ピアノ教育者の教育の現状レポート
第1章 ピアノ教育者の悩み
私は、ピアノ教師の指導をすることが大変多い。
ピアノ教師達が、音楽大学を出て、すぐにピアノを教える実践に入ることが多く、みな、たくさんの悩みを抱えていることを実感している。まず、教師本人が、演奏法を確立していない場合が多い。つまり、基本的な決まり事を習得していないのである。しかし、教師という立場上、これ以上、だれに教えを受ければいいのか。大学時代の先生に教えていただけるのは、高度な技術を要する楽曲で、それらを長時間練習し、レッスンに持って行くことも躊躇され、かといって、初心者用楽曲をレッスンしてもらうわけにも行かず、結局は、現状維持のまま、なんとなく「これでいいのだろうか」という思いでピアノ教師を続けている場合が多い。
振り返ってみれば、日本の音楽教育は、技術先行の感が強く、日本人特有の生真面目さを持って、音符を正しく弾くことを中心に行なわれてきたようだ。音楽大学出身者は、ほとんどが、幼少よりピアノを始め、早い人は、小学校高学年で、音楽専門家になることを決め、あらゆる犠牲をはらって、ピアノの練習に励んできた人がほとんどである。それが、当たり前として生活してきたし、ピアノ以外のことを知らなくとも、特に困難も感じないで生きてきた人が多い。大学を卒業するまでは、同じ環境から来た人の集まりの中にいるため、それほど違和感を覚えないでいられるが、大学を卒業し、一般社会に入ったとき、そのギャップに悩むことが多い。ピアノ教師になった人たちは、社会経験もないのに、突然「先生」と呼ばれるようになる。生徒の親は、ほとんどの場合、本人より年長のことが多い。大変、アンバランスな環境に、いきなり放り込まれるのである。大抵は、大学卒業後も、大学時代の先生にレッスンを受け、自分の技術を習得しようとするが、そのような専門的な楽曲を演奏できても、実は、幼児や初心者にピアノを教える時、あまり応用が利かない。音大まで進んだ人たちは、一般の人よりは才能があって、上手な生徒だったはずである。努力もできるし、先生のおっしゃることを早く理解でき、それを実践できたわけである。しかし、一般のピアノ教師になると、ありとあらゆる生徒がやってくるようになる。指を1本、1本考えて動かさないと弾けない子供や、おかしな癖を持っていたり、指自体が、ピアノにまったく向かなかったり、音感がなかったり、リズムが数えられなかったり、思いもよらない困難が待ち受けているのである。
私自身も、ウイーン帰国後、自宅で教え始めた時、左手のアルベルトバスと右手のメロディがどうしても同時に弾けない子供を目の当たりにしたとき、途方にくれたものだった。
ウイーンで受けた専門教育は、一般の生徒全般には、何の役にも立たないのである。必要なことは、忍耐と努力だけであったように思う。私の場合、演奏家としての活動が中心だったため、専門教育は、そのまま、自分の演奏活動に生かされ、欲求不満に陥ることなく、今に至っているが、多くのピアノ教師が、そんな環境の変化に戸惑いながら、悩み、苦しんでいるのである。自信も喪失し、自分のために演奏をする意欲も失っている。
私が指導しているピアノ教師は、一様に、そのような悩みを感じて、私の門を叩く。そういう人は、大変真面目で、一生懸命の人が多い。私は、早い時期から、音楽専門月刊誌に多種多様な事柄を記事にしたり、エッセイを書いたりして、全国のピアノ関係者に私の考えを発表する機会がある。現在も、「聴く人のためのアナリーゼ」ピアノの専門誌ショパン紙上で連載中である。そのため、全国から悩みを持った音大生や高校生、そして、ピアノ教師からレッスンの依頼を受けている。
これまで実践し、効果をあげてきた私のピアノ指導者のための指導法を、ピアノ教師の悩みや迷い具体的にあげながら、説明する。
第2章 自信喪失
まず、私のところにはじめてレッスンに来る方は、課題を設けず、弾きたい曲を演奏してもらう。たとえそれが、簡単な初心者用の楽曲でも、まったく構わない。音楽は、どんなものであっても、その人の演奏技術、解釈がわかるからである。
多くのピアノ教師は、バッハのシンフォニアやモーツアルトなどの比較的、音符の少ないものを持って来る場合が多い。そこで、一様に感じられることは、皆、「自信がない」ということ。演奏自体が萎縮しているのである。演奏全体の強さは、メゾフォルテ、テンポも遅めである。途中、音を外したり、指がもつれると、「あ、すいません。」なんて言いながら私の顔を見たりする。それでも、私は、一切演奏を止めず、「音の間違いなどに気をとられないで、最後まで弾いてください。」と言い、最後まできちんと聴く。
一曲弾き終わり、大抵の人が「いろいろ間違えてすみませんでした。なかなか練習ができなくて…」と言い訳をする。
ところが、私は、その人の演奏の中で、音の間違いや、弾きなおしをしたことについて、ほとんど注意を払っていないのである。音の間違いは、本人が一番よくわかっているわけだし、弾きなおしたところは、次に直せばいいわけである。私が、聴いていることは、その人が、どんな演奏をしようとしているのか、何を感じて弾いているのか、この曲をどんなふうに感じているのか、基本的な決まり事を把握しているか、演奏法を持っているか、などである。だから、「すみません。間違えて。」ということより、自分が、満足して弾けたかどうか、または、不満なら、どこが不満なのかが、わかっているかどうかを聞きたいわけである。
次章で具体的なレッスンを述べるが、ピアノ教師のほとんどが、一度目のレッスンでまずそのような反応を示すことの理由は何かをこの章では考察する。
彼らは、今までレッスンを受けるたびごとに、音の間違いに恐れを抱いていたふしがある。
幼少の頃から大学で専門教育を受けている期間は、常に、間違いなくをモットーに練習し、一度も音を外さないで演奏できた時、喜びを感じて来たのである。大学の教授達は、そういう演奏に、よい点数をつけてきたようである。音楽のもつ本来の意味や意義を考えることなく、難解な曲を征服するような気持ちが先行していた。学生は、それ以外のことを考える余裕もなく、練習に励んできたわけである。多少の歴史的事実や作曲家のエピソードは、話題にしたかもしれないが、現在のピアノ教師によく聞いてみると、表面的な事柄を知識として述べるだけであり、それが音楽に生かされていないのである。たとえば、ベートーヴェンのソナタ作品31−2には、テンペストという題がついているが、大学教師は、「シェイクスピアのテンペストを読みなさい、とベートーヴェンが言ったというエピソードがある」などと言う。すると真面目な学生は、とりあえず、シェイクスピアのテンペストを読むわけだが、だから、それが、どう、この楽曲と結びつくのかよくわからないまま、テンペストを練習するから、テンペストを読んだという事実のみで終ってしまうのである。
これは、教育ではなく、ただの簡単な情報の伝達のみである。まったく表面的で深みのないことである。このような、教育を大学まで受けてしまい、そのまま社会に出て行くと、それ以上発展できなくなり、結果的には、袋小路に入り込んで出口を見つけられなくなってしまう状況になってしまうのである。
もっと、よくないことは、大学の教授や著名な音楽家が、演奏技術は、15歳までしか進歩しない、とか、これ以上上手くなれない、悲観的なことをしたり顔で言うことがよくあることである。進歩や発展は、その人の気持ちと努力次第で、一生続くはずなのに、無責任に、そのような言葉を吐き、だれも幸せになれないような不毛な話を教師がするのは、大きな問題である。そのような教師に習ってきた、次の世代の教師が、また同じことを繰り返すことになり、これこそ、まったく進歩が見られない悪循環に陥るのである。
私が、高校生だった頃、音楽教育はすでに頂点に達し、指の回る人たちは、たくさんいた。しかしその中から、世界の音楽界(コンクールでいい成績をとることでなく、本当の音楽家として認められる演奏家)が排出されたであろうか。残念ながら、あまり、いないのが現状である。そして、演奏家ばかりでなく、よい聴衆を育てることのできる可能性のあるピアノ教師までが、自信を失い、音楽とどう向き合っていけばいいのかわからない状態になっている。現在、何かが違うと感じて、正しい教育を今から受けたいと思うピアノ教師に、私は、たくさん会ってきた。次章では、本当の教育とは何かを、具体的にお話する。
第3章 本当の教育とは何か
具体的なレッスンは、私の質問から始まる。
楽曲は、前章に出てきた、ベートーヴェンのテンペストを弾いたとしよう。たとえば、あるフレーズの中のある音が、不自然に出てしまったことについて、なぜ、そこをそのように弾いたのかをたずねる。ほとんどの場合、そう弾いてしまったことさえ覚えていないことが多い。音の間違いの場所は覚えているのに、不自然なフレージングには注意が払われていないのである。音楽は、フレーズをどう扱うかによって、まったく印象が違うことに気持ちが働いていないのである。
次に、ここにピアニッシモとフォルテッシもがあるが、どの程度の音量を想像したかを質問しても、具体的に示すことができない。音量も演奏の重要な要素であるにもかかわらず、研究されていないのである。その他、問題が多いのは、ペダリングである。ペダリングの仕方をきちんと習っていないことが非常に多いことに、驚かされる。今でも、バッハでは、ペダル使用を禁止する教授がいると聞くが、それは、大きな間違いであり、そのようなことを強要するのは、罪である。また、手首の使い方を演奏に生かしきれていないことも、よくあるし、もっと基本的なところで、椅子の高さ、座る姿勢に問題があるのに、今までだれにも指摘されたことがない人が、たくさんいるのである。
このように、音を間違えないで弾くこと以前の問題が解決されないまま、「何か違う」と感じているピアノ教師が多いことに注目しなければならない。
音を外すことは、椅子が高すぎたり低すぎたりして、正しい姿勢を取れなかっただけが原因のことがあるのだ。身体のどの部分に重心を置いて座るか、背筋の伸ばし方、肩の位置、そのようなことで、音を外さなくなるのである。だから、音を外したくないと思って演奏することだけに神経を使うことは、あまり有効な結果を生まない。
ピアノの構造や機能をまったく知らないピアノ教師も多い。ピアノという楽器を知ることで、疑問が解決されることがある。
内容的なことの例としては、たとえば、テンペストを弾く場合、ほとんどの生徒が、シェイクスピアのテンペストを読んでいるのである。「では、どんな話でしたか?」と聞くと、あまり上手く説明できない。「どの部分が、ベートーヴェンのテンペストと繋がるのでしょうか?」と聞くと、尚更、口をつぐんでしまう。質問を変えて、「シェイクスピアは、いつの時代の人でしたか?」「他に、どんな作品がありますか?」などと発展させると、ほとんどの人は、貝のようになってしまう。そこまでは、考えていなかったわけである。本当に大切なことは、テンペストを読むことではなく、読んだことを目的の楽曲と結びつけ、自分の中で考察することである。
さて、今までの具体的な例から導き出される一つの回答は、彼らは、何も習っていないということである。基本的な事柄を教えられていないのである。本来、専門家なら知っているべき事柄を知らないのである。これは、どういうことだろう。幼少からピアノを続けている専門家が、なぜ、何も知らないのだろう。それは、今まで、本当の教育を受けてこなかったからである。その無知の原因は、その生徒だけではなく、その生徒の先生や大学の教師にある。これからは、悪循環を脱して、新しい発展的な循環をするためにも、本当の教育がどんなことであるか、知ることが大切である。
本当の教育とは、各人の興味を刺激し、知識、教養を専門分野に生かして活用できるような方法を教えることである。そして、それを繰り返すことで、そのような思考過程ができる方法を身につけることなのである。それには、訓練が必要で、「ああ、そうだったのか」と頭でわかることとは、また別の問題である。身につけるためには、若いうちからの、そのような訓練が有効だが、いくつになっても、それに気がついて実践すると必ず改善され、進みは遅くとも、今までより必ず上達する。人間の進歩は、けっして止まらないのである。
以上のことを踏まえ、あきらめずにこつこつと勉強する方法を知ると、大人の場合、ある時点から飛躍的に進歩する。眠っていた頭脳を目覚めさせるのは、少々、時間がかかり、結果が出ないことに苛立ちを覚えるかもしれないが、そこでよい教師は、必ず上達することを信じさせるよう導かなければならない。教師本人が諦めてしまったら、おしまいである。多少、年齢が行っていても、それに気づいた教師は、それを自分の生徒に応用できる。それによって、よい連鎖が生まれ、本当の教育を受けられるこれからの世代が増えるということである。こんなに素晴らしいことはないではないか。
第4章 具体的なレッスンの紹介
前章では、具体例の提示をしたが、この章では、その答えを紹介しよう。
まず、音楽の基礎をもう一度見直すことである。フレーズをどのように扱いたいかを、私が、いろいろなパターンを例に出し、どれが一番いいと思ったかを一緒に考察する。単純に、4小節のフレーズを少しクレッシェンドしたり、逆にしたり、思い切って、故意に不自然にしたりしてみる。そのパターンを生徒にも考えてもらう。そして、たった4小節のメロディの扱いを決定する。その時行なった、たった4小節のメロディの歌い方の決め方を知ると、他も部分に早速応用ができるのである。その時、人によって同じ結果になるとは限らず、同じメロディが、違う演奏になることもよくある。それが、個性である。
音量についても同様で、汚い音でも良いから、出せるだけの音、聴こえなくてもいいから小さい音を出してもらう。その中から、その楽曲に合い、演奏者も満足する音量を決めるのである。音楽は、絶対的なものでなく、相対的なものであることを教える。
たとえば、シェイクスピアのテンペストについては、次回まで、本気で読んできてもらう。その際、どの部分がこの楽曲に関係が深いか、必ず答えてもらう事を最初から決めておく。
次回のレッスンで、その答えを聞き、私の意見も述べ、創造力の増幅を図る。その結果が、「私には、シェイクスピアのテンペストとベートーヴェンのテンペストに関連性を見いだせなかった」でも、構わないのである。読んで考えることが大切なのだから。「シェイクスピア、面白かったので、ハムレットも読んでみました」なんて発展していくと、ベートーヴェンを勉強したことで、シェイクスピアのことまで知ることになるわけである。これが発展的なレッスンで、音楽を通して、音楽以外の教養を身につけることにも繋がるのである。このような連鎖が、それ以外の事柄にも波及し、考えること、興味を持つことの訓練となり、ここで、経験を伴った、豊かな本当の教養と知識を得るのである。その教養と知識は、そのまま自分の音楽に帰ってくる。
その他、演奏技術のメソッドもあり、これは、先日「魔法のピアノ上達法」という公開講座で紹介したが、ピアノは、身体と頭で弾くということを徹底的に理解することを目的としている。その際、鞠つきをしたり、ヨーヨーをしたり、手首の構造も実感してもらうのだが、そんなことが、ピアノ上達に大変有効である。
このように、演奏法、解釈、個性全てを総合的に教えることで、ピアノ教師の悩みも少しづつ、改善する。悩み多きピアノ教師達の、悩みを、真剣に聞き、一緒に考える音楽家でありたいと常に考えている。
第5章 聴衆を育てるピアノ教師
このように、音楽大学を卒業してピアノ教師をしている人たちの、悩みを聞いていると、演奏できるかどうか、という点が、自信のなさに繋がっている。今まで書いた私のレッスンを受けると、今までよりは、確実に上達し、少しづつ自信を取り戻してくる。難解な曲は、思うように弾けなくとも、初心者〜中級くらいの生徒には、部分的にでも楽に示すことができるようになる。そうなると、今度は、幅広い分野に目を向ける余裕が生まれ、生徒との関係も、音楽だけに固執しない、余裕あるレッスンができるようになる。
ピアノを習いたいという人は、演奏家や専門家にならなくても、少なくとも、よき聴衆になれる可能性と要素を持っている。その部分に注目し、ピアノ教師は、技術の習得ばかりでない、幅広い目をもった音楽の専門家として、生徒達と接することに努めて欲しい。
私は、日本で音楽専門の学校に行ったことがない。ウイーンとロンドンという音楽の都で勉強した。そこでは、演奏技術に固執したり、生徒の演奏を、途中で止めて、「そこは違う」と言う先生は、一人もいなかった。全体の音楽を通して、総合的なことをおっしゃる先生がほとんどだった。そして、その教授たちは、驚くべき知識と教養を持ちながら、それを見せびらかすのではなく、その時の音楽に関連付けた事柄として、的確に話してくださった。時には、恋愛論になることもあったし、物理学や自然科学の話題になることもあった。それらの幅広いテーマの話が、いかに、私の内面に入り込み、教養となって身についたかはかり知れない。そのような、教育を早いうちから受けられたことは、幸運だった。そんな素晴らしい体験を、是非、多くの悩めるピアノ教師にも伝えて行きたいと思っている。
このレポートは、少し観念的な部分が多いが、別な機会に、とことん具体的にお話したいと思う。私のこのような活動は、これからも、一生続いていく予定である。