ベートーヴェンの思想と作品解釈
フランス革命期、激動のヨーロッパおよび、そこに生きた人達との関係と影響
第1章 序論
第2章 啓蒙思想とドイツ観念論
第3章 ナポレオンとベートーヴェンの思想
第4章 ベートーヴェンの作品の思想的考察
第5章 結論
第1章 序論
フランス革命の時代、すなわち、啓蒙思想によって、近代的な、開かれた思想に向かい始めた時代に、ベートーヴェンは生きていた。ベートーヴェンの時代(1770年〜1827年)は、フランス革命の勃発、ナポレオン、カント、ゲーテ、そして、ナポレオンの肖像などを数多く描いた、近代絵画の祖といわれるダヴィッドなども同時に生き、各々の芸術的分野で独自の活動をしていた。ベートーヴェンの作品を解釈する時、それらの別な分野の偉大な人物の存在を無視してはならない。ベートーヴェンの音楽は、力強く、独創的で、それまでの音楽とは根本的に違うと言われている。250年を経た現在も、衰えない芸術性、新鮮さは、彼が生きた時代背景も考察なしには語ることができない。音楽は、作曲技法だけで出来上がるものではなく、その人物の生きた社会情勢にも大きく影響される。ベートーヴェンの生きた時代は、現代につながる、新しい思想が次々と芽生えた時代であった。現代の音楽家がベートーヴェンの音楽を解釈する時、当時の情勢を充分考慮しなければならない。
ジャック=ルイ・ダヴィッド(図1)作の「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」(図2)は、ウイーンの美術史博物館にある。この1枚の絵画から、フランス革命、ナポレオンの出現、新古典主義の絵画などを内包する、18世紀初頭の芸術、文化、思想が浮かび上がってくる。この1枚の絵画が書かれた18世紀中期〜19世紀初頭の啓蒙主義の時代を、音楽家ベートーヴェンの音楽を中心に、政治家ナポレオン、画家ダヴィッド、哲学者カント、文学者ゲーテの複雑に絡み合い、影響しあった事実を検証する。
ベートーヴェンが生きた、激動のヨーロッパをもう一度見直し、時代背景に重点を置き、ベートーヴェンの作曲の中心であったピアノソナタを例にあげながら、彼の作品に内包された思想を考察する。
第2章 啓蒙主義とドイツ観念論
1.啓蒙主義の時代
バロック時代は、王室、貴族、教会の権力が頂点に達し、その民衆との生活文化などの貧富の差がはなはだしくなっていたが、そのような時代の末期に、ハイドンやモーツァルトが生きていた。彼らは、まだ、王室、貴族、教会の権力や財力に依存して生計を立てなければならない時代だった。しかし、ベートーヴェンは、モーツアルトの時代と明らかに異なる時代に生きたと言わなければならない。啓蒙主義が、イギリス、フランスの方からヨーロッパ、特にドイツ、オーストリアにも浸透してきたからである。ヨーロッパの思想的状況の変化は、あらゆる人々の生活に影響を与えた。
現在ならば、多くの人たちが賛成する、または、当然の事ととらえられると思われる思想が、18世紀初めまでは、それを明確に提言する者がいなかった。啓蒙思想は、当時、大変新しい思想だった。それまでの、王室、貴族、教会の古い権威に疑問を持ち、特に教会の特権的地位による、信仰の歪曲を正そうとしたのである。モーツァルトの生地、ザルツブルクもまた、枢機卿が絶大な権力を持ち、あらゆることに干渉し、世の中を思うがままに振舞っていた。モーツァルトは、それに疑問を持ちつつ、やはり、彼らを無視することはできなかったのだろう。しかし、1792年、ベートーヴェンがウイーンに定住したとき、1789年、すでに、フランスでは、フランス革命が起こっていた。啓蒙思想は、民衆まで浸透し、自由、平等が明確に示され、それが行動となってヨーロッパを動かし始めた。啓蒙主義は、今までのモラル、倫理、宗教ももう一度、理性にかなったものとして見直したのである。
それには、民衆の無知と迷信をなくし広く彼らを啓蒙することで、貧困から抜け出すことができるという思想である。その大きな流れが、フランス革命となった。教育を受けることは、特権ではなく、広く門を開くべきだと考えられた。啓蒙主義の時代に、現在に通じる教育が始まったといってよい。「百科全書」という辞典が作成されたのも、啓蒙主義の時代である。そして、もう一つの大きな特徴は、「人権」である。人間に生まれたと言うだけで、万人に与えられた権利、つまり、言論の自由、思想の自由、奴隷の廃止などが提唱された。啓蒙主義の思想は、近代の思想に強く結びついている。古い時代の終焉ともいえる、大きな分岐点になっている。現代の人も、啓蒙主義の時代の思想には、違和感なく受け入れることができる。ベートーヴェンは、そのような時代に、ウイーンに生きた。フランス革命のような変革的な事実は、オーストリアには起こらなかったが、その影響は、大きくベートーヴェンの作曲活動にあらわれている。彼の時代は、まさしく、ヨーロッパが、近代に向かって大きく動こうとしていた時代であった。
2.ドイツ観念論
啓蒙主義は、イギリスから起こり、フランスで大きな動きとなった。その頃、ドイツでは、どのような動きがあったのだろうか。ケーニヒスベルクにカントが生まれたのは、1724年で、ゲーテは、1749年、フランクフルトに生まれた。この偉大な人物が、ベートーヴェンと同じ時期に生きていたのは、興味深い。
カント以前の哲学はカントに流れ、それ以降の哲学はカントから流れるといわれる、偉大な哲学者カントは、啓蒙主義と同世代である。カントは、それまでの哲学者では、初めて大学で教鞭をとった人である。ギリシャ哲学から発する、3000年の哲学を全て理解し、それらを基に、独自の哲学を持った人である。ここでは、カントの哲学を詳しく説明することが目的ではないので、ベートーヴェンに与えたと思われる影響について述べる。
ベートーヴェンの日記(Tagesbuch)に記された、カントの著書からの抜書きをあげると次のようになる。
「原始の偶然の集合が世界を形作っているのではない。もっとも賢明な理性に源を発する、根源的な力と法則が、世界秩序の恒久的な源となっているのである。世界秩序は偶然ではなく必然性をもって理性に源を発しなくてはならぬ。世界秩序と美について明らかにされるものがあるとすれば、それは、神である。美も神を基とすることでは世界秩序と少しも変わるものではない。世界秩序が一般的な自然法則に源を求めることができるのは、それは全自然が最高の叡智の働きであるからである」(*1)
「いろいろの異なる諸惑星の住民たち、それだけでなくこれらの惑星上の動物や植物さえもが、それを形成している素材は、結局それらが太陽から遠くはなれていればいるほど、それに正比例して、それだけ軽くまた精細な種類のものでなければならぬ。また彼らの構造に特徴的な繊維の弾力性は、ますます完全でなければならぬ」(*2)
「考える自然の優秀さ、彼らの表象の機敏さ、彼らが外界の印象によって得る概念の明確さと活発さ、それに加えるにこれらの概念を合成する能力、最後にまた実践行動の機敏さも、要約すれば彼らの完全性を全て包括する一定の規則のもとにあり、この規則にしたがって、これらの性質は彼らの住んでいる場所が太陽からの距離に比例して、より優秀になり、また、完全になる。・・・惑星上の精神世界と物質世界の完全性は、水星から土星に至るまで、あるいはおそらくさらに土星を越えて(尚他に惑星があるかぎり)一つの正しい級数的な続きをなしており、太陽からの距離に比例して増加し前進して行く」(*3)
「2つの力、双方とも同じ大きさで、同じように単純で、同時に根源的で普遍的である力、すなわち求心力と遠心力」(*4)
ベートーヴェンは、世界秩序と宇宙に至る広大な概念の部分をとりわけ興味を持って、書き付けている。哲学は、自然科学と密接な繋がりがあるが、18世紀には、科学の分野も発展をとげ、ニュートンが宇宙の物理学を提唱し、今までの自然科学的といわれる概念の幅が拡大されていた。新しい自然科学は、自然は合理的にできていて、理性にかなっていることを裏付けたのである。そのような、物理学、自然科学の発展が、カントのような、偉大な哲学者を生んだことの要因にもなった。
ゲーテは、思想的にはロマン主義の作家である。ゲーテが生きた時代には、古典派の作曲家といわれるベートーヴェンと重なっているが、思想的には、カント以降の時代に生きたということができる。カントの冷たい理性の時代が終わり、その後を受け、ロマン主義がドイツを中心に起こった。「感情」、「想像力」、「体験」、「憧れ」という理性とは違う、暖かいものへの流れに移っていった。「若きヴェルテルの悩み」、「ファウスト」は、ロマン主義のゲーテの代表的作品である。
ゲーテとベートーヴェンは、実際に交流があった。ゲーテのかつての恋人の娘にあたり、その母の死後もゲーテと親しく親交のあったベッティーナ・ブレンターノという女性がいた。彼女が、ウイーンにベートーヴェンを訪ね、ベートーヴェンの人間と音楽に傾倒し、ゲーテとベートーヴェンを引き合わせようとした。実際に、二人は会うことになるが、互いに芸術性は認めあったものの、人間的には、かみ合わず、親しく交流することにはならなかった。
ベートーヴェンは、ゲーテの詩に音楽をつけている。「君よ知るや、かの国」「永遠の恋の涙かわかず」などを、ベッティーナに歌って聞かせている。「ゲーテの詩は、内容だけでなく、その持っているリズムでも大変強い力で私を動かします」(*5)と、ゲーテの文学に傾倒している。
このように、啓蒙主義とロマン主義が交錯するこの18世紀中頃〜19世紀にかけて、ヨーロッパは、思想的に大きな変革期にあった。まさにその風潮の中に生きたベートーヴェンの思想とその作品は、これらの哲学、文学の中で育まれたのである。
(*1)〜(*4)カント:一般自然史と天体の理論より
(*5) ベッティーナ・ブレンターノがゲーテに宛てた手紙より 1810年7月
第3章 ナポレオンとベートーヴェンの思想
1.フランス革命
啓蒙思想が、民衆の思想を啓蒙し、貧困が、王室、教会の締め付けが原因によるということにめざめた民衆は、自由、平等を唱え、政治犯が投獄されていたバスティーユ牢獄が開放された。さらに、農民運動などが基になり、1789年フランス革命が起こった。1893年、ルイ16世とオーストリアのハプスブルク家から嫁いでいた王妃、マリー・アントワネットが処刑された事は有名である。その後、革命フランス軍は、1894年、ベートーヴェンの故郷ボンを占領した。ボン選帝候は、自ら啓蒙主義を推進し、「武力には訴えない」という考えを持っていたため、革命に対し、中立を保っていた。しかし、彼は、マリア・テレジアの末子であったため、故国オーストリアの圧力に抗しかね、干渉戦争に参加せざるをえなくなった。結果として、地理的にフランスに隣接しているボンは、革命フランス軍に占領されボン選帝候は支配の終焉を迎る。そして、ベートーヴェンが生まれた町ボンでの彼の政治生命は失われる。
オーストリア・ウイーンでも、フランス革命の流れが波及することを恐れ、政治犯として多数の重要人物が逮捕されたり、城門が閉められたりした。ベートーヴェンは、故郷ボンの運命を複雑な思いで受け止めながら、ウイーンで暮らすことになる。ウイーンも、国を守ろうという愛国主義と、自由平等を求める共和主義との思想のはざ間で、王も貴族も民衆も揺れ動いていた。フランス革命は、このように全ヨーロッパを不安定な気持ちにさせたのである。
2.ナポレオンと英雄交響曲
フランス革命の精神、自由、平等は、ベートーヴェンの心に深く浸透した。それは、愛国主義と共和主義をあわせもった感情であった。ベートーヴェンは、それらの二つの主義を実践した人物が、ナポレオンであるととらえていた。このことは、交響曲第3番「英雄」のタイトルに、“ボナパルト”と書いた事でもわかる。ところが、1804年5月、ナポレオン戴冠の知らせを聞くや否や、共和主義的な義憤にかられ、ベートーヴェンは、そのタイトルを削除したというのである。ナポレオンは、革命後、強力な指導者として、力を発揮していた。しかし、彼の侵略がロシアまで及んだとき、全ヨーロッパは、ナポレオンの真の目的を悟り、制圧に動くのである。
しかし、ベートーヴェンは、ナポレオンが皇帝になった時、すでに、ナポレオンという人物に疑問を抱いている。愛国主義と共和主義は、反目することもあったのである。オーストリアは、長い間、帝政を守りつづけてきたので、共和主義は、愛国主義と相反することになってしまった。そのせめぎ合いの中で、ベートーヴェンは、苦悩し、結局は、愛国主義のほうに傾くのである。彼は、「手に武器を持って法を制定しようとする人は、常に征服者になる」(*1)と言っている。ベートーヴェンの弟子で助手の、フェルディナンド・リースの報告によると、次のような、信憑性の高いベートーヴェンとのやり取りがあったという。
「この交響曲においてベートーヴェンは、ボナパルトのことを念頭においていたが、それは、まだ、第一執政官時代のボナパルトのことであった。ボナパルトが自ら皇帝と宣言したという知らせを聞くや、彼は激怒して叫んだ。<奴さんも並みの人間だったか。彼も、全ての人権を蹂躙して自らの野心におぼれることになるだろう。みなの上に自分を置き、暴君になるだろう」(*2)
その事件の3ヵ月後、楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルに、「この交響曲は、本当はボナパルトという、タイトルです」と書き送っている。つまり、その時は、ナポレオンが皇帝戴冠したとしても、ベートーヴェンは、まだ、この「英雄」というタイトルをつけた作品に対するナポレオンとの内的関係に、執着していたのではないか。1805年、仏墺戦争が勃発してからは、ナポレオンに信服していたことを示すことができなかったのではないだろうか。
このように、ベートーヴェンの重要な作品に、ナポレオンは強く関わっている。ナポレオンの出現は、啓蒙主義から発したフランス革命があったからで、当時の新しい思想によって激動したヨーロッパに、出現したナポレオンは、その後、侵略の罪でセントヘレナ島に流刑になる。そして、ウイーン会議で、ヨーロッパを基の姿に戻そうということになるのである。ベートーヴェンは、新しい思想を推進し実践したナポレオンと、侵略し権力を握ったナポレオンの二面性を早いうちに認識し、それによって、自己の愛国主義と共和主義の確執を常に持っていたと思われる。
(*1)マッシン:ベートーヴェン 1970 ミュンヘン
(*2)小松雄一郎:ベートーヴェンの手紙
第4章 ベートーヴェンの作品の思想的考察
1.ボンで培われた自由な思想
ベートーヴェンが生まれた、1770年は、すでに啓蒙主義の真っ只中であった。ベートーヴェンは、ボンに生を受け、20年に渡ってその地に住み、幼少の頃は、天才少年、モーツアルトの再来として注目されていた。ベートーヴェンの祖父の時代から、宮廷指揮者であり、父、ヨハンも宮廷楽団に歌手として雇われていたため、選帝候、大司教にも目通りを許され、交流が深かった。
当時の選帝候、マクシミリアン・フリートリッヒは、先代のクレメンス・アウグスト積極的な文化政策を受け継ぎ、さらに、ボンの音楽は盛んになった。啓蒙君主として名高い、プロシアのフリートリッヒ二世に習い、彼は、イエズス教会派の資産などを一部没収してまで、教育設備を充実させ、1771年、アカデミアを創設する。その後、1776年、マクシミリアン・フランツが、ケルン大司教、ボン選帝候となる。彼は、オーストリア女帝、マリア・テレジアの末子で、兄は、オーストリア皇帝、ヨーゼフ2世である。ヨーゼフ二世も、フリートリッヒ二世と並ぶ啓蒙君主であった。その強い影響で、マキシミリアン・フランツ選帝候も、強力に啓蒙主義を推進した。音楽を好み、学芸の発展のため、有能な人物、学者、芸術家をボンに招き、先代が創設したアカデミーを大学に昇格する。フランスの進歩的思想は取り入れながら、武力の手先にはならないことを示すため、中立を守った。当時のボンは、啓蒙主義が、ケルン大司教(ボン選帝候)さえも、推進したものであったし、プロイセンのフリートリッヒ二世、オーストリアのヨーゼフ二世も新しい思想に傾倒し、学術、芸術を重んじ、学ぶということ、光を当てるという意味の啓蒙を推し進めた。王室が率先してそのような思想を持つことは、大学やアカデミーの創設、辞書の編纂などの大規模な事業を行なえることができ、芸術家、学者などにとっても、大変良い環境であった。1785年、ボン大学が設立された時、ベートーヴェンも、入学している。ベートーヴェンの若き時代は、ベートーヴェン家の長男として家計を支える立場にあったが、貴族の音楽教師をすることで、そこにある、図書館の蔵書を読む機会に恵まれたり、知的な探究心を育める環境にあった。ベートーヴェンは、シェイクスピアやシラー、ヘルデルなどもさかんに読んでいることがわかる。ボンが自由で学術者には住みやすいい環境であったことは幸福であった。
このような町ボンでベートーヴェンは育った。後に、ルードルフ大公に宛てた手紙の中に、「自由と進歩のみが、全ての偉大な創造と同時に、芸術の世界の目的です。」と書いたが、その根源に、彼が育ったボン時代の社会情勢の影響がはっきり見える。
2.1797年頃(ベートーヴェン27歳)ピアノソナタ作品13 悲愴
新しい思想が台頭してきた時代に、ベートーヴェンが生きていたことは、前章で述べた。このように、バッハ、モーツァルト、ハイドンの時代とは明らかに異なる社会情勢のなか、ベートーヴェンは、独自の新しい音楽を作曲し続けた。この1797年頃のベートーヴェンは、彼が自分ではどうすることもできない事柄と対面する。フランス革命と難聴である。新しい思想は、人権を尊重すること、自由平等が明確に示された。そのような自由に向かっている世の中になりつつある時期、ベートーヴェンは、音楽家として致命的な、難聴となってしまう。そのときに現れた作品が、ピアノソナタ作品13 悲愴である。この曲の構想は、すでにボン時代、ベートーヴェンが12歳の時に、ボン選帝候マクシミリアン・フリートリッヒに捧げられた、ヘ短調のソナタに現れている。
作品13、ハ短調ソナタは、今までのソナタ形式とは大きく異なり、冒頭にグラーべを置いた。このグラーべは、難聴という困難を表現した。その後にくる、アレグロは、その困難に対する内的対立である。その内的対立、すなわち、困難への対抗のテーマが、ボン時代、少年期に作曲されたソナタにすでに現れていることは興味深い。対抗が困難をなだめ、第二楽章に愛情に満ちたアダージオがあらわれ、終楽章のロンドで、再び、若きボン時代のソナタの第二主題が再び現れるのである。これは、自由平等という啓蒙思想の中で育ち、教育を受けたベートーヴェンが、その思想を若いうちから真摯に考察し、自分の思想としていることが感じられる。
“悲愴”は、ベートーヴェン自身が名づけたタイトルである。彼自身がつけた題名は、田園、エロイカ、など、ありふれた題名であり、それが表題音楽とみなされるような強さは感じられない。それに対して、題名のない楽曲の美的意味は、一言ではいえない、複雑な内容が内包していることにある。この事実を逆説的に考察すると、タイトルをつけた場合、その題名以外、他の意義を持たない、明確な意義を見出すことができるのである。ありふれた題名をつけた数少ない楽曲には、表題が実は強い意味を持つと考えられる。つまり、悲愴は、はっきりと難聴という困難に対して書かれた題名である。そして、その困難に打ち勝つための強い意志とその意思を実践する強い思想を、音楽の中で消化したものといえるのである。
3.1802年頃(ベートーヴェン31歳) ハイリゲンシュタットの遺書 ピアノソナタ作品31の2 テンペスト(嵐)
ベートーヴェンは、1801年、「私は、これまでの仕事にほとんど満足しておりません。今日から私は、新しい道を歩むつもりです」(*1)と言って、作品31の3つの作品群を作曲した。その中でもとりわけ、新しい道を感じるものが、作品31の2 テンペストである。ソナタ形式という形式美の型を破ったともいえる、冒頭部。その点では、前述の悲愴も冒頭が、他とはまったく違っていたことを思い起こす。テンペストは、ほとんど全部の形式が朦朧とした薄明かりの中にあるようで、各機能を規定することは困難である。だからといって、聴き手は、そのあいまいさを無理矢理定義したり明らかにすることはせず、形式の矛盾がその芸術性をないているとみなさねばならない。形式美を壊したという説も、古い因習にとらわれた評論家などが述べているが、テーマの発展として大きくとらえるのではなく、個々の素材を関連づけ、機能を変えさまざまな形になってゆく、ととらえることができる。テンペストは、非常にロマンティックな曲であり、憧れ、官能さえも盛り込まれている。それらは、まさしく、カントの宇宙に対する見解であり、ゲーテのロマン主義的作品に現れる共通性である。ベートーヴェンは、啓蒙思想とともに、発展した哲学、ロマン主義的文学も理解し共感していたことがわかる。
この“新しい道”の僅か数ヵ月後に、ベートーヴェンは、ハイリゲンシュタットで、兄弟と宛先不明のある人物に、遺書を二通書いた。この“新しい道”という前進的な意欲と、死を暗示する遺書の出現。この急展開は、何が原因なのか。その答えは、以下の文章から推察することができる。
「私は、今の今まで希望を抱いてやってきて、ある点までは病気が治ったと思ってきた。この希望がいまやきれいになくなった。秋の木の葉が落ちて枯れてゆくように、私の希望も干からびてしまった。ちょうどこの世界に私がやってきたように、私はこの世から立ち去るのだ。素晴らしい夏の日々にしばしば私を活気づけた気高い勇気も、今は消えてしまった。おお、神の摂理よ、私に素晴らしい一日を与えたまえ」(*2)
“新しい道”のあと、このような遺書を書いたベートーヴェンの心情は、結果的には、生命を絶つような事実はないことから、本来の遺書とは、違う意味があるとされている。難聴に対しての不安と絶望は、確かに想像に難くない。兄弟に宛てた方の遺書には、次のように書かれている。「燃えるような快活な気性に生まれつき、人と交わる喜びを楽しむ方でいながら、若い身で自ら隠遁し、孤独の生活を送らねばならなかったのだ。だが、私は、つんぼです。もっと大きな声で話してください、とは言えたものではない。・・・・完璧であったその感覚の衰えを人に知らせるなど、どうしてできようか」(*3)
その時は、どんな哲学、文学、思想も、彼を救うことができなかったようにみえる。ベートーヴェンのハイリゲンシュタットでの生活は、孤独だった。医師シュミットの忠告で、ハイリゲンシュタットに仕事場を移す。そこは、静かで、緑が多く、散歩にも適したところであった。しかし、貴族令嬢がレッスンに通うような環境ではないし、リヒノフスキー候邸でおこなわれるような音楽夜会があるわけでもなかった。ベートーヴェンにしてみると、まさしく、“隠匿”または、“流刑囚”のように感じられたのであろう。しかし、ベートーヴェンは、自ら命を絶たなかった。結果的には、静かに、ハイリゲンシュタットで自己との対決をしたのである。
テンペストで築いた新しい道は、その後も発展を続け、ベートーヴェンは、複雑に絡み合う思想、哲学、文学、その他のあらゆることを、音楽によって確かに表現してゆくのである。
(*1)小松雄一郎:ベートーヴェンの手紙
(*2)カール・ダールハウス:ベートーヴェンとその時代
(*3)小松雄一郎:ベートーヴェンの手紙
4.1812年頃(ベートーヴェン42歳)ゲーテとの交流と不滅の恋人
1812年は、ナポレオンのロシア出兵の失敗により失脚し、衰退してゆく。この頃のベートーヴェンのナポレオンに対する意見や感想は、何も残されていない。そのかわり、不滅の恋人に宛てた手紙が書かれ、報われぬ恋に身を焦がしていた。不滅の恋人は、誰か、という問題は、諸説あるが、いまだ決着がついていない。この年、ベートーヴェンは、テプリッツに旅行をしており、宿帳の記述などさまざまな証拠物件があり、ヨゼフィーネ・フォン・ブルンスヴィックという説、アント―ニア・ブレンターノという説が有力である。どちらにせよ、42歳のベートーヴェンは、不滅の恋人と密会することも目的の一つとして、テップリッツに旅行している。
そこで、ベートーヴェンは、ゲーテと会談している。ベートーヴェンが、ゲーテの芸術に傾倒し、彼を尊敬していたことは、数々の手紙や文献で知ることができる。ゲーテの詩に歌曲をつけたものも多い。ゲーテとの会談を計画したのは、第2章で述べた、ベッティーナ・ブレンターノである。彼女の熱心な手紙により、ゲーテは、ベートーヴェンを知った。その会談の前に、ベートーヴェンは、エグモントに作曲したものをゲーテに送っている。しかし、ゲーテは、音楽を解することができたかどうか、疑問に思えるふしがある。ベートーヴェン嫌いの取り巻きの意見を鵜呑みにして、ベートーヴェンの音楽を評価していた。ベートーヴェンに対する返事も、儀礼的なものであった。ベートーヴェンがゲーテの詩を賛辞するのとは対照的に、ベートーヴェンについては、ほとんど触れられていない。
この1812年の会談では、ベートーヴェンもゲーテに実際会ってみて、ゲーテの八方美人的性格に不快感を持ち、ゲーテに直接、意見まで述べている。ゲーテは、このような不穏な時期に、テプリッツにくる前は、ナポレオンの妻、マリー・ルイーズを称え、テプリッツでは、オーストリア皇后にご機嫌をとる。明らかに、体制に媚びているのである。これは、ベートーヴェンの思想と相反するものであった。ベートーヴェンは、ゲーテの権力に対する卑屈さだけでなく、表面に現れたゲーテの精神の卑屈さをたしなめたのである。ベートーヴェンとゲーテは、本質的に異なる人物であった。
とはいえ、ゲーテの作品に対するベートーヴェンの評価は変わらなかった。人間性と優れた作品は別のものと考えられるのは、逆にベートーヴェンの人間性を表していて興味深い。
この時期、ベートーヴェンは、不滅の恋人の確執、ゲーテの会談などのため、テプリッツに滞在し、ウイーンを不在にしていた。1812年頃は、彼の人生の中で、ただ一度、スランプ状態にあったようで、作品が極端に少ない。
1814年になると、各々の国の思惑が交錯し、メッテルニヒの思惑とも相まって、「会議は踊る。されど、会議は進まず」と揶揄された、ウイーン会議が開かれる。そのような社会情勢に、ウイーン在住のベートーヴェンも巻き込まれた。今や世界的に有名なベートーヴェンを各国首脳に紹介する目的で、友人の貴族が仮装舞踏会での演奏会を企画し、その演奏会が不首尾に終わり、落ち着かない時期でもあった。
この頃のベートーヴェンの日記(Tagebuch)に頻繁に現れるのが、インド哲学書である。ナポレオンをはじめ、ヨーロッパの不安定な状態の中、ベートーヴェンが、東洋哲学を読んでいたことは、注目すべき事柄である。ベートーヴェンが、ハイリゲンシュタットの遺書を書いたときは、孤独に苛まれていたが、1814年ごろは、「田舎に留まること。ここでは、私の惨めなつんぼも、私を悩ますことはない。森の中の恍惚」(*1)と書いている。次のような、ベートーヴェンのインド哲学の抜書きは、人間の生き方など、実生活に密接な内容のものが多い。
「全ては純粋に透明に神より流れ出る。私は、激情に駆られて悪に目がくらんだあげく、幾重にも公開を重ね、心を洗い清め、最初の崇高な、清い源泉、神のもとに還った。そして、汝の芸術に還った。その時には、利己心に迷うことはなかった。いつもそうあれ、果実がなりすぎれば、枝はたわむ。爽快な雨が満つる時、雲は低くたれる。そして人類の善行者は、富を誇りにはしない」(*2)
「あらゆる激情を抑制して、事の成否を顧みず、人生のあらゆる事柄を精力的に遂行する人は幸いである。問題は、行為の動機であって、その結果ではない。報酬が行為の動機でありそれを目当てとする人になるな。おまえの生活を無為に過ごすな。おまえの義務を果たすために精励せよ。結果と終局が善いだろうか、悪いだろうかと考慮することをやめよ。このようなものに動じないのは精神生活が旺盛であることを示す。そうなれば、叡智の中に憩いの場所が求められ、貧困と不幸は単に事柄の結果にすぎない。まことの賢者は、この世の善悪にとらわれない。だからおまえの理性をそのように働かせるよう努めよ。このように理性を働かせることは人生における重要な一つの技術だ」
「困難は楽しい生活への案内人だと思わねばならぬ。人を服従させるには、彼よりもずっと賢明だと信じさせるのが一番だ。父が子供に徳を身につけさせるにも、教師が生徒に学問上必要な事柄を教え込むにも、涙なくしてはできない。これと同じく、市民が正義を求めんと努めて涙を流して法を守った時、法は市民にひつようなものとなる」
カントの著書からの、抜書きとは異なり、だれにでもわかりやすい平易な内容である。しかし、内容は、カントの思想とゲーテのロマン主義の感覚を含めたものである。40歳を過ぎたベートーヴェンは、難解なもの複雑なものを昇華し、単純なものの中に深い内容を内包する方向へ進んでゆく。
(*1)(*2)インド哲学書からの抜書き
5.1821年頃(ベートーヴェン51歳)から晩年のベートーヴェン 最後のピアノソナタ作品111
1820年頃のベートーヴェンは、聴覚がまったく失われ、自分の作品を指揮することもできなくなっていた。ベートーヴェンは、全ての力を使い尽くし、創造力は枯渇してしまったという噂まで広がっていた。しかし、彼は、1820年、夏をメードリングで過ごした後、晩秋にウイーンに戻り、精力的に最後の三つのピアノソナタを書き上げた。このことによって、根拠のない噂を払拭し、パトロンのブルンスヴィック伯爵を安心させた。1821年にかけて、最後の三つのピアノソナタを一気に書き上げたのだが、ベートーヴェンの健康は、著しく損なわれていた。死の原因となった肝臓病の前駆症状、黄疸も出始め、6週間もリュウマチで寝込んでいた。バーデンの転地により、ひとたび健康が回復し、最後のソナタ作品111を1822年早々に完成させた。晩年の円熟期の作品は、すでに、ロマン派の先駆的作品となり、当時の人にとっては、新しい音楽ということを越えて、理解することが難しかった。ベートーヴェンの音楽の進化にはついてゆけなかったのである。この曲を書きながら、ベートーヴェンは、ミサソレムニスも同時に取り組んでいた。ミサソレムニスの、<アニュス・デイ>と並行進行しており、この2つの曲は、共通の土壌に生まれた。
32曲あるピアノソナタの最後の曲、作品111を例に考察する。
晩年のこのソナタは、伝統の世界から個性的な領域に昇華されたといえる。まるで、ベートーヴェンの芸術家としての精神も彼をこえて成長したかに見える。中期の作品は、個性的であったし、主観主義的であった。その頃のベートーヴェンは、音楽の中にある因習的なもの、形式的なもの、修飾的なものを、個性的な表現によって吸収し、主観的なものに融解しようとしていた。因習に対抗しようとさえしていた。しかし、最晩年の作品は、その因習、形式が、自我を捨ててむきだしで現れるのである。ところが、それが、どんなに個性的なものよりも、重々しい働きをしているのである。主観的なものと因習とが、はっきりと融合したのである。頂点に達してしまった伝統を乗り越えた個性的なことが、神話的なもの総体的なものへと進むことにより、もう一度ベートーヴェン自身を超えて成長する内容を含んでいる。
第一楽章は、力強い生命力あふれる楽章で、ハ短調という運命的調性によって、苦悩と喜びが交錯する。作品13悲愴も、同じ調性であるが、恐ろしいまでの変化が見える。ほとんどロマン派といっていいような内容である。形式的にも印象的な導入部をもつ、フーガ的技法を用いたソナタ形式である。内的な力強さと優しい愛情が同居している。第二楽章が、大変印象的で、運命の調、ハ短調から、ハ長調という最もシンプルな調で、そして、単純なテーマをもち、その発展がめざましい変奏曲である。テーマのモティーフは、恐ろしく単純で、テーマ全体は、たった16小節で終る。第一楽章の激しさは、まったく影をひそめ、心の平安がやってくるのである。世界平和、人類愛という言葉が、これほど似合う部分はないように思う。そして、そのテーマは、リズム的に想像もつかない方向に進み、そして、静かに終わりを告げる。ドの音で、単純に消えるように終ってしまう。この作品111の最後のドは、ソナタ全体との別離であり、発展は地上ではなく、彼岸でも続くのだが、ここでは、もう終わりという感覚を受ける。
その後、人類愛、世界平和をうたった、第九交響曲など、ベートーヴェンの仕事は続くが、そのような具体的な言葉を持たないピアノのためのソナタ、ベートーヴェンの内的な思考、思想が全てつまった絶対音楽が、死の5年前に完成している。
6.1827年3月26日(56歳)ベートーヴェンの死
ベートーヴェンは死の床で、「諸君、喝采を。喜劇は終った」と言った。この言葉は、ローマ帝政初代皇帝、アウグストスと同じである。ベートーヴェンは、かつて、ミサソレムニスのクレドの自筆譜に、「諸君、喝采を」という走り書きをした。ミサ曲の中の<クレド>にある、「来世の使命を待ち望む」という部分は、後の第九交響曲の「歓喜」の思想にいたる一段階である。彼は、死にあたって、それらの変遷を走馬灯のように思い起こしたのではないか。3月25日にブロイニングがベートーヴェンのそばに付き添い、その情景が残されている。
「ベートーヴェンは、侵入してこようとする死と、巨人のように闘った。この哀れな人は、もう苦しんではいなかった。それにもかかわらず、この高貴な人が、全ての精神的交流が断たれて、今や解体する力に抵抗できず崩れ落ちていく有様を見るのは悲惨であった」(*1)
埋葬式の日は、学校も休業にされ、20000人の民衆がベートーヴェンの死を悼んだ。午後3時に棺が閉じられ、花冠と花束で飾られたが、勲章は一つもなかった。葬列では、アンセルム・ヴェーバーのコラールが歌われ、ベートーヴェンのピアノソナタ作品26の葬送行進曲が金管楽器で奏された。ヴェーリングの墓地では、グリルパルツァーが弔辞を読んだ。民衆は、ベートーヴェンを送ったが、しかし、貴族達は、誰一人参列しなかった。
これは、ベートーヴェンの音楽が、特権階級の趣味的な音楽とはほど遠く、全ての人間の心に入り込み、感動、勇気、平和、愛を訴えたという、大きな証であった。
(*1)小松雄一郎:ベートーヴェンの手紙
第5章 結論 ベートーヴェンの音楽とその時代
18世紀中旬から起こった啓蒙主義は、すべての人間の人権を認め、自由、平等を明確に宣言した。それは、新しい思想で、現代のコモンセンスとも言える思想である。それ以前の王室、貴族、教会の権力は、次第に衰退の方向に向かっていた。ベートーヴェンは、そのようなヨーロッパの中心に位置するボンに生まれた。これは、運命であるが、ベートーヴェンという偉大な芸術家が出現する、大きな要素である。社会情勢や新しい思想は、人の人生に大きな影響を与える。その啓蒙主義が嵩じて、民衆の大きな動きとなったフランス革命は、ヨーロッパにとって大きな転機となった。民衆が蜂起することで、帝政が崩壊する。それまでほとんど帝政をしいていたヨーロッパ各国は、自由、平等という、頭では想像できても、実際は、起こって欲しくない君主達の混乱が始まってしまう。ベートーヴェンが移り住んだ音楽の国際都市ウイーンは、600年の歴史をもつハプスブルク家の足元を揺るがすことになる。
その中で、ナポレオンの出現がある。ベートーヴェンも一時は、ナポレオンに傾倒するが、彼が侵略者であることを早いうちに感じとり、その後沈黙を守るようになる。結局、オーストリアは、革命は起こらなかったが、確実にフランス革命の余韻は、波及し、貴族達も平安を守れなくなってくるのである。ベートーヴェンは、自分の力だけで生活しようとする最初の音楽家であったが、貴族の援助も必要だった。しかし、自分の音楽に対する正当な報酬、自分の芸術家としての正当な評価として援助を受けており、貴族にも大公にも、けっしてへつらうことなく、誇りを持って彼らに対していた。そのようなベートーヴェンの態度は、彼の音楽にも強く表れている。彼の音楽は、そこに、決然とした力を感じるのである。ベートーヴェンの音楽は、因習、習慣、伝統という動かしがたい事実を、独自の考えと感性で大胆に変えた、力強いものである。その強い意志は、自由な街ボンに生まれ、啓蒙思想の中で育ったからでもある。
思想のみでなく、この時代は、カント、ゲーテの出現もあった。彼らは、長寿であったため、30歳の年の差はあるが、ベートーヴェンと同時代に生きることになった。カントの、今までの、ある考えに固執する哲学ではなく、さまざまな角度から見通す哲学者が現れたことも、ベートーヴェンに大きな影響を与えた。自然科学の発達により、地球だけではなく、宇宙にも話題が追及されると、ベートーヴェンは、その事実を興味をもって捉え、この世の広大なはかり知れない世界を想像するのである。そして、ゲーテのロマン主義にも共感し、若者の苦悩、恋の悩み、憧れなどの、人間の根源にある感情にも心を動かされている。それらは皆、相反することであるように見えるが、根本は同じであり、それは、今ある人間社会の多様な現れ方であるととらえている。つまり、ベートーヴェンの音楽は、世界平和、人類愛を根底に、人間の弱さも受け入れ、その弱い部分を独自で克服し、強く生きて皆が愛し合おうという、神のような心境に達していたように思える。
ベートーヴェンの生きたヨーロッパの激動期。その時代に必然のように出現した偉大な芸術家ベートーヴェンは、現在も人々を力づけ、勇気を与える音楽を残した。250年という年月、衰えることなく生きつづけるベートーヴェンの音楽は、人間の根源に迫る内容だからである。ベートーヴェンの音楽にふれる時、彼の生きた時代を再検証することで、より深くベートーヴェンを理解でき、そして、自分自身の内側をも見つめなおすことができよう。
参考文献:
小松雄一郎:音楽ノート 岩波文庫
小松雄一郎:ベートーヴェンの手紙 上下 岩波文庫
カール・ダールハウス:ベートーヴェンとその時代 西村書店
トーマス・マン:ファウスト博士 上 岩波文庫
ゲーテ:ファウスト 上下 新潮文庫
メイナード・ソロモン:ベートーヴェンの日記 岩波書店
ヨースタイン・ゴルデル:ソフィーの世界 NHK出版
世界美術大全集 19 小学館