かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?

2011年9月22日 (木)

池田信夫氏が、「脱原発という『空気』」で重要な指摘をしています。http://agora-web.jp/archives/1382641.html

 「最近の原発をめぐる異常な空気は、昔どこかで見たことがあるなと思って、山本七平の『「空気」の研究』を読みなおして驚きました。この本の主題は日本軍の空気ではなく、この本の出た1970年代の日本の空気、特に公害問題をめぐる政治的な空気なのです。

 当時、学生だった私にとっては、文春や産経にしか出ない山本は、マイナーな「右派知識人」でした。彼の日本軍についての詳細な分析には感心しましたが、軍を憎む彼が平和を唱える左翼を批判するのには違和感を覚えました。しかしよく考えると、かつての日本軍の体質を戦後に継承していたのは、「革新陣営」だったのです。」

 山本七平は、あれだけ峻烈な日本軍隊論を書いているのに、なぜ、同じように日本軍を批判し、その反省の上に立って戦後の平和論を説いている左翼を批判するのか、といった疑問。案外こういった感想を持った方も多かったのではないでしょうか。しかし、逆の見方をすれば、左翼は山本七平の日本軍隊論から多くを学び取ることができるはずなのに、なぜ、彼を執拗に攻撃するのか、といった疑問にもなります。当時の私の印象としては、後者の方が強かったですが...。

 いずれにしても、当時山本七平が語っていたことは、戦後的な意味での「左翼・右翼」の枠組みで捉えられるものではありませんでした。その思想的立場は、先に紹介した氏の「『是・非』論と『可能・不可能』論」の中でも、次のように表明されていました。

「確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。」

 日本の敗因を考える場合、今日でも、「東京裁判史観」の影響や、中国や韓国による歴史観の強要、あるいは迎合といった問題があります。しかし、山本はそういったものからは全く自由で、一下級将校としてのフィリピンでの戦争体験をもとに、氏独自の視点で、日本の敗戦の原因を考え続けたのです。

 彼が、そのことを世間に問うこととなったのは、これは本人の弁によれば全くの偶然の産物で、岡本公三のテルアビブ空港銃乱射事件や、横井さんや小野田さん(「小野田少尉に日章旗と白旗を」)がジャングルから出てきたことがあって、文春に記事を求められ、断り切れずに書いた。(「山本七平の不思議2」)その最初の記事が「なぜ投降しなかったのか」(「テルアビブの孝行息子たち」としていましたが間違いでした。)で、昭和47年、氏が51歳の時でした。

 ということは、戦後27年間沈黙していたわけで、その間、何をしていたのかというと、「現人神の創作者」を探索していた」といっています。その成果が『現人神の創作者たち』(「あとがき」参照)で、そうした探索の過程で、日本の敗戦の原因についても、数々の発見をすることになったのです。どなたかの”歴史に名を残す”生き方とは無縁ですね。

 では、次に、池田氏が指摘しておられる「戦後革新陣営が継承したと思われる日本軍の体質」について、山本七平はどのように考えていたか紹介しておきたいと思います。先に指摘した「是・非」論と「可能・不可能」論の区別ができないというのは、日本人の一般的傾向ですが、氏が指摘していたかっての日本軍特有の考え方とは、次のようなものでした。(以下、山本七平著『存亡の条件』参照)

一、「自分たちは被害者」という自己規定

 〈″軍は加害者″は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。しかし私が入隊した昭和十七年、いわば”勝った勝った”の絶頂期ですら、彼らは被害者意識の固まりであった。まず、前に述べた軍縮による四個師団廃止である。彼らはこれを外圧と受けとっていた。・・・

 現実問題としては、軍縮は軍人への”首切り”、師団駐留地の”基地経済の崩壊”を意味するから、現在における「国鉄の人員整理」よりはるかに難問であったろう。幕末以来、こういう問題はすべて外圧として処理され、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」という「内心の解決」にその最終的解決を求めたのは、伝統的に今も通用する当然の処置といわなければならない。

 だがこれは(昭和になると)「堕落政治家と軟弱外交のため、戦わずして四個師団が殲滅された。」そのため軍は不当な犠牲を常に強いられてきた、という強烈な被害者意識となり、昭和十七年当時ですら、いわば一種の「軍隊内常識」であった。従って彼らは、すべての責任をこの点に転嫁し、日華事変でもノモンハン事件でも、その失態はすべて「政治家が悪い」のであって、軍の責任ではない、という自己正当化に生きてきた。

 同時にこれは国軍を統率する天皇が”股肱”を失ったことであり、従って、天皇こそ最大の被害者と規定された。彼らは自らを被害者とし、かつ被害者=天皇の側に立ったわけである。〉  

二、殉教者自己同定と”見えざる牢獄論”、その獄卒=加害者の責任追及

 〈次に・・・まず維新の志士を殉教者に見立て、これと自己を同定化するとともに「皇室=見えざる牢獄論」いわば「天皇囚人論」をとり、同時に全日本人が”見えざる牢獄”にあると規定した。この間の彼らの考え方が最も的確に表れているのが、二・二六事件の将校の言動である。(張作霖爆殺事件の河本大作や永田鉄山斬殺事件の相沢三郎さえ”殉教者”扱いされていた=筆者)〉

 〈確かに維新以前には、朱子学的思想からすれば、天皇は京都の「見えざる牢獄」におり、これを”解放”して政権の座にすえることが彼らの目的であったろう。だが、昭和の時点では、天皇は立憲君主制の統治者であり、牢獄にいるわけではない。否、それだけでなく、彼らの指揮官である。しかしそう規定したのでは、彼らは喜劇役者になり、殉教者自己同定は成り立たない。したがって、お定まりの通り昭和の天皇も同様に牢獄にあり、そのため、全日本人か牢獄にあると規定せざるを得ない。〉

三、自己無謬性の主張と無謬性の寄託現象

 このような彼らの「殉教者自己同定」の基礎にある考え方は、”自分は正しい”という自己無謬性の確信であり、従って、彼らはますます、「自分は正しい、社会は悪い」と感じ、そう主張せざるを得なくなる。この悪循環は、最終的には、無謬性の寄託現象で切り抜けるより方法がなくなるのである。

 こうして〈一定のグループが、自己の無謬性を、ある団体もしくはその代表者乃至は象徴に寄託して、その象徴と同じ言葉を口にし、その象徴に従うことで結合する。こう結合すると、その集団は無謬で、他はすべて誤っていることになる。いわば、「私は正しい」から、「われわれの集団は正しい、われわれ以外の社会は間違っている」という形になるのである。

 戦前はこれが、仝国家的規模によって行われた。いわゆる大正自由主義時代のプロテスタント病的傾向(各人が”自分は正しい”と主張することで、社会全体の秩序が乱れること=筆者)を、「自由主義」排撃の名のもとに、天皇への無謬性寄託という形で排除しようとした。この中心となったのが軍部〉であった。

 〈そして、これが極限まで進むと、「日本は正しい、世界は悪い」という形になり、その表徴である天皇は無謬ということになるのである。これは、図式として記せば、自己の無謬性を天皇に寄託し、その寄託した天皇の「聖旨を体して」行動することによって、自己が無謬となるわけである。〉

 ところが、「天皇は無謬であり、その大御心があまねく民に降り注げば、彼らが理想とする平等社会が実現するはず」なのに、現実の社会はそうなっていない。これは、天皇周辺の奸臣がそれを邪魔しているからで、従って、それを排除しなければならない、というふうに考え、天皇周辺の重臣へと攻撃が向けられた。

 もう一つのやり方は、無謬性を寄託したのだから、それと自己の無謬性との誤差は、内心の問題として処理してしまう方法である。ただ、このやり方は、その解決そのものが一種の自己義認となるので、その新しい自己義認は、古い無謬性寄託集団を解体さすか、変容さすかして、新しい無謬集団の形成へと進む。

 ここで過去とは完全に断絶するが、その断絶期間は、原初の形すなわち「私は正しい、社会は悪い」にもどる。そしてそれが自己義認の新しい寄託先を求めて、新しい社会的統合へと進み出すのである。(左翼の場合は、戦後、スターリン、毛沢東と、その寄託先を求め次々と”裏切られ”ていったことは周知の通りです。=筆者)*下線部修正9/24

四、自己無謬性の時間的・空間的〈現在〉への偏執

 以上のようなやり方は、〈六〇年安保のみでなく、戦後一貫して行われてきた、否、戦前からずっとつづいている一つの循環である。われわれは、プロテスタント文化に接触して以来、ほぼこの形態をとりつづけてきた。そしてそれは外部から見れば、考えられぬほど、徹底的な転換を行う社会と見えた。従って、日本人が何を考えているかわからないという批評が出ても不思議ではない。

 一億玉砕から、一気に無条件降伏、平和国家へと転換し、また最近では、高度成長から一気にまた逆転した。この転換を外紙が「本能的」と呼んだのは、それ以外に批評の方法がなかったからであろう。いわば、どう見てもそれは理論的とは見えないが、この方法によれば、実に的確に過去を切断して切り捨てられるのである。

 この無謬性主張は、空間的な自己集団の無謬性主張だけでなく、時間的な区切りによる「現在の無謬性主張」という形もとる。戦時中の人間にとっては、現在の自分は無謬であり、その体制になる前の大正期から昭和初期の自分は誤っていた如くに、戦後の人間にとって、現在の自分は無謬であり、戦争中の自分は誤っているのである。

 従って、反省とか批判とかいった場合、「現在の自分は正しい、その正しい自分から見ると、過去は正しくなかった」という形になり、その反省、批判はすべて、現時点の自己義認の形をとる。そしてその形をとるために、過去を再構成して、現在の自分の無謬性主張の裏付けをすることはあっても、過去と現在を双方共に可謬性のあるものとして、これを対比することはしない。

 これは、現在の自己および自己所属集団と他を、共に可謬性あるものとして対比できないのと同じである。もちろん、可謬性を認めれば、自己義認はできないから、これは当然の結果であろう。〉

 つまり、以上のような、「自分たちは被害者」という自己規定から出発して、「殉教者」と自分を重ね合わせ、社会全体が”見えざる牢獄”に置かれていると見て、その獄卒=加害者の責任追及を行う。当然、その責任追及を行う自分は「無謬」で、さらにその「無謬」者間の矛盾を解消するため、ある絶対者に「無謬性の寄託」を行う。それによって現在の自己を無謬とし、過去の無謬は切り捨てる、といったやり方。

 こうした、かっての日本軍、とりわけエリート青年将校たちに見られた体質を、戦後最もよく継承しているのが「革新陣営」だった、ということは、私も確かにいえると思います。スターリンや毛沢東、金日成と次々と無謬性の寄託対象を変え、それができなくなってからは、人権、環境、原発と無謬性の寄託対象を次々に変えてきた。もちろんそれぞれ重要な課題ではあるわけですが、それを物神化し冷静な科学的議論を封じてきたそのやり方は、かっての軍人のやり方と変わらない、ということです。

 では、こうした状態から脱却するためにはどうしたらいいか。

一、対象を対立概念で把握すること。そのためには、まず、人は「善人」でも「悪人」でもなく、「善・悪人」であると知ること。

 〈この(「善・悪人」という)考え方は、基本的には、人間を対立概念で把握するということであり・・・人間は、善悪という対立概念で一人の人を把握しているとき、その人はその人間を把握している。だがこのことは、人を、善人・悪人と分けることではない。もし人を、善人・悪人に分類してしまえば、それは、その各々を対立概念で把握できなくなってしまう。〉

 さらに、一人格を善悪という対立概念で把握すると共に、それと社会との関係も、いわば法王と皇帝の関係に見るように、精神的秩序と政治的秩序の対立概念で捉える必要がある。つまり、この両者が「全くの相互不干渉で、車の両輪の如くなっている世界である」。日本の場合は、この「対立した諸相を無意識のうちに捨象して、たとえ虚構でも、対立なき『一枚岩的対象』と見たがる」傾向がある。

 しかし、日本の歴史をよく調べてみると、特に鎌倉時代以降江戸時代までは、この精神的秩序=文化的秩序と政治的秩序を分立している。これを天皇中心の一元的国家体制に作りかえることで明治維新は成功したが、明治新政府が採用した政治システムは立憲君主制であり、これは、精神的秩序を象徴する天皇と、それを輔弼する形で実質的に政治権力行使する政府との二権分立構造となっていた。この辺りを指摘したのが『日本人とユダヤ人』でしたね。

 ところが、この精神的秩序を宣明した教育勅語が想定していた政治体制は、朱子学導入以降の日本儒教の到達点である「天皇を宗主とする家族的国家観に基づく天皇親政」を前提としていました。そのため、立憲君主制下の機関説的天皇制と矛盾することとなり、ついに、昭和に至って、教育勅語の想定する天皇親政が、明治憲法下の立憲君主制、そこにおける政党政治や議会政治を排撃することになったのです。

 ただ、国家目標が、西欧の近代国家をモデルとする”追いつき追い越せ”の時代には、この矛盾は露呈しませんでした。しかし、軍が、政治に対して不満を持つようになると、上述したように機関説天皇を”見えざる牢獄”と見なすようになり、その獄卒である「君側の奸」を排除することで、天皇を”解放”し、それによって、一君万民平等社会を実現しようと考えるようになったのです。

 もちろん、こうした考え方は皇道派青年将校に特徴的に見られたもので、結果的には、彼らの部隊横断的「脱藩」行動が、軍の統制を乱すものと見なされ、統制派の弾圧を受けるようになりました。といっても、統制派青年将校たちが別の思想を持っていたというわけではなく、天皇機関説を排撃し、天皇と自分たちを統帥権で結ぶことで、天皇中心の高度国防国家を建設しようとしていた点では同じでした。

 ところで、先ほど紹介した、日本のより伝統的な二権分立的象徴天皇制と、教育勅語に規定された家族国家観に基づく「現人神」天皇制とは、どういう関係にあったのでしょうか。

 この問題を解明したのが、先ほど紹介した山本七平の『現人神の創作者たち』です。その元々の起源は、明末に日本の亡命してきた朱舜水らが持ち込んだ朱子学的正統論にあります。それが、山城の国の一領主に押し込められていた天皇を、倒幕の象徴へと祭り上げていく、その壮大なドラマ・・・なにしろ、この尊皇イデオロギーによって明治維新が成ったのですから・・・。

 で、問題は、この明治維新を成功に導いた尊皇イデオロギーと、明治新政府が導入した立憲君主制との思想的な矛盾対立がなぜ精算されなかったか、ということですが、先に述べたように、西欧をモデルとしていた間は、むしろこれが和魂洋才という形でプラスに働いたということですね。

 つまり、前者の儒教的「自己抑制」倫理観と、能力主義的かつ合理的な近代国家建設の歩みとがうまくかみ合って、急速な近代化を達成することに成功したということです。だから、この矛盾の持つ問題点が修正されなかったのです。しかし、一応近代化に成功し、今までモデルとしてきた西欧諸国との利害対立が生まれてくると、独自の道を模索せざるを得なくなる。

 折しも共産主義思想や国家社会主義思想が世界的な流行を見るようになり、中国では反帝・反日運動が活発化し、日本の中国における権益は危殆に瀕するようになった。一方国内では、大正デモクラシーのもと「プロテスタント病」の様相を呈してきた。また、第一次大戦後の戦後不況に関東大震災、金融恐慌が重なり、国の財政状況は一層厳しくなり、先ほど述べた大がかりな軍縮も行われ、軍人の不満は高まり、「十年の臥薪嘗胆」という言葉も生まれるようになった。

 一方、世界の軍事状況は第一時代戦後総力戦の時代に入っており、政治と軍事を一体的に運営しなければならない時代になっている。ところが、こうした危機的状況を前に、政府は国際協調主義を掲げて有効な対策がとれない。また政党政治は腐敗し、資本家は富を独占し格差は拡大している。国内では金解禁の失敗もあって不況は一段と深刻化し、農村不況も身売りをするまでになっている。また、世界恐慌で資本主義経済は破綻し、先進国は次々とブロック経済に走り、このままでは日本の生存さえ危ういく・・・。

 まあ、歴史の解説はこれ位にして本題に戻りますが、このような危機的状況下で日本的一君万民平等主義を説く尊皇イデオロギーが復活し、それがさらに強化されて「現人神」天皇制イデオロギー――左翼の人たちが理解している「天皇制」はこれで、それが生まれた思想史的系譜を知らないために、これを天皇制の本体だと思っている――として、軍主導の高度国防国家を支えることになったのです。

 この思想は、忠孝一致の家族的国家観に基づく「天皇親政」を理想としていましたが、昭和の軍人は、その頂点に立つ天皇を偶像化=神格化し、その天皇と自分とを結びつけることで、絶対的権力を行使しようとしたのです。戦後は、この天皇をスターリンや毛沢東に置き換え、それと自分を結びつけることで、社会に対する絶対的発言権を行使しようとした人々が沢山いましたね。

 しかし、このような最高権力者の偶像化=神格化を行うと、これに対する批判は一切許されなくなる。この点、旧約聖書を見れば判りますが、そこに書かれた指導者像は、モーセにしてもダビデにしても、実に見事にその神格化が排除されていて、彼らは「善」だけでなく「悪」も備えた不完全な人間であったことが、そのまま記録されています。

 そうすることではじめて、その歴史的な一人物を歴史的背景のもとに捉えることができる。それと自己とを相対させることで、現在の自己を歴史的に把握することができる。それによって、進むべき新たな道を模索する手がかりを得ることができる。だから、その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」というのです。

 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

 確かに、こうした生き方は、先進国をモデルとして、それに”追いつき、追い越せ”でやってこれた時代には、大変効率的な生き方だったといえるかも知れません。しかし、そうしたモデルを喪失した時代では、まず、「仮定のモデル=前提」を立てることから始めなければならない。そしてその「仮定のモデル=前提」をより正確に把握するためには、それを偶像化してはダメで、それは対立概念によって把握するよう努めなければならない。

 このようにして把握された「仮定のモデル=前提」を、これも「仮定の方法論」によってつなぎ、試行錯誤を繰り返しながら新しい道を探し、そして誤るのを当然と考え、誤った場合は、それを記録し、それとの対比の上で次の新しい「仮定のモデル=前提」を立てる。これを繰り返すことで、一歩一歩、未来を切り拓いていく。日本が生き延びるためには、こうしたことができるようにならなければいけない、と山本七平はいうのです。

 福島原発の事故も、こうした先進国のモデルなき歩みのなかで犯した、「起こりうる過ち」の一つと考え、その克服の道を模索しなければならないのではないでしょうか。後進国は、それをモデルとすることで、同じ過ちを犯さないで済むわけですから。