「門より入るもの、是家珍にあらず、縁によりて得る者は、終始成壌す」
(無門慧開の語録)
志を得て修行すると云うことも、実際には好きと云うことに起因する場合が多いようである。好きこそ物の上手なりと云うことあり、好きなればこそ渾身一番生命を懸けると云うのである。この好きということに思考の一時を費やしてみたいと思う。さて好き好むと云うことは、存外個の自制によることよりも、先ず「好まし」、そのことの縁によって生ずることだと思うのである。 吾人と共に好ましき人とは、道の人であり、愛の人であり、魂の高貴さ、常に新鮮明朗な自由人である。一言率直に申すなら好きなるものは好ましさによって、修証されているるもので、このことは重要な事柄である。だからこそ吾は好みて、この道一筋に生涯を懸け悔いないのである。元来好むと云うことは、真実の縁によって起こり、更に新しき縁を生じてゆくものである。 好きなること、俗に勝手気儘で自制なきと解するは、縁の厳しさを知らざる故である。師の縁に肖って法燈の燈の未だ千歳に消えざるを見れば、その理を知るべきである。人を好きなればこそ強烈な情緒も身に溢れ、貞烈で清貧孤独に存在を怖れず栄誉に身を売らず生涯孤高の辛を悦ぶのである。 好きなれば、この道七十歳近くになって、開眼もし、真に人生を味わい、世と人を愛し永遠の光を知りそめるのである。吾四歳の頃より、畫くことを好み、七十歳近くになりて、花の失せぬ工夫を身に忍ばせる悦びを会得したのである。
昭和42年 |
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