歴史の中の1968年
 
塩川 伸明
 
まえおき*1
 
 世界各地で多様かつ大規模な大衆運動がほぼ同時的に噴出して人々の注目を集めた「1968年」から、ほぼ半世紀の時間が経とうとしている。約50年という時間は、当事者世代が高齢に達する一方、当時のことを直接知らない世代の人たちの間に、「歴史」としての関心を呼び起こしているように見える。当時まだ物心ついていなかった世代の研究者たちによる「1968年論」が徐々に増大しているのはそのあらわれだろう。その代表例である西田慎・梅崎透編『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』(以下、「本論集」と記す)は、当時の各種大衆運動を多面的な角度から幅広く論じている。対象地域も論点も多様であり、また1968年を中心としつつその前や後の時期にも目配りを利かせようとした、相当盛り沢山の論集であり、それだけにやや散漫な観もなくはない。ここでは、本論集の全体を満遍なく論じるのではなく、私の関心を特に引く点をいくつか取り上げることにする。キーワード風にいうと、「総論」「新左翼論」「社会主義改革論」の三つとなる。
 以下の議論の組み立てを上記キーワードおよび本論集の構成と対応させて説明するなら、T・U・Xは「総論」に当たり、本論集の全体と関わるが、特に関係が深いのは序章である。次にVは「新左翼論」で、本書第3章および第5‐11章のうちの私の関心を引く個所に触れることになる。また、Wは「社会主義改革論」で、主として本論集第9章のテーマ(チェコスロヴァキア)を論じることになる。上に挙げた以外の各章に関心がないわけではないが、それらについてはここでは立ち入らず、別の機会に譲りたい。なお、どの論点についても、本論集の議論に密着した論評ではなく、本論集に触発されつつ自己流の見解を試論的に述べさせていただくということを予めお断わりしておきたい。
 
T 現代史の一般論
1 事件から数十年を経ることで「歴史」に入っていく
 直後にはまだ「歴史」でなかったものが、時間の経過に伴い「歴史」になっていく――これはどのような出来事であれ、一般に当てはまることである。これはいわずもがなの常識に属することかもしれないが、一応簡単に確認しておくなら、次の2点が基本的な前提をなす。
 先ず素材に関していえば、資料公開の進展、回想やオーラル・ヒストリーの出現などによって、当時の諸側面を明らかにするための情報環境が整っていく。これは、党派的な主張や印象論的な評論とは一線を画した本格的な歴史研究を可能にする重要な条件となる。
 次に観点についていえば、時間の経過に伴い、対象から距離をおいた冷静な研究が可能になっていくというのが一般的傾向である。もっとも、単純に時間さえ経過すれば感情的思い入れが一方的に減衰するというものではないという点にも注意しておく必要があるだろう。歴史研究というものは、どこまで行っても論者の観点なり価値意識なりと完全に無縁になることはできず、なにがしかの立場性が問われざるを得ない。従って、いくら時間が隔たったからといって、完全に「客観的」な研究になるということはあり得ない。それでも、渦中あるいは直後の時期に優越していた感情論に比べれば、少しずつ冷静な研究が可能になり出す――あるいは、そのように努める研究が増えてくる――という趨勢は一応言えるだろう。
 
2 研究者と対象の距離感
 いま述べたことを多少敷衍することになるが、現代史における時間感覚――事件・歴史家・読者の相互関係、また現代史と世代という問題――について考えておきたい。この問題について、私はかつて別稿(塩川2004、第1章、および2010a)で述べたことがあるが、その要旨を簡単に確認するなら、以下のようなことになる。
 現代史にあっては、対象(過去)と自己(現在)の関係が短期間に大きく変わり、それに伴って「現在と過去の対話」のあり方も変わらざるを得ない。たとえば今から千年前の出来事は、十年くらい経っても、それが1000年前だろうが1010年前だろうが、遠い過去であることに変わりはなく、特に距離感の変化が生じるわけではない。これに対し、今から一、二年前の出来事は、十年経って「十数年前の出来事」ということになれば、距離感が相当大きく変わる。また、世代差との関係についていえば、遠い過去の出来事は今日の誰にとっても等しく遠い過去である。今から千年前の出来事は、今日の若者にとっても年寄りにとっても、「自分が生まれるよりもずっと前だ」という点で共通している。これに対し、今から数十年前の出来事は、年長世代にとっては自らが直接体験した「同時代史」だが、より若い世代にとってはそうでないという差異がある。そうしたことを念頭におくなら、数十年前の出来事を対象とする現代史研究においては、それが、事件からどの程度の時間的隔たりを持つ時点で、どのような世代の人によって書かれたのかということが、無視できない意味をもつ。そして、ある世代の人によって、ある時点で書かれた書物や論文を、異なる世代の人が、執筆後一定時間を経過してから読む場合、そこにおけるパースペクティヴの差異ということを念頭におかないと、著者と読者の間に対話が成り立ちにくいということになる。
 もちろん、世代が全てを決定するわけではない。同じ世代に属する人たちの間でも、その「同時代」的経験にどのように関与したかは千差万別だから、世代決定論を説くつもりはない。ただとにかく、対象との時間的距離の差異に伴うパースペクティヴの差異という問題を踏まえた上で、その差異を越えた対話をどこまで交わすことができるかを考えるという姿勢は不可欠だろう。そうでないと、書きっぱなし、読みっぱなしということになってしまう。ここに書いたのは、現代史に関する一般論だが、ほぼ半世紀前の出来事たる「1968年」についても十分当てはまるだろう*2
 いま述べたこととも関連するが、近い過去に関する叙述には、大きく分けて「自分史」と「客観史」とがある。「客観史」とはこなれない言葉だが、「自分史」でない、いわば「通常の歴史」を指す。もっとも、「客観史」とはいっても、何らかの形で自己が投影される面があるのは当然であり、これはあくまでも仮の表現に過ぎない。そのことを断わった上で、とにかくこの区別を出発点とするなら、1960年代ないし1968年論について、自分史・客観史それぞれに多数の例を挙げることができる。網羅的ではないが、とりあえず目についた例としては、次のようなものがある。
 自分史の例:荒(2001)、上村(2015)、島(2005)、鈴木(2007)、西川(2011)、山本(2015)等々。
 客観史の例:安藤(2013)、岡本(1995)、小熊(2009)、西田・梅田(2015)、野田(2010)、フライ(2012)、油井(2015)等々。
 さて、自分史と客観史はもともと性格を異にするものであり、同じ平面で比較したり、優劣を論じることはできない。もともとの狙いが違う以上、それらを同じ土俵で比較すること自体があまり意味をなさない。とはいえ、異なった性格のものの間でも、うまくすれば生産的な対話を交わし、お互いになにがしかのものを吸収することもできるはずではある。ただ実際には、それはなかなか難しい作業であり、往々にしてすれ違いに終わる。また、かつて当事者だった人が後に歴史家とか社会科学者になって、過去を振り返って文章を書いたというような場合、自分史と客観史の中間的な作品になる(上に「自分史」の例として挙げた文献の中にも、そうした中間的性格のものが多く含まれる)。これは一種の「参与観察」ともいえるが*3、両側面がどのように重なり合うかはしばしば微妙であり、中途半端なものになってしまう恐れもある*4。こういうわけで、二つのジャンルの相互関係はなかなか難しいものをはらんでいる。
 
U 歴史としての1960年代および1968年
1 短期の歴史と長期の歴史――「1960年代論」と「1968年論」
 多くの関連文献が「1968年」を論じつつ、その背景として「1960年代」を論じており、タイトルとしても、前者を前面に出すものと後者を押し出したものとがある。本論集の序章でも「1960年代論」と「1968年論」の関係が論じられている。
 ある時期に大きな出来事が起きた場合、それ自体に注目すると同時に、それだけでなく、その背景として、それ以前の長い時期についても考えるというのはごく当然のことである。いってみれば、両者は「短期の歴史」と「長期の歴史」という関係になる。前者は事件史に傾斜し、ジャンルとしては政治史・大衆運動史となることが多いのに対し、後者は構造史に傾斜し、ジャンルとしては社会・経済・文化史などになることが多い。こうしたタイムスパンおよび関連するジャンルの違いは、相互排斥的ではなく、むしろ相互補完的と考えることができる。
 さて、事件史ないし「短期の歴史」という観点に立つ場合、1968年が前景化されるのは自然だが、構造史ないし「長期の歴史」という観点に立とうとするなら、必ずしも「1960年代」という設定――「長い60年代」にせよ、「短い60年代」にせよ――にこだわる必要はないのではないだろうか。むしろ戦後史(冷戦史)という、より長い幅の中で見ていくことに意味があるように思われる。そこで、戦後史(冷戦史)の中での1960年代および1968年について考えてみたい。
 
2 戦後史(≒冷戦史)の中での位置づけ――時代区分の試み
 @戦後初期(冷戦体制形成史):1945-47/48年
 A初期冷戦(熱戦への傾斜をはらむ):1940年代末-50年代半ば
 B古典的冷戦の相対的安定期:1950年代半ば-60年代半ば
 C冷戦体制の変容:1968年頃-80年代半ば
 D冷戦の終焉:1980年代後半
 Eポスト冷戦期:1990年代以降*5
 およそこのような区分が成り立つとしたら、1968年はBとCの境に位置することになる。もちろん、実際には、それほど明確な区切りがあるわけではないが、一種の象徴としこの時期を転機と考えることには、それなりの意味があるだろう。では、それはどのような意味での転換だったのだろうか。
 
3  戦後史と冷戦史の関係、転機としての1968年?
 仮に「狭義の冷戦」を、「国際面では2つの陣営のイデオロギー的・地政的対抗、各国内政では国際面と対応したイデオロギー的・党派的対立」ととらえ、「広義の冷戦」を「戦後史の諸事象のうち、狭義の冷戦には含まれないが、何らかの意味でそれと関わりをもつ諸局面」と考えるとして、「戦後史」と「冷戦史」の関係はどういうものということになるだろうか。もし「狭義の冷戦」がある時代の最重要事項であるなら、その時代の他の諸事象も何らかの形でそれと関わりをもつはずだから、「広義の冷戦」は戦後史の大半を蔽うことになる。実際、ある時期まではそう考えてよかったように思われる。しかし、時間の経過とともに、その比重が次第に下がってきたような気もする。それは時代全体の大きな変化と関わる。
 冷戦の大きな時代的背景を考えるなら、そこでは、近代産業社会を前提した階級闘争とイデオロギー闘争が主要な位置を占めていたといえるだろう。だが、1960-70年代頃から、脱産業化・情報化・社会構造の流動化・脱イデオロギー化・各種サブカルチャーの広がり等々により、いわば「脱近代」的な様相が濃くなった。本論集の序章で提起されている「近代から現代への転換」という観点や、小熊(2009)のいう「近代的不幸」から「現代的不幸」へという図式も、同様の事態を指していると考えられる。そして、このような変化を念頭におくとき、歴史全体における冷戦の比重はだんだん小さくなってきたということになるだろう。いつからと明確には定められないが、BからCに移り変わるあたりから、そうした様相が次第に立ち現われてきた――後の時期になると、より鮮明となる――といえるのではないだろうか。
 とするなら、その間に当たる1968年前後とは、「近代」「階級闘争」「冷戦」「イデオロギー」「革命運動」等々の重みが大きかった時代とそれが軽くなる時代の双方を兼ね備えた両義的な時期――前者から後者への重点移行の転機――として位置づけられるように思われる。
 
V 「新左翼」/「ニューレフト」*6
 
1 概観
a 雑多な諸潮流の総称としてのニューレフト/新左翼
 ニューレフト/新左翼という存在は、一時期かなりの注目を集めたが、いまではほとんど忘れられている。そういう対象を取り上げることにどういう意味があるだろうか、またそれをどのような存在として特徴付けるべきだろうか。
 まず確認しておくべきなのは、これは大きな多様性を持ち、内的な異質性を抱えつつも、広い意味で大まかな共通性を持つ運動・思想諸潮流の総体だったということである。その雑多性を念頭におくなら、これを「一つの潮流」と見るのは適切でなく、むしろ「諸潮流の複合体」とみるのが妥当だろう。
 そのことを確認した上で、雑多であるにしても大まかな共通性があった――だからこそ、共通の名称で呼ばれたし、相互接触もあった――とするなら、それはどういうものかという問題について考えてみたい。簡単にいうなら、広い意味で既存の社会のあり方に批判的(つまり左翼)だが、既存の左翼の主流ないし「旧左翼」のあり方に対しても批判的(「新」ないし「ニュー」)ということになる。
 別の観点からいえば、冷戦が《アメリカを先頭とする資本主義陣営》と《ソ連を先頭とする社会主義陣営》の対立だったとするなら、そのどちらに対しても批判的で、《ソ連型ではない、よりよい社会主義》への志向があった。今日では、体制批判的=左翼的=社会主義的という等式はおよそ成り立たなくなっているが、当時はまだこの等式が常識的なものとして根付いており、ただそこにおける「社会主義」に既存の「正統的」社会主義とは異なる内実を込めようとする点に「新しさ」があった。これを仮に「社会主義ファクター」と呼ぶなら、このファクターは1960年代ないし68年には――そして、その後もしばらくの間――かなり大きかった。もちろん、その大きさがどの程度だったか、またその内容――「もう一つの社会主義」としてどういうものを思い描くか――は一様ではなく、各国ごと、また潮流ごとに種々の差異があった。これが以下の2および3の主題となる。
 ニューレフト/新左翼の歴史を簡潔に追うなら、早く見れば1950年代後半に胎動があり(56年のスターリン批判およびハンガリー事件が一つの画期)、60年代に次第に拡大し、68年に一つのピークを迎えたということになる。その後、緩やかな一体性がばらけ、大規模な動きとしては先細りになった。その後に続く要素がなくはないにしても(Xで後述)、68年前後に最も突出して現われた形態を念頭におく限り、それは「過去のもの」となり「歴史化」した。そのため、今となっては「新」とか「ニュー」という形容詞は当てはまらないし、そもそも関心の対象となることもあまりない。それにしても、1968年当時にはかなり大きかったという事実を歴史としてどうとらえるかがここでの課題となる。
 
b 共鳴板としての「若者の叛乱」
 1968年の大衆運動の中で学生運動ないし若者の反乱が大きな位置を占めたのは周知のところだが、ニューレフト/新左翼運動はそれと等置することはできないにしても、そこに重要な共鳴板を見出した。ニューレフト/新左翼と学生運動/若者の反乱は一体ではないまでも、少なくともいくつかの国ではかなりの接点と相互影響があった。そして、1968年が大規模な運動となったのはこれらの合流に負うところが大きい。
 学生を中心とする青年反乱が1968年前後に多発した背景については多くの人が論じており、ここで立ち入って論じることはしない。簡単に確認するなら、第二次大戦終結から約40年を経て、戦後復興はほぼ完了し、相対的平和と経済成長が長いこと続いてきたという時代背景があった。いわゆる先進諸国に関していう限り、種々の社会的矛盾はあるにしても、「豊かな社会」が実現し、直接的な貧困とか飢餓よりも精神的な疎外とか漠然とした不満とかが主要な問題となりつつあった。もっとも、全世界的に見れば、「豊かな社会」の恩恵に浴していない地域も多かったが、そうした地域に関する情報が伝えられることは、先進諸国の人々に一種の罪悪感や義務意識をいだかせた(特にヴェトナム戦争)。
 もう一つの背景として、ベビーブーム世代が大学生となり、大学の大衆化(マスプロ教育、大学生の非エリート化など)が進んだことが、多くの国の学生運動に共通の事情として指摘できる。多くの国で、大学の管理に権威主義的な性格がつきまとっていたことも、批判と反逆の対象となった。
 さらに、技術革新に伴って世界的な情報流通が早くなる中で、性質を異にする運動であっても、相互刺激・影響があり、同時代性があった。活動スタイルやキャッチフレーズなどの類似性・相互模倣はそれを象徴する。「1968年」が仔細に見るなら単一の現象とは言えないにもかかわらず、あたかも単一の「1968年的なもの」があるかの印象を抱かせるのは、この点によるところが大きいだろう。
 
2 多様性の背景(一)――各国における共産党およびマルクス主義の位置
 「新左翼」「ニューレフト」がどういう土壌から発生し、どのような伝統(旧左翼)に反抗したのかを考える上で、それぞれの国におけるマルクス主義および共産党の位置の違いについて考えてみたい*7。各国の状況を詳しく知っているわけではないが、本論集の第5-11章やその他各種の文献を読みかじったところから得られる大まかなイメージを簡単にスケッチするなら、およそ次のようにいえるのではないかと思われる。
 イギリスの場合、共産党はあまり強力でなかったが、知識人への影響は意外にあったように見える。そのことと関係して、マルクス主義の伝統も強くはないが、共産党系知識人による独自の動きが1950年代半ばから始まっていた。いわゆる「ニューレフト」はその中から生まれた。New Left Review誌(E・P・トムスン、ペリー・アンダソンら)、また後のカルチュラル・スタディーズなどへ。
 アメリカの場合、マッカーシー旋風の後は共産党はごく弱い存在となっていた。またマルクス主義の影響は、ヨーロッパからの亡命知識人の影響(代表的にはフランクフルト学派のアメリカへの流入)とか『マンスリー・レヴュー』誌の活動などもあったとはいえ、知識人の世界における地位がそれほど大きかったようには見えない。完全に不在ということではないが、マルクス主義そのものというよりは、その部分的な摂取と独自解釈が一定の役割を果たしたようにみえる。マルクーゼ、ミルズなど。
 西ドイツでは、共産党は非合法化されていて、基本的に不在だったが、その代わりにマルクス主義の伝統は強く、フランクフルト学派をはじめ種々の新しい潮流があった。
 フランスでは共産党もマルクス主義もかなり強かった。そのことを歴史的前提とした上で、それへの批判および新潮流も登場しつつあり、それがある場合にはニューレフトになり、ある場合には熱烈な反共主義へと至った(ニューレフトの右翼転向もあったようだ)。
 イタリアの場合、共産党もマルクス主義も強かったが、ソ連路線との間に微妙な距離があった。グラムシから構造改革論を経て、後のユーロコミュニズムへ。
 日本の場合。戦後初期に共産党もマルクス主義も威信が急激に高まったが、その後、内部ないし周辺から党中央への批判が現われ、そのあるものは「新左翼」になり、あるものは右翼転向した(上記の例との対比でいえばフランス型に近い)。また、明治以来長らく「先進国」の動向に敏感だったことから、上記欧米諸国の多様な事例が逸早く紹介されて、知識人や学生たちに影響を及ぼしたし、ソ連・東欧・中国その他の社会主義国における新しい動き(以下のW参照)もそれぞれに伝えられて、一定の影響を及ぼした。そのような「外来の」要素がある一方、国内での自生的動きも早くからあった(1950年の日本共産党分裂を背景に、55年7月の「六全共(第六回全国協議会)」は、56年のスターリン批判に先立つ)。こうした諸要素が複合的に合流した。
 一応このように整理できるとするなら、このような背景の違いは、前述の「社会主義ファクター」がアメリカで弱く、西欧や日本ではかなり大きかったという対比を説明するように思われる。この観点からいえば、アメリカはむしろ特殊であり、ヨーロッパと日本の間に一定の共通性を見ることができる。
 
3 多様性の背景(二)――「旧左翼」のどのような側面を批判し、それをどのように乗り越えようとしたのか
 前項では、共産党の内部あるいは周辺から共産党指導部に対して種々の不満・批判が現われたということを述べてきたが、そこには雑多な要素が含まれていた(なお、本項では基本的に日本の状況を念頭において考えることとし、他の国との異同や比較は今後の課題とする)。
 ごく大まかに分けていうなら、一つには、指導部が下部の意見や心情を無視して、上から方針を押しつけることへの反撥、もう一つは指導部の理論・戦略・方針などへの批判があった。前者を重視するなら、「もっと下部党員やより広い大衆の意見に耳を傾けるべきだ」、「党内民主主義、さらには民主主義一般を重視すべきだ」という発想になり、それは潜在的にはマルクス主義的革命論からの離脱――場合によっては、改良主義や社会民主主義その他の潮流への接近――の可能性をもつ。他方、後者を重視する潮流の多くは、マルクス主義的革命論を当然の前提として保持しつつ、党指導部の路線を批判して、「より正しい路線」を主張する――いわば「正統共産主義」の本家争い――ということになる。別の観点からいうなら、日本共産党が1950年代前半に武装闘争路線を取り、それが55年の「六全共」で急激に放棄されたという背景があったため、ある部分は武装闘争路線批判に力点をおき、「平和革命」論や議会重視に傾斜するのに対し、他の部分は、むしろ暴力革命放棄を批判して、行動面の急進化を特徴とするようになった。後者は、いってみれば「戦闘的旧左翼」*8ということになる。このように考えるなら、二つの傾向はかなり方向性を異にすることになる。
 以上では、主として共産党内部――ある時期以降の離脱者を含む――での革命路線論争を問題にしたが、より広い左翼系知識人の場合、マルクス主義への留保付きの共鳴と批判という二面性があり、その観点から、共産党内外における論争についても独自の関心を抱いて見守っていた。端的な例として、丸山眞男およびその周辺の人たちは、イギリスの「ニューレフト」に早い時期から関心を抱いていたし、またイタリアから日本に輸入された「構造改革」論にも好意的に接していた*9。これはニューレフト/新左翼そのものとはいえないまでも、その広い「外郭」に位置していたと考えることができるだろう。1968年の学生運動の中で丸山と新左翼が激しい相互憎悪関係に陥ったのは周知のところだが*10、これは、なまじ近い要素があるが故の苛立ちだったのかもしれない。
 先に二つの方向性を挙げたが、そのうちの第一の方向性――まして、より広い「外郭」――は、不定形の要素をはらみ、その後の展開も多岐にわたった。あまりにも多岐であるため、概括的なことを述べるのもためらわれるが、その一部からは、種々の新しい傾向――市民運動、「新しい社会運動」等々――も現われてきた。「ベ平連」などはその早い例といえるだろう。他方、第二の方向性(戦闘的旧左翼)は、基本発想が古典的マルクス主義革命論であるため、それ自体としての新展開には限界があったが、1968年頃まではまだかなりの勢いがあった(逆に、「新しい社会運動」の類はこの頃までにはまだあまり明確な姿をとっていなかった)。
 1960年代の日本における具体例を挙げるなら、先の第一の方向性の例として構造改革派を挙げることができ、第二の方向性は共産主義者同盟(ブント)や革共同系の諸セクトに代表される(諸セクトの間にも性格の差異があったが、ここでは立ち入らない)。もっとも、これらは必ずしも峻別しきれるものではなかったという点にも注意しておきたい*11。構造改革派が1960年代末から70年頃の一時期に他の諸セクトの影響を受けて急進化したのは、彼らにも第二の方向性が無縁ではなかったことを物語る。また、ブントや革共同、とりわけ後者の場合、「共産党以上に正統な共産主義」という自意識が強かったが、その運動の参加者たちの意識のなかには第一の方向性も曖昧な形で混在していた。そのように性格を異にする要素が並存していたことが、それらの運動に全体としての広がりをもたらしたように思われる。
 さきほど、「戦闘的な旧左翼」はそれ自体としての新展開には限界があったが、1968年頃まではまだかなりの勢いがあったということを述べた。そのことは、1968年前後における彼らに独自の役割を付与したように思われる。「戦闘的な旧左翼」は「本来の旧左翼」同様、規律性を持った組織と体系性を持ったイデオロギーを重視するという特徴をもっており、これはある意味では「古い」要素だが、運動の準備・組織化・持久性などの面ではそれなりの役割を果たした。そのことを考えるなら、「新しい」運動が十分成熟していない段階で、「古い」要素と「新しい」要素の混在が運動の高揚を可能にしたといえる。
 「呉越同舟」という言葉は、通常、「同舟」ではあっても「呉越」だという意味で使われる。だが、力点を置き直して、「呉越」ではあっても、とにかく「同舟」だったという側面に注目することもできる。同じ舟に乗っていれば、知らず知らずに相互接触・相互影響関係も生じるし、究極目標が違っていても、同じ舟に乗っている以上、その船が転覆しないということについて共通の利害があったりする。1968年の大衆運動には雑多かつ異質な――ある意味では相互に矛盾さえする――諸要素が流れ込んでいたが、それらが異質性を潜在的なものにとどめつつ同じ舟に乗ったことが、大きなうねりをつくり出したといえるのではないだろうか。
 
W 「社会主義改革」という考えとその実践の試み――チェコスロヴァキアを中心に
 
0 社会主義圏における各種の新しい動き
 Vで述べたように、既存の正統社会主義(スターリン時代のソ連を代表例とする)には批判的だが、それとは別の社会主義を求めるという志向は、1960年代前後にはかなり広い範囲に存在していた。その志向が「新左翼」「ニューレフト」という形をとったのは欧米諸国と日本に限られるが、当時の社会主義諸国の内部でも、それぞれの国の従来のあり方に批判的な眼差しを向け、社会主義の改革を求める動きがあった。
 そうした動向が生まれる重要な契機となったのは、1956年のスターリン批判およびそれをきっかけとする種々の変動である。50年代後半、そしてとりわけ60年代にはソ連および東欧諸国における統制の相対的緩和を背景に、言論の活性化がみられ、種々の改革論や各種の異論派運動が生じた。1968年の「プラハの春」がその一つのピークだったのはいうまでもないが、それ以外にも種々の例があった。当時の状況下で市場型経済改革を相対的に徹底しようとしたのはハンガリーである。また、ソ連の中でもそれなりに活発な議論があった。60年代の相対的に自由な空気を若い時期に吸い込んで育った世代は「60年代人」と呼ばれるが、そうした世代の存在は、20年後のペレストロイカを理解する上で重要な前提をなす。このようなソ連・東欧諸国の動向は、今日ではあまり振り返られることもないが、1980年代後半以降に起きる大きな変動の歴史的前提として見過ごすこととのできない意味をもっている。
 以上では、いわゆるソ連・東欧圏について述べたが、それ以外の社会主義国でも、「ソ連型」でない別の型の社会主義の実験が、成否はともあれそれぞれに試みられた。ユーゴスラヴィアにおける「労働者自主管理」、中国における「プロレタリア文化大革命」などは最も有名な例である。ヴェトナムやキューバなどでも、それぞれに独自な動きがあった。
 こういった動きは、欧米や日本の知識人にも伝えられて、「ソ連には幻滅したが、アメリカや西欧の現実に追随することも潔しとしない」と感じる左翼的な人々に大なり小なり影響を及ぼした。もっとも、当時の社会主義諸国における現実の動向を欧米や日本の知識人や学生たちがどの程度正確に理解していたかは別個の問題であり、往々にして自己の理想を投影したに過ぎなかったという面がある。それはともかくとして、当時においては、そうした誤解や幻想を含めて、社会主義圏の新しい動きが資本主義諸国における各種大衆運動を鼓舞する役割を果たしたのは一つの歴史的事実である*12
 そういったさまざまな動きの一つの例として、まさしく1968年に大きな盛り上がりおよび挫折を見たチェコスロヴァキア(本論集では第9章で扱われている)について、やや詳しく考えてみたい*13
 
1 問題提起:忘れられた「社会主義改革」論?
 1968年のチェコスロヴァキアで大規模な改革を求める大衆運動が展開されたことはよく知られている。だが、それが「社会主義改革」――つまり、社会主義の否定ではなく、「よりよい社会主義」を求める運動――という性格のものだったということは、当時は誰もが知る常識だったにもかかわらず、今では往々にして忘れられている、と言って言い過ぎなら、ごく軽視されているように思われる。
 端的な例として、西田・梅崎(2015)のうちのチェコスロヴァキアに触れた個所(序章、11-12および第9章、263-264)にほぼ同趣旨の記述があるが、そこでは、当時の西欧の学生は社会主義を目指したのに対し、チェコスロヴァキアの学生は「多元的民主政」を望んだとされている。「社会主義の変革」という言葉もあるが、これは説明が欠けていて、何を指すのかが定かでない。そして、当時最大のスローガンだった「人間の顔をした社会主義」という言葉については、ただの一言も言及がない。これではまるで、当時の運動の全体的趨勢が社会主義の否定と西欧型社会への接近志向だったかのようなイメージが浮かび上がる。ここには、「社会主義改革」への期待がまるで感じとられない。
 後から振り返るなら、「人間の顔をした社会主義」「改革された社会主義」などとは幻想的期待に過ぎなかったと見ることも可能である。だが、それはあくまでも後知恵であり、当時の実情を復元しようとするなら、そうした期待感が広く分かちもたれれていたことを思い起こす必要がある。
 当時のチェコスロヴァキアの人々の意識について考える上で貴重な素材として、ゴードン・スキリング(Skilling, 1976, chaps. XII and XVII)や星乃治彦(1998, 第3章)の紹介する世論調査データがある。この調査結果は、当時のチェコスロヴァキア国民の間にはまだ社会主義への肯定的イメージが広がっていたこと、共産党主導の「上からの改革」への信頼も厚かったことを示している。たとえば、資本主義発展の道に入る方がよいか、社会主義建設を続けた方がよいかという問いに対して、7月上旬の時点で、前者は5%、後者は89%という圧倒的な差がある。集団農業がよいか個人農の優越を支持するかという問いに対しては、前者が62%、後者が20%となっている。政治面についてみるなら、1968年1月以前の共産党に対しては当然ながら信頼度が低かった(信頼する23%、信頼しない48%)のに対し、7月時点での党に対しては、信頼する51%、信頼しない16%と、逆転している。3月時点での言論の自由への評価は、「十分」という回答が61%に達する一方、「まだ足りない」とするものは14%にとどまる。現状の政党システム――共産党の他、衛星政党として社会党と農民党が存在していた――への評価は高くなく、「共産党の指導的役割」への賛成率は11%にとどまる(反対が83%)が、あるべき野党の性格としては、「共産党と一致する社会主義的プログラムをもつが、その実施において異なる概念をもつ党」が48%、「共産党とは異なる社会主義プログラムをもつ党」が22%で、「資本主義復活を強調する反社会主義綱領の党」を選ぶものは皆無だった、等々である。
 このような世論状況を踏まえるなら、チェコスロヴァキアの改革運動は西ドイツの学生運動とは違って、「多元的民主政」を目標としていたというトニー・ジャットの記述(2008、上、539)は、肝心の点を見誤っていると言わなくてはならない。東西間のギャップへの注目自体は重要だが、それをこのように定式化してしまうのは過度の単純化であり、不正確である。当時のチェコスロヴァキアにおける主要な流れは反社会主義・反共産主義の運動ではなく、あくまでも社会主義を前提しつつその改革を目指すという性格のものだったのに、その点が見失われ、あたかも共産主義を忌避して西欧的議会制民主主義を目指す運動であったかのようなイメージが浮かんでしまう。
 もっとも、同じジャットは、少し後の方で、次のように書いている。「一九六八年の学生や作家や党の改革派たちが「ほんとうに」求めていたのは共産主義をやめて自由な資本主義にすることだった、「人間の顔をした」社会主義に彼らが熱狂したのは要するにレトリック上の妥協もしくは習慣に過ぎなかったのだ、などと推測するのはまちがいだろう。それとはまったく反対に、「第三の道」つまり自由な諸制度と共存可能な、集団的な目標とともに個人の自由をも尊重する民主的な社会主義が存在するという考えが、ハンガリーの経済学者のみならず、チェコの学生の想像力を惹きつけたのである」(ジャット2008、上、563、強調は原文)。これに従うならば、539頁の記述も「まちがい」とされなければならなくなるはずである。どうして同じ著作の中に、このように食い違った記述があるのだろうか。
 一つのヒントとなるかもしれないのは、もう一つ別の個所にある次のような記述である。「共産主義は改革可能だ、……民主的多元主義の中核にある理想はマルクス主義的集団主義の諸構造とどうにか両立できる――こうした幻想は一九六八年八月二一日、戦車によって蹂躙され、二度とよみがえらなかった」ジャット(2008, 上、571)。これは、多少の留保がなくはないものの、大筋は妥当である。問題は、軍事介入によって「幻想」とされたものが、それ以前からもともとそうでしかありえなかったかどうかという点にある。おそらく、ジャット自身は、それは最初から望みのない期待だったと考えているものと思われる。後から考えてそう結論するのは一つの見識だが、1968年8月以前に関して539頁のように書くのは後知恵を過去に投影するものであり、歴史認識としては問題があるといわなければならない。ところが、フライ(2012, pp. 190-198)も、本論集序章および第9章もこれに引きずられているように見える*14
 このように多くの論者が社会主義ファクターを軽視しているのは、8月の介入以後の事態、そして何よりも1989年を見た後の地点で過去を振り返っているからではないだろうか*15。今から考えるなら、社会主義改革などというものはそもそも不可能なものであり、そんな馬鹿げたものに期待を託す方がおかしいと見る方が自然かもしれない。そういう見方が広まったのは、まさしくこの改革運動が押しつぶされたからであり、それ以前には、まだそうなるかどうか明らかでなく、うまくすれば成功するかもしれないという見方が広がっていた。1968年はそうした期待が広範囲に共有されたほとんど最後の時期であり、8月の軍事介入、そしてその後の「正常化」は、社会主義改革への期待に大きな打撃を与えた。このような1968年8月までとその後との間の大きな断層を知るためには、その頃まで広まっていた社会主義改革という考えについてもう少し掘り下げて考える必要がある。
 
2 社会主義改革論の諸相
 
a 「上からの」動きと「下からの」動き
 既存社会主義体制への批判および改革を求める動きには雑多な種類のものがあった。「上からの改革」の動きもあれば、「下からの」運動もあった。全面的な反体制運動もあれば、体制内改革論もあった。後からさかのぼった見方では、下からの反体制運動が中心だったように思い込まれやすいが、実際には、「上からの」、そして体制内的な改革運動もかなりあった。また、それらの間に相互浸透・相互影響もあり、「上から」と「下から」を峻別することも必ずしも妥当でない*16
 1968年のチェコスロヴァキアにおける「上からの改革」と「下からの改革」を代表するのは、共産党の行動綱領(4月)と知識人たちによる「2000語宣言」(6月)である。この両者は、作成主体が異なっており、それと関係して文書の性格や内容も違う。だが、そこに決定的な断絶があるわけではなく、緩やかな連続性があった。それでも、後者が党外から提起されたという事実それ自体がソ連指導部にとっては脅威と映り、介入の重要な論拠となったのは周知のところだが、それも直ちに決定されたわけではなく、若干の曖昧な時期があった。だからこそ、チェコスロヴァキア共産党指導部は、「2000語宣言」に一定の懸念をいだきつつも、それを「反革命」と非難することまではしなかった。ここにも、「上からの」改革と「下からの」動きの近接性が示されている。介入直後に緊急に開かれた第14回共産党大会*17は、両者をあわせた「改革」を守ろうとした――結果的に成功しなかったとはいえ――動きの代表例である。
 「2000語宣言」に限らず、「プラハの春」の渦中では、非党員の知識人たちが活発に発言したが、具体的な政策提起を主導したのは、共産党指導部内の改革派――オータ・シク、イジ・ペリカン、ズデネク・ムリナーシ等々――だった。そして、第一書記ドゥプチェクは決して「反体制」ではなかったが、「上からの改革」の一環として言論を自由化したことが、当局の思惑を超えた多様な改革論を噴出させた。このプロセスは20年後にゴルバチョフのソ連で進行したペレストロイカと似たところがある。
 
b 経済改革と政治改革
 チェコスロヴァキアに限らず、当時のソ連・東欧諸国における各種改革論は多様な要素からなるが、経済改革と政治改革を二本の柱としていたのは周知のところである。大まかにいって、政治改革は政治的自由の拡大を志向し、経済改革は効率性の向上を目指すものだが、この両者が相互補完的なはずだという大方の期待にもかかわらず、そこには微妙な差異が潜在していた。担い手についていうなら、政治改革は人文系の知識人を中心とし、条件次第ではそれがある程度の大衆的基盤を持つこともあったのに対し、経済改革は経済学者をはじめとする社会科学者や一部の技術者を中心とし、体制エリート中の比較的視野の広い部分によって庇護され、どちらかというと一般大衆よりもテクノクラート的傾斜をもつという差があった。チェコスロヴァキアの場合、オータ・シク副首相を中心とする経済改革論は「市場社会主義」構想に立ち、企業の自主性を強調したが、これは企業経営者の自主性ということであり、テクノクラート的=非労働者的という性格を免れず、労働者の参加が相対的に弱かった(労働者自主管理論も一部で出たが、あまり有力でなかった)。
 より広く経済改革について一般論的に考えるなら、そこには重要なディレンマがはらまれていた。もともと指令型経済システムの低効率性を深刻に受け止めるのは、第一次的には、体制の管理に携わる統治エリートたちであり、その内部に生きている一般の人々にとっては、それに馴染んでしまえば必ずしも打破すべきものとは受け止められない。慢性的な労働力不足のもとで、労働者たちは緩い労働規律と低い労働生産性でも最低生活を保障されるという「ぬるま湯」的条件を提供されていたからである。そして、市場型の改革は物価上昇、所得格差拡大、そして失業の発生といった副産物を伴う。これは経済改革が必ずしも大衆的基盤をもたないことを意味する。
 このように政治改革と経済改革の間には微妙な緊関係があるが、それは最初から顕在化していたわけではなく、むしろ両者の相互補強的な発展という楽観が広く分かちもたれていた。1968年チェコスロヴァキアの場合、シクの経済改革論が現実の政策に取り込まれようとした頃からこの緊張がある程度自覚されかかったように見えるが、そのことが明確化する前に押しつぶされたため、それ以上には進まなかった。この問題は、改革が現実に着手されるようになった20年後に、より一層深刻なものとなっていく(Xの1bで後述)
 
c スロヴァキア問題
 チェコスロヴァキアはそれまで単一国家だったが、1968年の過程で連邦化論が出てきた。その際、スロヴァキアではこの要求が速やかに広まったのに対し、チェコ部の反応は鈍かったという差異があった。チェコ人はスロヴァキア人の要求を否定したわけではないが、どちらかというとこれを周辺的問題とみなし、チェコスロヴァキア全体としての改革一般を優先しがちだった。プラハ中心のこうした動向に、スロヴァキアでは秘かな不満と苛立ちがあった。こうして両民族の志向は、正面から対立するものではないにしても、重点のおきどころの違いから、微妙な対抗感情が徐々に発生していた。
 重要なのは、このような民族間の微妙な対立が運動の鎮圧過程で利用された点である。重要な一例として、前述の第14回党大会にスロヴァキア人代議員が少数しか参加していなかったため、この大会へのスロヴァキアの支持度はチェコ部ほど堅いものではなかった。8月26-28日に開かれたスロヴァキア共産党大会は、26日に開会した時点(まだモスクワから最高指導者が帰っていなかった)では第14回党大会を正規のものと認めたにもかかわらず、その直後にモスクワから帰ったフサークが、第14回大会はスロヴァキア人代議員が少なかったので無効だと述べると、この報告も承認された。ここには、チェコ人とスロヴァキア人のズレが巧妙に利用されたという側面を見ることができる。
 さらに、1968年に提起された一連の改革のうち、連邦制化だけは68年10月の憲法改正(69年1月施行)によって実現した。これによって、チェコ共和国とスロヴァキア共和国は同権・対等とされ、連邦政府の人事などに両共和国の同数代表制がとりいれられるなど、スロヴァキアの民族的要求がそれなりに満足させられることになった。チェコ人主導の改革が挫折させられる中で、スロヴァキア人の要求が一応満たされたのは、民族的不一致が巧妙に利用されたものといえる(西田・梅崎2015、272にごく簡単な言及がある)。フサーク自身がスロヴァキア人だったのは象徴的な例であり*18、これは純然たる一個人の問題というだけでは片付けられない。
 
X 1968年とその後
1 1968年と1989年
 
a 連続性の要素
 1968年から1989年につながる連続性の要素として、自由や個性を重視する自発的な大衆運動という性格、反権威主義、サブカルチャーの広がり、古典的階級闘争と区別される新しいタイプの市民運動や青年運動の登場等々がしばしば指摘される。この点については多くの論者によって論じられており、特に付け加えることはない。
 ここではむしろあまり広く知られていない連続性として、「プラハの春」とペレストロイカの関係について考えてみたい。
 一つの端的な例として、ムリナーシとゴルバチョフの関係を挙げることができる。ムリナーシは1968年当時、チェコスロヴァキア共産党中央委員会書記として、「上からの改革」を主導する立場にあった(4月の「行動綱領」作成の主要メンバーだった)。軍事介入後、フサーク指導部への批判的態度を貫いたため、1970年に共産党を除名され、「憲章77」の発起人となった後、出国を余儀なくされた。その後の彼はウィーンを拠点とし、西欧社会民主主義の立場で長らく活動し続け、欧州議会の議員となったこともあるが、1997年に死去した。ところで、このムリナーシは、若き日にモスクワ大学法学部に留学し(1950-55年)、同じ学部の学生だったゴルバチョフの親友となったことでも知られる。1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長となった直後に、当時まだあまり諸外国で知られていなかったゴルバチョフについて、「自分は彼のことをよく知っている。彼は大きな改革を始める可能性がある」という大胆な予測をして、世界中のソ連ウォッチャーの注目を集めた(Brown 2002)。更にそれから十数年経って、ソ連解体後に、二人は長い対談を交わして、共著を出版した(Gorbachev and Mlynar 2002)。この共著で二人は、「プラハの春」についてもペレストロイカについても多面的な討論を交わしている*19
 1968年当時、二人の間での直接的交流は一時的に途絶えていたが、ゴルバチョフは当時のことを振り返って、次のように語っている。自分は「プラハの春」に大きな期待をいだき、その成功を願っていたが、軍事介入によって終わりを告げることになった。当時の自分にとってそれは辛い出来事だったが、西側の体制攪乱活動からの防衛のためにやむをえないのだという多数見解を受け入れた。翌年チェコスロヴァキアを訪れ、自分たちがどのように見られているかを知ったのは、大きなショックだった。介入は「社会主義共同体」防衛のためだけではなく、ソ連の国内事情によって引き起こされたのだと悟った。わが国においても改革の機が熟していたのだが、彼ら〔ブレジネフ指導部〕はそうした変化を食い止めるためにこの事件を利用したのだ(Gorbachev and Mlynar 2002, 5-6)。これは後から振り返っての発言である以上、その信頼性については一定の留保を付けねばならないが、当時の若手指導者や知識人の間に「プラハの春」への期待がかなりの程度あり、軍事介入は彼らにとっても大きな衝撃だったことは、他にもいくつかの証言があり、大筋としては首肯できる。
 ゴルバチョフに限らず、ソ連の中である程度以上批判的精神をもっていた人たちにとって、軍事介入は「折角の改革の動きを見殺しにしてしまった」という強い悔恨の情を生み出すものであり、そうした悔恨の情を当時いだいた人々が20年後にペレストロイカの積極的な支持者となったという連関を想定することができる。一つの例として、作家のグラーニンはペレストロイカ期にプラハの友人に宛てた手紙で、1968年の軍事介入のことを、「ペレストロイカの先駆」をソ連軍が押しつぶした行為だったと特徴づけ、「自分の国、自分の党、自分の政府があれほど恥ずかしかったことはない」と書いている(Гранин 1989)。同様の感覚を表出した文章は他にもいくつかある(Karpinsky 1989; Лацис 2001など)。ペレストロイカの起源については別個に論じなくてはならず、「プラハの春」が全てだというわけではないが、ともかく一つの原動力としての意味をもっていたということができる。
 「プラハの春」がペレストロイカに至る一つの原動力だったように、ペレストロイカも1989年の東欧激動を可能にする重要な要素だった。東欧の各種改革運動は独自の論理を持っており、ペレストロイカの波及ということだけで片付けられるものではないが、だからといって、ペレストロイカの役割を過小評価するのも妥当でない*20。東欧の変革への大きな障壁として立ちはだかっていた「ブレジネフ・ドクトリン」がペレストロイカの中で解除されたことが1989年激動の決定的な前提条件となったことは明らかである。特にチェコスロヴァキアや東ドイツのように、直前まで相対的に「保守的な」指導部が居残っていた国の場合、ソ連からの「外圧」が変動加速化の重要な要因となった。こう考えるなら、「プラハの春」がペレストロイカにつながる一方、ペレストロイカが1989年東欧激動の要因となるという相互関係を想定することができる。チェコスロヴァキアにおけるドゥプチェクの復活は、その象徴的な一例である。もっとも、20年のブランクはあまりにも大きく、「人間の顔をした社会主義」の復活とはならなかったことについてはすぐ後で立ち返る。
 やや余談めくが、今日、「1989年」を考えるに際して、往々にしてペレストロイカのことが軽視されているように思われてならない。優れたヨーロッパ現代史たるマゾワー(2015)もホブズボーム(1996, 2004)も、ペレストロイカの扱いが意外なほど軽い。本論集でチェコスロヴァキアを担当している福田宏は、1989年について論じた別の論文(福田2016)で、その要因として想定されうる仮説として市民社会・ロック・西側メディアの3つを挙げているが、ペレストロイカについては検証対象としてさえも挙げていない(わずかに「こうした変化の背景には、ミハイル・ゴルバチョフの登場もあったろう」という短い一文があるのみにとどまる)。1990年以降の新しい情勢の中で、ソ連もペレストロイカも遠い過去のものとなり、あまり振り返られなくなっているが、「1989年の世界」を考えるに際してペレストロイカを軽視したのでは、バランスのとれた全体像を描くことはできないはずである。
 
b 非連続性の要素
 以上では1968年と1989年の連続性について述べたが、非連続性の要素も大きい。最大の非連続性は、もはや「社会主義改革」ではなく、「脱社会主義」が主流となった点である。既に見たように、1968年8月の軍事介入は「人間の顔をした社会主義」への期待を急激にしぼませ、これ以降の現存社会主義体制批判は、社会主義という理念そのものへの反撥、つまり脱社会主義論を主流とするようになった。1980年のポーランドで「人間の顔をした社会主義」というスローガンが掲げられなかったのはその先駆であり、その意味では、1968年と80年の間に一定の性格転換が生じ、それがさらに89年に全面化したということになる。
 もっとも、こうした変化はどこかの時点で一挙に生じるものではなく、1989年にもまだ「社会主義改革」への期待感は一定程度残っていた。ゴルバチョフ自身がその典型だし、ドゥプチェクの復活ももう一つの例といえる。だが、それはもはやかつてのような力強さを持つことができず、滔々たる脱社会主義の流れに道を譲らざるを得なくなった。ここに1968年と1989年の間に大きな相違点がある。
 問題はそれだけにはとどまらない。もともと社会主義改革論には複数の要素があったが、それらが渾然一体とした形で高揚した1989年の後には、むしろ「改革」の諸側面の間の緊張関係が立ち現われ、ある側面が前面に出る一方で他の側面が背景に退くという変化が進行した。この変化はあまり意識されていないが、1989年の歴史的意味について考える上で見過ごせない重要性を持っている(この変化が1990年以降に本格化したことを考えるなら、1989年と1990年以降の間に微妙な転換があったということもできる)。
 早い時期の端的な例は、ドイツ統一の進行の仕方である。1989年秋から年末にかけての東ドイツで市民運動の急激な高揚が見られたのは周知の通りだが、彼らの多くは、単純に西に「吸収合併」されるのを受け身的に期待するというのではなく、東としての独自改革を進めてから「対等合併」するという道を思い描いていた。しかし、1990年初頭以降の現実の急速な展開は、一刻も早い統一という願望が「対等合併」論を押し流す結果となった。東ドイツ大衆運動の主要スローガンが、Wir sind das Volk(「われわれこそ国民だ」)からWir sind ein Volk(「われわれは一つの国民だ」)へと変化したと伝えられるのはその象徴である。西ドイツでも、社会民主党やハーバーマスをはじめとする一部知識人の間では、性急で拙速な統一実現に警告を発する動きがあったが、これも孤立した。とすれば、90年10月のドイツ統一は古い社会主義体制――ソ連型、また東ドイツ型――の敗北を意味するだけでなく、89年に高まりかけた東ドイツの市民運動や西ドイツの一部知識人にとっての敗北だったということになる。
 この事例を離れて、より広く考えるなら、一般に市民運動の高揚というものはそれほど長続きすることはなく、やがて退潮していくという趨勢を指摘しないわけにはいかない。市民運動高揚時には「自由」「解放」「市民社会」等々のスローガンが広められても、旧体制にとって代わった新しい政治権力が安定化するなら、再び「上からの」権威的秩序が戻ってくる。トクヴィルが指摘したように、「自由への本物の愛とみえたものは、実は圧政者への憎悪に過ぎなかったことが分かる。……自由を物質的利益によってのみ評価する人々が自由を長く保持することは、決してなかったのである」という現実が生まれる*21。これを運命論的に受け取るのはあまりにもシニカルだろうし、退潮したものが潜在的に保持されることもあるから、市民運動の意義が全く無いというようなことになるわけではないが、ともかく一時的高揚に幻惑された期待感は往々にして裏切られることを銘記しないわけにはいかない。
 いま述べたのは市民運動の一般論だが、旧社会主義諸国の場合、Wの2bで触れた政治改革と経済改革の緊張関係という問題が特殊に重要な意味をもつ。二通りの改革は、どちらも着手し始めるくらいまでの段階では「ともに望ましい」ものとして、相乗効果をなすと考えられていたが、1989年前後をピークとする高揚が過ぎると、両者間の緊張が前面に出てきた。市場型経済改革は短期的に実を結ぶものではなく、物価上昇、社会福祉削減、所得格差拡大などの副作用を伴う以上、それは当然のことである。しかも、それが経済グローバル化、ネオリベラル的経済政策の主流化という趨勢の中で進行した以上、「上からの資本主義化」の強行はリベラル・デモクラシー制度の定着とは親和的でなく、むしろその形骸化を伴いやすいということになる。
 こうして、二つの改革のうち、市場経済化・資本主義化の方が前面に出ることになり、政治改革の目標だったリベラル・デモクラシー化の方は、制度的には一応取り入れられても実質的にはあまり尊重されないという流れが強まることになる。一時期の「市民社会の再生」論や「民主化」論が退潮し、権威主義体制の再来ともいうべき現象が注目されているのにはそういう背景がある。現代ロシアについて「プーチンの権威主義」が盛んに取り沙汰されているが、実はその傾向はエリツィン期に始まっていたし、かつて「改革の先頭走者」「市民社会が最も成熟している」と見なされてきたポーランドとハンガリーの両国で、近年ともに非リベラルな右翼ナショナリスト政党が政権につくという情勢は、「脱社会主義化」「市場経済化」が必ずしもリベラル・デモクラシー化の進展を伴うものでないことを物語っている。
 最近邦訳の出たマゾワーの著書(2015)は、ある個所では、「もちろん〔1989年に〕民主主義の勝利はあった」としながら、「しかし、予想されたような種類、方法での勝利とはいいがたい」という留保を付け(453)、別の個所では、「一九八九年の真の勝者は民主主義ではなく資本主義である」と書いている(495)。この二つの個所の関連については特に説明されていないが、上に見てきたような観点からするなら、1989年の高揚時には「民主主義の勝利」であるかに見えたものが、その後まで含めた長期観察からするなら「勝利」宣言は早すぎたということになるだろう*22
 
2 「脱近代」的様相の広がり
 
 以上では、1968年と89年の関係という論点にこだわって考えてきたが、より長期的な観点からいうなら、68年頃に萌芽的に現われた「脱近代」的様相が、その後、次第に拡大して、21世紀の今日に至っているということになるように思われる。たとえば、産業化時代に大きな位置を占めていた労働運動・社会主義運動に代わって、脱産業化段階における大衆運動は、種々の「新しい社会運動」――反核・反原発運動、各種住民運動、環境運動、フェミニズム等々――という形をとる傾向がある。この点については多くの論者が書いており、私が付け加えることはあまりない。
 一言だけ私見を述べるなら、これらの「新しい」運動は、「1968年の遺産」――正負両様の遺産がある中で、この点は「正の」遺産――との評価が可能である一方、「本当にそれだけか」という疑問を出すこともできるのではないかという気がする。「脱近代」という概念自体は私のテーマではないので、敢えてかなりルースな言葉遣いをさせていただくが、そこには、ある種の両義性があるのではないだろうか。一方では、「古典的」な位階制秩序や権威的組織から自由な個性重視の要素があるが、他方では、それも資本の論理に取り込まれるという側面である。1968年世代の一部がネオリベラリズムの風潮に取り込まれる傾向がときおり指摘されるのも(たとえば、西田・梅崎 2015, 7)、そのことと関係するだろう。異なった文脈においてだが、上野千鶴子が次のように書いているのも思い起こされる。「政治の季節が終わった後に、爛熟大衆消費社会と文化資本主義の時代が訪れようとしていた。……巨大商業資本のしもべでありながら、文化闘争の担い手。彼らは文化産業の現場で、文化の生産者であることで、文化消費を推進する立場にいた。……『文化』と『消費』がキーワードとなった時代に、山口〔昌男〕とその周辺の知識人たちはイデオローグとして登場し、同時にみずからがメディアの消費財となる学者文化人となっていった。そして私自身もその一人であったことを告白しなければならない」岩崎・上野・成田 2006, 550-551
 つまり、1968年以降にだんだん顕著となってきた「脱近代」的様相は、一面では個性や多様性の自由な発揮の余地を拡大しながら、他面では、それもまた資本の論理の中に取り込まれ、間接的にもせよ、それを促進するところがあるように見える。そう考えた場合、このような状況のなかで展開している今日の社会運動は、前者の要素を生かしながら、後者の側面にどこまであらがっていけるのだろうか。これに答えるのは私のよくするところではなく、若い世代からの積極的な提言を期待したい。
 
補) 「1968年」における「古い」要素と「新しい」要素
 本稿では、「1968年」を「社会主義ファクター」と「脱近代」的側面の組み合わせという形で捉え、どちらかといえば前者の方に力点をおいて論じてきた。「古さ」「新しさ」を問題にするなら、「社会主義ファクター」は相対的に「古い」要素であり、「脱近代」は相対的に「新しい」要素といえるから、どちらかといえば「古い」ものに力点をおいたということになる。常識的には、「古い」ものと「新しい」ものが混在しているときには後者を重視する方が普通だろうが、敢えてその常識に逆らったことになる。こういう態度は、下手をすると「老人の繰り言」「懐メロ」と化すおそれがあるが、その点を自戒しつつ敢えて問題提起するなら、ここにはそれだけにとどまらない意味があるのではないだろうか。それは二重の意味においてである。
 第一に、「1968年」それ自体の理解にとっての意味を考えるなら、当時はそれなりに大きな位置を占めていたものが、その後あまり流行らなくなったために軽視されるようになってきたという推移がある。しかし、当時の全体状況を復元するためには、「今では忘れられているものが、当時は結構重かった」という事実を思い起こさないと、バランスの取れた全体像にならない。
 第二に、より広い歴史一般にとっての意味を考えるなら、歴史というものは単線的に「古い」ものが減少し「新しい」ものが増大するという形で進むものではない。両者がからみあい、ときとして意外な化学変化を起こしたりして、純粋に「古い」ものだけでもなければ純粋に「新しい」ものだけでもない何かをつくり出していく。かけ離れた例だが、幕末・維新初期日本における「尊皇攘夷」と「文明開化」の関係などもその例といえるかもしれない。複雑な起伏をもった歴史を総体として理解するためには、ややもすれば忘れ去られがちな「古い」ものを敢えて思い出す必要がある。それは何も、「古い」ものをそのまま蘇らせようとする時代錯誤ではなく、複雑な歴史の曲折を総体として理解する上で不可欠な作業のはずである。
 
 
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同 2007. 大嶽秀夫『新左翼の遺産』への読書ノート
 (塩川ホームページの読書ノート欄に収録)
同 2010a. 「現代史における時間感覚――事件・歴史家・読者の間の対話における距離感」中部大学『アリーナ』第10号。
 (塩川ホームページの「これまでの仕事」欄にpdfをリンクしてある)
同 2010b. 『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房
同 2010c. 小熊英二『1968』への読書ノート
 (塩川ホームページの読書ノート欄に収録)
同 2011a. 『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎
同 2011b. マイヤー『1989』への読書ノート
 (塩川ホームページの「短評集」欄に収録)
同 2011c. 米田綱路『モスクワの孤独――「雪どけ」からプーチン時代のインテリゲンツィア』への論評
 (塩川ホームページの「短評集」欄に収録) 
同 2014. 「『現代思想』2014年8月臨時増刊号(丸山眞男生誕100年)を読んで 」
 (塩川ホームページの「新しいノート」欄に収録)
同 2016. 「小熊英二『1968』再論」
 (塩川ホームページの「新しいノート」欄に収録)
シク,O.,1970.『チェコ経済の真実』毎日新聞社
島成郎 1999.『ブント私史』批評社
島泰三 2005.『安田講堂1968‐1969』中公新書
清水靖久 2014. 「銀杏並木の向こうのジャングル」『現代思想』8月臨時増刊号
ジャット、T. 2008.『ヨーロッパ戦後史』上下、みすず書房
同 2011.『記憶の山荘――私の戦後史』みすず書房、
?秀美 2006.『1968年』ちくま新書
鈴木道彦 2007.『越境の時――一九六〇年代と在日』集英社新書
スムルコフスキー,J.,1976.『スムルコフスキー回想録』読売新聞社
東京大学社会科学研究所 1977.『現代社会主義』東京大学出版会
ドゥプチェク,A.,1991.『証言プラハの春』岩波書店
トムスン、E.P.ほか 1963.『新しい左翼――政治的無関心からの脱出』岩波書店
永井陽之助 1966.「なぜアメリカに社会主義はあるか」日本政治学会年報『西欧世界と社会主義』岩波書店
長崎浩 1988.『1960年代――ひとつの精神史』作品社
西川長夫 2011.『パリ五月革命私論――転換点としての68年』平凡社新書
西田慎・梅崎透編 2015. 『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』ミネルヴァ書房
野田昌吾 2010. 「「一九六八年」研究序説――「一九六八年」の政治社会的インパクトの国際比較研究のための覚え書き」『大阪市立大学法学雑誌』第57巻第1号
ハーヴェル,V.,1991.『ハーヴェル自伝』岩波書店
平田重明 1984.『埋もれた改革』大月書店
福田宏 2016.「ロック音楽と市民社会、テレビドラマと民主化」村上勇介・帯谷知可編『融解と再創造の世界秩序』青弓社
フライ、N.2012.『1968年――反乱のグローバリズム』みすず書房
星乃治彦 1998.『社会主義と民衆――初期社会主義の歴史的経験』大月書店
ホブズボーム、E.1996.『20世紀の歴史――極端な時代』上・下、三省堂
同 2004.『わが20世紀・面白い時代』三省堂
マイヤー、マイケル 2010. 『1989 世界を変えた年』作品社
マゾワー、M.2015.『暗黒の大陸――ヨーロッパの20世紀』未来社
みすず書房編集部編 1968.『戦車と自由』T・U,みすず書房
村上淳一 1968. 「「権威主義」から「人間性の回復」へ――西独の思想状況と学生運動」『世界』5月号
ムリナーシ,Z.1980.『夜寒――プラハの春の悲劇』新地書房
山本義隆 2015.『私の1960年代』金曜日
油井大三郎編 2012.『越境する一九六〇年代――米国・日本・西欧の国際比較』彩流社
 
Brown, Archie, 2002. "Introduction," to Gorbachev and Mlynar (2002)
Gorbachev, M. and Mlynar, Z. 2002. Conversation with Gorbachev: On Perestroika, the Prague Spring, and the Crossroads of Socialism, Columbia University Press
 
Karpinsky, Len, 1989. "The Autobiography of a 'Half-Dissident'," in Stephen F. Cohen and Katrina Vanden Heuvel (eds.), Voices of Glasnost: Interviews with Gorbachev's Reformers, W. W. Norton
Skilling, Gordon H. 1976. Czechoslovakia's Interrupted Revolution, Princeton University Press
Tocqueville, Alexis de, 1978. The Old Regime and the French Revolution, (tr. from the French), Gloucester, Mas.: Peter Smith
 
Гранин, Д., 1989. Письмо в Прaгу // Московские новости, 48 (26 ноября), с. 6.
Лацис, Отто 2001. Тщательно спланированное самоубийство. М.
Шахназаров, Г. 1993. Цена свободы. M.
 
(2016年5月)
 

*1 本稿は第27回冷戦研究会(西田慎・梅崎透編『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』合評会、2016年5月14日、東京大学駒場キャンパス)における発言原稿をもとに、若干の改訂を施したものである。研究会の組織者たる石垣勝氏、また当日の参加者各位に謝意を表したい。なお、関連する別稿として、「小熊英二『1968』再論」があり、ホームページ上の本稿と同じ頁にアップロードしてある。
*2 塩川(2010a)は、全体としては現代史の一般論を考えたものだが、終わりの方では1968年論を素材としているので、あわせて参照していただけると幸いである。
*3 ホブズボーム(1996, 2004)は、同じ著者がほぼ同じ時期(「短い20世紀」)を対象として、一方は基本的に客観史、他方は自分史=参与観察として書きわけた面白い例である。
*4 私自身、「1968年」の当事者の一員であり、本稿もある種の両義性を免れないが、今回は自分史の側面は努めて抑制し、客観史の方に力点をおくことにする(自分史というものに意味を認めないわけではないが、それは別の機会に譲りたい)。
*5 冷戦終焉から四半世紀もの時間を経た今日、Eを「一つの時代」とするのは長すぎ、今では「もはやポスト冷戦期ではない」――いわば「ポスト・ポスト冷戦期」に入った――という気もする。しかし、これは今回の課題を大きくはみ出すので、立ち入らないことにする。
*6 新左翼/ニューレフトを「1968年」の中心的要素として取り上げることが妥当かどうかという問題については種々の意見があり得る。そもそも新左翼/ニューレフトと呼ばれるような運動が存在しなかった国もあるし、存在した国にしても、その位置がどこまで大きかったかには議論の余地がある。その点を留保した上で、少なくともいくつかの欧米諸国および日本では、たとえ中心的とはいえないまでも、少なくともかなり突出した位置を占め、耳目を集めたことは歴史的事実である。その多くが後に先細りしたこととも関係して、後の時期から振り返っての「1968年」論においては新左翼/ニューレフトをあまり重視しないものが増えているような印象がある。それにはそれなりの理由があり、私も今日の価値観として新左翼/ニューレフトの復権を主張するわけではない。ただ、ともかく過去を歴史として復元しようとする際には、かつてそれなりに大きかった潮流を無視すべきでないというのが本稿の観点である(私自身がかつて属していたからという理由もないわけではないが、そうした「自分史」的側面は今回はあまり力点をおかないことにしたい)。
*7 「旧左翼」が共産党によって代表される国とそうでない国とがあり、後者においては社会民主党とかリベラル左派とかがそれに代わる位置を占めた。しかし、ここでその全体を論じることはできないので、とりあえず「旧左翼」の代表として各国共産党を主に念頭におくことにする。
*8 この言葉は、大嶽秀夫(2007)の「革命的旧左翼」という表現をうけて、それを若干修正したもの。
*9 トムスン(1963)の邦訳、佐藤・丸山(1998)など。また酒井(2014)も参照。
*10 この問題については、従来、評論的な文章で印象論的に論じられることが多かったが、最近の本格的論考として、清水(2014)がある。
*11 大嶽秀夫(2007)は、構造改革派は社会民主主義に近く、トロツキストおよび革共同は「革命的旧左翼」で、いずれも「新左翼」と呼ぶにふさわしくないと論じ、これらと区別されるブントを新左翼の代表としている。諸潮流の大まかな特徴づけとしてある程度当たっているが、やや峻別しすぎではないかと思われる。ブントの中にも「戦闘的旧左翼」の要素があったし、構造改革派も広義の新左翼の一部として振る舞いがちだったことに示されるように、それらの相互関係はもっと流動的だった。
*12 これらのうち、中国の「プロレタリア文化大革命」の影響を特別に重視し、それを「1968年」の重要な共通要素とする議論もしばしば見られる。影響力の度合いをどの程度に見積もるかは難しい問題であり、ここで結論的なことをいうつもりはない。私個人は、「プロレタリア文化大革命」からあまり強い影響を受けず、心酔もしなかった(運動を離れた後に、いろんな知識人たちの文章を読んで、間接的にある程度の影響を受けた面がなくもないが)。これはあくまでも私個人の特殊性であって、それを一般化するつもりはない。ただ、とにかくそういう例があるということは、「1968年」の参加者の全員が熱烈な文化革命支持者だったわけではないということを示す事例とはいえるだろう。
*13 1968年のチェコスロヴァキアについては、佐瀬(1983)、シク(1970)、スムルコフスキー(1976)、ドゥプチェク(1991)、ハーヴェル(1991)、平田(1984)、みすず書房編集部(1968)をはじめ、膨大な量の文献がある。私の知る限り最も詳しいのはゴードン・スキリングの古典的大著(Skilling 1976)であり、またムリナーシ(1980)は内側からの描写かつ省察として高い価値をもつ。
*14 本論集第9章(福田宏担当)には「現実に存在する社会主義の変革」という言葉もあるが(西田・梅崎 2015, 263)、この言葉の含意については何の説明もない。そしてジャットやフライに依拠することで、西欧の若者は社会主義を志向していたが、チェコスロヴァキアの若者はそうではなかったという対比を示唆するかのような書き方になっている。
*15 トニー・ジャットは後の回想で、1968年の時点ではプラハやワルシャワで起きていたことについて何も知らず、ほとんど関心をもっていなかった、大分後になってチェコスロヴァキアに関心をいだくようになり、チェコ語も勉強して、現地を訪問するようになった、と書いている(ジャット2011, 142-144, 193-201)。彼は私と同じ年の生まれだが、1968 年当時に何の知識も関心もなく、十年以上経ってから関心をいだき始めるというのは、およそ信じられないような「遅ればせの関心」という気がする。いずれにせよ、彼の東欧観は同時代的な感覚を反映しておらず、むしろ1980年代以降に形成されたイメージを過去に投影している観がある。
*16 社会主義体制下での各種体制批判ないし改革運動およびその歴史的展開について、塩川(1999、第W章)、より簡略には、塩川(2010、63-75)参照。なお、各国ごとの差異についてここで立ち入ることはできないが、チェコスロヴァキアは歴史的経緯(第2次大戦以前にはロシア帝国/ソ連と国境を接しておらず、ロシア帝国/ソ連による支配を経験していなかった。ミュンヘン会談における英仏の宥和主義への幻滅からソ連への期待が広がり、戦時中にソ連との協調路線がとられたなど)から、反露・反ソ・反共意識がポーランドほど強くはなかったという差異があり、両国の単純な同列視は大事なニュアンスを見失わせるおそれがある。そのポーランドでも、1968年頃まではまだ社会主義改革に期待するマルクス主義知識人がそれなりの位置を占めていたが、その多くが国外追放され、また同年の「プラハの春」が押しつぶされたのを見た後は、社会主義改革論は決定的に弱体化し、1980年の「連帯」は「人間の顔をした社会主義」というスローガンを掲げることはなかった。そのことは1989年以降の過程に大きく影響することになる。
*17 この大会のための代議員選出は軍事介入以前に完了していたが、開催は9月の予定だった。しかし、8月21日に予想外の軍事介入があったため、翌22日に直ちに大会が召集された。軍事制圧下で秘密裡に連絡がとられ、プラハ郊外の工場で労働者の集会を装って開かれたが、そうした困難にもかかわらず、一日のうちに1500人の代議員中1219人が集まり、定足数を満たして、正規の大会と宣言された。但し、やむを得ないことながら、地理的にプラハから遠いスロヴァキアの代議員の出席率は相対的に低く、そのことが後に問題となる。
*18 フサークはスターリン時代に抑圧された経験をもつ政治家であり、そうした背景からして、1968年1-8月期には「改革派」として振る舞っていた。そのフサークが軍事介入後に「保守派」政権の中枢に位置するようになるのは個人的な「転向」というだけではなく、チェコ人中心の改革運動へのスロヴァキア側の不満という問題も作用していた。当時、プラハの『平和と社会主義の諸問題』誌編集部にいたシャフナザーロフは、1970年頃まではフサークは改革続行の意図を示唆していたが、その後、保守派の圧力に屈したと回想している。Шахназаров (1993, 102-110).
*19 二人とも基本的な立場は社会民主主義だが、その展望に関してムリナーシが相対的にペシミスティックであるのに対し、ゴルバチョフの方が楽天的という対比がある。
*20 1989年東欧激動については無数の文献があるが、独自の観察を示したものとして、マイヤー(2010)、同書への論評として塩川(2011b)を挙げておく。
*21 Tocqueville(1978, 168). この印象的なパッセージを私はかつて二度引用したことがある。塩川(1999, 539-540)および塩川(2011c)。
*22 この項の内容につき、より詳しくは、塩川(1999、特に第W・X章)、塩川(2010b)、塩川(2011a、特に第四章)などを参照。