決着の歩き遍路旅
6月28日に1番札所 霊山寺にお礼参りに行きました。
今回は、88番から約45kmを歩いての1番札所でした。
今は、1番札所に戻る歩き遍路さんが少なくなったそうです。
お接待ですと言って、数珠を頂きました
26日
広島を出発、岡山まで新幹線。岡山からマリンライナーで四国の高松に着いた。
ここからは、コトデンで87番札所のある長尾へ向かった。こぎれいな田舎の電車は、1時間くらいかけて長尾に着いた。
駅に降り立ったのは、私1人だった。町は静かで人影はほとんどない。
ありふれた田舎町といった風情。駅から歩いてすぐのところに長尾寺があった。懐かしいお寺である。
2年前に比べると、駐車場などが整備されたのか整然としたお寺に見える。
あの当時は、余裕もなく必死でたどり着いたというのが実感で、あたりを冷静に見ていたわけではないのかもしれない。
お寺に参る前に、門前にある宿に行ってみた。面倒をみてもらったので、一言お礼を言いたかった。
玄関を開けて声をかけたが誰も出てこない、4時から営業と書いてある。
しばらく呼んだが誰も出てこないので、あきらめた。というか、声を出し続ける気力がなくなった。
なぜか、居場所の違う自分への抵抗感かもしれない。
お寺に正面から入って行った。右手にベンチがあり、そこに荷物を置いてお参りした。2年前のことを思い出す。
岸本の親父さんが鼻水を出しながら「藤原さん、あんたがいてくれたので、ここまで来れた。
明日は、お友達が来るらしいから、今、ここでお礼を言う。」写真を撮ろうとしても「今は、勘弁して欲しい。」という初めて拒否された。
しばらくして「もう良い、写真を撮って」と言ってくれた。
こんなことを思い出しながら、リュックから白衣などのお参り用の道具を出していたら、
60歳前後の婦人が、完全防備(日中)をして出発しようとしていた。
「どこから来られましたか」と聞くと、85番の??寺から来たと答えられた。屋久島の次。かなりの距離がある。
「すごいですね」というと、今から88番を目指して行くという。5時間余りはかかる山道の難所である。
少し話をした。なんと45日かけてここまでたどり着いたとのこと。根性はもの凄いものがある。身体中からオーラのようなものが出ている。
ある意味、人を寄せつけない雰囲気もある。
私もあの当時は、そんな雰囲気を持っていたのかなと、羨ましくもあり、なんとなく後ろめたい気持ちになった。
しばらくしてその方は出発していった。
私は、身支度を整えてお参りをした。
自分自身も醒めているのか、全く音のない別の世界を漂っているような気持ちでお参りをした。
時々、車で来られた夫婦連れの方とも挨拶をした。写真を撮っている方もいた。
しかし、その人との間には、空気の壁のようなものがあり、越えていけなかった。
長尾寺の茶店で、昼食のうどんを食べた。腰のある讃岐のうどんでおいしい。
食事後に、歩いてバス停まで5分くらい。街は閑散としている。
総合案内所に入ると、スタッフの人がいたので時間と料金を訊いた。
以前は、710円だったが、今はコミュニティバスになり料金は、100円。1時間近くも乗って100円とは驚いた。
第3セクターのようになり、病院や老人ホームを回る生活バスになっていた。運転手の人も話し好きで、出発前に二人で話しこんだ。
ライカのカメラに興味を持ったようだ。2年前の話をした。バスの一番前には、お遍路さんの荷物があった。
どうしたのかと訊くと、どうも歩き遍路さんではないようだということだった。
発車して街中を走っていると、コンビニの前で1人の男性が手を上げて乗ってきた。
やはり歩き遍路さんではない。バス道路と遍路道は違う、
しばらく走ると合流して山に向かいだした。懐かしい坂道である。
あの時は、最後の1日ということで、雑誌の編集長と陶芸家が参加して出発した。
宿には数名歩き遍路さんがいたが、先に出発していた。岸本親子と5人での出発になった。
しばらく行くとスピードが違うのでばらばらになった。そんなことを思い出していたら、キャンプ場のあたりで遍路の男性は下車した。
後は、運転手と二人旅になった。
途中、道の駅に1人遍路さんがいた。しばらく走ると、先ほどの女性が、1人で登っていく姿が見えた。
車道ではなく遍路道(2種類あるがやさしい方)へ行くと言っていたが、結局車道を目指したようだ。
バスは本当にあっという間に88番に着いた。
前回私は、女体山から駆け下ったので、初めて正面門を見た。写真で見た通りだった。
運転手さんは、親切に今夜の宿の前まで乗せてくれた。
宿には誰もいないので、メモを書いて88番札所に向かった。
大窪寺は日曜日でバス遍路さんや多く人がいたので、お参りは後にして奥の院を目指した。
前回は見落として行けなかったので、今回は行ってみようと女体山を登り始めた。急勾配を8丁登ると奥の院があるという。
宿の前のおばさんが「大変だよ」と言ってくれたが、無性に行ってみたくなり登った。
弥山の8丁をイメージすれば、どの程度がんばれば良いかが判断できると思ったが、結願の時に駆け下った女体山に対して、今は体力が違う。
荷物は、宿に預けているので身体は軽いはずだが、心の準備が足りないのかすぐに足が止まった。
何度か休憩をしながら登って行った。前回は、分かれ道がわからなくて行けなかったので、必死で探す。
標識にはあと300mとか書いてある。これが唯一の頼り。
途中展望台みたいなところがあったが、パスして登っていく。やっと別れ道があり、奥の院に向かうと平坦な道から下りだした。
200m位で建物と石仏のある広場に出た。なんとなくみすぼらしく薄気味悪い。誰もいない。
本堂に入りお参りをするが、いつ蛇が天井から落ちてくるか心配だった。
何事もなくお参りは終了して、帰途に着く。
今度は、少し登り、本道に入ると、急激なくだりの階段になった。
少し無理をしたのか、膝に痛みが走る。何度も休みながら、足を引きずって下って行った。
やっとの思いでお寺に着いた。先ず、大師堂にお参りして、少し離れたところにある本堂に参った。
すでに団体客はいなく静かになっていた。ゆっくりお参りをして納経を済ませた。
相変わらず、そっけない人が納経帳に印を押してくれた。
2回目以降は、文字は書かない。印を重ねて押していく。回るたびにそのページが朱印で染まっていく。
宿に帰ると宿の人が戻っていた。
87番であった池田さん(女性)から電話があったそうだ。私も、バックの上にメモをおいておいたが、余り役にたってなかった。
岸本の親父さんは、最終バスで高松から私と同じルートで来た。
バスの運転手さんには、乗ったら先に宿に居るからと伝えるようお願いしていたので安心していた。
宿に着くとまず、洗濯機に洗濯物を放り込んで風呂に入った。
足がつっているので、ゆっくり暖めながらマッサージをした。
親父さんが着くまで部屋でごろごろしながらテレビを見ていた。
部屋は、広くきれいだった。部屋にトイレがついていたのはありがたかった。
朝は、トイレの争奪戦になることが多かったのを思い出した。
時間通りバスは到着、親父さんは騒ぎながら2階の部屋に上がって来た。
階段まで出迎えた。久しぶりの再会だった。
親父さんは、涙を流しなら握手をして今回の旅に声をかけたことを感謝してくれた。
風呂上りを待って食事をした。池田さんはすでに食事を済ませて若女将と話をしていた。
旅をしていると、宿の人と話をするのが気持ちを和ませ疲れを取ってくれる。
早速、ビールで乾杯。酒はやめていなかった。
私もあえてやめさせようとは思わないので、少し親父さんの量を減らすつもりで、一緒に大目に飲んだ。
2年の間に、親父さんは、アルコール依存症で再入院をし、昨年受けた手術のことを話してくれた。
喉頭癌・食道癌の手術だった。傷後も見せてくれた。
のど元には金具があり、食堂を削除して胃に直結したため、胃が胸の真ん中から盛り上がって、大きなホースを埋め込んだように見えた。
呼吸も苦しそうに聞こえる。でも、酒は美味そうに飲んでいる。
敢えて止めずに一緒に飲んだ。少し親父さんの邪魔をして酒の量を減らしましょう。
と、思ったが余り効果なく、途中からワンカップになってしまった。
古女将は遍路に出ていて、若女将が対応してくれた。神戸から単身赴任で手伝いに来ているとのこと、宿も後継者の問題は深刻のようだ。
池田さんとは、遍路仲間として旅の途中の話をした。
久百々の女将さんの話も出た。やはり褒めていた。
どうも、孤独でストイックな旅をしていたようで、誰とも話しをしなかったようだ。
私たち遍路仲間のように、年代を超え男女を超えた友情に包まれた旅をしなかったようで、
今でも交流があると言うと信じられないという返事が戻ってきた。
しばらく、池田さんも一緒に話をしたが、部屋に戻って行った。
親父さんは胃の関係で1日6回くらい食事をするとのことで、余り食が進まない。2時間くらいかけて少しだけ食べた。
後はタッパーに入れてもらい、明日の昼食にすると言っていた。
夜食にもするから心配するなとも言われた。
私は、その間、NHKの「義経」を見ていた。厳島に関わることが出てきたら見逃すまいと思っていた。
親父さんは、大きな声で話をしていたが、半分くらいしか聞けなかった。仕事の関係で見ないといけないのでと言い訳をした。
部屋に帰り、少し話をしたのち各々の部屋になり、静かにテレビを見ていたが、疲れからか寝入った。
27日
5時起床。まず、ストレッチ体操をして身体をやわらかくする。
その後、シャワーを浴びて目を覚ます。親父さんは、多分私とはそんなに年齢は変らない。
大声で、無神経にも思えるしぐさをする親父さんと歩くことにしたのは、親父さんが「宿は同じだけど道中は以前のように別にしよう。
私は、途中から車やバスで行くかもしれないから。 」ということで、同行が決まった。
6時なった。いくら待っても食事に出てこない、部屋に行くと横になっていた。先に食べてくださいということだったので、1人で食道に降りて行った。
池田さんはすでに食べ終わっていた。
遍路をしているときは、早く出かけたいので、約束の時間よりは早めに食堂に行くようにしていたので不思議には思わなかった。
池田さんは、食事後すぐに出発していった。
6番近くまで行くとのことだった。30km弱、連続して歩いている遍路さんにとっては、無理のない距離だろう。
私たちは、今日が初日なので、安全を考えて20kmの10番に宿泊することにしていた。池田さんとは、もう会うことはない。
結局親父さんは食事もとらないで先に出発してしまった。不意をつかれて、私が遅れて出る羽目になった。
親父さんから88番は、以前お参りしたから行かない。と聞いていた。
私も前日お参りしたので、行く予定にしていなかったが、早朝の気持ち良さに惹かれて行った。
親父さんは、誰かの手紙を出して、ベンチに座り泣いていた。
多分息子の手紙ではないだろうか。
奥さんの死去・息子の自殺・会社の倒産と続き、生き甲斐をなくして酒に走ったと言っていた。
前回の四国出発の前も、格子のある病院で隔離されていて、車椅子の生活をしていた。四国から帰っても、また、病院に入ったと聞く。
そんな親父さんだけど、嫌いになれない。 自分の弱さを鏡で見るよう思いがする。
親父さんを残して出発。
その場にいたバイク遍路の人が門前にいたので、その人のカメラで撮ってあげる。
宿を通り過ぎようとすると「お遍路さん」と呼ばれて、私が今お遍路をしているのだと自覚した。
古女将が親父さんのことを心配していた。道を間違えてはいないかと、若女将は、4km先のバス停まで送ろうかとも言ってくれた。
ひたすら坂道を下って行く。道は舗装してある、いたるところで拡幅工事が始まっている。
1時間ほど歩くと標識があった。そこで15分くらい休んだ。後ろには親父さんしか歩き遍路はいない。
車かもしれないので、いつ追い越されるかはわからない。
歩き始めると、池の周りに5人くらいの人が集まって話しをしている。「何かいるのですか?」「池の水の色が茶色になっている。
魚はいるんだがね。」10番札所への道が間違いないか尋ねると、間違いない。
このまま行けば、大きな道に出るので、そこを右に曲がり、あとはまっすぐ行けば着けると教えてくれた。
しばらく歩くと二股の道に出た。どちらか迷っていると、遍路マークがあったので、マークにしたがって右に曲がった。
だんだん臭覚のようなものが備わり、道に迷いにくくなる。思い出してきた。
大きな道路に出ると、バス停のベンチにおばさんが座っていた。
「座っていいですか」と聞きながらしばらく座って休んだ。午後の病院へ行くために待っていると言っていた。9時20分くらいのバスだった。
5km弱を来ている事になる。宿を出発したのが7時15分くらいなので、お寺により来たので、1時間30分くらいで到着したことになる。
時速4.5kmくらいになる。以前は、普通でも5km、早いときは6kmを越していたのがうそのようだ。
5分くらい座ったあと、大きな道を下り始めた、ひたすら下り道という感じだ。
案外膝に来るので、気をつけて歩く。追い討ちのように、猛暑。
コンクリートの道を歩くのは、照り返しが強く厳しい。遍路道の方がはるかに楽である。
日陰もなくただただ歩道を歩くのみ。地図を見ながら現在位置を確認する。バス停がいい参考になる。
曲がり角から約15kmで目的地に着く計算。時間にして3時間から4時間と思われる。
ペットボトルの飲み物は、すぐになくなってしまう。
幸い幹線道路なので自動販売機はたくさんある。
掘削現場にもあった。太陽は昇るに従い、じりじりと照らす。時々、雲に太陽が隠れると嬉しくなる。
トイレ付きの公園に行き、30分くらい横になった。
靴を脱ぎテーブルに寝る。
しかし、横が牛舎だったのでとにかく臭い。川原に出られるようになっているが、雨が降ってないので水量がなく汚い。
顔を洗うことも出来ない。一旦ここで、水分が底をついた。これで3本目。
重たい身体を起こして、再び歩き出す。太陽の熱はますます増してくる。
だらだら歩く。足の裏が痛くなってきた。暑いので、靴下を2枚重ねにしなかった。
傷が大きくなる前に、靴下を履いた。少し靴が窮屈に思えたが、足の裏は楽になった。
ダンプカーの通過道路らしく、ひっきりなしに突風を巻き起こして走っていく。
まだ、曲がり角につかない。曲がり角から4kmくらいで10番札所に着くはず。ここからは、幹線道路ではなく旧道に入る。
狭い道を車が来るので危険は危険だが日陰が少しあるので楽しみ。古い町並みが少しでも残っているので、目の保養にはなる。
田んぼや学校の裏手を見ながら、少し高台の道を行く。右手の下には幹線道路らしき道に車が頻繁に往来しているのが見える。
途中、自動販売機が見えたので、新しく買いなおす。もう何本飲んだか覚えていない。
水分が欲しい。
水ではだめだということが前回で判っているので、サプリ系のドリンクを買って飲む。
何を考えながら歩いているのだろうと、客観的な自分がいる。
前回の遍路のこと、宮島の制作物のこと、ビル管理のことが次々と頭に浮かんでくる。結構忙しいのである。
狭い旧道なので、車が来ると避けねばならない。拡幅しているところが歩道なので、水路の空気穴が続く。
うっかりすると、その溝に金剛杖が入り込んで、抜けなくなるので気楽に突いて歩けない。
荷物がだんだん重くのしかかってくる。カメラや腰につけた交換レンズ入りのウエストポーチ、ペットボトルが腰に食い込む。
地図も逆打ちの格好なので、目印のステッカーも少ない。
あれでも、お礼参り用にと、曲がり角に時々貼ってある。ぼーと歩いているとよく見過ごす。
やっと、見覚えのある道に出た。地図といっても歩き遍路用なので、幹線道路が必ずしも太く書いていない。
地元の人に見せても判らないという。実際、指示された道のそばに国道が走っているが、地図には載ってないことも多い。
基本的には、旧道を選んでいるので、錯覚をおこす。見覚えのある曲がり角を左折すると、お寺に参道に入った。
懐かしい。うどん屋さん、表装屋さん、今晩泊まる坂本屋もあった。
急な細い坂道を、最後の力をしぼって登ると、いったん広い道路に出て、山門に着いた。かなり荒れた感じの山門である。
四川省の青城山の山門に風貌が似ている。勿論、中国の方が立派である。
山門で挨拶をして、中に入って行くと右手にトイレ・駐車場とベンチに水道があった。ここでしばらく休憩をすることにした。
まず、頭から水をかぶり、顔を思いっきり洗う。
靴を脱いでベンチに横になった。その間も、車で来る遍路さんは多い。
さすがに、1番から来る方なのだろう参拝客も多いような気がする。10番札所切幡寺は、333段の階段があることで有名。
ここからは、延々と階段を登って行くのです。途中には、男坂・女坂というのもある。さすがに疲れているのか、一気に上ることが出来なく何回も休んで登った。
本堂・大師堂も懐かしい。前回、2日目にお参りしたお寺である。
それまで平坦な道を歩いてお参りしていたが、初めての山寺、しかも333段の石段を登らされ、四国遍路の厳しさを実感したお寺です。
ここからが、本当の厳しい道のりになったのですが、あの当時は予測も出来ず、なめてかかった矢先の10番札所は、印象に残りました。
今回の参拝で、一応四国を数珠のようにつなげて1周したことになります。
駐車場のベンチでビニールに入れていた、2年前の地図を忘れてしまった。もう、必要がなくなったのかもしれない。
しばらく、本堂の横に座り休憩していました。前回大師堂の前の石仏を写真に撮ったのが目に浮かびました。
立ち上がり、足を引きずるように今度は石階段をくだります。
お参りの方は、年齢の幅も広く続いていました。山門を過ぎた頃、団体の遍路さんが来ました。
お参りを団体さんと一緒でなくて良かったと思いながら、宿まで行くと、親父さんがふらふらしながら到着しました。
てっきり、交通機関かお接待の車で来るのかと思いましたが、全行程歩いたそうです。
私は、親父さんの根性に敬意を評しました。絶対に無理と踏んでいました。
本人いわく「バスに乗ろうと思ったが、乗り遅れたので仕方なく歩いたよ。
道中、コンビニか酒屋はないかと探したが、お店がぜんぜんないので困った。」と。
確かに旧道なので店らしきものは全くなく拍子抜けしたでしょう。
宿に入ったがいくら呼んでも誰も出てこない、時間帯が早いので、誰もいないのかと思ったが、念のために電話をかけてみると奥から出てきた。
昔の宿というよりか、増築を重ねた、山小屋の宿のようで、階段は旧で陰気くさい。
昨日の八十窪とは、出来た時代が違うようだ。部屋の中は暑い。親父さんは、ビールを1本飲んで、10番札所にお参りに行った。
私は、洗濯機を借りて、洗濯をしながら風呂に入った。300円の使用料だったが後清算ということだった。
昼食を食べてなかったので、近所に食堂はないかと訊いたが、ないということなので昼食は抜きとなった。
それを知ってか、パートさんの都合か、4時30分になると、夕食の用意が出来ましたと言われた。
いかにしても早すぎるので5時にしてもらった。他にお客がいないから、早く帰りたかったのだろう。
親父さんはゆっくり食事をしなくてはならない。私もわざとのんびり食べることにした。
ビールも余分に頼み飲んだ。親父さんは機嫌よく、息子夫婦の話をしていた。
「逆玉なんですよ。」先方の母親は、画家で1年の半分は、イタリヤやフランスにいるらしく、帰ってくると個展を開催して、1点数百万で販売している。
旦那は商社マンで半分くらいはアメリカに行っているとのこと。
今年の1月2日に、結婚したいと突然孝太郎が言ってきたので、慌てて挨拶に行った。
と上機嫌で話してくれた。食事が済んでからは、夜が長い。
疲れをとるには眠ることが一番なので、布団の上に横になり映りの悪いテレビを見ながらごろごろしていたら、いつの間にか眠っていた。
親父さんが部屋に入ってきて翌日の計画を相談した。
目が痛くて、適当にあいづちを打って相談終了。翌朝までうとうとした。
28日
5時起床。
布団の中で、ストレッチ体操から始める。しばらく身体を動かしてから、映りの悪いテレビを見ながら本日の天気予報をリサーチ。少し曇っているが暑い。
同時期に四国を歩くトレバさんにメールを打つ。ひょっとしたら今日会えるかもしれない。
13番から出発して17番に向かうとの連絡があった。私が前回足の爪を裂いてしまい、どうしようかと思案に暮れた13番札所の近くの名西旅館に泊まっている。
吉野川を隔てた距離。車で行けば20分もかからないだろう。
しかし、歩き遍路にとっては、簡単にいける距離ではない、もし、時間が出来れば汽車で移動して落ち合おうとメールした。
昨日も会おうと思えば会えた距離だったが、身体が動かなかった。
親父さんは早く起きてシャワーを浴びたらしい。私には余裕がなかった。
足の指すべてにテーピングをした。そして、持ってきたシップを足の痛みのある場所に両足で4枚張った。
腰にも1枚。そして、足首にも貼った。6時過ぎに親父さんが訪ねて来て、本日の計画の話をした。
多分今日は、親父さんは車に乗るだろうから、別々に出発することにした。
6時15分に食堂に行くと、朝食の用意がしてあった。
もう1人長期滞在の人の食事も用意されていたが、とうとう顔を合わせることはなかった。
「ビール1本頂戴」と親父さんが叫んだ。7時30分に出発しようと言うことになっていたが、親父さんは食事後、すぐに出発のために、入り口に向かった。
慌てて準備をして降りていくと、入り口で待っていた。
「記念写真を撮りましょう。」と言い女将さんに頼んだ。女将さんはライカを持って、こわごわとシャッターを切ってくれた。
出発だ。
100mくらい歩いて、大通りに出た。ここを左折してまずは、9番札所に向かう。
まっすぐ1番に向かっても良いし、気分が向けば途中でお参りして行こうと決めていた。
旧道なので、車はそんなに多くはないが、離合できない場所も多く、立ち止まらなければならなった。
大通りに出ると、親父さんに一言ことわりを言ってスピードを上げた。すぐに親父さんの姿は見えなくなった。
曲がりくねった旧道は、ちょうど登校途中の小学生で行列が出来ていた。
今回の旅は、お接待に遭遇しない。このルートは、旅を終えてバスで1番に向かう人、そのまま高野山に向かう人などで、歩く人がいないようだ。
小学生も時々、思い出したようにグループの誰かから「おはようございます」という挨拶が聞こえる。
切幡寺から1番札所までは、まっすぐ向かうと21.5km。お寺に寄ると、もっと距離が伸びるし、お参りする時間が一ヶ寺で30分近くかかる。
最初は、道から外れている、9番札所の法輪寺には、立ち寄らないで8番の熊谷寺に向かった。
距離は、分かれ道から4.2kmくらい。1時間弱の距離。
まだ、早いので少しは暑さが凌げる。ただ、黙々と道を歩くのみ、道は相変わらず金剛杖の挟まってしまう格子の溝が続く。
このお寺は、私のお気に入りの山門がある、新撰組の番組の時のオープニングに出てきた山門に良く似ていて、なんとなく元気が出る。
山門の前に着いた。車道を挟んで、奥に進むと広い駐車場を通って境内に入る、ふところが深いのでしばらく山道を登ると懐かしい本堂が見えてきた。
本堂でお参りをしていると、お店のおばさんが出てきて気持ちの良い挨拶をしてくださった。
大師堂は石階段を登って行く。案外、お寺の中での移動距離が長い。車遍路の人たちは、この移動でふうふう言っている。
ゆっくりも出来ないので、下って行き納経所へ行った。最新式の建物になっており、トイレも建物の中にあった。
冷房も効いている。トイレを借りた。
今度何時トイレがあるかわからないので、早め早めに用を足すように心がけていた。
この時期は、納経所にお寺の奥さんかおばあちゃんがいる場合が多い。ここも若奥さん風の方が納経帳に印を押してくださった。
2回目の納経なので、もう、文字は書かなく印を押すだけになる。300円である。
次のお寺への道を訊いた。大きな車道は広く、歩道もあるが、日陰がないのと車用に配慮した道で、アップダウンが激しい。
歩き遍路には辛い。旧道のほうが、日陰などがあり楽である。山門を通過して少し下るとブロック塀がありここを左折すると旧道に入る。細い道を歩き続ける。
道々には特別見るべきものもない。親父さんが88番から1番への道は辛かったと言う意味が良く判る。
親父さんたちは、前回は、88番から6番札所近くまでの30km余りを一気に歩いたということだった。
今回もその計画が出されたが、あの当時は長い間歩いて脚力もついていたから、難なく歩いたかもしれないが、今回は前準備もないままで、
30kmをいきなり歩くのは無謀と判断。
まず10番までの20kmを歩き、2日目を22kmにしようと言うことにした。十楽寺は赤い竜宮城に入るような門をくぐって入る。
記憶がよみがえってくる。数名の車遍路さんがいたが、お寺事態は静かだ。
ここで水分を買い、安楽寺に向かった。お参りは、道筋から外れていたらパスしようと決めていた。
安楽寺は、道から少し外れていた。山門が少し見えている程度だったので行くのをやめて、向かいのベンチで少し休んだ。
しかし、このまま素通りするのも気残りだったのでお参りすることにした。
中は広く、大きな池があった。あの時、おじいさんが網を持って池のごみを取っている写真を撮ったことを思い出した。
立派な宿坊があった。あの池田さんが宿泊すると言っていた温泉つきの宿坊だ。お参りを済ませて、次のお寺に向かった。
かなりの暑さになっていた。4番の大日寺はかなり道から離れていたので、パスをすることにしていた。
5番札所の地蔵寺は微妙な場所にあるので、出たとこ勝負しようと考えていた。
この二つをパスすると、いきなり3番の金泉寺までである。
距離にすると、安楽寺から地蔵寺までが、5.3km。そのまま通過すると、3番までは追加4kmになる。
一気に行くには辛い。しかし、足は昔を思い出しているので、4km位はなんともなくなっている。
残るは暑さ対策だけだった。最短距離の国道をひた歩くことにした。
距離が稼げるからだ。旧道は、曲がりくねっているだけ長い。
結局5番札所の地蔵寺は道から500m離れていることが判ったのでパスすることにして、バス停でしばらく休んだ。
ここでバスがきたら、バスにどのような合図を送って通過してもらおうか。
乗ってしまいたい衝動にも駆られた。幸いバスは来なかった。時刻表を見てみたかったが、敢えて見なかった。
ここからは、本来の遍路道ではないので、標識らしきものがない。仕方ないからとりあえず国道を歩くことにした。
車がどんどん走るわびしい道である。3kmくらい歩くと、3番に着くはずだった。
途中で遍路道に合流するはずなので、道なりに歩いた。そろそろかなと思っていたら、JRの板野駅が見えた。、
地図では右に見えるはずなのに、実際は左手に見える。どうも道を間違っているようだ。
ここで、公園を見つけたので、公園の日陰のベンチに荷物を降ろし、靴を脱いで横になった。足を冷やすのも大切なこと。ここで靴下を1足脱いだ。
足の裏にはテーピングをした。すでに足は随所で悲鳴をあげている。足裏は、すりむけそう。指先は、裂けそう。
どうも調整がうまくいかなかったようだ。しばらく上を見ながら、ぼーっとしていた。
思い切って起き上がり、近くの水道に行き、頭から水をかぶり飲んだ。ズボンは水だらけになったが、そんなことは構っておられない。
出発だ。
地図を見直すと、このまま国道を行くと遠回りになりそう。
3番の金泉寺は通過しているはずだが、まずは地図通り旧道に戻ることにして、少し進んだ後に、思い切って左折してJRを超えて街中を一気に通過し、旧道に向かった。
逆打ちになるのでステッカーはない。人もいないので勘を頼りに歩いた。
振り返ると遍路マークのステッカーが電柱に貼ってあった。やっと旧道に戻ったと安心して、左手を見ると、なんと3番札所が見えた。
まだ、通過していなかったのだ。がくっと力が抜けた。見た以上は素通りできない。
山門をくぐった。ここは、私にとって思い出深いお寺だ。
初めて、お接待をしていただいた場所。前回、山門に入ると掃除の奉仕をされていた女性に、錦・金・銀のお札を頂いた。
そして、「私の代わりに参ってください」と、1000円を頂いた。
お寺には、誰もいなかった、橋を渡りお寺に入って本堂に行き、旅のお礼とお預かりした1000円を賽銭箱に返した。
どれだけこのお接待が勇気を与えてくださったことか。お元気ならいいのだがと思いつつお参りをした。
1人遍路の女性が入って来た。歩きではなさそうだが、車でもない様子。
歩きと交通機関を利用した遍路旅のようだ。黙って一礼をして、お寺をあとにした。
2番に向かって歩き出した。旧道をそのまま歩くことにした。地図によると、途中から遍路道に入るようになっていたので、パスすることにした。
2.5kmの距離500mくらいの場所で国道に入り、一気に1番を目指す。
すると広い駐車場が見えたので、覗いて見るとなんと2番札所があった。
またまた、お参りすることにした。納経は売店にあった。
先に済ませて、本堂に向かった。意外と奥行きが深い、階段を登っていくと本堂があった。
大師堂は右手にあった。ここも懐かしい。大師堂の前には石仏があり、写真を撮ったのを覚えている。
あの時は、後ろに携帯電話で話す遍路さんが不思議に見えて撮った記憶がある。
少し座って休んだ後に、トイレに向かった。あの時も、このトイレを借りた記憶がある。入り口には金剛杖を入れる備前焼の器があった。
後は、1.2km歩けば1番札所である。とっくにお昼は過ぎていたが、食事を摂ってない。昨日もそうだった。
水分補給のほうが先決で、空腹感がなかった。2番で、最後のペットボトルを買い一口飲んだ。国道をただ歩くだけで、1番札所に着いた。
懐かしい山門が見える。初めて見たときは、荘厳で緊張感一杯だった。
般若心経もろくに読めず、作法もわからず、前日に買った衣裳をぎこちなく着て、ここに立ったのを思い出す。
今、再びここに立ち、どう変ったのか?私にはわからない。
今回、このお寺に残すノートの中に、2005.6.28と書くのが目的で88番から歩いてきた。
あの当時は、本当に88番までで良いと思い帰った。
その後、遍路仲間の人から「1番札所に行ってノートに日時を入れた時に、名前が並んだノートだったが、結願をして自分の名前に記入するとき、
周りには懐かしい遍路仲間の人の名前が見えた。」という手紙をもらった。
88番から1番に戻るのは1番のお寺の策略だから行く必要はないと言われ、行かなかった自分に悔いが生まれた。
今回、思い切って来て良かった。波多野さん柴田さん岸本さんの名前があった。
茅ヶ崎の金沢さんから頼まれていたので、ノートを探したが名前が見つからない。
お寺の方に聞くと、もうひとつ別の場所にもあると言うので、そちらにも行ってみた。
しかし、金沢さんの名前はなかった。奈良の大川さんの名前があった。
金沢さんに電話をかけて聞いてみたが、はっきりしない。
独断で、金沢さんの名前を書いて結願日を記入しておいた。
お寺の方に書いてもらうように頼んだらしいが伝わっていなかった。納経所に行き御礼参りの印を押してもらった。
普通は、印を押すだけだが、ちゃんと別に書いてくださった。
お接待にと数珠を頂いた。88番の八十窪の女将さんが見せてくれた新聞に載っていた数珠だった。
最初は、ぶっきらぼうだった女性も親切にノートを探してくださり、汽車に間に合うようにとタクシーの手配までしてくださった。
納経所の方は汽車の乗り方を親切に教えてくださった。なんとなくあわただしい結末ではあったが。
これで四国が終わったという実感が湧いた。(実は、ここで般若心経の写しを奉納するのを忘れてしまった。後で、郵送する羽目になった)
タクシーは門の前にすぐに来てくれた。3番札所の板野駅に特急が止まるので、戻ることにした。10分もかからなかった。
1350円の距離。先ほど歩いた道だ。3.7kmを戻った。駅の構内に入り、トイレで顔を洗い、ホームでTシャツに着替えた。
まもなく特急は来て高松向かった。高松からは、10分くらいの待ち合わせで、マリンライナーで岡山へ。
そして、新幹線に乗り継いで6時過ぎには、広島に着いていた。あっという間の帰宅であった。
今回の短い間では出会った人も少なかった。お接待も受けることはなかった。
歩き遍路さんにも、歩いている間は、1人も出会わなかった。
前回とは大きく違う旅だったように思う。福島から来て野宿をしながら88番まで目指した猪瀬さんは、結局23番薬王寺で帰ったとのことだ。
徳島を回って一区切りついたようだ。一生をかけて回るとメールをもらった時、苦しい旅ながら大きな収穫があったと連絡があった。
親父さんは、結局、10番から9番をお参りして、バスで11番へ行き、そこからJRに乗って徳島に行き、飛行機で川崎に帰ったという。
10番の坂本屋で記念写真を撮ったのが旅の最後の別れになった。
親父さんは、前回、1番まで行っているので、私のような執着はないし、身体のことを考えると良くがんばったと思う。拍手を送りたい。
池田さんは無事に帰ったか気になったが、名古屋の方ということしかわからない。二度と会うこともないかと思う。
久百々の女将さんからメールあり、確かに宿泊はしているが写真は残っていないと連絡があった。
久百々へは、一度、親父さんと一緒に坂本屋から電話をした。
「本当に、あの藤原さん?」と聞かれた。途中から親父さんに変ったので、それ以上は話さなかったが、懐かしい声であった。
16-18日、四国遍路の旅から戻って来ました。
58番札所 仙遊寺 ご本尊がご開帳されていました。
許可を頂き、撮影しました。
足摺岬
久百々の海岸から見た海。 峠を越えて宿毛へ向かう途中のコスモス畑
足摺岬の国民宿舎から見た、朝日
5時閉門間際の、岩屋寺・・・静かにお参りする歩き遍路さん
今回、お参りできたのは、
52番太山寺 53番円明寺 7番栄福寺 58番仙遊寺
31番竹林寺 32番禅師峰寺 35番清滝寺 36番青龍寺 37番岩本寺 38番金剛福寺
45番岩屋寺
途中、四万十川の近くの、久百々(くもも)の民宿に立ち寄り、4年前にお世話になった女将さんに会いました。
今回は、車でのお遍路。多くの歩き遍路さんを追い抜いて行きました。
手を合わせるような思いで、申し訳なく抜く気持ちは4年前の自分と重なりました。
最初、56番札所で歩き遍路さんと話をしました。
長い間、歩いてきてもうここまで来ると、あと、10日も歩けば間違いなく結願する人たちです。
高知で会った、お遍路さんは結願ができるかどうかまだ分からない人たち。
高知・岩本寺が結願できるかの分岐点。
対照的な遍路さんを逆に見てしました。高知ではまだまだ、不安一杯の顔をした方が多く、区切り打ちの方も多かったようです。
1日、必死だ歩いた険しい峠も、車だと5分10分で通過してしまいます。
1日、25kmから35kmを歩くのが精一杯。車だと、たった15分から20分で着く距離。
どれだけ飛ばしてみているのだろうかと考えながらの旅でした。
松山から松山までの四国走行距離 700km
旅日記から
10月16日(火)はれ 四国遍路編
5時起床。出発の準備をして宇品港からフェリーで松山に向かった。コースについてはいろいろ迷ったが、船上で決定。当初は、45番岩屋寺を訪問して、一気に山越えをして高知へのルートを考えていたが、58番仙遊寺を目指し、57番栄福寺高速を使い、65番三角寺66番運辺寺そして高速を使って高知とした。松山には11時前に着いた。4年前は、松山で女房と待ち合わせ、一緒に歩き遍路をしたお寺がそばにあったので、お参りをすることにした。52番太山寺53番円明寺にお参りをして北上、今治方面に向かった。北条市から右折して、すぐに手打ちのうどんを昼食にし、山道に入り仙遊寺に向かった。意外と標高の高いのに驚きながら登った仙遊寺だったが、車ではあっと思う間に山門に到着。ここから本堂まで車で行った。たくさんのお参りの車もあったが、歩き遍路さんが多くお参りをしていた。受付で納経をしてもらい、姓名を名乗って住職に会いたいと伝えた。裏で仕事をしているというので行くと、トラクターで道を作っていた。最初、分からなかったようだが、思い出してくださり「先日より、本尊さんをご開帳しているので写真を撮って帰りなさい」と言われたので装備もろくになかったが、懐中電灯を借りて撮影した。大幅に予定が狂ったが、こんなチャンスのないので撮らせてもらった。ゆっくり会話をする暇もなく。出発。次に栄福寺に向かった。すぐに到着。住職は納経所に座っていた。1年ぶりの再会。ダライラマ法王の宮島来島で会った。わざわざ、家族のために本堂に上げてくださりお経を上げてくださった。結局、相当の時間オーバーで、この時点で、4時半近かった。6時には高知に着きたかったので、残念ながら、三角寺・運辺寺はあきらめた。市内に出て、高速道路に入り、1時間30分ほどで高知に到着した。宿泊地のサンピア高知は、高速を降りて5分くらいの場所にあったので何とか少しの遅れで到着。夕食・風呂とのんびりすることができた。
10月17日(水)はれ 四国遍路編
6時起床、家族は朝風呂に行った。8時の朝食に間に合うように、長風呂だった。運転の疲れもありぶらぶらしながら朝食を済ませ、出発。高知市内にある、31番竹林寺32番禅師峰寺(ぜんじぶじ)へ行った。竹林寺は、前回の旅でもキーポイントになったお寺。行ってみてやっとこの寺だったと思い出した。岸本親子を写真に収めた場所。柴田さんを写真に収めた場所だった。あの時は、暑い日で、苦しい思いをして高知市内を横切った。家族に遍路した道を走りながら説明をしたが、1日一生懸命歩いた30kmは、車で30分から40分で走り抜いてしまう現実にも直面した。たったこれだけの距離をあんなに苦労して歩いたのか。車の中からは、歩き遍路さんの姿を見ることができる。手を合わせる思いで抜いていく。大橋を渡り、海岸線を通る。まったく知らない道では会ったが、雪渓寺・種間寺をパス。35番清滝寺を目指す。高い処にあった。急勾配を登っていくと、おいしい果物のお接待が待っていた。今回は、テントはあったが、誰も居なかった。目に浮かぶ。女房の名前に似ているのでと言うことでお参り。その後海岸線に出て、36番青龍寺を目指す。前回、この日のルートが一番長かった。35kmはゆうに歩いた。長いトンネルを歩いた記憶があった。数分とかからなかった。海岸に出て、昼食。さすがに料理がおいしい。汐浜荘に宿泊したので、立ち寄りたかっあたが時間がなくパス。大橋を渡り青龍寺へ向かった。横綱朝青龍の通った高校がある。歩き遍路さんと少し話をすることができた。
ここから、スカイラインを越えて37番岩本寺に向かう。80km近く離れている。本日の宿泊先の足摺岬までは、150kmくらいあるのではないか。とにかく急いで向かうが、高速道路意がないので、在来線をとにかく急ぐ。途中果てしなく続いた登り坂を車は、難なく走る。4時過ぎに何とか岩本寺に到着。お参りをした。当時、ちょうどこの宿坊に宿泊した時に、誕生日を向かえ、一人でさびしく誕生祝いをした古ぼけた喫茶店に行き、お店の人に話をして思い出の席でコーヒーを飲んだ。あとは、久百々の女将さんに会い、足摺岬に行かなくてはならない。6時に入るようにいわれているがとて間にあいそうもない。四万十川を越える以前に、5時30分くらいすでに車はライト点等。市内に入り道に迷い時間をロス。何とか道を見つけて久百々に到着。6時15分くらいになっていた。遍路さんが8名くらい食事をしていた。少し、皆さんと話をして、急いで足摺に向かった。20kmくらい。一般道に入ったつもりが、スカイラインへ入ってしまった。結局スピードは出せたが、標高460mの尾根を走り、なんとか7時5分にホテルに到着。すぐに食事を済ませた。10時までしか風呂がないということで、女性軍は早々に行ってしまった。あの当時は、台風が足摺岬を直撃して、ものすごい風雨だっあたが丈夫な建物なので、中に居ると恐怖はなかったが、露天風呂で山の揺れる様を見た事を思い出した。
10月18日(木)はれ 四国遍路編
深夜に雨が降ったらしい。朝、夜明けを撮りに外にでたら車が濡れていた。雲が多く、朝焼けは期待できなかったが、念のために展望のいい場所で待機していると、久百々のあたりから雲の間から、雄大な景色が展開した。1時間以上外に居たので、体中が冷え切り風呂に飛び込み暖をとった。朝食もそこそこに済ませて、37番金剛福寺に行った。入り口では、歩き遍路さんが托鉢をしていた。私は残念ながら、托鉢をする勇気が当時なかったので、敬意をひょして寄進した。お寺の中は、改装中で大きな岩を配置した池を作っていた。立派な作りのお寺に変貌中のようだ。敷き岩の寄進をして出た。足摺岬を見学して出発。久百々に戻った。10時の約束を30分も遅刻。女将さんは、私の顔を見て「うそじゃ」と叫んだ。8時頃に来ると勘違いをしていたようで、すでに通過して行ってしまったと思っていたようだ。お接待にと、むすびやバナナお菓子の入った袋を用意していてくれた。30分程話と記念写真を撮って出発。最短距離の遍路道を通って宿毛へ向かった。山中をひたすら歩いた当時のことを家族に話した。歩き遍路さんを数名追い越して行く。自分と重ねてしまう。宿毛に入り、道の駅に行き、お接待に頂いたむすびをみんなで食べる。この場所は当時疲れ果てて休憩をした場所で、おいしいアイスクリームを覚えていて今回も食べた。残念ながら行く予定ににしていた、40番観自在寺はパス。ひたすら、岩屋寺に向かう。宇和からは高速に乗り、内子まで一気に行った。ここで、道の駅でトイレ休憩。小田方面に向かう。途中、宿泊した高橋旅館の前を通過。休憩をしたかった、喫茶店松井は、廃業していた。真弓峠を越えて久万町にはいった。岩屋寺に着いたのは、4時20分を過ぎていた。5時で納経所は閉まるが、ここは標高差が150mくらいの場所にあるお寺なので、急勾配の坂と石段を登らなければならない難所。足を痛めている娘たちを置いて、駆け上がる。案内板には、お寺まで15分と書いてある。汗だくになってなんとか納経を済ませた。家族も上がってきたので、本堂・大師堂で般若心経をあげてお参りした。5時になると、鐘を鳴らして閉門の合図があった。歩き遍路さんたちが駆け込みでお参りをしている。静寂がおとずれた。お参りできたことの満足感はあったが、もう少しゆっくりしたかった。今度は、松山からのフェリーに乗り遅れないようにしなくてはいけない。お寺の方に聞くと、2時間はかかるということ。瀬戸内海汽船の友人に電話をして最終便の確認をしてもらった。19時50分。何とか間に合いそう。急いで下山して、久万町経由で三坂峠を下り松山市内に向かった。歩き遍路の道の三坂峠は、本当に獣道のような道を一気に下ったが、車は大きくカーブを描きながら下る道。何とか最終便には間に合った。
遍路22日にお世話になった民宿「久百々」の女将さん姉妹が広島に来られ、宮島に行くというので合流して、ぎゃらりぃ宮郷でお茶をした。その時の日記も掲載。なかなか豪快な女将さんは合い変わらずだった。
2007.5.30
22日目 36014歩2003年5月30(金)雨札所 38番 蹉陀山 金剛福寺
思ったよりも距離があった。6時過ぎに久百々を出発。お接待におむすびを持たせてくれた。台風の為、外は風と雨が凄い。地元の人は、いつものことで驚いていない。「がんばってらっしゃい」てなもんだ。途中歩けない程の風が吹き付けてくる。何度か引き返そうかと思った。しかし、ものは考えようで、台風の日に、しかも台風の直撃するであろう足摺岬に向かって歩くチャンスは、一生に一度しかないだろうと想い。元就が言った「逆境こそ好機」を思い出してがんばった。同じ宿を5時に出発して、足摺岬でお参りしてから再び、久百々に帰って来る女性がいる。奈良の大川さん。台風の中歩く距離44km。さすがにそこまでの脚力に自身がないので、予定通り足摺で、台風の直撃を受けることにした。今夜が上陸予定。生活の知恵とはよく言ったもので、遍路道(旧道)のまわりには、防風林が植えてあるので、林の中を歩いている間は、全く風雨の心配はなかった。景色は見ることは出来なかったが、それほど台風の恐怖は感じなかった。逆に車道にでると、景色はいいかわりに風の直撃受けてしまい、歩いて前に進むこともままならない。いくつかの街を通過したが、同様に風雨は強い。海岸線の遍路道は、到底無理なので県道を歩いた、といっても車は、べつの車道を走っているので、歩行者天国のようなもの。しかし、お店というものは全くなく、水分の補給に気をつけた。途中の遍路道で「まむし」を見た。最初、おおきなミミズかと思ったが、50cm程のアスファルトの道の真ん中に、とぐろを巻いていた。茶色の短い花柄のような模様のある蛇だった。雨も降っていたので、思わずまたいで行った。すぐにあった、近所の民宿の女将さんに道を聞いたとき、まむしの話しをしたら驚いてた。気持ちが悪いのでしばらく車道を歩くことにした。そこで孝太郎君に会ったので、しばらく一緒に歩いたが、別の道を行くというので別れた。彼は、元気がいいので番外のお寺も見つけては納経お参りをしている。途中、足摺岬の手前歩いて1時間程のところに、お遍路さん用の休憩所があったが雨の為ベンチ等はずぶぬれになっていた。蚊をさけてしばらく休憩して再び足摺岬に向かう。30分程歩いたところで、大川さんが参拝をしませて、折り返して帰り始めていた。「早い。」荷物を民宿においているので、身軽なせいもある。これで、私は、大川さんに1日遅れで旅をすることになった。この道は行きっぱなしではなく、往復しなくてはならない道のりである。今回の旅で初めての経験。札所で岸本のお父さんに会った。道を間違えてスカイラインに入り、ご接待で車に乗せてらったらしい。道を間違えるともどるのに大変、台風でありしかたのないことかと思った。一緒にお参りを済ませて、足摺岬に台風の様子を見に行った。ものすごい風で顔を出すと、吹き飛ばされそうな状態だった。今夜が上陸予定。
久百々のHPからの写真
民宿の前の海岸から見れる朝日
下田からの朝焼け
2年前の話しである。
どんどん四国が遠のいて行くような気がする。
しかし、四国の話しになると「何番の札所はどうだった。」と走馬灯のように
自然に口から出てくる。
夢のまた、夢。
「また、行くのでしょ?」と聞かれる。
あの道を再度歩くのかと思うと、恐ろしいような気持に襲われる。
聞かれるのは、「どこが一番辛かったですか?」
「覚えていません。本当に辛かったことは、まったく覚えていません。」
しかし、もう一度行こうという気持にはなれない。
それは、人生に一度でも良いから歩いてみたいという気持が後押ししてくれたから
1400km近い道のりを歩くことが出来たのであって
簡単に歩くことの出来る距離ではない。2005.2.15
おめでたNEWS
結婚しました
一緒に四国遍路をした 岸本孝太郎君が2005年4月27日 結婚しました。
26日にメールで連絡がありました。
おめでとう!!
ダイジェストコ−ナ−
四国八十八ヶ所歩き遍路 タカオの旅日記
宿と同宿人
遍路仲間消息コ−ナ−
歩き遍路仲間からのメ−ルや消息を掲載しています。
四国八十八ヶ所遍路日記特集 掬水へんろ館
<旬遊を読んだ孝太郎君からのメ−ル>
旬遊を読みました。
まずはびっくり! 「孝太郎君へ」とあったので。
藤原さんが感じた僕ら親子の事を書いてあるかと思っていたのですが僕への内容で驚きました。
親父と僕の写真、僕の名前が雑誌に出てるとはちょっと恥ずかしい気もしますがこのような事はそうないだろうし大事に取っておきます。
ありがとうございました。
結願しました
5月9日に出発し、それから、49日目
四国霊場八十八ヶ所巡り
6月26日 大窪寺にて完全徒歩によって、終了しました。
その日のうちに、広島に帰りました。
7月4日高野山奥の院にて、最後の納経を済ませました。
紙屋町にある、星ビル1Fレストラン
4月29日の壮行会
矢野カメラマン撮影
6.26 88番大窪寺にて結願(香山カメラマン撮影)
ついに「孝太郎日記」完成
元宇品の楽群の隣の倉庫で行われた、報告会
7月19日
日の丸産業 社長 河尻清さん
弁護士 金尾哲也さん (財)広島市文化財団 理事長 吉中
康磨さん
2003.8月30日
広島港新タ−ミナルビルVIPル−ムでの報告会風景
目下、1日10円の日刊メールマガジンを発行しております。
=======================================================
------------広島eマガジン VOL.685
7.21-----------------
=======================================================
*歩けば、着くんですよね!!
先日、スタジオタカオ藤原隆雄から下記のメールが届きました。
「四国霊場八十八ヶ所歩き遍路結願報告会のお知らせ。感動と体
験を皆様にご報告したく計画しました。是非ご参加下さい。なかな
か、現世に復帰出来なくて困っています。どじばかりしています」
http://www.hicat.ne.jp/home/st-takao/homepage/
-------------------------------------------
・行く前の小さいことは忘れてしまいました。
・1人では旅が出来ないことがわかりました。
・歩けば、着くんですね。(歩かないと、着かない)
この「歩いたら着く」というフリーズは、とっても心に響きました。
そして、こんなことも言われていました。
「迷わず、目的を決めたら、最大限の努力をして、自分を信じて
歩いていたら、道が開ける、道に到着する」。
それから、次の言葉も印象的でした。
「帰ってから、みんなに気配りができるようになったとか、人に対
して優しくなったでしょう、と言われますが、むしろ、同情というのは
良くないことに気がつきました。
その人を背負って歩くことなんて、できません。妙な同情は辞め
ることにしました。能力のない人は、ほっておく、それが自然の姿
ですね。
頑張る人は応援するけど、頑張らない人は応援しない。ただ、
それだけです」。
実は、拡声器でのスピーチで聞きにくい状態でしたが、藤原さん
のなんというか、存在感というか、それはなんとも、表現しがたい、
いわゆるオーラというか、ただ、そこに存在しているだけで、発散
する静かなるエネルギー(気)みたいなものがありました。
http://www.funasaki.net/tk/20030721/
「さんぽ」という歌があって、それは「歩け、歩け、私は元気」とい
うフレーズから、始まります。夢に向かって、雨の日も晴れの日も、
ただひたすらに歩いていこうと決心した次第です。
*******************************************************
起業という夢の情報を収集して、研究してみては!
ドリームゲートへの登録募集中(登録無料)!!
http://www.funasaki.net/
http://www.dreamgate.gr.jp/aff/af.php?ue=94,3
*******************************************************
船崎賀秀 YOSHIHIDE FUNASAKI
携帯電話 090-2290-2345
TEL 082-212-4707 FAX082-212-4501
yoshihide@funasaki.net
http://www.funasaki.net/
昨年、私は88番札所から10番札所を経由して1番札所までの47kmを歩いた。2泊3日の旅立った。
前回の88番までの結願後、広島に帰った。
心残りだった、四国を数珠で綱く1周。10番まで行けばとりあえずは、四国を1周したことになる、そして、1番札所まで行き、前回、出発する時に、1冊のノートに、氏名・住所・出発の日付を書いた。そのノートに結願した日。6月26日を書き込むこと。そして、遍路仲間が話してくれた「出発する時は、ノートに記載された名前は誰も知らなかったけれど、結願して見ると、回りには顔見知りの遍路仲間の名前がたくさんあった。」私は、そのノートが見たかった。
この日記は、ここをクリックすると出てきます。
http://st-takao.web.infoseek.co.jp/osikoku.htm
http://st-takao.web.infoseek.co.jp/sikokudiary.htm
http://st-takao.web.infoseek.co.jp/3hiarukihenro.htm
by トレヴァ
阿波遍路日記、完結。昨年 6月末、同じ時期に四国にいた歩き遍路の友人の日記
昨年の12月初旬に止まっていた、最期のお遍路日記を書きたいと思う。遍路を終えて早や半年が過ぎた。だが、思い出は色あせてはいない。ここでの出来事は大いに自己形成の肥やしになり、また会津の田舎侍にとっては本当に感動と挑戦の良き旅であった。
*****
『長い長い道を歩いた。距離にしたら今までで最長。途中で何本もお茶を消費して、もうやっと踏み出している足を気張りながら「かねこや」へと向った。
そしてもうすぐかねこやという所で、これから最終日まで一緒に旅をした親友と出会うことになる。これも、後述。
…今回の旅レポはここまでにしたい。 』
ここから、話をはじめるとしよう。
●6月28日(火)
かねこやを朝六時に出発。徳島で宿泊した旅館で、最も遍路に厳しい旅館であったことだけ伝えておきたい。
しかしそれ以上に、この日より僕の旅の最後まで、行動を共にした同志を得ることが出来た事を感謝したい。
彼の名はU氏。僕より二つ年上の、黒ぶち眼鏡の似合う、関東出身の穏やかな青年であった。その背には僕の倍はあろう荷物を背負い、今までを歩きつづけたという。しかも、本人いわく特に何のトレーニングもせず歩き遍路に望んだらしい。
しかし今思えば、影で相当の鍛錬を積んだに違いないのだ。
U氏とはかねこやへ向かう道中で出会った。話し掛けると話が弾み、共にこれからの山越えをしようという事になった。
そして翌日、ぎらぎらと太陽の照りつける中をお互い励ましあいながら歩きつづけた。
旅は道連れ・・・とはよく言ったもので、その道中は発見と笑いの連続だった。ただ、彼のペースはのんびりとしたものだったため、せっかちな僕は何度か彼より先に歩き、目的のお寺で待っている・・・というケースが何度かあった。
そして鶴林寺、太龍寺という山の上にある険しい道中をお互いに苦労しながらも克服し、坂口屋という山越えのふもとの旅館へ到着。
ここも実に親切な旅館であった。詳しくは敢えて割愛する。
そして翌日・・・
●6月29日(水)
また山を越える。早朝に坂口屋を出発し、僕らは次なる「平等寺」への山道へ向かった。その途中・・・妙に人懐っこい犬に遭う。
しかもその犬は、ずっと山越えを着いて来た。
『これって、有名なお接待犬かも!』
U氏がそう言った。四国に来る前に、あるインターネットでこの犬の話を読んだらしい。まさか自分たちがその犬に会うことになるとは夢にも思わなかったらしい。勿論僕もそうだ。
結局、そのお接待犬(雑種の柴犬だろうか?)は山を越えて平等寺まで付き合ってくれた。何だかこの目の前の奇跡に、感動と驚きを感じた。・・・言い忘れたがU氏より先に辿り着いていた僕は、やがて到着したU氏と合流し、お寺の隣の食堂へ入っていった。
『ごめんな。ここで、お別れだよ。』
お接待犬は僕らの行動を察したのか、大人しく来た道を帰っていった。しかししばらくするとまた戻ってきてしまう。僕らは別れがもっと辛くなる前に心を鬼にして食堂へと入った。
ガラス越しに犬がこちらを見つめていたが、やがてその姿は消えた。
結局僕は、それから頼んだ丼ものを完食できなかった。
それから・・・。
またしても陽光激しく照りつける道路を歩き、今からの時間ではホテルに間に合わない事を確認した僕達は、新野〜日和佐までを電車で移動した。車窓から見える景色が疲れた心を癒してくれた。
またいつの間にか、もう一般の人の視線には気にならなくなっていた。向いに座った、すれていない感じの女子高生が時折僕らを見て何かを話していた。
そう。それはきっと、過剰に自分の意識が感受していただけだったのだ。だれも僕らを傷つける人などいなかったのだから。
やがて電車は日和佐に到着し、僕らは赤の原色で塗られた薬王寺へと向かった。僕にとっては最期のお寺だ。
『Uさん、短い間だったけど・・・本当にありがとう。』
僕の言葉に、彼も同じような言葉を返した。
薬王寺の高台から、日和佐の海が見えた。蒼天に白雲が浮かんでいた。僕はのんびりと一時間ほど、ただその景色を見つめていた。気を利かせたのかいつの間にかU氏がいなくなっていた。
『四国、ありがとう。』
僕は明日の電車時間を少しずらして、日和佐の海を見ようと思った。山育ちの僕にとって、ここから見える景色はあまりにも美しく、感動的だった。
●6月30日(木)
翌日早朝、U氏と硬い握手を交し、彼の結願を祈って彼を見送る。
彼はこれから高知県に入る長い長い道を、のんびりと歩いていくといった。
『じゃ、また会おう!』
『Uさんもお元気で!!』
それから日和佐の海で一時間ほど景色に触れて、電車であっという間に徳島駅に戻った僕は、会津までの切符の手配をした。
もうこの駅の対応にも慣れ、むしろ徳島を離れることの切なさすらあった。
夜行バスは夜九時にやってくる。さてそれまでどうしようか。
今更遠出をすることも出来ず、荷物をロッカーに預けて半日ブラブラと徳島駅周辺を歩いた。「徳島中央公園」や「徳島阿波踊り会館」なる物産館をさ迷う。町並みは会津より近代的で、一言で言うと都会だ。だが、その雰囲気は会津と同じ田舎くささが流れていて、どこかホッとできた。
そして時間を持て余しながらも夜はやってきた。バス到着一時間前となったころ、どこかで見かけた中年男性が話し掛けてきた。
『あなたは!』
『・・・ああ!立江と日和佐で!』
その人は上記の駅でばったり言葉を交した遍路の人だった。
言い方は悪いが、そのくたびれた雰囲気が何とも言えず苦手だった。最期のこの時間に会ってしまったことに、得体の知れない不安を感じた。案の定・・・その人は財布を落として無一文でここに来たといった。
『これも何かの縁です。これでなにか食べてください。』
僕は名西旅館のおかみさんからもらって、ずっとしまっていた千円札を彼に差し出した。彼は飛び上がらんばかりに喜び、何度もあたまを下げながらそれを受け取った。
そして・・・それから彼の身の上話を聞かされた。ここでは書けない事だが、改めて四国にはいろんなものを背負った人がやってくる。
それから三十分後れでバスがやってきて、僕はそのおじさんに見送られながら会津への帰途へとついた。
バスの中で毛布をかけ、夜景を見る。今までの二週間がまるで夢のようで、山野を越えた事の実感がない。
『四国・・・本当に不思議な場所だ。』
僕はそんな事を呟きながら狭い椅子の間で眠りについた。
今度はやってきたときとは違って深く眠れる・・・。
*****
以上で僕のお遍路日記は終わりです。
最期まで読んでくださった方へ、心より感謝を申し上げます。
ありがとう。