ビジネスイノベーション

第108日 佐世保−長崎

2011年7月30日(土) 参加者:奥田・福井・横井

第108日行程  2年ぶりにミント神戸1階にある三宮バスターミナルにやって来た。九州方面への夜行列車がすべて廃止された影響もあり、外周旅行のアプローチには、高速バスを利用することが定番となっている。 毎年異なるバス路線を利用して長崎入りをしていたが、今回は2年前と同じ佐世保路線の利用となる。4年連続の長崎入りとなったため、さすがにバリエーションがなくなってしまった。2年前は三宮バスターミナルの発車時刻が22時15分であったため、京阪電車と阪神電鉄の乗り継ぎで三宮へやって来たが、現在は発車時刻が30分繰り上がった関係で、JRの新快速を利用とした。京都から新快速で52分。競合路線の多い京阪神地区であるが、さすがにスピードではJRが群を抜いている。
 例年であれば、島雄クンや福井クンと合流するのであるが、今年は久しぶりに一人での旅立ちとなる。今春に結婚したばかりの島雄クンは参加を渋り、福井クンからは、仕事が忙しいので翌日の朝一番の飛行機で駆け付けるとの連絡があったからだ。
 三宮バスターミナルからは、21時を過ぎても徳島や福良へ向かうバスが出ており、明石海峡大橋の開通により、淡路島や四国が近くなったことを改めて認識する。
 21時40分過ぎにハウステンボス行きの南海バス「サザンクロス」が到着した。大阪・神戸−佐世保・ハウステンボス間は、南海バスと西肥バスの共同運行となっているが、南海バスは「サザンクロス」、西肥バスは「コーラルエクスプレス」とそれぞれが異なる愛称を付している。2年前は西肥バスの「コーラルエクスプレス」だったので、うまい具合に乗り比べができそうだ。
 「サザンクロス」は、定刻の21時45分に三宮バスターミナルを発車。南海堺東駅前を19時55分に発車し、南海堺駅前、湊町バスターミナル、南海なんば高速バスターミナルを経由してきたにもかかわらず、定時運行ができるのだから立派である。高速バスも競争が激化し、道路事情で遅れるという言い訳が利用者に通用しなくなっているのであろう。新神戸トンネルを経由するものと思ったら、バスは海岸方面に向かい、京橋入口から阪神高速3号神戸線に入った。左手にポートタワーが見えたところで運転席後ろのカーテンが閉められる。
 2年前の「コーラルエクスプレス」では、このまま翌朝の金立サービスエリアまでノンストップであったが、今回は三木サービスエリアで休憩があるとのこと。また、「コーラルエクスプレス」では設備のなかったウォーターサーバーがあり、インスタントコーヒーやティーパックの緑茶が飲めるようになっている。明日の朝になったらモーニングコーヒーを試してみよう。
 三木サービスエリアで10分間のトイレ休憩。かつての売店には「三木鉄道せんべい」など、三木鉄道関係のグッズが販売されていたが、さすがに三木鉄道が廃止されてから3年以上も経過しているので、三木鉄道関連グッズは見当たらない。もっとも、かつての三木駅は、2010年(平成22年)6月6日に三木鉄道記念公園として生まれ変わり、レールバスの車庫を活用した「MIKI夢ステーション」で「三木鉄道せんべい」は販売されているとのことだ。
 三木サービスエリアを発車すると車内は完全消灯になる。夜中に何度か眠りから覚めたものの、気が付けば既に九州で、多久西パーキングエリアで朝の休憩となる。和風庭園が整備されており、特徴のあるパーキングエリアだが、早朝なので売店が開いていない。それならばと車内のウォーターサーバーでインスタントコーヒーを入れようとしたら、お湯がぬるい。消灯時に一緒にサーバーの電源も落としてしまったのではないだろうか。ぬるま湯を飲み干して席に戻るが、これではせっかくの設備やサービスも台無しだ。
 2年前は佐世保駅まで下車客は皆無であったが、今回は武雄温泉、有田工業高校前、早岐田子ノ浦と数名ずつが下車していく。2年前は無駄に利用者のいない停留所が多いと思っていたが、それなりに需要はある。見慣れた風景が周囲に広がり、定刻の7時22分よりも3分ほど遅れて佐世保バスターミナルに到着。高速バスで3分の遅れであれば許容範囲である。
佐世保駅で昨年買いそびれてしまった駅弁を朝食用に仕入れようとしたら、駅弁の販売は8時30分からとのことで断念。焼きたてパンを販売中の幟が目に入ったデイリーヤマザキ佐世保駅前通りで「7代目メロンパン」(120円)とコーヒー牛乳を購入。7代目とは仰々しいが、2000年(平成12年)12月の発売開始以来、毎年11月にリニューアルを実施し、現在が7代目だという。
 佐世保駅前のバスロータリーのベンチで簡易な朝食を済ませて、東横イン佐世保駅前の入口で奥田クンの電話を掛けるとフロントの前でチェックアウトの手続きを済ませて手を挙げている奥田クンの姿が目に入った。
 今回は駅レンタカーを利用することにしたので、出発は佐世保駅。駅前に営業所があるのが駅レンタカーの強みだ。駅レンタカーは、鉄道利用とセットでなければメリットがないと思い込んで敬遠していたが、今回は佐世保駅近くに大手レンタカーの営業所がなかったため、駅レンタカー利用に頼らざるを得なかった。しかしながら、調べてみると駅レンタカーは、良心的な料金であることが判明。佐世保駅から長崎駅まで12時間の借り受けで、4,050円。さらに今回は、年会費5,250円のトクートラベルプレミアム会員に登録したため、さらに10パーセント割引の3,645円となった。この価格でカーナビやETCがしっかり装着されている。これからは駅レンタカーの利用が増えそうだ。
 8時に開店したばかりの駅レンタカー九州佐世保営業所に立ち寄ると、用意されていたのは新車の日産モコ。レンタカーで新車をあてがわれるとキズを付けたときに目立ってしまうので、一概には喜べないが、昨年のような道路がまともに整備されていないところを走ることはないから、事故さえ起こさなければ車体にキズが付くことはあるまい。
 佐世保港沿いの道路を走り、佐世保みなとインターチェンジから西九州自動車道に入る。昨年は無料化社会実験が行われていたため、無料開放されていたが、2011年(平成23年)6月19日をもって無料化社会実験は一時凍結されたため、軽自動車で100円の通行料が徴収される。佐世保大塔インターチェンジまでの2.9キロを快走し、針尾バイパスに入る。夏休み期間中のハウステンボスへ向かう道路であるが、通行量はそれほど多くはない。江上インターチェンジから今度は西海パールラインに入り、小迎インターチェンジまで走る。通行料は150円であり、気軽に利用できる良心的な通行料設定だ。小迎までが昨年たどったルートの引き返しになり、ここからが本来の外周ルートになる。
 国道202号線をたどって西彼杵半島の北端に当たる寄船鼻へ出てみる。すぐ目の前には、俵ヶ浦半島先端の高後崎が迫っており、この間の距離は850メートルしかない。この狭い水道で佐世保湾が外海と隔離されていたことから、佐世保に軍港が整備されたのである。佐世保港に出入りする船舶は、すべてここを通らなければならず、現在でも海上交通の要所である。
 寄船鼻近くの石原岳森林公園内には、佐世保軍港を防衛するために1897年(明治30年)10月21日に起工し、1899年(明治32年)12月31日に竣工したという石原岳保塁が残されている。総面積は2ヘクタールで、標高73メートルから77メートルに備えられた砲種は、クルップル式10センチカノン砲6門、鋼製9センチ臼砲4門とのこと。付近には険しい地形がないため、敵の上陸に備えて、接近戦に備えた造りとなっている。明治時代に造られたもので、自然の中で遺跡のように存在する保塁を眺めていると、中世のローマの遺跡のような風格がある。地下掩蔽部(ちかえんぺいぶ)や地下トンネルも整備された状態で保存されており、携帯電話のライトを頼りに散策する。枯葉が落ちていたぐらいで何も存在しなかったが、肝試しの会場としては最適であろう。
 国道202号線に戻り西彼杵半島の西岸を南下し、呼子の瀬戸に架かる大島大橋を渡る。総事業費約290億円を投入して、1999年(平成11年)11月11日11時11分11秒に供用開始された全長1,095メートルの鋼斜張橋は、長崎県道路公社が大島大橋有料道路として管理をしていたが、2011年(平成23年)4月1日に無料開放された。昨年訪問していれば、通行料を徴収されていたので運が良かったと言えるが、未償還金が約38億円も残る状況での無償化は、長崎県と西海市の負担となっている。
 大島大橋を渡ったところは、大島ではなく寺島。大島大橋を望む大島大橋公園に立ち寄ると、海沿いにウッドデッキのボードウォークや展望所が整備されており、ちょっとしたドライブスポットだ。
 寺島北端に位置する保食神社に足を記し、寺島大橋を渡って、正真正銘の大島へ。大島造船所を眺めて、大島北西端に位置する宮崎神社へ立ち寄る。もともとは離島であったため、要所に航海の無事を願うための神社が設営されているのであろう。いずれも海を望む位置に社殿が祀られている。
 大島北端の牛ヶ首鼻を経て、中戸瀬戸に架かる中戸大橋を渡る。島名は蛎浦島だが、島内の学校は崎戸小学校、崎戸中学校と隣の島名の崎戸を名乗っている。2005年(平成17年)4月1日の合併により、西海市となるまでは、蛎浦島が旧崎戸町の中心であったのだ。
 昨年、崎戸商船の「フェリーみしま」で立ち寄った崎戸港を望む浅間神社を参拝し、蛎浦島を一気に横断。本郷橋を渡って、崎戸島に上陸する。旧町名の崎戸を名乗っているものの、周囲約4キロの小さな島である。
崎戸島を横断したところに、待ち構えていたのは、白い西洋風のリゾート風ホテル。国民宿舎御床島荘を改築して、2003年(平成15年)7月にオープンしたホテルで、ラジウム温泉「たぬきの湯」もある。当初は入浴を考えていたのだが、時間の関係で断念。その代わりに、ホテルの敷地内にある北緯33度線展望台に立つ。天候が良ければ五島列島や平戸島が確認できるとのことだが、この日は海上が霞んで島影は確認できない。目の前に見える小島が御庄島で、かつての国民宿舎もこの島名に由来する。旧崎戸町といい、旧国民宿舎といい、この辺りは所在地の島名ではなく、隣の島名を拝借する風習があるようだ。御床島は、その昔、神様が舞い降りてくる島として、崎戸島民から信仰されていたという。潮の干潮時には、崎戸島と地続きになるそうで、できることなら御床島にも上陸したかったのだが、あいにく現在は潮が満ちている。
展望台の隣には随分と古めかしいコンクリート製の建物があるので覗いてみる。旧日本海軍佐世保鎮守府の特設見張所の中の聴音所として1938年(昭和13年)に建設され、第二次世界大戦終戦までの7年間、海底のスクリュー音等をキャッチする為の施設であったとのこと。レーダーではなく、スクリュー音のキャッチという手法があまりにも前近代的な手法なので驚く。この地域は戦時中に佐世保の防衛の最前線であったが、現在でも自衛隊やアメリカ海軍の船が往来している。
 帰りは寄り道をせずに九州本土に引き返し、国道202号線から1キロほど内陸に入ったところにある七ツ釜鍾乳洞に立ち寄る。日本観光鍾乳洞協会が選定した「日本鍾乳洞九選」のひとつであり、龍泉洞や秋芳洞と並べられているので、かなりの規模の鍾乳洞なのであろう。1936年(昭和11年)12月16日に国の天然記念物にも指定されている。
 管理棟で500円の入洞料を支払い、洞窟の中に入ると涼しくて気持ちがよい。夏場の洞窟の天然クーラーはどこへ行っても快適だ。七ツ釜一帯は約3,500万年前の第三紀の海成層で、おびただしい石灰藻の化石を含んだ石灰質砂岩でできているのが特徴。海底が隆起した後に、地下水の侵食作用で石灰質部が空洞化したらしい。もっとも、観光洞はわずかに250メートルしか整備されておらず、少々物足りなさを感じる。観光洞の最終地点から分岐し、千枚積まで到達する未公開区域が約600メートルあるとのことだが、こちらは事前の申し込みが必要なうえ、2時間を要するのでオプションとしては断念せざるを得ない。  観光洞の最終地点からは人口のトンネルが通じており、トンネルを抜けたところには岩石・化石資料館がある。その名のとおり、岩石や化石を陳列しているだけの施設で、冷房ないので足早に通り過ぎる。自然遊歩道をたどって管理棟へ戻ると汗だくになっていた。せっかく、洞窟で涼がとれたのに、コースの終盤に遊歩道が組み込まれているので台無しだ。午後から合流する横井クンと福井クンから長崎に到着したと相次いで連絡が入る。
 国道202号線に戻って、再び西彼杵半島を南下する。15分ほどで西海市の中心地に近い瀬戸港に到着。ここからフェリーで松島に渡る予定だ。いつもであればレンタカーを置いて、島へ渡るのだが、松島での移動を考えるとレンタカーごと渡ってしまった方が効率的。フェリーの運賃も軽自動車の場合は往復で2,600円。松島でタクシーを利用したら、倍の料金になることは明白である。  乗船券を出港時刻まで30分ほど時間があったので、近くに食堂でもあればよかったのだが、瀬戸港周辺には空き地と住宅しか見当たらない。やむを得ず、途中で見かけたRIC大瀬戸店まで歩いて引き返し、調理パンとコーヒーを調達。瀬戸港へ戻ると、江崎海陸運送の「シャトル5号」が接岸しており、乗船も開始されていた。駐車場に停めてあった、レンタカーで「シャトル5号」に乗り込み、船内の桟敷席で昼食とする。  瀬戸港を「シャトル5号」は、松島の玄関口である釜ノ浦ではなく、北側の内浦港を目指す。松島水道は穏やかで、ほとんど揺れを感じない。作業着姿の乗船客が多く、ほとんどが松島火力発電所の関係者なのであろう。福島原発事故の影響で、原子力発電に対する世論が厳しく、火力発電の需要が高まっている。
 瀬戸港から17分で松島の内浦港に到着。内浦港はフェリーが発着するためだけのような殺風景な場所で、広い駐車場とログハウスのような無人の待合室があるだけだ。
日本一小さな公園  松島には、島を一周する県道199号線が通じているので、外周ルートをたどるには好都合だ。さっそく時計と反対回りに松島探索を開始する。内浦港のすぐ東側には、松島火力発電所があり、発電所を一望するJパワー展望所が整備されていた。Jパワーは、松島火力発電所を管理する電源開発株式会社のコミュニケーションネームだ。敷地内には大量の石炭が積み上げられている。松島近郊には多くの炭鉱があったので、石炭を活用した火力発電所が設置されたのであろうと思ったら、1号機の運転開始は1981年(昭和56年)1月と意外に歴史は浅い。ちなみに松島が炭鉱の島として隆盛を極めたのは大正初期から昭和初期までであり、1934年(昭和9年)の炭鉱大水没事故により、1938年(昭和13年)には炭鉱は閉山していた。松島火力発電所は、むしろ日本初の大規模輸入炭火力発電所として歴史に名を残していた。
 続いて立ち寄ったのは、奥田クンが気になるという日本一小さな公園。五島灘を望む場所に5メートル四方程度の区画を白い木柵で囲ってあり、中にはベンチとシュロの木がある。「日本一小さな公園」という看板がなければ、見過ごしてしまいそうな公園だ。あえて「日本一小さい公園」と称することで、注目を浴びることになるであろう。今日は海上が霞んでいるが、天候が良ければ五島列島が確認できるのであろう。
 松島の西海岸を南下していくと、赤レンガの廃墟が目に入る。松島炭鉱四坑跡だ。赤レンガは壁のみが残っており、屋根は完全に消失している。ここは、炭坑に入るための昇降機を動かす巻き上げ機が設置されていた場所で、掘り出された石炭は汽車で内浦の積み出し港まで運ばれていたという。赤レンガの廃墟の隣には変電所の跡、正面には慰霊碑が設置されていた。松島炭坑は1885年(明治18年)に営業を開始したが、決して順調な採鉱とは言えなかったようだ。松島炭坑には一坑から五坑まであったが、1916年(大正5年)に二坑、1919年(大正8年)に一坑が水没。大正時代の全盛期を支えた三坑と四坑も、1929年(昭和4年)に三坑で出水し、41名が犠牲となって閉坑。1934年(昭和9年)には、この四坑で出水が発生し、54名が犠牲となり、遺体は未だに海底坑道に取り残されているという。そして、1940年(昭和15年)には、五坑でも出水が発生し、海底炭鉱としての松島炭鉱は致命的な損傷を負った。その後も細々と残炭の採掘を続けていたが、1963年(昭和38年)にとうとう石炭産業の衰退とともに閉山となる。
 時間があるので、ちょっと寄り道して標高218メートルの遠見岳にも立ち寄ってみる。遠見岳には、史跡狼煙場遠見番所跡があり、松島からの絶景ポイントになっているらしい。現在は、デジタル放送の大瀬戸中継局になっている遠見番所は、1858年(安政5年)に外国船の来航や漂着などを監視するために設置されたという。ここからも松島火力発電所を見下ろすことができた。遠見山公園も整備されているが、周囲は中継局のアンテナが立ち並び、ビューポイントとして紹介するには魅力に欠ける。
 県道199号線に戻り、東海岸を北上すると、まもなく釜ノ浦の集落に入る。西海私営交通船が釜ノ浦桟橋の待合室を兼ねる離島住民センターの正面は、松島の玄関口らしくロータリーが整備されており、西海バスが客待ちをしていた。本来であれば、九州本土にも近い江崎海陸運送のフェリーも釜ノ浦に入港すると便利なのであろうが、内浦港へ迂回するのは、釜ノ浦一帯が、大型船が接岸できないほどの浅瀬なのかもしれない。  釜ノ浦は、桂小五郎が上陸した地としても知られる。松島は薩摩藩との貿易が盛んであったため、慶応年間(1865年〜1868年)には、釜ノ浦では、薩摩藩や長州藩の倒幕派の志士による謀議が行われていたという。その謀議が行われていたのが「三国屋」で、桂小五郎も「三国屋」に宿泊して、大村藩の家老江頭隼之助や御用人大村一学と時局の重大さについて討論を交わしていたという。「三国屋」は、火災によって焼失し、跡形もなくなっているとのことだが、入江沿いに屋敷跡があるらしい。案内標識に従って入江沿いを歩いてみるが、屋敷跡らしき空き地があったものの、案内板すらないので、「三国屋」の屋敷跡であるのか確認できない。案内標識を立てるのであれば、もっとわかりやすくしてもらわないと困る。代わりに入江から松島のシンボルである「らくだ島」を眺めて、釜ノ浦を後にした。
 まっすぐ内浦港へ戻っても、次のフェリーまで30分以上の時間があるので、内浦港に近くにある天然記念物「松山のアコウ」の見物に出向く。途中にソメイヨシノが167本植えられた桜並木が続く。ここは、福山雅治のヒット曲である「桜坂」が生まれた場所なのである。東京都大田区にある「桜坂」がデートスポットとして脚光を浴びているが、福山雅治のイメージの基になった「桜坂」は2箇所あったのだ。福山雅治は、高校卒業後、仕事でしばらく松島に滞在していたことがあり、この桜並木のイメージを基にして「桜坂」の作詞・作曲を行ったという。もともとは無名の桜並木であったが、その後、島興しの一環として、この桜並木は「桜坂」と命名されたらしい。熱烈な福山雅治のファンがしばしば訪れるらしいが、この日は観光客の姿はなかった。
 アコウはアコギまたはアコノキと呼ばれるクワ科の植物であり、温暖な地域に自生する植物である。松山神社の境内にある松山のアコウは、樹齢が定かではないが、樹高は約20メートル、広がりが約30メートルもあり、長崎県でも屈指の巨木とのこと。1981年(昭和56年)12月1日に天然記念物として旧大瀬戸町の指定を受けている。
 内浦港を14時30分に出港する「シャトル5号」で瀬戸港に戻り、西海市役所近くにある大瀬戸歴史民俗資料館を訪ねる。無料の館内に入ると、事務室から手持無沙汰にしていた学芸員が、「大村藩兵士の戊辰戦争従軍日記」という企画展示の解説シートを手にして飛び出してきた。夏休みのシーズンに合わせて準備した企画展示だったのだろうが、来館者も少なく気の毒ではあるが、企画展示のメインが戊辰戦争に出征した大村藩出身の山瀧熊太夫氏の「吾往隊 出軍中日記」だけでは面白味に欠ける。内容も小学生の自由研究には難し過ぎるもので、展示シートも文学部の大学生向けの内容に感じた。
 学芸員の解説に耳を傾けているところに、福井クンと横井クンがやってきた。今朝、長崎空港に到着し、長崎駅前、桜の里ターミナルと乗り継ぎ、延々2時間以上もバスに揺られて西海市までやってきたのだから御苦労なことだ。
全長10メートルほどの船の中に、食物や衣服、家財一切を乗せ、磯もぐりや沖もぐりなどの漁法で、網を使わず鉾突きで魚をしとめて暮らしていたという家船(えぶね)のミニチュアや古代人や平家の落人が厨房具として使用していたのではないかといわれる石鍋製作跡岩塊を眺めて、資料館を後にする。あまり熱心ではない来館者に学芸員はがっかりしたかもしれない。
 資料館から15分ほど国道202号線を南下して、神浦に出る。松島の南に浮かぶ池島に渡るためである。池島に渡るだけであれば、瀬戸港からも渡ることはできたのだが、最終便は神浦行きであったため、レンタカーを神浦まで移動させておく必要があった。松島とは異なり、フェリーではないので、レンタカーは神浦に駐車していかざるを得ない。
 次の池島行きは15時58分発の高速船「れぴーど2」である。池島までは、距離にして7キロ程度で、高速船に乗るような距離ではないのだが、高速船を見送ってしまうと池島の滞在時間がなくなってしまうので選択の余地はない。出港時刻まで時間があったので、桟橋に隣接する長崎市みなと漁協外海支所直売店をのぞいてみる。大きな生簀に泳ぐ魚を、注文を受けると生簀から魚を網ですくい、見事な包丁さばきで刺身にしてしまう。刺身を買い求めに来る地元の買い物客も多く、次々と鮮魚が刺身になっていくが、次第に魚に情が移ってしまい、見ていられなくなってくる。横井クンも同じ気持ちのようで、「魚が哀れだなぁ」とつぶやいて目をそむけた。
 佐世保と神浦を結ぶ西海沿岸商船の高速船「れぴーど2」は想像以上に小ぶりな船体で、遊覧船のような装いだ。西海沿岸商船の就航する船舶では、神浦まで乗り入れる「れぴーど2」が総トン数19トン、定員92名と最も小さい。その他の高速船は、「れぴーどエクセル」が総トン数134トン、定員245名、「れぴーど」が総トン数202トン、定員202名と「れぴーど2」となっている。
 「れぴーど2」は、下船客と入れ替わりに我々が乗り込むとすぐに出航。船内で池島まで550円の乗船券を購入するが、もう池島港内に入港している。乗船時間はわずか10分足らずである。
 松島と同様に池島も炭坑で栄えた島である。松島炭坑が1940年(昭和15年)3月に湧水の影響で事実上の閉山となったのに対して、池島炭鉱は、2001年(平成13年)11月29日閉山と、21世紀に入るまで現役であったことだ。
 池島港桟橋の前には、池の口停留所があり、黄色と水色の派手な塗装のワゴン車が待機していた。長崎市コミュニティバスで、運賃は1乗車につき100円。せっかくなので、終点の神社下まで乗ってみることにした。
 コミュニティバスは、池島港をぐるりと周り、老人憩の家「池島荘」がある郷東に立ち寄った後、炭坑住宅街へと分け入っていく。その炭坑住宅街の最西端が終点の神社下であった。
池島の社宅  停留所の近くには、8階建ての社宅があったが、既に廃墟と化しており、立ち入りが禁止されていた。一般的に高さ31メートルを超える建物にはエレベータが設置されているものだが、この社宅にはそのようなものが設置されている様子はなく、代わりに4階部分と5階部分に反対側の道路に向かって通路橋が設置されていた。起伏の激しい地形ならではの工夫である。閉山時には周囲4キロほどの小さな島に、炭坑の従業員だけで2,500人もいたとのこと。狭い島で多くの従業員の住居を確保するのも容易でなかったに違いない。炭坑と言えば、劣悪な労働環境ばかりが強調されるが、数百円の家賃負担で共同の浴槽と給湯設備付きの洗濯場付きの社宅が用意され、40万円近い月給をもらっていたという。リスクに見合った手当は補償されていたようで、覚悟を決めれば、手っ取り早く稼ぐこともできたのだ。しかし、閉山によって従業員は全員解雇され、現在の人口は300人を割っている。
 人気のない炭坑住宅街を散策していると、看板も暖簾もないが、入口の扉に「男湯」、「女湯」という張り紙のされた建物を発見。銭湯独特の塩素臭が漂い、現役の公衆浴場のようである。立ち寄ってみたかったのであるが、神浦へ戻る最終便に乗り遅れたら困るので断念する。
 住宅街を抜けて、海沿いの道路を歩いていくと、池島アーバンマイン株式会社のプラントが目に入る。閉山した炭鉱の後処理でもしているのかと思ったら、池島炭坑を操業していた三井松島産業株式会社によって、2007年(平成19年)2月に設立されたばかりの新しい会社で、金属スクラップ等を回収し、電気炉設備で溶融、合金鉄を製造しているとのこと。炭坑が閉山され、軍艦島のように廃墟になるのも時間の問題ではないかと懸念していたが、新しい産業が芽吹いたことにより、池島が賑わいを取り戻す日がやってくるかもしれない。
 池島を散策していると、至るところに手作りの解説板が目に入る。貯炭場、石炭船積み機(トリンマー)など、場所や設備について詳しく解説が加えられており、野外博物館のようである。石炭や工夫を運ぶためのトロッコが走っていたと思われる線路も健在で、事前に申し込めば坑道の見学もできるようだ。
 神社下停留所から1時間近くかけて池島港に戻る。待合室の前には、キャットフードが広げられており、大小20匹ほどの猫が群がっている。池島に棲息するすべての猫が集まっているのではなかろうか。猫たちは、人間が危害を加えないと知っているのか、近付いてもまったく意に介すことなくキャットフードをむさぼっている。
 神浦行き最終便、池島を17時35分に出航する「進栄丸」は、瀬渡し船を流用した地域交通船であった。運賃は350円と高速船よりも200円安いが、神浦までの所要時間は15分と5分しか違いがない。今度は、ゆっくりと去りゆく池島を眺めながらの船旅を楽しむことができた。
 神浦から再び国道202号線を南下し、長崎市内に入ると渋滞に巻き込まれた。市街地までは随分と離れており、本格的な渋滞であればレンタカーの返却時間である20時までに長崎駅に到着できないなと思いつつ、当初の予定どおり道の駅「夕陽が丘そとめ」に立ち寄る。その名のとおり、長崎屈指の美しさを誇る夕陽が眺められるというので、夕食はここで済ませようと計画していたのだ。併設されている レストラン「ラ・メール」では、地元産の採れたて新鮮な食材を使ったバイキングがあるという。目の前には、角力灘が広がるが、夕暮れまでにはまだ時間がありそうだ。先に夕食を済ませることにする。
 ところが、レストラン「ラ・メール」に赴くと、バイキングメニューが見当たらない。店員に聞けば、バイキングはランチだけとのこと。事前に調べた雑誌には、バイキングはランチタイムのみという記載はなかったが仕方がない。地産地消による地元産品を食材とした田舎料理や姉妹都市ヴォスロール地方の家庭料理などを味わうことができるとも紹介されていたので、どんなメニューがあるのかと思えば、うどんやカレーなどありきたりのメニューしか見当たらない。店内も学生食堂のようで、「夕陽を眺めながらディナータイム」という雰囲気でもない。このまま長崎市内に出た方が良さそうだとも思ったものの、渋滞で時間がかかるかもしれないので、ここで妥協することにした。私が注文したのは期間限定の「SPF豚かつ丼」(800円)と「ドリンクバー」(200円)である。SPFとは、Specific Pathogen Freeの略で、特定の病原体をもっていないという意味の学術用語である。簡単に言えば、清潔な環境で飼育した健康豚ということらしいが、味は特筆するほどのものではなかった。
 時刻は18時30分を回ったが、日没までにはまだ30分以上ある。国道202号線の渋滞も気になるので、あまりゆっくりとはしていられない。夕食に続いて、夕陽の眺めも空振りとなってしまうが先を急ぐことにした。
 道の駅「夕陽が丘そとめ」から国道202号線に出ると、相変わらずの渋滞が続いていた。長崎駅から国道202号線をたどってきた福井クンや横井クンに確認しても、対向車線が延々と渋滞が続いていた記憶はないという。先行車両が動く気配がしないのでイライラしだしたところで原因が判明した。道路工事のため、片側通行の車線規制を行っている区間があったのだ。車線規制区間を通り抜ければ、スムーズに車は流れ出し、長崎港の入口にあたる神ノ島公園に立ち寄る余裕も生まれた。
 神ノ島は、その名の通り、かつては離島であったが、1960年代の埋め立てにより、九州本土と陸続きになっている。この地にも隠れキリシタンが潜伏していたという。神ノ島のシンボルである純白のマリア像が東シナ海を見つめており、神の島教会も存在する。神の島とは、キリストの島のことだったのである。
 時刻は20時前。開いているガソリンスタンドが見当たらず、長崎駅付近で右往左往したが、無事に給油を済ませてレンタカーを返却する。目の前にある「ホテルクオーレ長崎駅前」でチェックインを済ませて本日の行程は終了といきたいところだが、長崎までやってきてからには日本三大夜景のひとつに数えられる稲佐山からの夜景は見ておきたい。しばらく各自の部屋で休憩した後、20時40分にロビーで落ち合う。長崎駅を20時47分に出る長崎ロープウェイ淵神社駅行きの無料循環バスの最終便に乗るためだ。9年前に長崎に来たときは、無料循環バスは存在せず、路線バスで淵神社へ向かった。サービスも随分と向上したものである。ただし、無料循環バスに乗るためには、事前に整理券を入手しておかなければならず、横井クンに頼んで、合流前に長崎駅構内にある長崎市総合観光案内所で人数分の整理券と長崎ロープウェイ淵神社駅−稲佐岳駅間往復960円の前売券を入手してもらっていたのだ。
稲佐山山頂  長崎駅のバスターミナルには、既に循環バスが待機していた。無料循環バスは長崎駅以外にも市内中心部の5つのホテルを経由する。時刻表によると、長崎駅のひとつ手前は、「ホテルニュー長崎」を20時45分となっており、明らかに早発していると気になったのだが、無料循環バスは整理券方式なので、整理券が発行されていなければ通過するのであろう。さすがにこの時間帯は、稲佐山へ向かう人は少なく、車内も閑散としている。無料循環バスもホテルへ帰る観光客を迎えに行くための回送運転に近いのであろう。無料循環バスは定刻の20時47分に長崎駅を発車。途中、「ベストウェスタンプレミアホテル長崎」でも数人の観光客を拾って、10分ほどで淵神社前に到着した。
 淵神社では、折り返しの無料循環バスに乗るために長蛇の列ができていた。時刻は21時なので、市街地に戻る観光客のピークなのであろう。前売券を手にしていたので、そのまま改札口に進み、淵神社駅21時の便に乗り込むことができた。我々は進行方向と反対側に陣取る。山を登るロープウェイやケーブルカーに関しては、上りで進行方向側に陣取っても山の斜面しか目に入らないことが多く、進行方向と反対側であれば、高度を稼ぐにつれて、景色が次第に広がっていく様子を楽しむことができる。
「おっ!花火が打ち上っているで!」
福井クンの指差す方向を見れば、打ち上げ花火が目に入った。偶然にも「2011ながさきみなとまつり」の開催期間中で、20時30分から開始された打ち上げ花火がクライマックスを迎えるところであった。
 稲佐岳山頂に到着すると、夏休み期間中であることに加えて、打ち上げ花火も効果もあってか、人出が多い。今年の4月にリニューアルされたばかりだという稲佐山展望台に登ると、屋上の床面にはLEDの照明器具が埋め込まれ、夜間は幻想的な空間を演出している。また、防護柵も透明素材を活用しており、景色が遮られないように工夫がされている。長崎市では、稲佐山からの夜景を「1,000万ドルの夜景」と形容しているが、この言い回しは、神戸の夜景が「100万ドルの夜景」と形容されたことが始まりである。てっきり夜景の価値を金銭で換算すると「100万ドル」ということだと思っていたら、実は夜景を演出している1日の電気代が100万ドルであることを1953年(昭和28年)に関西電力の副社長が広報誌のコラムに寄稿したことが由来らしい。元祖の神戸は、2005年(平成17年)に、六甲摩耶鉄道株式会社が試算したとこと、電気代が1,000万ドルを突破したことから、「1,000万ドル」へと昇格した。長崎も神戸に対抗して「1,000万ドル」と形容しているのかもしれないが、神戸市と長崎市の人口や近年の円高、LEDなどの省エネ取り組みなどを勘案すると、本当に「1,000万円ドルの夜景」なのか疑わしい。外周旅行では、函館に続いて日本三大夜景を眺めることになったが、個人的には海岸線が浮き上がる函館山からの夜景に軍配を上げたい。
 展望台の2階には、稲佐山山頂「ひかりのレストラン」が営業していたので、立ち寄ろうとしたが、21時でオーダーストップとのこと。仕方がないので、自動販売機で缶ビールを購入し、稲佐山到達の祝杯を挙げる。つまみの代わりに横井クンから「ねんりん家」のバームクーヘンが差し出される。「ねんりん家」は行列が絶えない店として有名であるが、横井クンの自宅近くの大丸浦和パルコ店では比較的並ぶ時間が短いそうである。
 かつての稲佐山へのアクセスは、長崎ロープウェイの他にも稲佐山中腹の駐車場から山頂を結ぶ長崎スカイウェイというロープウェイも存在したが、2008年(平成20年)3月31日に廃止されている。山頂にも駐車場はあるが、駐車可能台数に限りがあるため、シーズン中は、中腹の駐車場から山頂までは無料のシャトルバスが運行されている。ロープウェイの廃止代行が無料のシャトルバスというのも奇妙なものである。ただ、山頂駐車場が満車のため、稲佐山を訪問せずに引き返してしまう観光客も多いのが実情のようだ。
 稲佐岳駅22時の長崎ロープウェイ最終便で淵神社駅に戻り、無料循環バスで長崎駅へ戻る。ロープウェイに乗り合わせた乗客の多くは、マイカー利用者だったのか、無料循環バスの利用者は少ない。
 長崎駅ビル「アミュプラザ長崎」の西友が24時まで開いていたので、明日に備えてお茶屋や食料を調達してホテルに戻った。私は早々に眠ってしまったのだが、横井クンはマッサージを受けていたとのこと。マッサージで疲れを取るという発想はこれまでなかったが、これからは疲れを取るための方法としてマッサージを受けるのもいいかもしれない。

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