1 踏み出したプロへの道
あけましておめでとうございます。清々しく新年をお迎えのことと思います。
今年、2005年は、私にとって、大きな節目の年になります。それは、私のピアニストデビュー20周年の記念の年に当たるからです。ショパン誌も、私のデビューと同じ時期に発行され、その当時から、エッセイやグラビア、対談などで登場させていただいていますので、さらなるお互いの発展を願い、12回のエッセイを連載することになりました。私の20年の体験を振り返りながら、これからの20年に向かっての展望を開けるような内容にしたいと思っています。皆さんのご意見やご希望、ご質問もお伺いしながら、1年間、綴って行きたいと思います。
20年前の私は、6年に及ぶウィーン留学生活にピリオドを打つため、初めてのリサイタルを計画しているところでした。リサイタル! 当時のことを回想すると、心臓が飛び出るほどの恐ろしい緊張感を昨日のことのように思い出すことができます。そのウィーンでのリサイタルが、20年後の今の私を形作ったといっても過言ではありません。連載第1回目は、その初めてのリサイタルの時の心の動きをお話しします。
時は1985年9月6日。ウィーンは、例年通り9月1日からの新シーズンが始まり、国立歌劇場、楽友協会、コンツェルトハウスなどの有名な会場では、連日、世界トップクラスの演奏会が開催されていました。小さな会場でもなにかしらの演奏会が目白押し、という状況でした。そのような条件の中での開催でしたので、若く名も知れない東洋のピアニストの演奏を音楽の都ウィーンで、わざわざチケットを購入して聴きに来てくれるお客様は、ほとんどいないだろう、と予想していました。何人かの友人の前でのお披露目的な演奏会になってしまうかもしれないと、実は、内心考えていました。その時点で、私は、まだプロの演奏家の精神を持ちあわせていなかったと思われます。それでも、くらくらするような緊張感の中、楽屋でたったひとりじっと開演ベルを待っていました。頭の芯がキーンとして、足も手も震えている状態でした。お客さんの数をぼんやり考えていたということは、できるなら、この場から逃げ出したいという想いの現れだったかもしれません。場所は、ウィーン4区のベーゼンドルファーザール。170人収容の小さなホールです。その楽屋に、友人が入ってきて、「お客様、立ち見が出るくらいの満席よ」と言ったのです。「えっ?満席?どうして?」といっている間に、開演ベルが鳴り、私は、初めてのリサイタルの舞台へと一歩踏み出したのです。目の前には、200人ほどの満員の観客が拍手で迎えてくれました。私は、その瞬間、プロの演奏家になったのだという自覚が芽生えていました。観客と共に演奏の喜びを分かちあうこと。それが、ピアニストなんだと実感したのです。その1回目のウィーンでのリサイタルが、予想通り友人のみのお披露目演奏会だったら、今の私はなかったかもしれないとつくづく思います。
その時の観客は、夏休みを少し遅く取ってヨーロッパを旅行中のアメリカ人やオーストラリア人が地図を片手にやってきてくれたり、ウィーン在住の音楽好きのお年寄りだったりしました。そして、演奏会のあとの、暖かい拍手、心のこもった励ましの言葉、和やかな雰囲気の中、私は、音楽の持つ力を心から体験したのです。プロの音楽家の第一歩が、幸福だったことは、その後の私の人生に次々とよい循環を生んでいきます。東京での帰国記念デビューリサイタルをしようという、また別な意味でのステップへと進んでいきます。
今回は、私の輝かしい一面をお話ししましたが、それは、ある一部であり、デビューリサイタルに至るまでの修業の日々のこともお話ししなければなりません。どうぞ、これからもおつきあいください。
2 母の力
「電話を握りしめて泣いているフロイライン(女の子)は、恋人に電話してるのか?」
ウィーン国立音楽大学の学生寮のロビーにいる守衛さんが心配そうに周りの学生に聞いています。そこには、交換手につないでもらうタイプの電話がありました。今では考えられないことかもしれませんが、25年ほど前は、インターネットもカード式電話もなかったのです。電話も交換手を通しての通話で、料金も現在の4〜5倍というものでした。それにもかかわらず、その時の私は、東京の母に電話をしていたのです。
まだ、ウィーンに来て間もないのに、もう、ウィーンでは、ピアノを続けていく自信がなくなり、練習しても練習してもうまくならないように感じていたからです。練習室やレッスン室から聞こえてくる誰が弾いているかもわからないピアノの音が、すべて上手に聞こえ、「それに比べ私なんか……」という、かなり大きな自信喪失に陥っていました。私などがピアノを続けても、何の価値もないのではないか、という思いに捕われていました。私が、ウィーンまで来たにもかかわらず、ピアノをやめてしまったら、応援し、仕送りをしてくれている母がどんなに悲しむかと思ったり、やめて自分はどうするのだろうと考えていました。そこで、たまらなくなり、お金のことも考えず、母に電話をかけて、冒頭の状況になっていたのでした。
「ママ、私、もうピアノ、だめみたい」
そう言いながら、涙があふれ、声をあげて泣いていました。その時の母の返事は、意外なものでした。
「そう、それじゃ、もう帰ってらっしゃい。ウィーンまで行って、尚子がそう思うなら、仕方がないじゃない? もう、ピアノのことは忘れて、ウィーンを少し観光したら、戻っていらっしゃい。ママ、待っているから」
母は、私の弱気な心をまったく否定しないばかりか、観光してきなさいなどというのです。私は、その時の複雑な気持ちを今でも、はっきり思い出すことができます。ところが、その言葉の直後、母は、はっきりこう言ったのです。
「日本に帰ったら、きっぱりピアノはやめて、ピアノも売ってしまいましょう。新しい道は、他にもあると思うわ」
この一言が、私の人生をピアニストの方向へ導いたといっても過言ではありません。「他の道?」それが何も思いつかないとか、帰国してからの不安などではないのです。「ピアノはやめたくない」という気持ちだけが、私を包んだのでした。涙も止まっていました。私は「ママ、もう一度よく考えてみるね」と言って電話を切ったときは、ウィーンから逃げようという気持ちは、すっかりなくなっていました。自信がないから、ピアノがまだ上手じゃないから、ここで勉強するんだという気持ちになっていました。あの時、母が、「そんなこと言わずに、もっと頑張りなさい」と言っていたら、弱気の私は、「これ以上は無理」なんていって、自分の本当の気持ちも確かめずに、本当に帰国していたかもしれません。母は、自分の言った言葉が、そのような強い影響を私に与えたとは思っていなかったと、のちに語っています。その時は、本当にそう思ったのだそうです。母とは、不思議な存在です。あの時の言葉は、弱い私を包んで許してくれる暖かい母でもあり、今までの経験をゼロにして、将来をまた一から考えてみるという、すごい決断をあっさり言ってしまう強い母でもあったと思います。ウィーンに6年、ロンドンに2年いた私の留学時代は、母との1000通に及ぶ、手紙のやりとりで支えられていたと思っています。
冒頭の電話の2日後、ハンス・グラーフ教授のレッスンで、
「尚子は、ベートーヴェンが上手だね。バッハはまだまだ勉強すべきことが多いが、ベートーヴェンは、自然でいいよ」
と言われ、さらに、ここで勉強を続けようという気持ちが固まっていったのです。
こうして、私のピアノロードは、ゆっくり、こつこつと始まっていきました。来月は、ウィーンの先生たちの出会いとレッスンの様子を詳しくお話しします。お楽しみに。
3 ヨーゼフ・ディヒラー先生の思い出
現在、私は北海道教育大学で学生に教える立場となりましたが、学生に授業をする上で、私がウィーンで教えを受けた先生方をお手本にしていることがたくさんあります。たとえば、今、私が実践していることは、「絶対に声を大きくして怒鳴らない」「忍耐強くその学生の様子を見守る」「学生の心理状態にまで気を配る」そして「自分の勉強を怠らない」ということなのですが、これらは、ウィーンの先生が一様に実践していたことでした。先月号で書きましたとおり、留学当初、私は自分のピアノに自信がなく、何度も挫折しそうになりましたが、そのどん底の心理状態から立ち直れたのは、ウィーンでの先生たちのおかげでした。とりわけ、ヨーゼフ・ディヒラー先生には、音楽的なことばかりではなく、さまざまなことを教えていただいたと思います。今回は、ヨーゼフ・ディヒラー先生のエピソードをお話ししたいと思います。
ディヒラー先生は、ピアニスト、物理学者、哲学博士、そして、お若いころは、オーストリア代表の水泳選手でもあったそうです。そして、お酒と煙草が大好きな方でした。レッスン中も煙草は離さず、レッスン後は、私にもワインを勧めてくださいました。ウィーンの先生は、音楽的な内容について、「モーツァルトやベートーヴェンの時代からの伝統」ということをよくおっしゃいました。理由を理論的に説明するのではなく、300年前からのウィーンにおける伝統を伝達し、後世まで残していく使命のようなものを感じました。その伝統とは、装飾音の入れ方であったり、自然な音階の弾きかた、アクセントやsfの音量など多岐にわたっていました。ディヒラー先生も例外ではなく、それらのウィーン的音楽奏法を繰り返し教えてくださいました。しかし、ディヒラー先生の教授法は、それだけではなく、結局その伝統的奏法は、人間が誰しも感じる心地よさ、高揚感、緊張感とその後に来る弛緩が基本になっていることを話してくださいました。つまり、音楽は、人間の自然な感覚が基になっていることを忘れてはいけないということだったのです。当たり前のことと思われるかもしれませんが、そのような教え方をなさる先生は、当時の日本にはいなかったと思います。日本では、メカニック中心でひとつも間違えないで弾くことのが最も大事という方針が主流でした。
音楽を人間の感受性から作りあげるというやり方をするためには、ピアノに向かって練習していればいいのではなく、幅広く人間性を養うことが非常に大切であることをディヒラー先生から学びました。先にお話ししたように、ディヒラー先生は、音楽の第一人者であるだけではなく、一見音楽との関わりが希薄かと思われる物理学なども専門的に研究なさり、さらに水泳も一流の域に達していらっしゃいました。そのような方は、音楽の見方が幅広く、多方面からのアプローチを感じました。面白い解釈もいくつもうかがいました。そして、彼は、大変心優しく、洞察力に優れ、私が、ひとり練習に悩んでいる時など、音を聴いただけで、私の心理状態を見ぬかれました。「尚子、練習のしすぎで、音に伸びやかさと、余裕が感じられないよ。今日のレッスンは終わりにして、ウィーンの森に散歩に行こう。そして、明日は、ピアノの蓋を開けてはいけないよ」などといわれたことがあります。
こうして、300年前からの音楽の都ウィーンで、私のピアノ・ロードは、少しずつ開かれていきました。次回は、ドイツ語の苦労をお話しします。お楽しみに。
4 ドイツ語の壁
留学するということは、外国語で暮らすということですが、私の場合、それはドイツ語でした。
ウィーンに留学すると決めた時から、日本でドイツ語学校に通い、「基本的なドイツ語は大丈夫かな?」というところまで習得して、出発したのです。ところが、その標準ドイツ語は、ウィーンでは、ほとんど役に立ちませんでした。「ウィーン弁」が、あったからです。ウィーンでは、ヴィーナリッシュというウィーン独特のドイツ語が、話されていました。ウィーンに着いて最初にドイツ語を話した大家さんご夫妻との挨拶から、くいちがいます。こんにちはとお互いに「グリュース・ゴット」「グーテン・ターク」と同時に言ったとき、私は、「え? なんて言ったの?」と思い、大家さんは、「ああ、標準ドイツ語だな」と思ったはずです。オーストリアでは、一般に知られている「グーテン・ターク」はほとんど使いません。さようならにあたる「アウフ・ヴィーダー・ゼーエン」もウィーンでは、「セアブス」などという、思いもよらない言葉になっているのです。使用する単語が違っては、太刀打ちできません。その他にも、発音やイントネーションが、私が日本で習った標準ドイツ語とは、まったく違ったのです。もう少し他の例を紹介しましょう。「まったくない」という意味のドイツ語は、「ガール・ニヒト」と習ったのに、ウィーンでは「ゴワネ」です。ひき肉は、「ハック・フライシュ」のはずが、「ファシーアテス」になりますし、100gは「フンデルト・グラム」なのに、「ツェーン・デッカ」でした。このように、私の習った標準ドイツ語はまったく役に立たず、しばらくは、呆然としたものでした。音楽院の教授たちも、アクセントやイントネーションは、ウィーン弁でしたが、レッスンに必要なことは、ゆっくり懇切丁寧に話してくださいましたので、徐々にウィーン弁にも慣れていきました。レッスンが充実するためには、言葉は絶対に必要です。先生の演奏の真似をするだけではなく、教授の言葉によるアドバイスをきちんと聞き、わからないことを言葉で質問できることは、大事な要素でした。
典型的なウィーン弁に、シュメーという言葉があります。標準ドイツ語の辞書にも載っていません。しかし、ウィーン風な気質や音楽内容を説明するには、都合のよい単語です。夢見るような、ちょっとした遊び心、幻惑的な、などという意味合いです。日本語でもうまく説明できません。でも、ウィーンにいて、ピアノを勉強していると、そのような感覚がだんだんわかってくるようになります。その土地の言葉が心からわかってくると、このウィーンで活躍したモーツァルトもベートーヴェンも同じような言葉を話し、その環境の中でさまざまな曲を作ったことがわかってくるのです。
今では、日本から、短期間の講習などに参加することは簡単なことになりました。短期間でも行かないよりは断然よいことと思いますが、長期の留学をするということとは、目的が基本的に違うと思います。西洋音楽という異文化を専門とする私たちは、単にピアノの弾き方や解釈を学ぶだけではなく、その文化的背景を知る必要がありますし、それを知るには、長くその土地に住み、生活をすることが大事だと思うのです。
ウィーンに行って2年ほど経って、言葉の壁を越えたとき、やっと本当の音楽の勉強ができると思いました。そして、私もすっかりウィーン風アクセントのドイツ語を話していたのでした。
次回は、ウィーンを離れ、ロンドンにお話が移ります。お楽しみに。
5 ロンドンでの勉強
今月は、ウィーンをひとまず離れ、第2の留学先ロンドンのお話をします。6年間のウィーン留学を終え、帰国してから3年が過ぎたころでした。「ロンドンに、どんな難しいパッセージでも、魔法のように弾けるようにしてくれる先生がいる」といううわさを聞いたのです。この情報は、私の心を大きく揺さぶりました。そのころの私は、多くの演奏会を抱え、たくさんの生徒を持ち、自分なりに日本での基盤ができていたころでした。しかし、実は内心、自分の演奏に不安を感じていました。ウィーンでの勉強だけでは足りない何かがあると、心の奥が叫んでいるようでした。ロンドン行きを決めたときの行動は、かなり素早かったと思います。その情報を得て、ほとんど1ヵ月後には、ロンドンのアンジェイ・エスターハージィ先生の門をたたいていました。そのとき、私は、今のままでは演奏家としての限界が来るという事を敏感に感じ、その限界を打ち破るのは、このときしかない、と本能的に察したのだと思います。そして、今年デビュー20周年を迎えることができたのも、その時の素早い決断があったからだと思っています。
当時私は、すでに29歳になっていました。日本では、早期教育が主流で、30歳にもなって、さらに技術が習得できるということは不可能に思われています。その考えは、現在も多分に残っていると思います。しかし、ロンドンのエスターハージィ先生は、そのようなことはまったく考えていませんでした。『魔法の演奏法』とは、つまり身体の使い方を意識して演奏することなのですが、演奏会を何年も続けているピアニストも、コンクールに挑戦している20代のピアニストの卵も、エスターハージィ先生のおっしゃることが理解でき、共感できると、たちまち、弾けるようになるのです。それは、衝撃的な体験でした。ふだんは、演奏会本番では演奏しないリストの超絶技巧練習曲など、技術的難易度の高い曲を、試しにレッスンしていただいたところ、本当に魔法のように弾けたという事実もあります。しかし、そのメソッドの本質は、指が回るようになるためではなく、演奏者が望む音楽を正確に表現することにあるのです。演奏者が望む音楽ということは、深い意味を持っていると思います。勉強途中の演奏家の卵と経験を積んだ演奏家には、望む音楽に違いがあります。そして、音質や音色の幅も違います。エスターハージィ先生が、年齢が高くとも上達するという信念は、「心に音楽を持った人たちであれば……」という条件が付いていたのです。ロンドンで確信したことは、自分の表現したい音楽はあっても、それを自分が満足できる表現に至っていなかったということでした。つまり、上達したと思ったことは、自分の表現したい音楽を正確に伝えられるようになったことであり、指が回ったり、速く弾けるようになったことでは、ありませんでした。
ロンドンで勉強したことは、まさに成熟した音楽の表現についてでした。音楽には終わりがありません。人が生きて経験を重ねることにも終わりがないのです。エスターハージィ先生からは、そんな芸術の永遠性をも学んだと思っています。ロンドンでの勉強は、今の自分の演奏にはっきり生かされていますし、大学で教鞭をとるときにも、とても役立っています。まずピアノを弾くことから入るのではなく、どんな音楽にしたいのか、という観点で練習を始めることができるようになりました。すると、機械的に指の訓練をするより、断然早く、上達することがわかりました。ロンドンでは、こうして、2年近くに渡って、思考錯誤を繰り返し、自分の音楽を真正面から見つめることができるようになったという、大きな転機を迎えました。
来月は、ウィーンとロンドンの違いをお話ししたいと思います。お楽しみに。
6 ウィーンとロンドン
今年、私はデビュー20周年を迎え、ピアニストとして活動するようになるまでの軌跡を書き続けていますが、現在の私があるのは、やはりヨーロッパの音楽環境の影響が大きいと思います。先に留学したウィーンとその後に行ったロンドンでの勉強は、日本では得られない体験として刻みこまれています。今日は、ウィーンとロンドンの違いをお話ししたいと思います。
ご存じのとおり、ウィーンでは、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスをはじめ、ブルックナー、マーラー、そして、シェーンベルクなどの新ウィーン楽派に至るまで、音楽史を彩る重要な作曲家が活躍していた土地でした。その音楽的環境の継続である現代ウィーンも、やはり音楽の都と謳われ、そこで教える私の先生たちも、その伝統に誇りを持ち、伝統を継承していくという教授法でした。そこで私は、ウィーン風な音楽というものを長い時間をかけて、理論だけではなく、ウィーンに生活することを通して身につけていったという思いがあります。その点を比較すると、ロンドンでは、目立った有名な作曲家が見当たりません。イギリスの作曲家というとブリテンがもっとも有名ですが、ピアノを勉強する者にとっては、馴染みがないのではないでしょうか。しかし、ロンドンには、冷戦時代のロシアから亡命した優秀な音楽家たちが亡命先として移住していました。そのため、ロシアの演奏技術メソッドもロンドンに集結していました。ロシアのモスクワ音楽院をはじめとする、理論に裏打ちされた演奏技術メソッドを習得するためには、ロンドンは、格好の場所でした。
ウィーンとロンドンは、気候も異なりましたし、人々の気質も違いました。私は、どこにいても、良いところを見出して楽しく暮らせる性質のため、どちらも大好きなのですが、ロンドンの秋から冬にかけてのどんよりとした気候には少々暗くなりました。しかし、ロンドンでは、先生も生徒も、名前で呼びあうのが普通で、「アンジェィ」「ショーコ」などというため、友達感覚で、さまざまなことを話しあうことができました。音楽のみでなく、日常の生活のこと、恋愛についてなど、先生ともざっくばらんに話しあい、よく一緒に夕食を共にしたり、音楽家が集まるパーティーなどにも、連れて行ってもらったりしました。ロンドンでは、友達の友達は、友達という広がりで、社交的なことが多かったように思います。ウィーンでは、伝統を重んじるため、先生を名前で呼ぶことは、ほとんどありません。だからといってウィーンの先生が冷たいのではなく、日本的な礼節と似たところがあったと思います。私は、「郷に入れば郷に従え」という考えを持っていますので、どちらにいても、あまり、違和感を感じないで過ごせました。
そのような各国のさまざまな違いは、ピアニストとして活動をして行くものとして、異文化の体験となりました。ウィーンで音楽の伝統を学び、ロンドンで演奏技術の理論的メソッドを習得したのですが、その時は、夢中で一途に勉強をしただけだったと思います。デビュー20周年ではありますが、ピアノを始めてからの年月を考えると人生のほぼすべてをピアノと共に過ごしてきたわけですが、その自分の人生すべてが、自分の音楽に反映されているように感じています。経験というものは、音楽に関連づけて考えたのではなく、結局、一生懸命したことが結果として音楽に表れるものだということが、このごろわかるようになっています。
この連載も、ちょうど半分が過ぎました。次回は、イタリアのコンクールでのお話をしたいと思います。どうぞお楽しみに。
7 イタリアのコンクール1
今月は、ウィーン留学時代の、つまり、今から20年ほど前のコンクール事情をお話ししましょう。今では、多くの日本人が、ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールなどの高いレベルの国際コンクールで優勝することも多くなりましたが、20年前は、日本人にとって、挑戦の場という意味合いがありました。現在は国際化も進み、インターネットなどで地球全域と簡単に通信が可能になり、さまざまな情報を簡単に得ることができるようになっています。しかし当時は、一番早い通信手段は電話であり、多くの場合、郵便が一般的だったわけです。そのため、日本からわざわざコンクールを受けに行くのは、かなり困難を伴いました。そんな中で、私たちのようなヨーロッパ留学生は、規模はさまざまですが、ヨーロッパ各地でおこなわれるコンクールの情報を大学などで知り、国際列車で各地に行くことがよくありました。今回は、イタリア・テルニでおこなわれたコンクールのお話をしたいと思います。
そのコンクールは、ローマからアッシジ方面の内陸に向かう小さな町、テルニ(Terni)でおこなわれました。今では、1次審査が録音やビデオなどでおこなわれることが多いですが、当時は、受験者全員が1次審査で実際に演奏するという形が普通でした。事前の書類審査もなく、受験したい人は、すべて演奏できるのです。その時の受験者は、120名ほどで、開催国イタリア各地からをはじめ、ヨーロッパ各地からピアニストの卵が集まってきました。
私は、ウィーンから、国際列車に乗って国境を越え、ローマを経由して8時間ほどかかってテルニに到着しました。すると、その小さな町は、町を挙げてコンクール歓迎ムードが漂っていました。コンクールは、その町にとっての大きなイベントで、国際的に人が集まるチャンスなのです。街の人々も親切で、「コンクールの会場はどこですか?」と聞くとそこまで連れて行ってくれたりもしました。そんなムードの中、集合場所に行きますと、さっそく、エントリーの確認をし、演奏順の抽選がおこなわれました。これは簡単な抽選で、アルファベットの頭文字を1つだけ選び、その頭文字からアルファベット順に演奏することになります。たとえば、「F」だった場合、Fukaiである私は、かなり早い順番で演奏順が来るという具合です。
1次審査には、3日ほどかかりました。120人が全員、ひとり20分ほど演奏するのですから、1次審査がいちばん時間がかかります。結果は、全員が弾き終るまでわかりませんから、120人が当然、3日間そこに留まることになります。ところが、ほんのわずかな受験料(1万円くらいだったと思います)しか支払っていないのに、3日分の宿泊費、食費はそのコンクールから支払われました。つまり、受験者たちは、1次審査が終わるまで、一切支払うことなく過ごすことができたのです。その上、イタリアですから、昼食は、フルコースでワインまで付いてくるというすばらしいものでした。フルコースなので、スープから前菜のスパゲッテイ、主菜の肉料理、サラダ、パン、デザートを3日間毎日食べたことを、本当に懐かしく思い出します。その昼食のためのレストランでは、各地からやってきたピアニストたちと音楽について語らい、各国の音楽事情を聞き、優れた先生の情報を集めたりしました。そんなことをしながら自分の20分間の演奏順を待っていたのでした。この雰囲気は、大変刺激的なもので、ウィーンだけに居たのではわからないことがたくさんありました。演奏する前にそのような受験者同士の語らいがあるため、演奏に臨む厳しさの中に、お互い、音楽を学ぶ同志のような感覚が生まれたことも、ヨーロッパでのコンクールの特徴ではないかと思います。
コンクールの演奏の内容に入る前に誌面が尽きてしまいました。続きは、来月お話しします。
8 イタリアのコンクール2
先月は、10数年前当時のコンクールが、どんなに恵まれていたかをお話ししました。そのイタリアの小さな町テルニ(Terni)では、受験者全員が、音楽家の卵として丁寧に応対されました。世界各国から集まってくる100人を超すピアニストの卵たちの中には、長旅で病気になってしまったり、荷物を持って腕が痛くなったり、さまざまな人がいましたが、そのような場合も、番号順に固執することなく、体調がよくなってから順番を待ってくれるという措置もありました。練習は、ピアノのある一般のお宅が斡旋されていました。そこで、練習を毎日していると、そのご一家を挙げて応援してくださり、コンクールを聴きに来てくれては、家族のように励ましてくれました。そのような雰囲気は、コンクールという競争の中で、フェアに機会を与えるということと、挑戦する若者を受け入れようという暖かいものでした。受験者が、異国の地で力が発揮できるように、さまざまな配慮が感じられました。
実際のコンクールの演奏では、いろいろな解釈や演奏スタイルを見ることができます。国によって解釈が異なったり、ついている先生の影響を感じることもあります。そして、その100人ほどの受験者に中に、必ず2〜3人のとくに優れた受験者がいます。その演奏は、好みの問題はさておき、断然、他の受験者とは違う魅力を持っています。抜群にテクニックが優れていて、非の打ちどころがない演奏、それを演奏者も自覚していて、テクニックをも主張しながら華やかに、そして、きらびやかという場合、または、美しい音でじっくり緩除楽章を聴かせ、メロディーの歌い方がすばらしく、さらに速いパッセージもとくに大きなミスはないという場合などがありますが、本選まで残っていく受験者は、なにか独特の輝きを持っているように感じました。そこには、国籍や先生の影響を超えた、その人自身の個性や魅力が発揮されていました。そのような演奏を聴くことは、ものすごい刺激となり、さらに自分の演奏を見つめなおす機会となりました。同世代の演奏は、先生にいつものレッスンで指導を受けること以上に客観性を持って自分を見ることができるようになるのです。
コンクールは、常に結果がついて回りますから、その都度、一喜一憂しますが、コンクールの場に準備をして向かうことも若いうちは必要だったと、今は思うことができます。入賞しなくても、良い演奏をするピアニストもいますし、入賞していてもその力を維持できない場合もあります。芸術はいつも終わりがなく、コンクール入賞はその芸術活動の経過点であり、目的ではありません。コンクールについて、私のウィーンの恩師、ヨゼフ・ディヒラー先生が、「芸術は、競うものではない。コンクールよりリサイタルをたくさんやりなさい」と批判的におっしゃっていましたが、若いうちに、自分も受験者となってコンクールの場にいたことは、無駄ではなかったと思います。コンクールについては、肯定派、否定派と、今でも二分していますが、大事なことは、その経験をどう自分に生かせるか、なのではないかと思います。
芸術を大切に育てていくことは、若い芸術家の卵を育てることでもあります。そのような観点でコンクールを眺めてみますと、ヨーロッパでは、「芸術を育てる」という意識が日本よりも日常的にあるように思います。芸術家に限らず、何か特別に優れた才能のあることは、尊敬の対象になりますが、ヨーロッパでは、その才能を尊敬しつつ、人間としての成長の過程や成熟度も重要な要素としてとらえていくという考え方が一般的です。それは、総合的に人間としてどうなのか、という意味で、ひいては、芸術を幅広い観点から見つめ、育てていくということに繋がっているように感じます。
今月は、コンクールのことから、芸術家を育てる環境について問題を投げかけてみました。来月は、留学生の生活について、お話ししたいと思います。
9 留学生活とは
私は今年、デビュー20周年を迎えるのですが、この20年を振り返ると、今の私は、留学生時代の生活がすべての基になっているように感じています。私は今でも変わらず、ベートーヴェンを中心に勉強を続けていますが、ヨーロッパの音楽を学ぶ者にとって、ヨーロッパの文化や習慣を知ることは、大切なことでした。ベートーヴェンの生活や社会情勢の背景を研究するとき、自らもヨーロッパで生活したという事実は、本などで知る知識のみではなく、体験として感じられることが理解を早めていると思います。留学するということは、留学先でのレッスンにおいて、具体的に演奏法を学ぶだけではなく、その土地に住んで、四季の移り変わりや気候を実際に体験したり、人との付きあいから、考え方の違いを知ること、言語の違いからくる表現方法の違いなどを感じることなど、音楽以外の異文化体験をすることに他なりません。
まず大きな違いは、レディファーストの精神があります。形式的であれ、女性は大切にされ、保護されています。現在は、男女平等などといいますが、そういう権利の問題ではなく、女性を敬う精神は、ヨーロッパでは浸透しています。役割分担もできていて、たとえば、お酒を扱うのは男性の仕事と決まっていて、女性はお酌をしません。ワインもビールも、男性が女性についでくれることはあっても、その逆はほとんど見かけません。若くして留学した私は、レディファーストを快く受け入れることができました。つまり、すぐその環境に順応しました。このことは、私が帰国してから、かなりの違和感を持つことになるのですが……。
さて、その他にも、日本とヨーロッパの違いを語るとき、宗教の問題を避けて通ることができません。キリスト教カトリックが90%を越えるウィーンでは、教会でのミサやさまざまなキリスト教の行事で1年が動いています。復活祭、聖霊降臨祭、マリアの昇天祭など、キリスト教に関わるお祭りを区切りに、学校や会社の休暇が定められています。私が住んでいた当時は、土曜日の午後と日曜日は、すべてのお店が閉まり、お買い物をすることができませんでした。それも、聖書の教えから来ているものです。そのようなキリスト教関係の行事を体験するには、その土地の人々との交流がなければ難しいと思います。日本人のクリスマスのような宗教観のまったくないお祭りとは、まったく違うことが土地の人とのお付きあいからわかってきます。ヨーロッパでは、契約書やさまざまな書類にサインをしますが、そのサインをするということも、元はキリストとの契約という発想からきており、実生活にも、大変重要な意味を持っていることがわかります。留学時代、簡単にサインをして、あとで問題になった日本人留学生もいたので、家賃の契約をするときも、ドイツ語でびっしり書かれている契約書を辞書片手に3日がかりで読んで納得してからサインをしたものでした。
他にも、謙遜の美徳ともいわれる日本独特の「奥ゆかしさ」ということが、ヨーロッパでは優柔不断と見られてしまい、はっきりしない人ととられてしまうことがあります。ヨーロッパに長く住むと、自分の意思を明確に表明することが普通になってきます。いい意味での個人主義が確立されており、自分の意見を理論的に伝えられることが人間としての大切な要素になっているのです。このような文化習慣の違いを知って、多分にヨーロッパナイズされてしまった私は、帰国してから、ちょっと困りました。日本的なあいまいさがなくなり、はっきり意見を言うようになってしまっていたからです。年長者とお酒を飲む機会があっても、お酌もしません。「なんて気が利かないヤツ」と思われていることにも気づいていましたが、8年間のヨーロッパ生活で染みこんだレディファーストと、明確な意見を言う自分を変えることができず、今に至っているのです。
来月は、帰国後の私についてお話ししようと思います。
10 演奏活動と支援者
私にとってヨーロッパでの8年間は、なくてはならない大切な体験でしたが、留学時代は、学生で勉強中ということもあり、社会との関わりは、ほとんどなかったといっていいと思います。しかし、帰国して本格的に演奏活動を始めたとき、さまざまな方たちとの関わりが出てきました。とくに演奏会を支援してくださる方たちとの出会いは、貴重な財産となりました。今月は、支援をしてくださった方のお話をしたいと思います。
演奏家は、舞台での90分の演奏のために、膨大な時間を練習に当てています。人生すべてが練習といっても過言ではないのです。しかし、練習ばかりしているわけにはいきません。演奏会には、聴衆が必要だからです。そもそも、クラッシック音楽の愛好家は、ポピュラー音楽や娯楽音楽の愛好家よりも絶対数が少ないという問題があります。さらに、クラシック音楽は、いまだに、堅苦しいという印象が根強いようです。演奏会を続けていくためには、聴衆にどのようにアピールし、演奏会に足を運んでもらえるかを考えていかなければなりません。演奏会をするたびに、何もしなくても満席になるという、一握りの世界的知名度のある演奏家は別ですが、それ以外の演奏家たちは、常に集客のことを心配しています。私もそのひとりですが、今でも演奏会を支援してくださるたくさんの方に支えられ、演奏活動を続けていくことができています。
その中でも、かつてのヨーロッパの貴族のような支援をしてくださった方がいました。つまり、財政と精神の両面から芸術家を支えようというお考えの方たちです。その方はある大企業の会長で、戦後の日本復興期に日本の経済を立て直し、東京を世界の大都市にまで造りあげたという方でした。私が、帰国して演奏活動を始めて間もないころに、知りあい、その当時すでに70歳を越えられていました。仮にN氏と呼びます。N氏は、演奏会のチケットをいつでもたくさん購入してくださり、その際、必ず、私を一流ホテルのレストランに連れて行ってくださいました。そこでは、最高のフランス料理をご馳走してくださり、すばらしいワインと共に、さまざまなお話をしてくださいました。「芸術家は、本物を知らなければならないよ。おいしいものを食べて、上質の雰囲気を味わうことで、芸術もさらに磨かれる」といつも口癖のようにおっしゃっていたことが忘れられません。
その方は、すでにお亡くなりになりましたが、古きよき時代の、芸術を大切に思う精神を持ち続けていらしたすばらしい方でした。N氏のおかげで、芸術家は、演奏技術だけではなく、幅広い人間性と質のよい人生を自ら模索することで、芸術を高めていけることを、身をもって知ることができました。ヨーロッパの恩師たちも、同様のことを私に教えてくださいましたが、演奏家として社会に出たとき、実際的に支援してくださる方からのそのような励ましは、私にとって責任を感じると共に、音楽を続けていくための大きな力となりました。モーツァルトやベートーヴェンが、貴族の支援を受け、経済的な側面以外にも、精神的にも支えられ、さまざまな教養と知識を共有できたのと同じことを、ささやかではありますが、私自身も実感できたことは、幸せなことでした。現在も、たくさんの方たちに支えられ、演奏会を続けておりますが、常に、感謝の気持ちを持って、演奏をしていきたいと思っています。
来月は、批評家の方たちとの関係を、お話しします。
11 音楽評論家、藤田晴子先生の想い出
演奏家と批評家は、少々微妙な関係です。批評家の方が、自分の演奏に好意を持ってくれた場合、演奏家にとって批評家は、よき理解者、アドバイザーとなり、さらに次の演奏への意欲が湧いてきます。しかし、その逆の場合は、敵対関係のような雰囲気になることもあります。批評家の方は、ご自分が実際に演奏することのない方々がほとんどですので、理想を求めて批評をなさるのだと思います。しかし、生身の人間が演奏する場合、なかなか理想通りにはいきません。演奏家と批評家は、音楽へのアプローチが異なっているのだということを感じることがあります。
藤田晴子先生は、すでに15年ほど前になるでしょうか、『ショパン』誌派遣の批評家として私の演奏会にお越しくださり、その後、お亡くなりになるまで何度も私の演奏をお聴きくださった方です。藤田先生は、ご自身が音楽を心から愛し、その愛情を演奏家にも注いでいるような批評をなさった方でした。ご本人もかつてすばらしいピアニストだった方ですから、演奏家の内面までおわかりになるのだろうと思います。藤田先生の批評は、その演奏から表れる演奏家の人柄、性格を見抜いており、通り一遍ではない、その演奏家の音楽をわかろうとして聴いてくださっていました。個人的には、一度もお話ししたこともないのに、演奏を聴いただけで、どうして私の性格や気質がわかるのだろう……と不思議に思いました。そのことから、音楽には、その人の人生観や気質が個性となって現れてくることを発見し、人間としての魅力を持つことで音楽も魅力的になることを知りました。藤田晴子先生の批評は、私を大変元気づけてくださり、そのおかげで、私独自の良さを出せるような演奏を目指すようになりました。演奏家は、舞台では華やかに見えますが、精神的にはかなりデリケートで傷つきやすい部分があります。良くない演奏は、自分が一番わかりますし、自分をだますことはできません。そのようなとき、藤田先生のような批評は、演奏家を自信喪失させるのではなく、さらに勉強を続けようという前向きな気持ちになりました。私は、今年デビュー20周年を迎えましたが、10周年の時の批評は、今でも私の心に沁みており、今も、見守られているような気持ちがしています。藤田先生がお亡くなりになったとき、私は、演奏会本番があり、お葬式には出席できませんでした。それが心残りですが、藤田先生は、お許しくださると思っています。
演奏家は、自分の音を、観客と同じ音響で聴くことができない宿命を持っています。ピアノの音は、まず、観客の方向に向かって飛んでいき、その音はホールの後ろまでいって、さらに演奏家がいる舞台に戻ってきます。その時間差はとても小さなものですが、私たち演奏家は、いつも観客より一瞬遅く、自分の音を聴いています。その他にも響きやニュアンスも本当に自分の出したい音が観客席に届いているのか気になります。
そのために、批評家の方々に、本番での演奏を批評していただくのは、客観的なご意見をうかがうという点で、意義があります。私は、批評家の方と個人的におつきあいしたことは、ほとんどありません。常に先入観なく、純粋に音楽のみを聴いていただくことが多いのですが、藤田先生だけは、10周年の演奏会のあと、お宅にお邪魔し、音楽談義をしたことがあります。文は人を表すと言いますが、まさしく、藤田先生の批評文とお人柄が一致した、暖かく、大きな人間性を感じる方でした。藤田晴子先生との出会いは、20周年を迎えた今も、忘れることのできないすばらしいものでした。来月は、いよいよ最終回です。お楽しみに。
12 幸運の女神
1年間連載した『ピアノ・ロード』も、最終回となりました。私のデビュー20周年という節目に、過去を振り返るのではなく、先の展望となるようなエッセイにしようと思って書きました。最終回は、幸運の女神は、どこにいるのかというお話です。
私は、時々、幸運の女神がそっと後ろから見守ってくれているように感じることがあります。とくにそのことを強く感じているのは、大学で教鞭を取っている今です。フリーのピアニストとして活動してきた経験がすべて生かされ、さらに発展していると感じます。それは、無我夢中でひとつのことをこつこつと継続して勉強してきたことが〈幸運〉を導いているように思われるのです。
音楽を志す人は、いつも練習と勉強を続けるという宿命を背負っていますが、練習をしているだけでは、本当の意味で芸術的音楽に到達することができません。若いころは、膨大な時間を使って練習することで、楽譜通りに演奏できることに意義を見出すこともあります。それは、その時点では、芸術に近づく大事な要素ですが、音楽はそれだけではなく、音楽の内面性を豊かな感性で表現できることがもっとも大事なことであることに心から気がつく瞬間があります。誰でも、内面性や音楽性ということが大事だということは、頭ではわかっているはずですが、それが実現できたり、本当の意味でわかるには、時間がかかります。そして、今回、私のデビュー20周年記念リサイタル(9月6日)での、聴衆の反応や感想から、私の内面性、音楽への思いが、ベートーヴェンの4つのピアノソナタの演奏により、伝えることができたということを感じました。演奏後にそのように思えるようになるには、20年の歳月が必要なこともそのとき、はっきりわかりました。このことは、私を〈幸福な〉気持ちにさせてくれました。そして、それは、私の努力や体験だけでは得ることのできない、〈幸運の女神〉のような力が働いているように思えたのです。
今までの人生を思い返してみると、20歳でウィーンに単身留学したときも、留学中、初めて通訳の仕事をしたときも、20年前ウィーンで初めてのリサイタルを開催したときも、その時点で自分に自信があったことは一度もありませんでした。いつも不安で心配でした。それらを乗りこえてこられたのは、決して自分だけの力ではないと思います。それは、まわりの方たちの優しい励ましや応援、いつも見守ってくれていた両親の温かい支えなどがあったからですが、ひとつのことに打ちこんでいくと必ず、良い方向に進んでいくような予感がします。どんなことでも、専門を極めようと真摯に努力することは、〈幸運の女神〉を呼び寄せることになるのかもしれません。音楽家は、一般的に社会性に乏しいといわれることがあります。音楽にしか興味がなく、ピアノを弾くことがすべてのようなタイプの音楽家がいますが、私は、これからも、こうしてエッセイを書いたり、ベートーヴェンの研究から発するさまざまな事柄、たとえば、思想、歴史、哲学、文化などをもっと幅広く知りたいと思います。そして、少しずつ豊かになっていく自分の内面性や性格が演奏に表れ、聴く人に感動や幸福感を持ってもらえるような演奏家になりたいと考えています。まだその途上ではありますが、これからも、たくさんのことに興味を持ち、いろいろな方と交流しながら、社会性を持ってピアノを弾いていきたいと思います。
『ピアノ・ロード』というタイトルは、〈ピアニストへの道〉という意味を持って書きはじめました。連載は今回で終わりですが、『ピアノ・ロード』は、まだまだ続きます。また、皆さまと誌面でお目にかかれる日を楽しみにしています。ご愛読ありがとうございました。