山本七平の不思議2

2007年3月20日 (火)

 山本七平が『日本人とユダヤ人』を出版したのは氏が49歳の時でした。氏がフィリピンの捕虜収容所から無事帰還し佐世保に着いたのは昭和21年12月31日(入営は昭和17年10月1日)25才の時ですから、それから23年が経過していました。この間特に自分を売り込むと言うこともなく沈黙を守り、また、この『日本人とユダヤ人』も前回のエントリーで紹介したように特別売れると思って出版したものではなかったのです。

 ところが、『日本人とユダヤ人』出版以降、イザヤ・ベンダサン名の評論が次々と雑誌に発表されるようになりました。最初は『諸君』昭和46年5月号に掲載された「日本教について‐あるユダヤ人への手紙」で、昭和47年10月号まで15回の連載となりました。この9回目の「朝日新聞の「ゴメンナサイ」」が契機となって本多勝一氏との論争になったことは周知の通りです。 これは連載終了後の昭和47年11月25日に『日本教について』という書名で単行本化されました。

 そして、昭和47年1月、グアム島のジャングルで横井庄一軍曹が発見されたことについて「なぜ投降しなかったのか」という見出しの評論が山本七平名で掲載(『文芸春秋』47年4月号)されたことを初出に、さらに、同年8月号から「岡本公三を生んだ日本軍内務班 私の中の日本軍隊」という、後に『私の中の日本軍』として単行本化される連載記事が『諸君』に掲載されるようになりました。

 結局、イザヤ・ベンダサン名での評論記事は『文藝春秋』昭和52年8月号の「参議院、あまりに日本的な」をもって消滅しますが、この間、約5年間はイザヤ・ベンダサンと山本七平が平行して評論文を発表していたのです。もし、山本七平がイザヤ・ベンダサンだとすると、山本七平は最も多い時期には月に80枚のペースで原稿を書いていたことになるのだそうです。(『戦後日本の論点』高澤秀次p44)

 この間の事情について、山本七平は次のようにいっています。
「──このへんで、山本さんに関して読者や私たちが一番知りたいことをお聞きしていきますが、今までのお話で、他の人が書いたものを翻訳したり出版したりしてこられて、そのうちだんだん、批評もしていきたいという誘惑にかられたのではないかと思われるのですが、いかがですか。

山本 なんの批評ですか。

──いま、『文藝春秋』や『諸君』にお書きになっているような・・・。

山本 これはもう、私のほうから質問したいくらい奇妙なことでしてね(笑)。ああいうものを書き始めた動機は、これまた、きわめて偶然なんですよ。いままで、何か書いてくれっていわれても、絶対に引き受けなかったんです。私の仕事じゃないからって。そういうことをやる気は全くありませんでした。従って、まあ同人雑誌といったような、文学修行的な経験は全くありません。書いたものといえば、自社の広告文だけです。従って、何かを初めて書いたといえば『文藝春秋』のわけですが、それもつまるところ、締切の前日にグアム島の横井さんが出てきた。それだけの理由なんですよ。私が書くようになったのは・・・(笑)。月刊誌というのは、その時締め切っちゃうと、あとは翌月になるでしょう。ニュース性が全然なくなってしまう・・・。それで、なんでもいいから、ジャングルの中の生活体験みたいなものを二、三十枚、すぐ書いてくれって、いやおうなしに頼まれましてね。”横井さん、へんなときに出てきて困る”ってわけなんです(笑)。あんまり言われるので、じゃ、しょうがないっていうんで書いたんですがねえ。

 『諸君』のほうはもっと変なことで(笑)。あれも締切の前の日かその前の日かに、テルアビブの事件が起こりましてね。”この前『文藝春秋』にジャングルの中のことを書かれたけれど、こんどはテルアビブ事件の背景みたいなものを『諸君』に書いてください”っていうんです。しかたなしに書いたんですが、そしたら面白いから続けて書いてくれって言われまして、三回連載しました。そのあと、南京の『百人斬り競争』ですか、あれを鈴木明さんが解明されましたでしょう。これは非常にいい資料を集めて書いたものなんですが、鈴木さんは軍隊経験がないので、せっかくのいい資料がちょっと使い切れていない感じだったんです。それで、鈴木さんにこう助言してくれってたのんだんです。”これはこういうことじゃないか、軍人がこう言った場合は、こういう意味です”と・・・。彼ら独特の言い方がありますからね。そしたら、それを書いてくれっていわれましてね。とうとう十七回で七百枚にもなっちゃったんですよ。ただ、この問題については相当積極的な気持ちもありました。というのは、これ大変なことなんです。新聞記者がボーナスか名声欲しさに武勇伝など創作する、これは架空の『伊藤律会見記』などの例もあるわけですが、この『百人斬り競争』の創作では、そんな創作をされたために、その記事を唯一の証拠として、二人の人間が死刑にされているんです。──極悪の残虐犯人として。しかもその記者は、戦犯裁判で、創作だと証言せず、平然と二人を処刑させているんです。しかも、戦後三十年「断固たる事実」で押し通し、それがさらに『殺人ゲーム』として再登場すると、これにちょっとでも疑問を提示すれば「残虐行為を容認する軍部の手先」といった罵詈ざんぼうでその発言は封じられ、組織的いやがらせで沈黙させられてしまう。そういった手段ですべてを隠蔽しようとするのでは、この態度はナチスと変わらないですよ。そのことは、いまはっきりさせておかねば、将来、どんなことになるかわからない。基本的人権も何もあったもんじゃない、と感じたことは事実です。それだけやれば、私は別に、文筆業者ではないものですから、もうこれでやめたと、一旦やめたんです。そう言っておしまいにした時に小野田少尉が出てきましてね(笑)。これも締切の直前(笑)。しかも税金の申告の五日前ですよ。もうちょっと遅く出て来てくれればねー。」(『人生について』山本七平p197~199)