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禅に関じた教育の原理

KISEI  YUKARIHANA    MUSEUM  OF  ART 
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「学道の人は、須く貧なるべし」財多ければ、必ず其の志を失う、貧なるが道に親しきなりと、また志の要求するものは、名利を捨て世を捨てる、捨てるは無量である。無量なる捨の精神をしばらく貧と云う。このように我々の先覚者(道元禅師)は語っている。今日ではかような学風も次第に衰えたように思われる。  

貧しくして道を思い貧しくして学に親しむ、この貧の精神こそ教育参学者の厳粛な自己批判の原理である。また我々が社会生活にあって志の純と不純とを点検する力量ともなるのである。 この無量と云うのは、大海の足るを知らざるに似ている。もし足を知るならば、河川は逆さまに流れる事であろう。捨は無償である。親の子に対する愛であり祝福である。慈悲、仁、友愛であるところの喜捨の性格をもっている。その故にこそ学道の要求する無量の捨はやがて無量の洗浄である。志が重大ならば必ず清浄を願うからである。クリスチヤンに於いても清浄を願う志から洗礼の式を行うのである。

清浄とは佛教の語に見られる言葉ではあるが、塵埃を払拭する洗面手洗いの事である。ここでは、身を洗うと解してよいわけである。繰り返して云えば心身共に清浄を願うからである。これは水の大変な功徳である。水は低きに流れ素朴にして清浄であり、清浄を学ぶ心につながっている。この故に水の功徳を尊ぶのである。古人も今人も心情に於いて水を捉えるのである。水の渓となり川となり春夏秋冬の水声は山に木霊するのである。かかる状態に於いて、山水を観じ来たったのである。水の潺潺(センセン)たる些(イササ)かも名利の汚染を止めず、その流れは、はなはだ悠々(ユウユウ)たりである。

我等が青山紫水に学び親しむのは、父母未生以前の自己の消息に接する故に懐かしいのである。自己の生まれ出でざる以前の先祖父母と共に、育成し来った青山紫水である。この故に、目前に転廻する山水は実に自己を挙揚するところの山水であり、かかる山水に参学する我等の精神はやがて師資相承として、それを学ぶのである。実に悠久なる感動である。かかる感動こそ謙虚で心貧しき者の素朴な心根が内に熱して参学を決意する喜びに外ならないのである。

禅のなかに、「身心学道」と云う事がある。これは心身を挙げて道を学ぶと云うのである。道を学ぶと云うのは道に随うべきものの、これによる外測するべきものはない。だから学ぶのである。道は行ずることによって、真理を体験する、その体験が即ち道を学ぶと云う事である。また参学の要約として、「心身一如」と云う語がある。これも「行」に於いて真実を具体的につかまないと、心が身から遊離するのである。身の働きが具体化するのである。これが「心身一如」の具現である。

詩歌、音楽、絵画、建築、工芸等の芸術作品が作家の具体的な自己表現として評価される所以もまた窺われるのである。佛国の偉大な彫刻家マイョールは「林檎の樹が林檎の果実を実らすように、私はそのように彫刻する」と云った。マイョールは自己を学び自己に徹し、自己を具現したのであつた。

道を学ぶ、道を示す、即ち教育参学者は社会生活が進展する為に欠くことのできない、根源的な機能として、重要なものである。道を如何にして行なはしめるか、教への重大性がある。 

教育の「教」と云うのは、「道」を明らかにするもので、結果は「教」も「道」も一つであるが、道は前にも云ったように行ずる事によって現成するものである。行ずる事によって我がものとして体験されるのである。  

「道」なるものは、差別の相を見ると同時に平等の相を見ることである。「ものごと」が把握されるのは平等即ち差別と云う観方に於いてである。平等即ち差別は平等と差別が同じであると云うのではなく全体は部分によって構成されているようで、全体も部分も同時現として観照するのである。「不一不異」即ち「一如」として認識把握されると云うのである。差別を否定しての平等観は成立しないのである。ともかくも平等即ち差別は験された我等の世界観である。「迷」「悟」「難」「平安」「生と死」「成不成」等、我等が苦悩と喜悦は悉(コトゴト)く体験相であるから体験に於いて観るのが真に我等の差別相の識得である。

「道」の上から文学を観るという語がある。言を尋ね語を逐(オ)うならば文学につまずく恐れが多分にある。道の上から文学を観ると文学悉(コトゴト)く道である。 

美術館に入って諸種諸相の美を探求してみても案外得るところが僅少である。道の上から自然の観照として美術品を観るならば我等はその美の秘密を把むであろう。又美の法則と自然の法則とが通じ合ったものとして讃歎することも出来よう。学道即ち「道」を把握するに二つの立場が考えられる。「迷」と云う立場と、「悟」と云う立場がある。迷は錯とも云う自己から実が遊離するのである。疑いが生じて確信が持てない自と他との関係に秩序が立たない。 

「悟」と云うのは、自己を学ぶのである。自己に徹すると云うのである。反省され自覚されて覚醒する自己である、即ち自己を偽らない行動契約されているのである。自己である「悟」を又「親」とも云う道に親しむ、書に親しむの「親」である。「親」にしても「親」に徹しなければ開花結実しないのである。

禅語に「自己を学び万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するは悟りなり」とある。「道」として、この語を味わってみると「道」に就いての根本的立場が啓示されている。「道」は自分の外にあるものをして追い求め識得しょうとするのは、「迷」であり「道」は 総て自己の体験とて把握されるのが「悟」である。体験と云うものは、自己の周囲にあるものでなく、常に内にあって活動しているものである。我等の知識が反射的に辻褄を合わすのは、決して自他を益するものでなく、かえって自他を損なうものである。知識が活用される為には、どうしてもそれが体験に結びついた知識が要求される。それでなければ、困惑が増すばかりである。「観」に徹する知識であれば、それは即ち体験である。「迷」も迷に徹すれば悟りである。偽りが実を装い悪が善を装うならば、それは大変なことになる。偽りを偽りとして、悪を悪なりとして覚醒するならば、「迷」も「悟」である。 

元来「迷」とか「悟」とか云うことは「ものごと」の観じ方であると同時に把握の仕方である、把握の仕方工夫は「行」によって体験が可能となる。

「道」の道とするは現実に於ける日々の生活行動を「行」に於いて把む事が 参学の精神である。この精神を師によって承けるのである。師の「親」に徹した愛によって友情に於いて伝授せられるのである。師の「言」は「道」の表現である。「道」自体それは真実の表現と心理体験の具現化である。               



昭和28年12月31日