間がワンマン運転であったのに対して、阪和線支線にはしっかりと車掌が乗務していた。こちらも間も無くワンマン化されるという。
「南近畿ワイド周遊券」の自由周遊区間は天王寺までであるため、別途乗車券を購入して大阪環状線に乗る。大阪環状線には、今年の3月から投入された221系の新型車両が運行されている。車内が明るく、今までのイメージを刷新する車両である。
大阪環状線にも桜島線という支線があり、可動橋のある桜島線を往復する。続いて京橋から片町まで往復し、今日は支線めぐりとなる。
関西本線で王子へ出て、和歌山線で高田へ。高田駅の売店で買ったパンをホームで食べていると、真冬のようにジャージを着込んで走っている人がいた。ボクシングの減量でもしているかのような様子である。
桜井線では、天理までしっかりと起きていたのだが、寝不足から再び居眠りをしてしまう。「奈良ですよ」と隣に座っていた乗客に起こされる。慌ててホームに飛び降り、反対側のホームに停車していた奈良線に飛び乗る。奈良−京都間は、競合する近畿日本鉄道京都線が主力で、奈良線は単線非電化のローカル線。当然、列車も空いていると思ったのだが、ゴールデンウィークの観光地だけあって車内は満員。あまりにも蒸し暑く、途中の木津で逃げ出す。
時間があるので「南近畿ワイド周遊券」の範囲である関西本線の加茂まで往復。関西本線の加茂までは電化区間であるため、大阪環状線直通の「大和路快速」など運行本数が多い。
新型の221系車両で加茂まで運ばれたが、加茂駅周辺は田畑が目立つ。これから大阪のベッドタウン化が図られていくのであろう。大阪環状線への直通列車が走る始発駅となれば、必然的に注目されるに違いない。
「南近畿ワイド周遊券」には、加茂駅から岩船寺までのJRバスが利用可能であるが、手頃な時間帯のバスがないので断念。奈良まで引き返し、奈良線の座席を確保することにした。
奈良駅の改札口で途中下車印を押すように頼むと、「精算所へ行って下さい」との返事。途中下車印を押すのに乗客へ足を運ばせるのはきちんと仕事をしていない証拠である。下車印は確かにここまで乗客を運んだという証明にもなるのだから、申し出がなくても途中下車印を押すべきである。私は途中下車印の収集にそこまで思い入れはないので、そのまま改札口を通過する。
奈良と言えば、大仏のある東大寺、鹿が生息する奈良公園、法隆寺などが観光ポイントであるが、修学旅行で訪れるのは確実だし、人混みのゴールデンウィーク期間中に足を運ぶところでもない。奈良観光は次の機会に譲り、次の奈良線は17時15分発の668Mであったので、早めにホームの乗車位置に並ぶことにした。
無事に座席を確保した668Mは、あっという間にすし詰め状態になった。やはり奈良まで戻って正解だった。強行軍が続いており、京都までの1時間をすし詰めの車内で立ったまま過ごすのは辛い。奈良線に乗る機会もあるだろうし、眠って過ごすつもりであったが、保線状態が悪いのか、車輪がレールの継ぎ目を拾う音が騒々しくて眠れなかった。
列車はしばらく田園地帯を走っていたが、宇治を過ぎたあたりから、次第に住宅地が広がって来る。京都が近くなってきたからであろう。
夕刻の京都駅は、大垣夜行375Mを待つ東京駅を連想させるような混雑であった。大きなバックを抱えて迷惑がられながら、米原行きの新快速に乗り換える。こちらも混雑しており、立っていると駅間がやたらと長く感じられる。
守山で下車して祖父母宅へ向かう。今日は一晩、祖父母宅で泊めてもらうことになっている。祖父母宅は駅から遠く、普段であればバスを利用する距離であるが、今回は試しに歩いてみた。守山銀座を通り抜け、田んぼを突っ切る地方道を歩く。あちらこちらを蚊に刺されながら、1時間少々で祖父母宅に到着した。
1989年5月5日(金)
今日は祖父母宅に近い小津神社の祭りの日。長刀踊りが繰り広げられ、屋台も出て子どもがはしゃぐ声が聞こえる。当初は祭りをのぞいてみるつもりであったが、起き上がる気力もなくパスしてしまう。
午後になって、祖父母宅を出発。守山駅のみどりの窓口で新幹線の指定席券を確認したが、やはりキャンセルは出ていなかった。自由席ならば、補助券を利用できるので、周遊券のままで守山を出発。米原の中間改札口の前にある窓口で、小田原までの自由席特急券を購入すると、驚くべきことに硬券切符であった。串本駅ですら硬券切符を取り扱っていないのに、新幹線では、まだ硬券切符が現役で活躍していたのである。
新幹線ホームの売店で夕食用のパンを仕入れて、「こだま481号」に乗り込む。座席はすべて埋まっていたが、すし詰め状態ではないのが救い。それでも小田原まで立つのを覚悟していると、目の前の家族連れのお母さんが子どもを膝の上に乗せて、座席を譲ってくれた。御礼を述べて座らせてもらったが、次の岐阜羽島で後ろの席が空いたのを幸い、子どもの座席をお返しする。もっとも、名古屋では再び混雑し、家族連れの子どもの座席は別の人に譲られた。
新幹線はさすがに早く、ぼんやりと車窓を眺めていると小田原に到着。東海道本線との接続は悪く、しばらく寒いホームで待たされる。立ち食いそば屋は既に店じまいをしており、名古屋駅のきしめん屋のように暖をとることはできなかった。
小田原21時20分発の東京行きの366Mは急行「東海」で利用される165系であった。ダイヤからして、急行「東海3号」が静岡で折り返してきたのであろう。珍しく車内検札があり、バックから苦労して「南近畿ワイド周遊券」を取り出すと、既に車掌はどこかへ行ってしまっていた。何のための車内改札であろうか。
平塚では頼みもしないのにしっかりと途中下車印が押された。「南近畿ワイド周遊券」は、東京都区内発なので、平塚はまだ途中駅に過ぎないのだ。もちろん、ここで切符は御用済みで、記念に保管しておく。こうして初めての一人旅はピリオドを打った。
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