彫刻作品には、人間をモデルにしたものが多い。人間の肢体は他と比較になら
ぬくらいに美しいものである。それは内に燃え盛る不思議な炎が見えるからで
ある。ところで真の人間の人間たる原型とデッサンを見定めることは、かなり
困難なことである。ことに人間の肢体の中で、顔と手の運動、こればかりは始
末に負えぬ複雑多様で、これが終止符と云うようなものはない。先ず手の方を
見てみたい、真の手の原型とデッサンの決め手は何処にあるのだろうか。
知識は面門より出入りすると云う、眼、耳、鼻、口で、観る門、聴く門、嗅ぐ
門、食う門である。この面門に手は常に共同の労をとり、些(イササ)かの逡巡
もしないものである。更には意志や思想や観念に徹頭徹尾奉仕して悔いること
のない手である。顔も同じようであることは申すまでもない。さて、その手の
ことであるが、我等は手をモデルにして制作に取り掛かりながら考えてみる。
真の手の原型なるものの、毅然たるそのデッサンを動ずる直前、或いは動中の
静なるものの静なるが故に動ずるもの、真に試行錯誤である。
ロダンの合掌の手、日光菩薩の手、前者は礼拝堂のゴチック建築の象徴。後者
は生死不滅、衆生と共に祈りの象徴である不動中に動ずる気品の豊かさ、その
浄几(ジョウキ)なる孤独の栄光。この真の手に、彫刻に於けるモデルの原型を
発見するのである。
昭和52年11月
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