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山本七平の戦争(徴兵検査から復員まで)

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引用文献:『私の中の日本軍』、『ある異常体験者の偏見』、『一下級将校の見た帝国陸軍』、『なぜ日本は敗れるのか』、『洪思翊中将の処刑』 なお、トピックのリンク先の引用ページは、三部作については「山本七平ライブラリー」によります。(なお、トピックの引用文掲載は著作権者の許可を得ています。)

元号年 月日(日本時間) 戦歴 トピック(リンク)
昭和
16年
12月8日
AM 2:00
AM 3:19
AM 4:20
日本軍マレー半島上陸開始
日本軍ハワイ真珠湾空襲開始
対米最後通牒手交
 
12月10日 マレー沖海戦で日本海軍はイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパルス撃沈  
昭和
17年
1月2日 日本軍フィリピン首都マニラ占領、軍政布告  
2月15日 日本軍英領シンガポール占領  
3月8日 日本軍英領ビルマ首都ラングーン占領  
3月9日 インドネシアオランダ軍日本軍に無条件降伏  
4月 山本七平、青山学院高等商業学部卒業6月繰り上げ決定  
4月8日 米軍機による本土初空襲に衝撃を受け、日本海軍ミッドウエー島攻略決定  
5月1日 日本軍ビルマ北部マンダレー占領(援蒋ルート遮断のため)、南進侵攻作戦一段落  
5月7日 ニューギニア沖珊瑚海沖海戦、双方空母1隻失う  
6月 徴兵検査、第2乙種合格 衛生兵・徴兵逃れ
徴兵検査
大に事える主義
6月5日 ミッドウエー海戦開始、日本海軍主力空母4隻を失う  
8月7日 米軍ガダルカナル島とツラギ島に上陸(日本軍戦死者24,000内1万5,000は戦病・餓死による)  
8月8日 ソロモン海戦開始、その後三次にわたる海戦で制空・制海権アメリカ軍に帰す  
9月21日 山本七平、青山学院高等商業学部卒業、大阪商船入社一週間後休職辞令  
10月1日 東部一二部隊近衛野砲三聯隊に入営、肋膜炎既往症のため「特別訓練班」に入る。砲手として訓練受ける。 私的制裁
昭和
18年
2月  一期の検閲、幹部候補生試験合格  幹部候補生試験
保護兵
2月15日 豊橋第一予備士官学校砲兵生徒隊十榴中隊第一区隊入学、観測通信班 欠、欠、欠
6月 測地の演習中足を滑らせぎっくり腰になり5日間入院  
8月  教育訓練が対ソビエト戦から対米戦主体の「ア号教育」に転換  ア号教育
日本はアメリカと闘うつもりはなかった
10月14日 比島独立。この際日本軍は捕虜全員釈放  
12月25日 予備士官学校2月繰り上げ卒業、聯隊復帰 臨時軍事費
昭和
19年
1月 新規召集兵入隊、観測手教官をつとめる  
2月1日 米軍、マーシャル群島上陸、クェゼリン、ルオット島守備隊全滅  
2月 富士で射撃練習 たまほりさん
4月 動員令下り、本部要員となり出発準備  
5月29日 門司で輸送船「玉鉾丸」に乗船 地獄の輸送船
6月11日 バシー海峡通過 バシー海峡
6月15日  マニラ上陸、この日サイパン陥落 戦場に入るということ
ジャングル内の陣地構築
7月1日 バギオでの師団編成会議に出席 一枚のハガキ
8月12日 東京の自宅にハガキ届く 軍国調美辞麗句
9月8日 カバナツアンからアルカラまでアパリ憲兵隊長N大尉の車に便乗  
9月末 バギオの司令部に観測機材の不足、砲弾輸送が不可能なことを訴えN少佐参謀から「キサマ、それでも砲兵か」と罵詈讒謗を加えられた。 気迫という名の演技
10月1日 沖縄、宮古島沖米空母艦載機延870機来襲  
10月11日 第十四軍方面軍司令官、山下奉文作戦計画ルソンで地上決戦  
10月15日 沖縄沖決戦  
10月18日 レイテ沖米艦隊出現、上陸開始、日本軍はレイテ決戦を呼号  
10月19日 米軍、レイテ上陸  
10月22日 山下奉文司令官に南方総軍司令官寺内正毅元帥よりレイテ決戦命令、フィリピンの兵力12万の内3万がレイテに  
11月 指令部に呼ばれガソリンの二重受給の件調査される 組織の名誉と信義
12月23日 レイテ戦に兵力抽出した補充として、満州より野砲兵第十聯隊第三大隊第十中隊がゴンザカ東方に上陸 歩兵、地獄の行進
昭和
20年
1月9日 米軍、リンガエン上陸、19万の兵力  
1月16日 米軍、海岸に飛行場急造、戦闘機部隊進出  
1月17日 第四航空指令部、富永中将ツゲガラオから台北に独断移駐  
1月中旬 野砲兵第十聯隊第三大隊第十中隊の地獄の行進を目撃 砲兵、地獄の行進
1月27日 米軍、クラーク飛行場奪取、そこを基地として長距離戦闘機がルソン北部を爆撃  
2月  アパリの水田とジャングルの接合部に歩兵前線を置き、その後方ジャングル内に砲車を引き入れ、五号道路に地雷、対戦車陥穽を敷設、橋に爆薬しかけて陣地構築
サンホセから四千発の野砲弾、八千発の自走砲弾をトラックで100キロ先のカワヤンまで運びそこから民船でラロまで運ぶ。
ホールインワン
民船ハイジャック
2月25日 夜12時頃、独歩のN軍曹に故障したトラック(ダイナマイト2t積載)の曳行を頼まれる。翌朝7時帰隊、同時にラロの兵器部にダイナマイトを取りに来いと連絡受ける。 美談的愚行
2月26日  ダイナマイトを取りに行った山本少尉の部下、カタヤワンで米軍機の機銃掃射を受ける。S軍曹、O伍長、現地人人夫5名死亡  S軍曹、O伍長の死
手首と足首の切断
2月27日 遺体埋葬中の深夜、ラロからジャングルに砲弾、資材を人力搬送する列を目撃  
2月下旬  アメリカ軍第1軍団は山岳地帯へ進入した。バギオに対してはアメリカ軍第33師団が国道11号などから北進し、日本軍の第23師団と独混第58旅団と激突した。  
3月1日頃 臨時小隊長(15日間)として自走砲一門をもってガタランにゲリラに包囲されたアパリ三井造船所分工場の在留邦人及び警備隊の救援に行く 恐怖の応戦
3月中旬 バレテパス転進準備のため本部に戻り、ツゲガラオに行く。野戦病院のF軍曹に会いカタヤワンの機銃掃射の件問いただす 戦場の「貸し」と「借り」
3月26日  沖縄戦始まる。  
4月26日  バギオは陥落。第14方面軍司令部はカガヤン渓谷へ転進した。  
4月27日 「駿」(山本少尉の属した師団名)にバレテ転進命令下る。5月より師団主力出発。残留部隊は歩兵一個大隊、砲兵一個中隊、山本少尉は本部より残留となり、臨時編成の4分隊を指揮 度重なる決心変更
5月中旬 山本少尉、ラフ島付近のゲリラ討伐に行く 員数主義
6月  山本少尉、アパリ正面陣地を撤収し、サンホセ盆地への撤退命令を受ける。野砲、自走砲、十二榴弾砲など4門を爆破。運搬できる弾薬と旧式山砲二門を引き夜行軍を開始  天の岩戸
砲側即墓場
6月13日 「駿」砲兵隊本部はオリオン峠、野砲隊はイラガン付近、自走砲隊はツゲガラオ付近で全滅 自らを片づけた日本軍
6月23日 ルソン島北端のアパリにも6月23日に連合軍が空挺降下し、カガヤン渓谷防衛のため南進中の日本軍第103師団を撃破した。沖縄戦終結  
6月26日
~7月    

山本少尉、通称「天の岩戸」を日没二時間前に二〇名の戦砲隊員とともに出発。無名川を渡河、パラナン川渡河中一門は川に沈め、一門をひ力搬送、最短距離でバガオめざす。バガオ付近が赤く染まっているため、山本少尉はS上等兵他4名の兵士と共に偵察に行く。しかし、バガオ近くで、アパリに上陸しサンホセ盆地入口ピタグを塞ぎに来た米軍と遭遇、機関銃の猛射を受ける。砲車の位置に脱出しようとするが照明弾と重機の猛射のためできない。ピタグ隘路入口近くの壕に落ちたところで、盆地の地区支隊より出された砲車小隊支援のための援兵と会う。砲を離脱したとして支隊指令部への出頭を命ぜられる。この間十八名の部下戦砲隊員全滅。


山本少尉は、出頭のためサンホセ盆地を越えたダラヤ地区ジャングルにある指令部近くまで来たときF軍曹に会う。F軍曹は山本少尉を待たせたまま指令部に行きピタグ死守の支隊命令を持って帰り「何もおっしゃらずピタグにお帰り下さい」と命令書を山本少尉に手渡す。(この時山本少尉は砲を捨てた懲罰として銃殺を覚悟していた。)
ピタグへ戻る。追いかけるように命令が届き、「斬り込み」を命ぜられる。「斬り込み隊」は二隊編成され、一班はH中尉、他は山本少尉が指揮。先発H中尉は部下を守って重機の標的となり射殺される。「斬り込み」中止。続いて「待ち伏せ方式」となり、ピタグ隘路の崖に横穴を掘り、そこに潜み「ふとん爆弾」(ダイナマイトを詰めふとん状にしたもの)を抱えて戦車を待つ。戦車来ない。いつの間にか背後の盆地を米軍が占領、盆地内諸部隊壊滅、指令部行方不明。(山本は、この米軍の迂回戦術が、自分が懲罰されず生き残った理由としている)
「あの位置」
F軍曹
斬り込み隊
H中尉
待ち伏せ方式
7月中旬  日本兵はピタグを捨て川づたいにパラナン奥地のジャングルに逃れた。以後、米軍に投降するまでジャングルに潜む。 ジャングルという生き地獄
Y自動車隊のI少尉、地区隊命令を無視し10名の部下とともに、ジャングル出口の家屋に移る。(マノホ脱穀の中継基地として) I少尉
8月12日 山本少尉は、残兵を集めた急造の八名の歩兵を指揮しジャングル内の第一線分哨にいた。この日マラリヤ熱から起きたときI少尉に「元気を出せ」と激励される。
8月13日 朝10時、バシッという音がして「I少尉がやられた」との連絡を受ける。八名の部下とともに救援に駆けつける。二回渡河しI少尉の50~60m近くに迫り攻撃体勢をとるが。 八つの目
8月14日 日本政府、ポツダム宣言受諾  
8月27日 サンホセ盆地東北パラナン峡谷のジャングルに潜む小部隊の一番奥にパラナン地区隊長S大尉がいた。山本少尉はS大尉から本部に来るよう命令を受け、昼頃出発した直後、日章旗を持った丸腰の米兵と日本兵が現れ「明日午後2時までに連絡将校1名をダラヤ部落に派遣、所在の米軍と所定の連絡をなし、その指示を受け帰隊すべし」との連絡を受ける。。 降伏
8月28日 日の出とともに、A上等兵を連れて出発。N伍長はついて行くといって聞かない。ジャングルの前端までついてくるが、そこで待たせる。ダラヤ部落のはずれに来た時、一団の半裸のフィリピン人の男女がいた。村長らしい男があいさつをし、一軒の家を指さして”どうぞ”といったが、山本少尉はとっさにその村長を人質に取る。20分くらいして青い戦闘服を着て丸腰の米軍将校が水牛の角笛を吹きながらひとりの日本兵を連れて現れ、「私は軍医だ。歩けない病人と負傷者は何名いるか。・・・9月10日正午まで担送を終わるように。そこから水陸両用兵員輸送車で運ぶ。兵器弾薬も運ぶように。フィリピン人に渡すな。歩ける者は9月10日2時までにダラヤに集合せよ」と伝える。 ジャングルを出るということ
9月12日 武装解除、軍刀は米軍が預かる。山本少尉は軍用毛布と時計の他装備(飯盒・水筒・図嚢・地図入れ・帯革等)一切を投げ捨てる。ダラヤ戦車道の先端まで歩かされ、戦車運搬用トレーラーに乗せられアパリに着く。海浜の仮設収容所に収容。 アパリ仮設収容所
9月13日  輸送船入港。乗船3日目にはじめて「かゆ」がでる。4日目にマニラ入港  アパリの地獄船
自動小銃
9月16日  下船し、トラックで60キロ南のカンルーバン収容所まで輸送。途中フィリピン人の投石・罵声浴びる。鉄道駅舎もない無灯火の駅に降ろされ、雨の泥濘の中四列に並んで座る。鳥居のようなシャワーで消毒。軍用毛布だけは手放さない。  軍用毛布
石の雨と花の雨と
  カンルーバン収容所(野戦用の天幕を張ったもの)の16コンパウンドに10万の日本軍捕虜が収容される。第一コンパウンドは戦犯容疑者とそうでないものを選別するため、第四コンパウンドは戦犯容疑者を収容。山本は第四コンパウンド収容。登録番号50525。収容後1ヶ月くらい、ステンレス製コップ半分以下の「かゆ」とコーンスープのみ支給。3食900カロリー 飢えの力
昭和
21年
4月 収容所の中が改組され全体が4つに仕切られる。将官区画、将校区画、下士官区画、兵士区画。500人ずつ一組にされ、数組ずつ各収容所に入れられる。これ以降給与(給食等)は改善され、飢餓少なくなる。 星の数よりメンコの数
    収容所では、米軍の指導下に民主的自治管理機構を保証し、平等な衣食住支給が保証されたが、それは収容所内の平和をもたらさなかった。大半の収容所では、炊事班や演劇班をおさえ力士など体力のあるものを取り巻きにした暴力団支配に陥った。毎夜、この秩序に従わないものに対するリンチが繰り返された。   暴力団支配
自治組織
言葉を奪った・・
  山本は最後の帰還船に乗る2ヶ月前まで、第四コンパウンドに収容された。2回の首実検の他、米軍メイヤー中尉から戦犯容疑者として尋問を受けた。多くの人が、一体全体自分がなぜ処刑されるのか全くわからないまま死んでいった。これらの人々の不幸は、すべての人間があらゆる手段を使って背を向けてしまったことである。 戦犯裁判
  山本は、将官(少将以上)コンパウンドへLという米軍中尉の私的通訳兼事務員(半ば専属)として通勤。彼は山本を芸術家と誤認(熊の彫り物や宝石箱を制作)していた。山本は、上記の職務のためこの収容所におけるリンチから免れることができた。将官収容所は変に朗らか。食事はたちまち句会に。陸海空、在留邦人合わせて48万人が殺され、ジャングルを腐乱死体で埋め、上官殺害から友軍どうしの食料の奪い合い、殺し合い、果ては人肉食まで惹起した酸鼻の極というべき比島戦のあとの会話とは思えない。 和気藹藹(あいあい)
  収容所に木工所開設。山本少尉は通訳助手として働く。米軍より聖書の配給もあったが、この間山本は一度も聖書を手にしなかったという。  
12月23日 最後の復員船でマニラ出港。船内で復員事務を手伝うよう依頼される。船内で久しぶりに「味噌汁」のにおいをかいだとき・・・。 感覚的里心
12月31日 佐世保着  
昭和
22年
1月2日 R軍曹の忠告 戦場を出るということ
  復員船内におけるリンチの話。宇都宮参謀副長の会話。”特攻くずれ”という言葉はありえても”ジャングルくずれ”という言葉はなかった。 地獄を見た人たち