師をもつ師があるという事のなかに東洋的な日本人の人生観があります。師の
なかには「絶対的なもの」があります。これが美の原則だと思われます。
壱に零を加えると拾になるという事が、宇宙万物が発生する原理だという事で
す。壱は数ですが零は空(無)です。零は、壱を位置づけるものなのです。
だから壱と零との中には無限感があり無限に発生していくものがあります。
零は際限がない事を意味して、計りがありません。壱には計りがあります。
壱は計りの始まりです。だから零からいうと壱が師になるという事です。
この壱と零との関係が解らないと日本の文化は全く理解出来ないと思われます
。 「侘、寂」もこの関係がなかったら生まれて来ないという事です。もし壱
が無かったら生ずる事が無いという事です。生命力がないという事です。それ
は動物の世界と同じで、唯そんな現象があったというだけに過ぎません。壱が
師で壱には無限感があります。無限感が零によって壱を押し出し零によっての
み無限感がそこに存在します。
零は壱の証明者となっています。師を讃える事が出来る人が零で無限だと思
います。壱は絶対的な神の位置にあるという事です。零は壱を完全に位置付け
る事によってのみ己が生きていける状態なのです。宇宙には生命があります。
この生命が活動力を得て意味をもつ事が壱の存在なのです。壱を押し出してい
る零は壱がなければ零がありません。これが日本の「侘、寂」に連なっている
事なので、壱がなかったら存在の意味がありません。この事が徹底して解らな
いと「侘、寂」とか「素朴」という事が理解出来ないと思われます。
「素朴」とは零が壱を押し出している状態なのです。だから「素朴」という事
も壱がないと存在の意味がありません。 壱と零とが組み合わされると十全と
いう事になり、十という事は、人間が両手を頭の上に上げた万歳という形にな
りこれが千歳という事です。
零が壱を意識する事によって零の位置がはっきりと存在します。これが佛教の
始まりであり「あらゆるもの」の始まりであると思われます。
昭和45年3月24日(会話)
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