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遍路先頭ペ−ジに戻る

年、5

また、しばらくみなさんともお別れです。体調を崩したせいもあるのですが、念願の旅に出発しようと考えています。四国霊場88ヶ所を2ヶ月弱かけて歩いて、お参りしようとしています。なかなか、チャンスもないし時間も無いのは、承知ですが時間は作るもので、暇が出来たらというのは言い訳の嘘でしかないので、先に日程を決めて、そこに向かって進もうと思います。基本的には、一人旅です。もし、途中、一部合流したい方がいれば申し出下さい。マイぺ−スの旅ですので、あくまで、一部合流という形にしていただきます。一度、車で回ってから本格的に歩いては、というご意見を頂きましたが、私のポリシィとしては、出会い頭のイメ−ジを大切にしたいので、いきなり歩いて回ります。1200kmくらいらしいので、1日30kmとして40日から50日くらいの行程になると思います。

佐渡の作品を撮って以来、自分自身で被写体が見つからず、いろいろな被写体にチャレンジしてみましたが、あのピュアな自分を見つけることは出来ません。あのころ、右耳の下に出来た脂肪の塊をとるため日赤病院に10日ほど入院しました。もし、神経を切ったら、右目を失明するかもしれないと言われました。その後、まもなく文弥人形遣いの浜田守太郎氏に会うため、東京経由で佐渡に向かいました。世田谷の教会に行ってコンサ−トを聴き、友人の方々の食事会に呼ばれたとき「大変失礼ですが、私は、今から佐渡に作品を撮りに行きます。心をピュアにしていますので、失礼なことを言っても許して下さい。」と。私自身、鏡で自分を見た時、きれいな目をしているなと感じました。会場で、はじめてあった方にも「なんて、きれいな目をしいている人なの」と言われました。そんな状態で佐渡に渡り、佐渡の海を撮影し同時に、文弥人形遣いの浜田守太郎氏に会ったのです。気むずかしいと聞いていた浜田さんは気さくに会って下さり、昔からの知人のように接して下さいました。将来の夢も共有出来ました。「今から撮れ」と突然の撮影許可も出ました。私のどうしても撮りたい場所の話もしました。ふるさとの矢柄の海岸。「夏には、ふるさとに帰るから来い」と言って下さいました。しかし、叶うことはありませんでした。東京の銀座で7月に写真展をしているときに、訃報を聞きました。そして、次の年の冬、約束の地で、浜田さんが大切にしていた人形を貸していただき、吹雪の中で撮影をする事が出来ました。浜田さんにあって、1年後でした。今、この作品をニュ−ヨ−クで発表しようと計画を練っています。

あれ以来、私は被写体を失ってしまいました。それ以来、佐渡には行っていません。

この時期、自分の年齢も考え体調を崩して、いろいろと考える中、女房・娘に「四国霊場を歩いて回りたい」と言いました。「行って来れば」という返事が返って来ました。いつも、突拍子もないことを言ってひんしゅくを買うのですが、案外すんなりと賛成したので少し拍子抜けなところもありましたが、決心が固まりました。

まだ、時間はあるようですが、まず、1日40kmの道を歩くだけの体力を半年かけて作らなくてはなりません。平坦な場所だけに札所はありませんから、山道をこつこつと登る日もあることでしょう。雨の中を歩くこともあるでしょう。カメラと日常の生活用品を担いでの旅です。今から、無愛想な藤原となるかもしれませんが、目的を持って動き出したことに免じてお許し下さい。

出発の前日には、タカオ倶楽部のみなさんとのお別れ会を簡単にしようと思っていますので、ご案内が行きましたら是非、顔を出していください。一緒に持って行って欲しいものがあれば、お預かりして行きます。

四国八十八ヶ所お遍路の旅

藤原は、感じるところがあり5月の連休明けに四国八十八ヶ所お遍路の旅に出ようと計画しています。どうせ一生に一度の事なら、歩いて回ろうと思っています。1400kmあるそうなので、40日から50日かかるのではないかと考えています。目標の達成率は、50%程度とのことです。昨年、体調を崩して十分に動けなかったので、今から夜、宇品を歩いて訓練しています。30kmから40kmを1日かけて歩くことになるので、結構きつい旅になると思います。

「車で回っては」と言われますが、歩いてこそ意味があると思っています。そんな無謀を年末から表明したところ、意外なところから励ましの言葉を頂いたりします。「何かをつかんでおいで」「私も行きたかった、かわりにがんばって」から「2〜3日でもいいから、同行させてくれ」と様々です。10数年前に会長の肖像写真を撮った事でご縁のある信用金庫の本店に勤務の方からのお話で「知り合いの方がお遍路をされて、そのときの事を本にされているので、読んでみて下さい。」とわざわざ持って来て下さいました。今は、独立した弟子の吉岡さんからは、四国にしかないお遍路の本を買って来たと持って来てくれました。瀬戸内海汽船の井藤さんからは、お遍路さんをして撮影した写真集を頂きました。

何か決心をすると、渦のように人が集まって来る不思議を感じました。

今の体調からすると、無理だから1年延ばしたらという助言(女房も含めて)をもらいますが、1年延ばしたら決心がくじけて行けないような気がするので、なんとしても行こうと思っています。極楽寺の住職さんは「まずは一度車で回って情報収集をしてから、歩いては」とも言われました。が、写真家にとって、第一印象が全てです。出会い頭の感覚を映像にすることが、快感でもあり信条でもあります。予備知識なく出発したいと思っています。いつも旅行に出るとき資料などは、ほとんど見ません。帰って資料をみると、行った場所のすぐ側に、有名なものがあったこともしばしばです。しかし、見れなかったということは縁が無かったということだと思っています。無理矢理あちらこちらを回るのはかえってホントに見ていないことと思うのです。一人で、じっくり歩きながら今までの人生と今後を考えながら、自分を見つめてみようと思います。

お遍路に向けて、夜、歩きます。宇品界隈を一緒に歩きませんか?ご希望の方は、連絡下さい。

広島にも八十八ヶ所がるのをご存じですか?帰ってきたらもう少し世間の方にも知って頂けるようにしたいと思っています。そして、ふるさとを自慢して欲しいと思います。

NPO港町宇品共和国の活動の中で、広島の発見というテ−マがあります。すでに札所2ヶ所の絵はがきも制作販売しています。スタジオに、おいで下されば購入も可能です。1枚150円です。

<四国お遍路の旅>

お遍路に行くことを表明してから、多くの方から励ましの言葉や資料を頂きました。やじうま誌面に掲載してからも、お手紙やお電話を頂きました。ありがとうございます。近づいて来るにつれて、自分自身をシンプルにしなくてはならないと思いつつ、日々が忙しくままなりません。少ない日で5000歩弱、多い日で15000歩をのらりくらりと歩いています。まずは、「靴」と思い数軒回ってみましたが、結局、出島にあるスポ−ツ専門店で購入しました。ベストではないかもしれませんが、ベタ−と思い現在慣らしにはいています。今まではいていた靴より、底が硬いのか足の裏が痛かったのですが、慣れたのか気にならなくなりました。先日は、黄金山の頂上まで一気に上がってみました。思った程の疲れはありませんでしたが

8000歩くらい。まだまだ足りないことを知りました。1日40000歩程度が必要かと。経験者の話しでは、多いときで70000歩。最近、本を読んで研究を始めました。TSS展示場に来る写真教室の生徒さんは、30代ながら夫婦で回っています。彼らはツア−バスで回ってます。二人から写真を見せてもらったりしています。彼らは、同時に広島の八十八ヶ所を回り始めています。ある程度慣らした靴を予備に宇品に置いていくつもりです。問題は、カメラをどうするか?いつものカメラを持って行くと、カメラ装備だけで、10kgは簡単に越えてしまします。文献をみると、リュックの総重量は5kgがベスト。いかに重量を減らすかが肝心。先日、東京の写真美術館で見た、パリのカメラマンが撮った作品に感動して、レンジファインダ−のカメラを持って行こうかと思い、的場の中古カメラ店に行きました。「レンジファインダ−のカメラが欲しいのですが、どれくらいするのですか?」「予算は?」「予算は決まっていません」「それじゃ話しにならない」「だから、どれくらいするのですか?」「コニカのレンジファインダ−なら25000円である」「それじゃだめです」「ニコンはどうですか?」「露出計はついていますか。」「そんなものはついてない」などと問答を繰り返しましたが、結局目についたのはライカM6。「これはどうですか。」「いいに決まっている。これなら一生使える。売りに出しても値は下がらない」「50mmのレンズを着けたらいくらですか?」「35mmのレンズをつけたらいくらですか?」と聞いていたら、隣にいた年輩の男性が「初めて買うのかい?」「そうです」「いい度胸をしているね」と言われた。ライカはカメラマンにとっては、夢のカメラ。一大決心で買うかと思案していたので、「はい」と答えた。どうもその方は、私がカメラなるものを初めて買うのと勘違いしたらしい。プロのカメラマンには見えなかったのだろう。嬉しいような、寂しいような気持ちになった。ひとまず帰って女房に相談した。「安いじゃない。プロでしょ。」と一言ですまされた。この原稿を書いているときには、まだ買いに行ってません。

四国霊場八十八ヶ所歩き遍路 結願しました

5月8日宇品出発。霊山寺近くに宿泊。

5月9日早朝 1番札所 霊山寺から出発。

とんでもないことを言い出したと、まわりに言われ出発の日時が近づくにつれて言い出すんじゃなかったと後悔もしましたが、いざ四国の札所につくと、身のしまる思いでした。何の予備知識も持たず、地図1枚を頼りの旅立ちでした。

前日揃えた道具を持ち1番札所で、お参りの作法を聞きました。毎日25kmを歩き続けると、計算上では50日余りで88番札所につくことになります。1人旅不安いっぱい。まわりにはバスツア−の集団が大勢いて一層孤独感を感じました。初日は、余り歩けないだろうと思い5番札所のあたりの宿を予約しましたが昼過ぎには到着してしまい、宿でぶらぶらする事になりました。距離の計算がなかなか難しいと痛感しました。2日目も平地を11番藤井寺まで行くことが出来ました。いよいよ3日目、この旅最大の難関と言われている、12番札所焼山寺をめざして出発、13kmの行程をひたすら山道を登り下り登り下りと繰り返します。標高差1100mとのこと。天候は雨。道は、泥道と階段の連続。予定時間は6時間。特別準備をしていなかった私にとっては、驚きでしかありませんでした。遍路の出発地点に近い為、歩き遍路さんの数も多く、数珠つなぎになって進んできます。抜かれるのはいやだけど、身体がついていかず早い人にはどんどん抜かれていきます。休憩をとればすぐに抜かれていきます。雨具対策が充分でなかったので、雨の中座ることも出来ません。焼山寺についたときは、全身ずぶぬれ状態。ポンチョの中は、汗でぐしゃぐしゃ。このことは、旅の終わりまで解決出来ず、仕方のないこととあきらめました。

広島にも八十八ヶ所の札所があります。みなさんご存じですか?しかも、宇品に2ヶ所もあります。何故多くの人が四国(お四国さん)を目指すのかを知りたかったこともあります。お寺があるからは、もちろんのことご接待という習慣が四国にはあり、もてなしの心が人を引きつけるとも聞きました。

最初のご接待は、突然来ました。2番札所でお寺の掃除をしていた老婦人にお願いして写真を撮らせてもらいました。もちろん写真は送りますからと約束。「今から88番まで行きますので、写真を送ることが出来るのが何時とは約束出来ません。申しわけありません。」「いいんですよ、いつでもいいから。私は回れないから代わりに回って下さい。」と言って2000円を下さいました。「ご接待ですから、それからこのお札を差し上げましょう。がんばって回って下さい。私は、毎日ここに来てお寺を掃除しているからと」頂いた札は、錦・金・銀の三枚でした。噂には聞いていましたが、こんな私が頂いて言いものかと躊躇しました。その後、奥の院でも代わりに回ってと1円玉を束で頂きました。食堂に入ると、ご接待ですとコ−ヒ−を出して下さいました。これがご接待かと思いました。断ってはいけないと聞いていましたが、これに似たようなことが、88番まで続きました。オロナミンを飲んで下さいと車を降りて来る方、これでジュ−スでも飲んで下さいと手渡す方、大きなポンカンを持ってきて下さる方、そのことが自然になされます。もし、広島の門前でこのようなことをされたら、すなおに受けることが出来るだろうか?毎日のように、土地が変わってもおもてなしを受けるのです。畑で仕事をしている方が、遍路姿の私を見つけて、手を合わせて挨拶をされると、この不信心な私に良いのだろうか?

そして、驚くことは登校中の小学生・中学生・高校生が必ずと言っていいほど元気な声で「おはようございます」と言って来ます。もちろん大人の人も例外ではありません。歩き遍路さんに対しては、特別の感情を持っていることは間違いなくあることを肌で感じます。

広島ではよくある風景ですが、横道から出てきた車が、通行中の歩行者の行く手をさえぎることがあります。遍路さんを見つけると、必ずといっていいほど車は、少しバックしてお遍路さんが道を真っ直ぐ歩けるようにします。ダンプカ−とて同じです。無理をすれば、行ける車もわざわざ停車してお遍路さんが道を通過するまで待ちます。余りにもさりげないので、気がつかないくらいです。しかし、普通の姿で歩くとそのような風景には出くわしません。たまたま、1日体験歩きで合流した友人がびっくりしていました。その友人と一緒に、宇和島市内の道を歩いているときに振り向いた婦人が、手に240円持っていて「これでジュ−スでも飲んで下さい。」と手渡された時、彼は涙ぐんでいました。

「僕1人で普通の格好で歩いていたら絶対にこんなことはない。遍路さんと一緒にいるから、同じように扱ってくれるんだ。」と。

一度こんなことがありました。門前のおみやげ屋さんの前を通った時、店先の女性がタオルを出して「どうぞ」と言いました。私は、お店の客引き用に渡しているのだろうと思ってしまい、何か買わなくてはならないのかもしれないと警戒してしまい、断りました。一緒についた若者は、ちょっと躊躇していましたが「ありがとう」と受け取りました。「これは、ご接待ですから」とその女性はいいました。そうかと思い、アイスクリ−ムを売っていたので、帰りにタオルをもらえば良いと思い、お参りを済ましお店に立ち寄り「あのタオルをいただけませんか?」とお願いしました。「お断りします。気持ち良く受け取っていただけなかった方には差し上げません。」自分の邪心に恥じて「わかりました申しわけありませんでした。」と言うしかありませんでした。「アイスクリ−ムを下さい。」といいながら財布を出して支払おうとしましたが「アイスクリ−ムはご接待させて頂きます。」と言ってお金を受け取りませんでした。タオルは、この土地の産物で宣伝も兼ねてみなさんに配っているのだそうです。もちろん、歩き遍路さんのみとのこと。ちなみにアイスクリ−ムは200円の表示がしていました。

それからは、すすめられたものは、迷わずお礼を言って頂くことにしました。町を歩いていると「お遍路さん」と大きな声で呼ぶ声がして、走って来て「代わりにお参りして」と100円を託す人もいます。自分で作ったお守りを、待ちかまえるようにして下さった夫婦もいます。雲辺寺の急斜面の山を降りてくると、道ばたに80すぎのおじさんが、座っていて手招きをします。行ってみると、この山をのどをからからにして下りてくるお遍路さんに、これを飲ませてあげるんだと缶コ−ヒ−を準備してました。「この先も、自販機はないのでここで飲んで行け。」と。

喫茶店に入ってアイスコ−ヒ−を飲み、代金を払おうとすると、別のお客さまがご接待だからと言って払わせないこともありました。

この「ご接待」は簡単に出来ることではなく長い歴史の中に培われた文化なのでしょうか?

広島でいくら八十八ヶ所を整備したところで、もてなしの心が生まれるのだろうかと、考えさせられました。私にとって、この旅は自分探しの旅と称して出発しました。カメラも片時も話さず、チャンスをねらいましたが、お寺の建物をとるのではなく、お寺とお寺の旅の中に探しているものがあるような気がしていましたが、まさしく人情と文化。うまく写真に収めることが出来たかは、今の段階では自分自身ではよく分かりません。私にとっては一生に一度あるか無いかの貴重な旅でした。苦しい事ばかりだったかもしれません。帰りたいと思うことはありませんでした。松山を通過して今治に向かう海岸で、広島行きのフェリ−を見つけたとき「あの船に乗れば、2時間30分で宇品に着けるのにな」とぶつぶつつぶやいた一度だけでした。

旅も38番札所が全行程の距離からすると半分、ここまで来ると「ここまで来たか」という実感がわき、最後まで行かねばという気持ちになりました。実際にはまだまだ遙か彼方の終点ではあるが不思議なものです。しかしこのあたりから、人間中だるみが出てきます。自分にとっての旅の目的が揺らいで来ます。女房に言わせると、一度だけ泣きが入ったそうです。49日間、1日も休むことなくひたすら歩いて目的地を目指す日々は、大変シンプルで単純明快です。宿では、宿の人や同宿の人たちと話すことはあっても、ひとたび歩き出すと1人です。特に遍路道になると、すれ違う人は、皆無です。逆打ちと言って反対に回る歩き遍路さんはいますが、ほとんどいません。私自身、この旅の間に、逆打ちのお遍路さんに会ったのは、10名足らずでした。会っても「こんにちは、がんばって」という会話を交わす程度。暗いわずか30cm程の幅の山道を登り下りします。この時期ですから、蛇に注意して歩かなくてはなりません。標識を見損なうととんでもない山道に迷い込んでしまいます。迷っても聞く相手もいません。お遍路さんも皆、同じ方向を目指して歩いていますから、出会うことはありません。雨は、2日に1日は降っていましたから立ち止まると、体温が急激に下がり寒くなります。なんで、こんな旅をしなくてはならないのか?あんなことを言い出さなければ良かったと、ぶつぶつ言いながら歩いていました。立ち止まると、後から来るお遍路さんに追い抜かれます。出発時に何人いたかは、おおよそ分かりますから、自分がしんがりになったら大変という不安感はいつもあります。もし、山で倒れたり、崖からすべって落ちても誰も助けてはくれないのが分かっていますから。スピ−ドの早い人は、時々さっさと抜いていきます。風のごとくです。1日40km50kmを平気で歩く人たちもいます。私の基準は1日25km以内と決めていたのでゆっくり景色を見ながら現地の人と話をしながらの旅でした。特に松山を過ぎたあたりからは、ますます歩く距離が短くなりました。そうかと言って宿に到着する時間は、1日30km歩いていた頃より遅くなりました。旅を楽しむ余裕が出てきたのでしょうか。

 高野山に行って(お礼参りに行き、納経帳の最初のペ−ジに納経するため)

7月4日に広島を出発して、新幹線新大阪・地下鉄難波経由南海電車で高野山へ納経に行った。南海電車急行で1時間40分あまり、電車は橋本を過ぎたあたりから山間に入り、山岳電車のように深い谷間をぎしぎしと電車は音をたてて登って行く。極楽橋からケイブルカ−に乗り換えて5分余り。ケ−ブルカ−は急勾配を一気に1000mの標高高野山駅へ着く。高野山駅からバスで20分、奥の院へ直行。母も一緒に行ったので、車椅子を借りて参道まで行った。金曜日とあって人は少なく、ゆっくりとお参りが出来た。有名企業の供養と及び歴史で学んだ人たちの供養塔が20万基も並び、老木とあいまって荘厳な雰囲気の中を本堂に到着、白衣に着替えて線香を備え般若心経を唱えた。納め札を持って無かったが、僧呂に分けてもらった。
参道で、四国で会った歩き遍路の若者に再会した。64日かかったと言っていた。彼は、私が髭をそり傘もはずしていたので、かすかに記憶にあるがどこで会ったかは判らなかった。よく考えると私は広島を出発して以来一度もヒゲを剃ってなかったので本当に修行僧のような風体になっていたのが、ヒゲもなく普通の格好。彼も普通の格好に変わっているので分からない。ただ、お互いに歩き遍路で会ったことは判った。宿泊は、広島の極楽寺の住職に教えてもらった龍泉院というお寺の宿坊にした。なかなかの設備が施されていた。四国の多くの宿坊と違いさすが高野山だと思った。障子を開けると、教科書に出てくるような庭が待っている。食事もお膳で、僧呂が全て準備して下さる。部屋の外に出ると、わざわざ駆けつけてきて用事を聞いて下さる。5日は、6時から40分程、本堂でお勤めをしてから朝食となる。浜田屋のゴマ豆腐が絶品と聞いていたが、まさに今まで食べたことのないほどの食感と味。極楽寺の住職が「僧呂は精進料理と言いながら、毎日こんなおいしいものを食べてるとは思わないで下さい。」と言っていた。「納得」せっかく来たので、高野山を散策する事にした、母が足が悪いので、無理のない距離にした。総本山 金剛峰寺にまず行った。ここでも納経をしてもらった。多くの観光客が建物の中を見学していた。襖絵や庭など、本物のすばらしさがひしひしと伝わって来る。その後は、金堂と大伽藍を見て回った。小さな町ではあるが、歩くとなると距離がある。昼食に、ごま豆腐を頼んで食べてみたが、浜田屋の品物には、かなわなかった。お店を探して買いに行ったが、日持ちがしないので、少量だけ買って帰った。1日もすると硬くなり、味が落ちるらしい。金剛峰寺の納経所で、歩き遍路らしき若者に出会った。何故か、見るとすぐに判る。同じ雰囲気を持っているから。大抵は、88番札所を終了後、41kmある1番札所にお礼参りをして、結願する。そこから徳島港へ出て、24時間営業しているフェリ−で2時間半かけて和歌山へ行き、そこから電車を乗りついで高野山へたどり着く。その若者も白衣こそ着ていないが、疲れ果てた姿でひっそりと納経を済ませていた。まわりにいる団体や観光客とは、ずいぶん雰囲気が違う。このことは、四国を回っていても、お寺で同じようなことに遭遇した。「何日かけて回ったの」「36日です。」「早いね、私は49日。」「足が痛くて」「そうだろうね。私も歩いてるときは、そうでもなかったけれ。いったん終わって広島から出直したんだけど、なかなか身体と心のバランスがとれなくて、社会復帰に苦労してる。体中の油が切れて、ぎしぎし言ってる。がんばって!」そんな会話を交わしてその場を去った。どこから来たのかも聞かなかった。旅の中、素性はお互いに話さない。高野山に行き、身体は苦しくに辛かったがこれで、一区切りついたのか翌日の朝は、気持ち・身体が楽になった。これでやっと現世に帰れるのかもしれない。出発前から比べると、体重は4kg程度減り、体脂肪は25から15に減り、ウエストは、6cm程減りました。毎日が歩く生活で、帰った途端身体が「もう歩くのはいやだ。」とだだをこねています。旅の間、出発前からの50肩が回復しなく、カメラを縦位置に構えられなかったのが残念でした。これも今リハビリ中です。

スタジオには、旅の資料等がありますので、ご希望の方には、ご覧いただけるようにしています。連絡の上おいで下さい。082−255−1880

 

どこが辛かったかとよく聞かれる

旅でどこが一番辛かったと聞かれます。答えは「楽な所はありませんでした。」しいて言うなら、予想していなかった場所が、一番辛かったと思います。」私自身は、あえて資料などを見ないで旅立ちました。先入観を持たずにのぞみたかったのです。旅に出て仲間が出来てくると、みなさんインタ−ネットで調べたりしてものすごい情報量を持って来ていることを知りました。どこの宿が良い悪い。どの遍路道が大変か楽かなど。そして、それなりのトレ−ニングをして来ていました。関東の人が多かったように思います。丹沢のような本格的な山に行って練習した人もいました。登山部の人もいました。フルマラソンに出た人もいました。しかし、四国のお遍路さんを回るには、その要素だけではだめでした。平地しかもアスファルトの道を延々と歩く。山岳に強い人は、平地に弱い。靴もどちらに合わせたかが旅を左右しました。私なんか、ろくな練習もしなくて出発しました。1ヶ月前から、夜1時間バイパスまで歩くか、朝1時間元宇品を一周する程度。1回だけ楽々園まで11km歩いたのが最長距離でした。いきなり25km30kmですからさぞ、身体がびっくりしたでしょう。しかも、49日間一日も休憩なしですから。辛かったのは一般的に言われていた、12番焼山寺 60番横峰寺 66番雲辺寺でしょう。この札所に行く道は辛いと聞いていたので、覚悟していました。予想通りと思いましたが。案外辛いのは、話題にも上がらなかった札所への道が、思わぬ難所だった時。心と身体の準備が出来ていないので苦しく感じました。私は、坂道は余り苦にしなかったのですが、階段が永遠に続くのではないかと思われる時は絶望にも近い感覚に襲われました。

実際、1番札所を出発した時は、前後にたくさんの歩き遍路さんがいました。道に迷うこともなく、その人たちについて行けば次の札所に着くことが出来ました。最初の二日間で平地の札所11番まで行くことが出来ました。案外楽なのかなと思わせておいて、突然ばっさりと切り落とされた気分になりました。山岳地帯に入ったのです。11番札所藤井寺から12番札所焼山寺までの15km位の距離、四国遍路の最大の難所に出くわしました。登りと下りの繰り返し。これでまず、第一の脱落者が多く出ました。続いて、20番札所鶴林寺21番札所太龍寺の厳しい階段の山。やっと登ったら下り、そして次の山に登りまた下り。20番札所のある山に登るまでに15km位の歩き。そして、海岸部に出てからの室戸岬までの86km。3泊4日の間、札所はなくただ単調な海岸線をひたすら歩くだけでした。この部分は、電車バスの交通機関を使う人が多く、歩く遍路さんは、半減しました。高知市内に入ると、歩く遍路さんは半数近くになっていました。37番札所の岩本寺で帰る人も多く。ここまでは、高知に近いので交通手段が確保出来るのですが、ここから100km近い距離の足摺岬まで、また、ひたすら歩くのみ。ここが、行くか帰るかの境界線だったようなきがします。ここを過ぎると、松山まで行くしかない気分でした。足摺岬を通過して39番札所でちょうど、距離にして半分。ここまで来たら最後まで行くぞという気持ちになりました。しかし、まだ半分あるのでけがをしないよう注意するようになりました。膝の具合がよくないので、あえて難しい遍路道は避けて遠回りしても車道を歩きました。愛媛に入るころは、まわりのお遍路さんは、1日で会う人は5名程度。宿についてもほとんど同宿の人はいなくなりました。苦労して66番札所雲辺寺を通過した時、旅は終わったような気がしました。しかし、実はここからの旅の方が辛かったような気がします。札所は、結構300m程の山にあることが多く、遍路道を登って行くと急勾配が多く、傾斜角度21度という場所もありました。心の準備のないことほど辛いことはないと思い知らされました。最後の札所88番大窪寺。ここが最後の難所。宿の人に聞いても、雨が降ったら車道を行きなさい。15kmくらいだから。と言われてそのつもりでいましたが、出発の朝、快晴。9kmの距離ではあるが、女体山という760mの山の頂上を通過して行くお遍路道。誰に聞いても辛い道だと言いました。ところが同宿していた若者たちは、行くと言います。60歳で後半一緒に旅をした女性も、昨年まで車椅子に乗っていたという岸本の親父さんも行くと言い出しました。ちょうどこの日は、広島から陶芸家の香山さん旬遊の発行人である杉川さんも1日体験同行をするため、宿に着いていました。旅の締めくくりは、苦しい遍路道を歩こうということになりました。最初の5kmは平地でしたが、ここから一気に760mを登って行きました。最後は、鎖り場というか岩場をはい登ることになりました。頂上からは、今度は一気に300m程の階段道を駆け下りました。良い思い出になりました。車道を行かなくてよかったと思った瞬間でした。

お遍路仲間からきた手紙の一部を抜粋します

多くの人は、帰ってから同じような状態になるようです。現世に戻れない。四国の旅は、体力的には苦しいものでした。しかし、一方では全て自分の責任で行動しなくてはならないことが、ある種の自由と活力を生み出していました。1日の目標がはっきりしているのです。今日は、何km歩いて目標に着かねばならない。平坦な道ばかりではなく、急勾配のある300m400mクラスにある山にある札所もある。細い山道を歩きながら、蛇の出ないことを願い杖で前を払いながら歩くこともある。ずるずるになった遍路道を滑らないように下るのも至難の業。標識のない二股を選択しなくてはならない事も多々ある。しかし、全て自分の責任において決定行動しなくてはならない。間違った時は、引き返す勇気もいる。人生そのもの、そばには同行二人(どうぎょうににん)と書かれた杖がある。広島で「良いですね、ひまと金のある人は」と言われた。そんな人に言ってあげたい「そんなら金持ちは、みんな歩いているのか」

(東京の柴田さん)

藤原さんも帰ってからしばらくの間、社会復帰が難しかったようですが、小生も同様で、以前あれほど見ていたTV、新聞、週刊誌などに一切興味がわかず、ただ、遍路歩きでの道中の出来事がやたらと思い出され、でも不思議と苦しかった事、辛かった事はみな忘れ、楽しかった事、嬉しかった事ばかりが走馬燈の様に頭の中を巡り回って、美しい風景、数々のお寺の景観、民宿、旅館と次々思い浮かんできました。また、藤原さんをはじめ多くの同行、同宿した人達、道往く人々の温かい励ましやお接待の数々、良い思い出ばかりを四国で頂きました。

(名古屋の今村さん)

前略 お帰りになれば仕事など色々お忙しいことと思い住所はなるべく言わないように歩いていましたが、おもいもよらないお手紙と写真に感激しております。おじぞう様と私が山の中で融けちゃいそうな写真、あれは「実山融道」の題をつけて額に入れます。また、やじうまもたのしく拝読させて頂きました。私は、6月29日に焼山寺に行きましたが、もうこれで家に帰るんだと思うと、登りも下りもそれほど苦にならず、一歩一歩、ありがとう ありがとうという思いで歩きました。1ヶ月たって、やっともとの体にもどり、あれほど四国には、もう行かないと皆にいっていたのに、又、いつか遍路に行こうかなと思いはじめた今日このごろでございます。本当にいい思い出をありがとうございました。(この方は、60歳?くらいの女性、30番から回り始めたそうで、最後の88番あたりの宿が同じになりました。前回やじうまの中で、最後の難関女体山遍路道を行こうと言った方。焼山寺への道は、標高差1000mの14kmの遍路道では最大の難所。私は、出発3日目に遭遇しました。ここで多くの方がリタイアしました。)

札幌の落合さん)

 メール有難うございます・・結願おめでとうございます、本当にお疲れ様でした

うらやましいです!
 私は札幌に帰って暫くは何もする気になれませんでした
少しずつ体力を快復させながらの毎日です
 今年の秋か来年の春か、わかりませんが残した札所に行ってきます
本当に御苦労様でした・・・今でも皆さんとお会いできてお話できた事
などを思い出しています
では、ますますのお仕事の繁盛を願っています
時々ホームページ見させていただきます。
(落合さんは、松山まで頑張られましたが、膝を痛めてリタイアされました)
<追伸メ−ルが最近届きました>
私は残りの札所を回る為のトレーニングを始めたところです
その時には、記録など参考にさせてもらいます

(川崎の岸本さん)56歳 女房にわざわざ手紙を下さいました。
藤原きよゑ 様 満願成就まであと数日というより、ここまで来たという感じです。皆様の温かい励まし、ご接待その他多くのアト押しにより、一歩ずつ歩くことが出来ました。もう少し今まで以上にゆっくりと確実に歩きます。台風に2度梅雨の長雨、いくつかの難所、急な坂道、下山中には何度もころびました。これもあと数日で良い思い出話しになる様ガンバリます。左足の痛みは相変わらず、なんとか高野山奥の院までもってくれたらと思います。(遍路48日目 82番札所根香寺にて)

(千葉の大嶋さん)
前文略
プロの方に素人写真はいかがかと思いましたが・・・・・。また、プロの方にバカチョンカメラのシャッタ−を押していただいたり申しわけありませんでした。
中略
1番から徳島駅まで、バスに乗りましたら一寸変な気持ちになりました。文明人(?)なのでしょうか。
6月16日68歳遍路中一人で誕生日を迎えたのは初めてでありました。
追伸:家内は生きて帰って来て(当然)ほっとしています。
<藤原コメント>
大島さんは、なかなか古風な頑固一徹怖いものはなしといった方だったので、寂しかったのかなと驚きました。実は、私も5月26日一人で夜喫茶店に行き、一人でコ−ヒ−を飲みながら自分の誕生日祝いました。
数日後、岸本親子(おやじさんのアル中を絶つためにお遍路しをしている)と同宿になった時、おやじさんが「女将さん、ビ−ル4本。今日はせがれの誕生日なんだ。無礼講だ。」「おやじはだめだ」「いいじゃないか、今日はオレのご接待だ。」良いですねとしいか言えなかった。

(埼玉の守矢さん)24歳
昨日に結願し、今日無事に家に帰ることが出来ました。藤原さんも結願されましたか?まあ、写真を撮りながらなのでもう少し時間がかかってるかもしれませね。僕はこれからもう一度受験勉強をして、自分の希望する医学部へ進もうと思っています。
お元気ですか。その後ご無事でいたでしょうか。私は仙遊寺や栄家旅館さんでご一緒した者で、きくやと申します。こちら、その後はおおむね順調に進んだつもりですが、大川さんや波多野さんを探し出すことはできず、お役に立てず恐れ入ります。その後、ご連絡はつきましたでしょうか。こちらは、お陰様で、6月20日に大窪寺にたどり着くことができ、32日間で結願することができました。しかし、香川県に入る辺りから他の歩き遍路さんに会うこともほとんど無くなってしまい、終わりの4日間は誰とも全く会えず、親しくなった人の連絡先も解らないまま終わってしまい、何か、かなり寂しい旅の幕ぎれとなってしまいました。では、どうぞお元気で さようなら。

歩いています

四国歩き遍路から帰ったのが、6月26日でした。
最近やっと気分的に外出ができるようになりました。
朝、6時にスタジオを出発して広銀の横を通りバス通りに出て、御幸松を横切りメガネ橋を渡り、三叉路を右に行き、小学校に向かい一気に山を登り、尾根伝いに灯台まで行き、車道を通ってプリンスの駐車場へ下りて行き、スノバ−を見ながら、元宇品のプリンス通りを通ってスタジオに戻ります。約50分5kmの道のりです。
四国から帰った当初は、体がいやがっていましたが、1ヶ月も経過すると「歩いても良いよ」と体が言い出したので、時々歩くことにしています。
たくさんの人たちが歩いています。同じ場所ですれ違います。規則正しく歩いているのに驚きます。健康のために歩いている人もいます。ゴミを拾いながら歩いている人もいます。
挨拶をするようにしていますが「返事の無い方もいます」「おはよう」という言葉は元気無き分になります。四国では、大抵6時30から7時には出発していましたが、登校時間にあたり、小学生から高校生まで、ほとんどの子ども達が大きな声で「おはようございます」と言いました。ずいぶん励まされました。日頃おじいちゃん、おばあちゃんが話しをしているのだろうなと感心しました。文化の差なのかなとも思いました。


歩きお遍路をして何が変わりましたか?


よく聞かれます。「特別変わった事はないと思います。」と答えます。
しいて言えば、「人に優しくなったとか、気配りができるようになったのでは?」と思われるかもしれませんが実は逆です。
「まず、妙な同情をしてはしなくなりました。お遍路さんを背負って行くわけには行きません。ただ、頑張って下さい。と言って置いて行くしかないのです。その人は、自分で解決しなくてはならない現実が待っています。車に乗るか、休んで体力の回復を待つか、足をひきずってでも歩くかです。ですから努力する人には励ましの言葉を言いますが、さぼって実力を発揮しないひとや努力しない人は、ほっとくことにしました。妙な情けは、かけないことにしました。」実際に歩いてみるとまず感じるのは、全て自分が決めなくてはならないということです。誰も助けてはくれません。どの道を選んで歩くか?どこの宿に泊まるか?どこまで歩くか?自分の体力と相談しなくてはなりません。道には「苦を選ぶか、楽を選ぶかはあなたの胸三寸。」という看板があります。全行程を終了したときに、「あの時、1km車に乗ったということが、自分自身で許せないと思うから車には乗らない。」「誰も見ていないし、誰も文句は言いません。自分が許せるかどうかです。」とみんな頑張ります。もちろん結果は、自分に跳ね返ったきます。1日くらいのことなら無理をしても良いかもしれませんが50日近く毎日歩くとなると、無理したために足を痛めることは、致命傷になります。多くの仲間が足を痛めて帰りました。
そして、このたびで得た事は。「歩けば着くんだ」ということです。どれだけ自分に厳しくできるかまた、どれだけ優しくできるかで、四国の道は変わってきました。
さぼって歩けば、なかなか着かない。がんばれば早く着く。

ある日アルカディアの帰り

夜道を急いで下っているとき、女房は急ブレ−キを踏んだ。私は、シ−トを倒して寝ていたので、びっくりして起きあがって見ると、道の真ん中に生後間もない猫の子がうずくまっていた。女房は、車を道の真ん中に停めたまま下りて、抱き上げた。手のひらにのるような大きさ。「置いていきなさい」「下の町の中に置いた方がいい」という話しが出たが、結局道の側に置いて立ち去った。「家で飼うわけにはいかないのは判っているのに、よその軒下に猫をおくのはかわいそう。この先の運命は猫にまかせなさい。」という私の話を、渋々聞いた形になった。車は、速度を落としジグザグに走っていた。動揺が運転に出ているのがよく分かった。「戻ってもいいか」という問いが一度あった。「気の済むようにしてもいい。だけどどこかの家の軒下においたら、あなたが捨てたと思われるよ。この道は、確かに山道だけど、生活道路でもあるので、捨てた人もそれを考えて、夕方の帰宅時間の車が見つけやすい場所に捨てたはず。戻っても、もういない。」と確信めいた事を言った。四国で、死にそうな犬の夫婦の事を思い出した。大きな白い犬が産後の具合が悪く、ぐったりと道ばたに倒れていた。側には、茶色の犬が寄り添っていた。もうだめかなと思いながらも、私一人ではどうしようもないと思い通り過ぎていった。その後遍路仲間の孝太郎君や落合さんは食べ物を与えて行ったと知った。心に引っかかることだった。女房は帰っても、口も聞かない。結局夕食を食べるチャンスも失ってしまった。冷たい人間に見えたに違いない。しかし、少しの間助けたとして、町中に置き去りみして、野良犬にかみ殺されるよりかは、山道だからこそ拾ってくれる人がいると信じた私の考えが間違っているのかどうか自信がない。確かめに行く勇気もなかった。以前極楽寺の住職に聞いたことがある。ペットを飼っていた人が、山にうさぎや鳥を捨てに来る。自然に帰したつもりが、実は半日も生きてはいけない。
自然は厳しい。捨てた人は、そんなことを考えてもいないだろう。あの、ねこも助かる可能性は50%だと思った。女房が、つれて帰りたかったのは痛いほど判った。

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先日は、お手紙と「旬遊」を送って頂きありがとうございました。
封筒を開いて、夢中でペ−ジをめくりました。
岸本さん親子の懐かしい姿を見て、一瞬で四国の空気を思い出し懐かしさでいっぱいになりました。
おそらく自分も通った道、あんな場面があったんだなと、とても感慨深いものがありました。
お父さんの88番でのお顔がすごく良いですね。あんな笑顔は初めて見たような気がします。
また、先日は落合さんから大日寺で写った写真を送って頂き、お手紙を読み、この頃出会った皆さんの事を思い出します。
本当に皆さんとは仲良くして頂き、私達と離れた後も、ずいぶんご心配頂いたようで、本当にありがたく嬉しく思っています。
後半は仲間ができず、ほとんど一人での旅だった私にとっては皆さんのことが「良い仲間」として心に強く残っています。
「やじうま」読ませて頂きましたよ。実は私も遍路中誕生日を迎えたのです。
私は特に何もせず、毎日の修業とかわらぬ日を過ごしましたが、
何の悩みもなく、明日の事だけ考え、今日一日に疲れて眠る、とても幸せな一日を送りました。
この先もこの誕生日の事は忘れられない日となることと思います。
私は現在、毎日バイトの日々ですが、やはりいまだに遍路生活から抜けられない所があり、現世とのギャップを感じてしまいます。
四国で毎日歩き続けた日々が、今ではとても遠のいてしまったような気がします。
いつか又歩きたいと、願いをかなえるためにも、今はもう少しがんばろうと思います。
本屋へ行ってもついつい「四国」とか「空海」とか「遍路」というものに手がのびてしまいます。まだまだこの先遍路をひきづりそうな私です。
 遍路旅で出会った小倉在住の波多野律子より

きつつき/中村 9/4

ご無沙汰しています。
いつも写真やニュースを送っていただきありがとうございます。(私は宇品港の夕日の写真が一番好きです。)
きつつき作業所も6年前に法人化してからは、毎年グループホームか作業所を新しく開設し、三つの身体&知的授産施設と精神障害者の無認可作業所、3ヶ所のグループホームなど、仲間73人・職員30人の大所帯になってしまいました。
それでも、養護学校卒業生の行き場はなく、社会復帰をねがう精神障害者の行き場は全く足りない状態で、きつつきを尋ねてくる人は後を絶ちません。
一人一人が見えなくなる恐れを抱えながらともかく前を見ながらすすんでいるような毎日です。
「八十八ヶ所歩き遍路」読ませていただきました。
藤原さんの紀行文を読ませて頂いて、「これがお遍路なんだ」と初めて分かりました。
私も、23歳のころ、仕事も辞め、一生何を続けようかと考えるために、自転車で一日200キロ、テントで泊まりながら北海道へ行ったことがありますが、「歩き」と「遍路」そして年齢を考えると、今の私にはとても不可能ですね。
でも、読ませて頂いて、すれ違う人や車のあいさつや礼儀、そして「ご接待」について初めて知りました。
日々日常の中で、私も四国に住む人たちと同じような生き方をしたいなと感じました。
全く忘れしまっていた、何かとても大切なことを教えていただいたような気がします。
ほんとうにありがとうございました。

「四国八十八ヶ所歩き遍路の記憶」第2回 「こっちへおいで」

歩いていると 声がしてくる
声のしたような気のする場所を見ると 大抵、そこには人がいる
時には、野仏・地蔵もいる
気配だけの時もある
ベンチに座って手招きをするおばあちゃん
横に座ると「子どもはいるの」と聞かれた
「はい二人です」
「おばあさん、ここで何をしてるんですか?」
「うん、遊んでるの。」
懐かしさが押し寄せてくる
子供の頃、かわいがってくれたおばさんを思い出す。
孫のように、いつも気にかけてくれていた人。
今は、どこに墓があるのかも判らない。
思わぬところで逢えた

港劇場(映画館)に勤めていた飛田さんという人がいました。
飛田さんには、子供の頃から大人になってからも孫のようにしてかわいがってもらいました。ふと、思い出しました。

お接待とご接待

<友人からの便りをHPに掲載しました>

私は毎日新聞を購読しています。今朝の新聞に小林洋子さんと言うコラムニストの人が書いている記事を読んで小林さんは「お接待」と「ご接待」の違いを書かれていました。
小林さんは区切りで歩き遍路をされています。
藤原さんの遍路日記では「ご接待」という言葉を使われていましたよね。
私は自分では「お接待」と言うので藤原さんは「ご接待」と言う言い方をされるのだなあ・・・と思いました。
新聞の記事です。
四国には「お接待」という美しい風習がある。お遍路さんに地元の人たちが飲み物や食べ物、さい銭、小物等を提供してくれる。(中略)
休日あけに職場の若者にその話をすると「おー酒池肉林ですか。で、何の要望付きのご接待で?」
ああ、心貧しき都会の若者よ。
何のためとか、見返りとか、キミらは「戦略」と称してすぐにそういう事を言いたがるが、世の中無償の行為もあるのだよ。「お接待」と「ご接待」とは違うのだ。四国へ行け!心を洗って出直してこい!と言うコラムを書かれていました。
私はただ、言い方が違うだけと思っていたのですが、小林さんのコラムを読んで、そうなのかな?って思ったので、さしでがましいですが、メールさせて頂きました。

<HPを見た友人からの便りです>

確かに!私も四国人間ですから、子供のころから「お接待」のハシゴをしていました。
何度も長い石段を登っては並んで駄菓子を戴くのです
数名の子供ですから、先方は百も承知で・・・・それでも「ご苦労様」と言って紙に包んでくれました。
唯一、おやつのお下げ渡しの場所でした。
小林さんの言われるご接待とお接待の違いは理解出来ます。ご接待は、今日的には、やはり戦術として用いられる言葉の感じですね。何らかの目的を腹に忍ばせて、ご招待する感じが読み取れます。
といっても、「お接待」その物の言葉が既に死語化している時代かも知れません。
それだけ受け取り手の懐が狭くなったということですが。
「お接待」はする側、ご接待」は受ける側という感じを語感から私は感じるのですが、「お」と「御」の読み替えが出来なくなっているのでしょうか。
本文から推察するという、日本人の美意識が希薄になってきたのかメディアと言う一方通行の弊害なのか、目から頭に短絡的に繋がって行く時代なのでしょう。
使用した人が、どんな気持で用いたかをくみ取る事を推測して「御接待」を「おせったい」と読めない寂しさ。
本来これは「ごせったい」ではありません、あくまで「おせったい」なのです
でも、「御招待」と書いて「お招待」とは読みません、これこそが日本人の美意識だと思っています。
私たちの年代は耳から入ってきたものや目から入ってきたものを一旦心を通して読み替える習慣がありますが・・・・
「御」を「お」と読めない所にその人なりの人生経験や人となり、懐の深さなど、昔の日本人なら誰でも等しく受けていた英知であり、思いやれる温もりの部分なのですが・・・・
御接待と聞くと、へりくだった手モミの商人姿が連想される感じの時代なのかも知れません。
お接待は本当に美しい言葉であり行為であり、宗教心や信心の深いところから生まれた行為ですから・・・・
言葉は風化して行きます。
それが新しいと勘違いしているメディアを操作しているのもまたこれらの年代ですから。
美しい言葉や、行為を伝える行動も必要な未来への継承するべき遺産だと思います。