小野田少尉に日章旗と白旗を
小野田少尉の話が出てきたところで、その救出にあたって山本七平がどのような役割を果たしたかということについて紹介しておきます。 1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、部下(赤津一等兵:1949年投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルパング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。その為、日本では1945年9月に戦死公報を出される。 1950年、フィリピン ミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。復員省では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。 1951年、赤津勇一元一等兵が帰国する。残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定な為救出活動は行えず。 1954年、フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。島田庄一元伍長の遺体が確認される。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。 3月9日に嘗ての上司である谷口義美元少佐から任務解除命令が下り、小野田にとっての戦争は終わった。翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。こうして小野田は30年の戦いを終え、3月12日帰国を果たした。(以上Wikipedia小野田義郎より) 山本七平はこの情報は確度が高いといい、従来のような救出方法(「戦争は終わりました。出てきてください」と叫びながらジャングルの中を歩き回ったり、小野田氏のお兄さんが捜索に向かい、本人であることを知らせるため、旧制一高の寮歌を歌ったりして、彼らを信用させようとした)では絶対だめだとして、次のような考え方とその救出方法を提言しました。 「未だに敗戦を信じないのはおかしい」という人がいれば、それはその人が国家間の戦闘状態の終結と、小部隊の戦闘状態の終結とを混同しているに過ぎない。小野田元少尉に関する限り、47年10月19日にジャパニーズヒルでフィリピン軍と銃撃戦?を行い、部下の小塚さんが戦死しているのだから、そのときもなお現実に戦闘状態であって、彼自身に関する限り、この状態に根本的な変化があったという確実な保証は、何一つ提示されていないのである。 前にも述べたことだが、・・・”戦後神話”に基づく発想からする対策は一切無意味であり、やる方の一人よがりにすぎないことである。「天皇が直接語りかけたら」とか・・・いう発想がその一例であって、天皇が指揮系統を跳び越えて前線の一少尉に直接語りかけるなどということは、日本軍では空想もできないことである。日本軍では「上官の命令」が直ちに「天皇の命令」であるから、小野田少尉の言っている通り、直属上官の命令か指示があれば、必ず出てくる。従って、原則的にいえばそれだけ伝えれば十分なのである。 では、どのようにして「終戦」を伝達するか。これは「戦争法規」に基づいて行えばよい。日本軍は、戦後はまるで「ならず者集団」のように描かれているが、実際は一つの法規を持った組織すなわち正規軍であり、小野田少尉はその幹部だから、そのように対応すればよいのである。 彼は自分が戦闘状態にあると信じており、また彼自身にはそう信ずべき理由があるのだから、この戦闘状態を一時停止して「話合い」を行おうというのなら、こちらから出向いていくのは銃器をもった討伐軍ではなく「軍使」のはずである。従ってフィリピン軍の援助は鄭重に辞退すべきであろう。軍使は必ず、自国旗と白旗をもつ。白旗は、戦後、降伏のしるしと誤解されているが、それは使用法の一例にすぎない。 白旗については、特権だけでなく、「歩哨の一般守則」として、次の点は兵士まで徹底して教育されているはずである。すなわち「白旗ヲ掲ゲ遠方ヨリ軍使タルヲ表ワスモノト降参人トニ対シテハ敵トシテ取扱ワズ、歩哨線外ニ之ヲ止メ・・・」と。小野田少尉はこれを知らないはずはない。 従って、彼のいると思われる地点に、日章旗と白旗をもった人間が一人か二人で入って行き、「動かず」に、根気よく待てば、それで十分である。大勢で押しかける必要は全くない。・・・(出てきたら)次に食料と医薬品を即座にその場で渡すこと。これは「百の説法」より効果がある。・・・相手が自分たちの身体や健康状態にまで気を配っていると感ずることは、敵対関係ではないという証拠であり、何にもまさる強い信頼感を抱かせる。」 |